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ベトナム写真紀行|2. ホーチミン到着

     八月一日午前五時十五分、ホーチミンのタンソンニャット国際空港に到着した。
     タンソンニャット空港へ来るのは二度めだった。十年前にも友人と二人でホーチミンにやって来たのだが、そのときの記憶はまったく残っておらず到着ゲートをくぐるとすぐに外へ出てしまい、呆気あっけないベトナム上陸に拍子抜けしてしまった。だが一歩外へ出ると東雲しののめの空が気持ちよく、埃と湿気を含んだ空気を体に感じてようやくベトナムに着いた実感が湧いてきたのだった。
     まずは一服、と空港の出入り口の付近にあった灰皿の前で煙草を取り出すと、火をつける間もなくタクシードライバーが寄ってきた。「タクシー?」と笑みを浮かべながら男は言った。「ノーノー」、とこちらも笑顔でこたえるのだが、まったく気にしていない素振りで、どこまで行く? 宿はある? と訊いてくるのだった。このやりとりも東南アジアらしいと懐かしく思った。だがいくら断っても離れようとしない男にうっとうしくなり、火をつけたばかりの煙草を消して近くにあった売店まで逃げるようにオレンジジュースを買いに行った。このままでは落ち着いて煙草も吸えない、とフレッシュなジュースを飲みながら思った。しかしタクシーのことに関しては秘策があった。まず十年前に来たときとの大きな違いは、スマートフォンひとつあればたいていのことはできてしまうことだ。事前に調べていた『Grab』というアプリで安全なタクシーを呼ぶことができる。わざわざ得体の知れないタクシーに乗る必要はないのだ。ジュースを飲みながらスマートフォンをベトナムのネット回線に繋げた。
     ネットも無事に繋がり、先ほどの場所まで再び煙草を吸いにもどった。するとまた別のタクシードライバーがやって来て、「タクシー?」と声をかけられた。「I have Grab.」とひと言言うと、オーケーオーケー、とすぐに諦めて違う旅行者に向かっていった。彼らもまた時代の流れには逆らえないようだった。
     宿は日本から安宿を一週間分予約していた。出発前に宿のオーナーとメッセージのやり取りをしていて、「九時ごろにそちらに着くので荷物を預かっておいてほしい」と伝えていた。時計を見るとまだ七時を過ぎたころだった。宿に向かうには早かったが、いつまでも空港にいるわけにもいかない。とりあえず宿の近くまでタクシーで向かうことにした。

     アプリでタクシーを予約してみると、ものの三分で近くに到着したとアラートが鳴った。たしかにこれはとても便利だ。ながれのドライバーなどこれでは生きていけないのではないかと思った。息つく間もなく予約したタクシーが近くに来てしまったので慌あわててアプリ上に表示されたタクシー乗り場まで行くと、「タクシー?」と男に声をかけられた。表示されたアプリを見せながら「ユー?」と僕は尋ねてみた。「イエス、イエス」と屈託のない笑みで男が言ったので、胸をなでおろしながら男のタクシーまで付いて行き、トランクにバックパックを積む寸前のところではっと気が付いた。予約していたタクシーと車のナンバーが違うのだ。ため息を吐きながら、「予約した車と違う」と僕が言うと、「安くするよ」と最後まで純朴じゅんぼくそうな笑顔で男は言った。トランクに積みかけたバックパックを背負いなおし、いい加減なドライバーを振り払って、五台ほど後ろの列に停まっていた予約したタクシーをなんとか見つけることができた。
     適当というかがめついというか、油断も隙もあったものではない。しかしここでは気の弱い者が搾取されるだけなのだろう。彼らにとってこういうことは日常で、悪意そのものがないのかもしれない。彼らもまた生活するために必要な仕事なのだ。それにしてもいい加減なものだが。
     タクシーに乗ると、アプリで目的地を設定していたので無駄な会話もなくドライバーは空港からホーチミン一区へカーナビに従ってまっすぐ進んだ。先ほどの苦労はなんだったのだろうと思いながら後部座席のシートに深くもたれた。少し眠ろうかと思ったが、車窓から流れる風景を目にしてしまうと興奮して眠気はどこかへいってしまった。街は朝からバイクと車のクラクション音が鳴り止まない。車すれすれを横切るバイクとバイクとバイク。信号機はほとんど意味を成していなかった。交差点では車とバイクが休みなく入り乱れている。タクシーの窓ガラスを隔てた向こう側の世界は、想像していたよりも激しく熱気に包まれていた。タクシーは指定した宿の近くまで一直線に向かっていたが、気になる場所がいくつも目に入り途中で降りてしまいたくなった。眼前の光景に旅の期待が高まっていった。

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    ホーチミン市街へ向かうタクシー

     タクシーは宿の手前に停まり、支払いはクレジットカードで済ませた。アプリで料金はあらかじめ提示されており、表示されていた金額と同じ金額を支払った。海外旅行でまずトラブルになるであろうタクシーがこんなに簡単に乗れてしまうことに心底感心した。もはや言葉すら必要なかった。
     タクシーを降りると、時刻はまだ八時前だった。さっそく街歩きを始めたかったのだが、いかんせんバックパックが重い。それに日も高くなり始めていて少し歩いただけで全身から汗が噴ふきだした。焦ることはない。旅はまだ始まったばかりだ。まずはコーヒーを飲むためにカフェを探すことにした。宿を背に通りを歩くと、どこからともなくアジア圏特有の香辛料の香りや生臭さが漂ってくる。排気ガスと雨期による湿度のせいもあって、体にまとわりつくような外気だった。
     近くにあったカフェを数件覗いてみると、コーヒー一杯は二万から三万ベトナムドンが相場に思えた。通りに面した昔ながらのベトナム風のカフェは吹き抜けになっており軒先までテーブルが並んでいた。外の机と椅子は古びたプラスティック製だった。入ってみようか迷ったが、僕はそれらの古風なカフェではなく交差点にあった三階建ての欧米風のカフェに入ることにした。洒落しゃれた店内は先ほど覗いた地元らしいカフェとは違って若者向けもしくは観光客向けにみえた。アイスコーヒーは三万八千ドン、日本円で二五〇円くらいだった。三階はテラスになっており、ちょうど真下に十字の交差点が見下ろせた。眼下に広がるホーチミンの街を眺めながらカシオの腕時計をベトナム時間に合わせて時間を潰した。

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    宿近くのカフェ

     宿は一区と五区の境目あたりのサイゴン川に合流するベンゲ川近くにあった。宿に着くとオーナーと思わしき人が一階の共有スペースのソファーに座っていた。予約した日本人だと伝えると、待っていたよ、とオーナーは言った。コーヒーでも飲むか? と訊かれたので頂くことにした。朝のタクシーの一件があったので気を抜けないな、と一瞬だけ身構えたがここで気張ってもしかたない。オーナーは共有スペースのキッチンで湯を沸かしコーヒーを淹いれてくれた。やたらと苦いコーヒーだったが、これから一週間世話になるのだし良い顔をしておきたいと思っていっきに飲み干した。そして、これから出かけるので伝えていたとおり荷物を預かってほしいと伝えると、部屋は空いてるから好きに使っていいと言って部屋の鍵を渡された。チェック・インは十五時と聞いていたのだが、本当に適当なものだ。でもコーヒーを残さずに全部飲んでおいてよかったと思った。
     部屋は鍵付き個室一泊二〇〇〇円だった。部屋は殺風景で簡素なものだったが、ダブルベッドとテーブル、トイレとシャワールームが付いていたので十分だった。試しにシャワーを流してみると、思った通り水圧は弱く、ぬるま湯からそれ以上温まることはなかった。これでいい。望みすぎても良いことはない。
     さっそく部屋に荷物を置いて、少額のベトナムドンとカメラだけを抱えて街の探索を始めることにした。でもまずは腹ごしらえだ。朝から何も食べていない。先ほどのカフェでもサンドウィッチひとつ食べずにいたのは理由があった。最初の食事はフォーと決めていたのだ。
     どこか良さそうな店がないかしばらく通りを歩くも、フォーを食べている人がなかなか見つからなかった。フォーの店はすぐに見つかると思っていたので少し予想外だった。軒先にプラスティックの小さな椅子とテーブルをだして食事をしている人たちは見かけるのだが、プレートに盛られていたのはライスと肉や魚の料理で、フォーではなかった。腹は十分に減っていたし、なんでもうまそうに見えてしまった。でもとにかく一食目はフォーでなければならない。辛抱強くフォーを食べられる店を探し続けた。
     それにしてもホーチミンの路地は曲がりくねっているので方向感覚が掴みにくかった。北へ向かって歩いているつもりが気付くと西にまっすぐ進んでいる具合だ。それでいかにも観光客風に視線を右へ左へ動かしながら歩いていると、待ち構えていたかのようにバイクタクシーに声をかけられる。彼らは僕に並走して百メートルも(本当にしつこく)付いてくるので彼らを撒まきながら歩いてしまうと、また思ってもいない方へ進んでしまい精神的にも疲れてしまった。大通りに見えるバーガーキングやマクドナルドの誘惑を払いながら、九月二十三日公園の近くで「PHOフォー」と書かれた看板をやっと見つけることができた。軒先に出されたメニュー表には、「PHOフォー BOボー」が六万ドンとあった。繁華街の近くなのでもしかしたら少し高いのかもしれないが、これをフォーの基準とした。カフェもそうだが、まずはベトナムでの金銭感覚を掴まなければいけない。多少高いくらいは勉強代だ。
     店内に客はまだ誰もおらず僕一人だった。笑顔がチャーミングな小柄な店員のお姉さんに声をかけて注文しようとすると、とても親切にフォーの種類からドリンクの対応してくれた。コカ・コーラは二万ドン、フォー・ボーと合わせて八万ドンだった。日本円にすると約五〇〇円。
     なんとか昼前にフォー・ボーを食べることができた。味はいたってシンプル。だが塩加減とだしが濃すぎず薄すぎずちょうどいい味付けで、ベトナムの暑さにぴったりだった。缶のコーラもこころなし日本よりもうまく感じた。フォーと一緒に出された薬味をどうしたらいいのか戸惑っていると、お姉さんがテーブルの上に山盛りされた薬味の葉を千切ちぎってフォーに入れるのだとジェスチャーで教えてくれた。英語で「ありがとう」と伝えて、なんの葉か分からないまま千切って入れて食べてみると、本当にただの草の味がした。
     会計をしているときに、美味しかった、とお姉さんにベトナム語で伝えたいと思ったが、なんと言えばいいのか分からなかった。そして僕はベトナム語をまだひとつも知らないことに思い当たった。宿に帰ったらベトナム語で「ありがとう」と「美味しい」を言えるようにしておこうと思った。

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    コカ・コーラとフォー・ボー



    『ベトナム写真紀行』

    目次

    |1. 出発前
    |2. ホーチミン到着
    |3. ホーチミンの夜
    |4. メコン川クルーズ(前編)
    |5. メコン川クルーズ(後編)
    |6. カジノ一家(前編)
    |7. カジノ一家(後編)
    |8. 不調
    |9. タム・ビエット
    |10. ハノイ到着
    |11. 再会
    |12. ホーおじさん
    |13. トゥーソンの町と小林くんの思い出
    |14. 旅の終わり
    |15. 編集後記


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    羊男

     
     
    30代男の戯言。 雑記散文、もしくは作り話。

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