ベトナム写真紀行|8. 不調
カジノ一家との一件があった翌日から、僕は二日間寝込んでいた。一家からどうにか逃げきったもののバスチケットを買うことができず災難続きだった日は、夕方くらいまで街を歩いて宿に帰ろうと路線バスに乗った。しかし乗ったバスは見当違いな方向へ行ってしまい、慌ててバスを降りて別のバスを三十分くらい待ってから乗車するも、またしてもこれがホテルと逆方向のバスに乗ってしまい宿に着くまで二時間半もかかった。タクシーを使えば三十分足らずで着いてしまう距離にも関わらずだ。タクシーに乗ってしまえば良かったのだが意地になってバスで帰ることを選んでいた。
しかしこれがベトナム旅行の行く末を大きく変える転換となってしまった。バスの中は動物園の南極コーナーを思わせる強さの冷房がかかっていて、冷えた汗だくのシャツが体に張り付いて体温を冷やしてしまった。 外は灼熱の天気なのに僕はバスの中で体を震わせていた。
ようやくバスが宿の近くに着いて下車するも、すでに鼻水が出てきて熱っぽさを感じていた。これはまずいぞと思いながら宿に戻る前にスーパーで林檎とサンドウィッチとポカリスエットを買った。部屋に入るなりシャワーを浴びて汗を流そうとしたのだが、お湯がなかなか温まらずにぬるま湯のシャワーで汗を流した。温かい湯船が恋しくなった。シャワーから出るとティーシャツを二枚重ね着して精一杯体を冷やさないようにした。ベッドの掛け布団を首まで引っ張って体を丸めながら頭痛と悪寒を堪えて眠りについた。

翌朝、チェック・アウトが次の日に控えていたので、長距離バスのチケットを買うために繁華街まで向かおうとしたのだが、宿を一歩出るなり日差しで眩暈がした。体も昨日より重く、関節の節々に痛みも感じていた。僕は諦めて部屋に戻った。そしてそのまま日が暮れるまで寝て過ごし、目が覚めると熱はさらに上がっているように感じた。これではさすがに一週間かけて長距離バスを乗り継ぎながら、ホーチミンからハノイを目指すのは到底無理に思った。予定を大幅に変えなくちゃいけなかったが、とにかくホーチミンの滞在を延ばすことにした。
今の宿にそのまま延泊しても良かったが、このままでは延泊したところでだらだらと過ごしてしまいそうに思ったので宿を変えることにした。体調は相変わらず悪いままだったが、スマートフォンでホーチミン中心部のベンタイン市場の近くの安宿を予約した。こうしてホーチミン滞在が四泊延びることになった。
ベトナムを陸路で縦断する計画がだいぶ狂ってしまった。陸路で旅する夢も、ベトナム中部のビーチでバカンスする夢も……。
だが正直なところを言えば、飛行機でハノイまで行ってしまえることにほっとしている自分もいた。飛行機を使えば二時間もかからないのだ。三分の一の無念さと、安堵の気持ちが三分の二であることは否めなかった。
チェック・アウトの朝、体調が恐ろしく悪いなか重たいバックパックを背負って宿を出た。十一時にチェック・アウトを済ませると新しい宿のチェック・インは十三時だったので二時間の空き時間があった。しかたなく初日にコーヒーを飲んだカフェに入って、冷房から逃れるように三階のテラスまで行ってテーブルに俯せて体を休めた。
何をするとも、何を考えることもなくカフェで二時間過ごした。十三時になったことを腕時計で確認すると、さすがにこの日はタクシーを使って新しい宿まで移動した。タクシーはベンタイン市場の裏手の方で停まった。メコン川ツアーのバスに乗車した場所とほとんど同じ場所でタクシーは停まった。宿の住所を指定してあったので間違いなく正しい場所でタクシーは停車したのだが、住所にあった場所は至って普通のアパートメントの入り口だった。恐る恐る中に入ると警備員にはまったく見えない私服姿の青年が防犯カメラの画面の前でスマートフォンをいじって座っていた。
「ホームステイ?」と青年が訊いてきた。ホームステイ?
戸惑いながらもスマートフォンの予約画面を見せてパスポートを提示すると、青年の後ろにある階段を指差されて上がっていけと言われた。
言われたとおりに階段を上がっていくと、おびただしい量の洗濯物が建物内の吹き抜けに干されていて、ここが本当にただのアパートメントなのだとそのときにようやく理解した。

予約した部屋番号の前まで行くと、入り口脇にダイヤル式のケースがあったのでメールに記載されていた番号を回すと中から部屋の鍵が出てきた。古いホラーゲームのようだった。鍵を開けて中に入るが、扉の鍵はトイレによくあるようなドアノブの真ん中を押すと鍵がかかるタイプだった。不用心に思って僕は念のため持っていた南京錠を扉にかけておいた。
新しい宿の宿泊料金と部屋の広さは前の宿と同じくらいだったのだが、ベッドのマットレスは板のように硬くてトイレとシャワーの隔たりもなく、シャワーの水圧は前回の宿よりさらに弱かった。宿を変えるべきじゃなかったかもしれないな、と頭をよぎったがあまりにも具合が悪くて考えるのはやめた。この日もまたベッドの上で一日中過ごした。
ベッドの中でこの行き場のない気持ちの矛先はカジノ一家に向いていて、彼らに対して無性に腹が立っていた。あの一家についていかなければこんなことにはならなかったと思うと、しかし自分自身にも腹が立ってしまった。そのうちに意識が遠のいていつの間にか眠りについていた。ひと眠りして目を覚ますと、すでに日は落ちていた。ベッドに寝転んでいるのも暇になり、持ってきた小説を開くも集中できずにすぐに読むことを諦めた。窓から外を見るとまだ雨は降っていなかったが重たい雨雲の向こうで雷が鳴った。
旅行中だというのにこの二日間ずっと宿に籠っているだけで、罪悪感のようなものが徐々に芽生えてきて自分のことが情けなく思えた。体調だけは崩さないようにと気をつけていたのにもかかわらずこのざまだった。
水をとりに冷蔵庫まで行くと、冷蔵庫の下から何かが飛び出てきた。ひっ、と小さな悲鳴をあげて身構えた。勘弁してくれよ、と思いながらよくよく見ると、それはトカゲだった。後に子供なのか小さなトカゲも出てきて、僕はこのトカゲの親子と共同生活をすることになった。
トカゲを見つけるとなんだか可笑しくなって、このぐだぐだな旅程も、旅先で体調を崩すのも、自分らしいと言えば自分らしいと思うことができた。バスの旅への憧れはあったが、飛行機で楽に行ってしまえることを考えるとそれ以上に安堵している自分が確かにいて、根っからの旅人ではないことに少し呆れもした。なんであれ、誰もいない一人旅なのだから自分に正直になるべきだ。旅はまだ半分も終わっていない。気を取り直して旅を続けよう、と僕は僕に言い聞かせた。
ベッドに戻ると部屋のどこかにいるトカゲのことと行かれなかったビーチに思いを馳せて、再び眠りについた。

『ベトナム写真紀行』
目次
|1. 出発前
|2. ホーチミン到着
|3. ホーチミンの夜
|4. メコン川クルーズ(前編)
|5. メコン川クルーズ(後編)
|6. カジノ一家(前編)
|7. カジノ一家(後編)
|8. 不調
|9. タム・ビエット
|10. ハノイ到着
|11. 再会
|12. ホーおじさん
|13. トゥーソンの町と小林くんの思い出
|14. 旅の終わり
|15. 編集後記
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