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​【連載03】物語の揺らぎと、そこから描かれる逃走線│看護を再著述する

    ナラティヴ・セラピーという大切な友人に手を引かれて、私は一度は決別した看護の現場に再び舞い戻りました。私にとって看護とは、「心身の語りに耳を澄ませる」こと。微細な変化を認証する丁寧な観察によって、標準化された技術を目の前の人に最適化していくクリエイティブな営みなのです。

    ​今回からは、訪問看護の臨床で、私が実際に出会ってきた人々との 10の物語を紡ぎながら、そこに潜むエージェンシーを掘りあて、再著述を編んでみたいと思います。

    今回は、Episode1【宏一さん】とEpisode2【彰さん】の物語です。

    ★前回の記事はこちら
    心身の語りに耳を澄ませる│看護を再著述する
    私が何度でも、看護に惹きつけられる理由

    ★第1話はこちら
    友人としてのナラティヴ・セラピー│看護を再著述する
    一度は決別した看護の世界に、ナラティヴとともに舞い戻るまで

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    看護師の仕事は、世間のイメージどおり、マルチタスクで非常に忙しい現場が多いです。では、その忙しさの中で機械的に淡々とタスクをこなしているのかと言えば、決してそうではありません。

    忙しい日々の実践に追われながらも大切にしていること、これだけは譲れないと実践の羅針盤にしていること、明確に言葉にされることは少ないけれどもどんな場面においても土台となっていることが数多く存在しています。

    しかし、残念なことに、その多くは「あたりまえ」のこととして、それぞれの看護師の胸のうちに収められていて、外に向けて明確に言語化される機会はほとんどありません。

    そのような、日々の看護実践の中にある「あたりまえ」を、ナラティヴ・セラピーを触媒にして再考していきたいと思います。ナラティヴ・セラピーという光を当てることで、見慣れた看護の風景に潜む豊かさを再発見しようという試みです。

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    この試みは、マイケル・ホワイトがピエール・ブルデューの言葉を借りて「慣れ親しんだものを見知らぬ異国のものにする」と著書の中で述べていたこととも響き合うものです。

    ​慣れ親しんだものを、見知らぬ異国のものにする ── exoticise the domestic

    Bourdieu, 1988


    「慣れ親しんだものを見知らぬ異国のものにする」可能性を持ち、「日常ならざる世界」の同定に貢献し、そして日常生活の多様性を掘り起こす治療実践のさらなる展開に、読者の方々が私と一緒に臨んで下さればと願う。

    マイケル・ホワイト『ナラティヴ・プラクティスとエキゾチックな人生:日常生活における多様性の掘り起こし』


    これから編む10の物語には、私が訪問看護の現場で出会ってきた人々を招き入れています。個人情報保護の観点から、年齢・家族構成・疾患などの詳細を、本質を損なわない範囲で再構成したコンポジット・ケースであることを明記しておきたいと思います。

    ただし、Episode2の事例に限っては、私の実父の物語であり、事実に基づいた記述となっています。


    Episode1:揺らぎ

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    宏一さん

    宏一さんは難関大学出身の弁護士で、バリバリ仕事をこなしていた。英語が堪能な宏一さんは海外を飛び回り、精力的に活動していたという。宏一さんの自宅には、海外で撮影した美しい風景写真がたくさん飾られていた。「カメラも趣味なんだ」と大きな一眼レフを見せてもらったことがある。

    休日には、妻と釣りに出かけた。妻と一緒に吹かれる湿っぽい海辺の風が、疲れを癒してくれる。釣った魚を調理して食べるととても美味しいのだと宏一さんは語った。妻は料理上手で、どんな魚も美味しいおかずにしてしまうそうだ。「釣りたての魚と、日本酒が美味いんだ」

    充実した生活を送っていた宏一さんだったが、パーキンソン病を発症してからは人生が反転した。パーキンソン病は難病指定されている神経変性疾患で、進行すれば日常生活全般に介助が必要となる。パーキンソン病の主症状は身体の動作が取りにくくなることだが、手先がふるえることによる細かい作業の困難さ、便秘やうつ、不眠、言葉が発しにくくなることなど、その影響は全身に及ぶ。今の宏一さんは車椅子生活で、訪問看護や訪問介護の支援を使わなければ生活が成り立たない。

    普段は熱心にリハビリに取り組み、とても前向きに病気と向き合う宏一さんだが、ときどき過去の自分と現在の自分を比較して荒れに荒れる。

    ある日の朝に自宅へ訪問すると、家中のものがひっくり返っていた。洋服も、大切にしていた法律書も、撮りためた美しい風景写真も、床に散乱している。「夜中からやんちゃしちゃってね」「昔はさ、俺だって仕事して奥さんいてさ」「英語も流暢に話せたんだ、みんな先生先生と言ってさ」「休みの日には奥さんとよく釣りに行ったんだ」と言いながら宏一さんは声をあげて泣き、思いどおりに動かない手で懸命に涙を拭った。

     


    生命の尊厳を守る番人

    看護師は、医療に従事する専門職であり、当然ながら患者の生命を守るのが使命です。もう少し付け加えるなら、ただ生命を守るのではなく、生命の「尊厳」を守る番人でもあります。

    「尊厳」とは何でしょうか。広辞苑では「とうとくおごそかで、おかしがたいこと」と記述されています。「おかしがたい」という表現をもう少し踏み込んでみると、「他者から侵害されない」と読み取れるのではないでしょうか。

    つまり、「尊厳」とは「自分らしく生きる権利」であり、その生き方を「他者から認証される権利」であると言い換えることができます。

    昨今は「自分らしく生きる」という言葉をよく耳にします。この言葉は世の中にあふれ返っていて、日々の生活の中で聞こえてこない日はありません。誰も彼もが口にし、呪文のように唱えられるこの言葉は、皮肉にも自分らしく生きることがいかに難しいかを語っています。

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    「障害受容」に潜む乱暴さ

    看護の対象となる人々は、言うまでもなく身体または精神に病気や障害を抱えています。「自分らしく生きる」ことはただでさえとても難しいものですが、病気や障害を抱える人々にとってはさらに難しさを帯びます。

    まず直面するのは、病気や障害を「自分らしさ」に含めても良いものかどうかという問いです。

    「ありのままの自分を受け入れる」とか「障害受容」という言葉が多用されますが、私はこの言葉の中に見え隠れする乱暴さを無視することができません。

    そこには病気や障害を受容することを強要するような響きが込められていないでしょうか。病気や障害とともに明るく強く生きる姿を暗に求めてはいないでしょうか。

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    病気や障害を抱える人を主人公にした映画やドラマが大ヒットすることがあります。「障害受容」を感動物語に昇華させてコンテンツとして消費し、「強く美しい障害受容とはこうあるべき」「障害受容の先の自分らしさとはこうである」と流布するさまに強烈な違和感を覚えます。

    そのような感動コンテンツは、病気や障害について啓蒙するという面では一役買っているのかもしれません。しかし、映画やドラマのように「強く美しく」在ることが難しい大半の人々にとっては、さらなる周縁化に導かれてしまうのです。

    しかし実際は、ある見方は裏通りや地下倉庫に追いやられて周縁化し、ある見方はマスコミによって大々的に宣伝される。利用可能な意味はたくさんあるとしても、意味のマーケットは民主的な場ではなく、特定の見方が支配的になりやすい。権力というトピックスに関して好奇心がかきたてられるのは、リアルで正当なものと認められる現実はいったい誰にとっての現実なのだろうか、という問いである。

    デヴィッド・パレ『協働するカウンセリングと心理療法』


    相反する物語の中を同時に生きる

    人は、コインの裏表のように相反する物語の中を同時に生きています。あるひとつの物語と別の物語を行き来していることもめずらしくありません。日によって違う物語を生きていることもあれば、ときには一日のうちに生きている物語が変わることもあります。病気や障害とともに明るく生きられる瞬間もあれば、病気や障害が奪っていったものの多さを恨む瞬間もあるのです。

    どちらもその人を構成する大切な物語であり、物語間で優劣はありません。どちらの物語を生きる方がいい、と簡単に助言できるようなものでもないでしょう。病気や障害を抱える人の「自分らしさ」を支えようとするとき、この相反する「病気や障害とともに生きる自分」と「病気や障害に奪われる自分」の両方の物語を認証する必要があるのではないでしょうか。

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    日によって、時間によって刻々と変わる物語と、それに伴って変化するアイデンティティの揺らぎを受け止め、丁寧に認証することが尊厳を守ることにつながるのです。

    私たちの人生は幾重にもストーリーだてられています。多くのストーリーが同時に生じ、同じ出来事について違ったストーリーが語られます。曖昧でなく矛盾していないストーリーはひとつもありませんし、単一のストーリーによって、人生で偶然起こる、すべての出来事を語り尽くせるわけもありません。

    アリス・モーガン『ナラティヴ・セラピーって何?』


    宏一さんのエージェンシー

    宏一さんは、パーキンソン病が入り込む前の人生について、生き生きと語ることがあります。どんなに仕事ができたか、どんなにクライアントから頼りにされたか、どんなに良き夫であったか、どんなに多趣味だったか、どんなに幸せに暮らしていたか。そして、我に返ったように「ごめんね、こんな話をして。そろそろ病気の話をしないとね」と話題を変えます。「私は病気になる前の宏一さんのことも知りたいですよ」と伝えてみたら、目を細めて笑顔になりました。

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    ドミナントな表現とどこか矛盾する表現は、諸個人の人生のオルタナティヴ・ストーリーの手がかりを提供する。

    マイケル・ホワイト『ナラティヴ実践地図』


    この時点で私たちは、自分たちが社会にあるものをただ受容し、再生産することしかできない存在ではなく、何らかの可能性を自らの判断で選択し、推し進めていく力がある存在とみなします。これを主体性とか、エイジェンシーと呼びます。このような側面を最大限にするにはどうすればよいか、という視点もナラティヴ・セラピーには組み込まれることになります。

    国重浩一『ナラティヴ・セラピーの会話術:ディスコースとエイジェンシーという視点』



    宏一さんはパーキンソン病の影響で表情が乏しいのですが、「発病前のあなたも知りたい」という言葉を受け取ったときの笑顔は輝いていました。発病前の自分とのつながりを保つことは、宏一さんのエージェンシーなのです。


    Episode2:逃走線

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    彰さん 

    肺がんステージ4の彰さんは、がん発見時すでに胸膜にも転移が見られ、胸水が3日で6L溜まってしまう状態だった。3日ごとに医療処置で胸水を抜かなければ、肺が胸水に圧迫されて呼吸困難に陥る。がんはかなり進行しており、がんを治療し胸水を抜き続けたとしても季節が変わるまで生きられるかどうかわからない状態だった。

    彰さんは研究職であり、2週間後に大きな学会発表を控えていた。学会会場は飛行機の距離だ。「研究人生の集大成だ」「この学会にだけはどうしても行きたい」と彰さんは語る。すぐにでも治療を始めなければ、元々残り少ない彰さんの時間をさらに縮めてしまうリスクがあった。無理をして学会に行けば、そこで急変して亡くなる可能性もある。それらすべてを承知した上で、彰さんは3日間の日程で飛行機に乗り、学会に参加した。

    彰さんは立派に学会発表をやり遂げ、帰路の自宅最寄り駅で動けなくなり救急搬送された。病巣のある肺は破れて呼吸ができなくなっていた。胸水は10Lも溜まっていた。肺が破れたことで予後は絶望的となり、彰さんは闘病の末、3ヶ月後に亡くなった。

    彰さんは最期まで「学会に行けてよかった」「行かせてくれてありがとう」と繰り返したが、それと同時に、奇跡に近い可能性にかけてあらゆる治療法を片っ端から希望し、緩和ケア病棟への移動を強く拒んだ。翌年の仕事の予定はキャンセルされることなく、航空券まで手配していた。亡くなる前日まで、急性期病棟の病床で痛みに耐えながら、がんに神経を侵された震える手で次の論文を執筆していた姿をよく覚えている。

    この事例は私の父である。

     


    人生の尊厳と価値観をかけた問い

    生命の「尊厳」を守るために、もうひとつ大切な視点があります。それは「長く生きるための選択肢だけが正解ではない」ということです。

    生命を守ることに主眼を置くと、生命をできるだけ長く続かせることが目標になります。そのためには常に積極的な治療が善であり、病気や障害によってできなくなったことを医療で補う必要があります。自分の口から食べることが叶わなくなった人に対して、胃瘻(腹部に小さな穴を開けて胃にチューブを通し、そこから栄養剤を注入する)を造設する例が一番わかりやすい例でしょう。

    しかし、生命をできるだけ長く続かせることと、その人らしく生きることは、ときに両立が難しいことがあります。積極的治療を優先すればその人が人生で大切にしていることを諦めなければならなくなり、その人が望む生き方を優先すれば少しでも長く生命を続かせる可能性を手放さなければならなくなります。片方を立てればもう片方が立たない。そのような状況をしばしば経験してきました。

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    病気や障害の状態によっては、生命を長らえることと自分らしく生きることを天秤にかけなければならないときがあるのです。これはその人の尊厳や人生の価値観をかけた問いであり、簡単に答えを出せるものではありません。やっとの思いで、かろうじてひとつの方向性を選んだとしても、何度でも気持ちは揺れ、心が変わるのを目の当たりにしてきました。


    映画やアニメが語るディスコース

    延命のための医療には賛否両論あります。世の中には「医療の力を借りていたずらに生命を長らえることよりも、自然な死を迎えることのほうが尊い」という言説が静かに、それでいて強く横たわっています。

    映画やアニメに登場するのは、手段を選ばず不老不死を手に入れようとする悪役キャラクターと、世界のために自分の生命を顧みず勇敢に闘うヒーローです。不老不死を手に入れようとした悪役は、必ずと言っていいほど惨めな最期を遂げます。そこには、自分の命を長らえさせたいと願うのは卑しいことなのだというメッセージが込められています。

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    生命の尊厳をかけた問いが目の前に立ちはだかったとき、自分の意向を自由に選べるものなのでしょうか。家族の思いや世間の常識、強大なディスコースを前に、自分の意向はどれほどの大きさの声としてその場に出すことができるのでしょう。生命を少しでも長らえさせたいという願いと、自然な形で自分らしく生きたいという希望は、対等な選択肢としてそこにあるものなのでしょうか。 


    「あれもこれも」から描く逃走線

    生命の尊厳をかけた問いを考えようとするとき、私が敢えて持ち込みたいのは「あれもこれも」という視点です。相反する選択肢の片方しか選べないように見えるときこそ、「もしもその両方を手元に置けるとしたら」と考えてみる価値があります。

    それは例えば、ヒンドゥー教の「あれもこれも(both-and)」のことば。ある者の言うことも、別の者の言うことも、そこでは有用である。また、仏教の「あれでもなくこれでもなく(both-nor)」のことば。ある者の言うことも、別の者の言うことも、そこではすべてを言い得てはいない。アンデルセンは、「あれかこれか」の見方に、「あれもこれも」、そして、「あれでもなくこれでもなく」の要素をいくらか加えるなら、どんなことが生じるだろうか、と問いかける。それは、「あれかこれか」ではなく、かといって「あれもこれも」でも、「あれでもなくこれでもなく」でもないようなあり方へとわれわれを誘うかもしれない。

    トム・アンデルセン『トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡』


    マイナスの側に置かれているものをマイナスと捉えるのは本当に絶対だろうか?

    千葉雅也『現代思想入門:人生が変わる哲学』


    「あれもこれも」手元に置くとしたら。もしくは「あれでもなくこれでもなく」何かあるとするなら、どんな可能性に開かれていくのでしょうか。そこに「少しでも長く、自分らしく生きる」ための看護が入り込む隙間を見出せるように感じています。

    簡単に答えは出ないでしょう。それでも、硬い岩の中を水がわずかに染み出すように、逃走線をたどるように、何かが見つかるわずかな可能性に懸けてみたいのです。

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    生命の尊厳をかけた困難な問いに簡単に答えを出さず、考え続ける揺らぎの中にともにいること。その問いに向き合う困難さを一緒に背負いきることが、その人の尊厳を守り、人生をリスペクトすることにつながると私は信じています。

    逃走線は180度の転換である必要はない。それは微妙な方向性の変化でもよいのだ。ドゥルーズがそれらを力を曲げる線、と表現していることを心に留めてほしい。ほんの数度の角度差の線であっても、時と共にそれらはかなり異なる場所へと私たちを導くものだ。その経過のなかで、私たちは別の人間となる。(中略)その決定のひとつひとつが、逃走線を描く可能性を秘めている。私たちが投げ込まれた環境によって、その軌跡のどれを追い求めるかに私たちは取り組むのだ。表面に現れたごく些細な角度の違いが、この逃走線を際立って異なる結果へと導くのである。

    ジョン・ウィンズレイド『逃走線をたどる:ジル・ドゥルーズの仕事が持つナラティヴ実践に与える意味』


    父は、自分の生命が今にも消えかかっていることを、本当はよくわかっていたのではないかと思います。震える手で執筆し続けた論文、キャンセルされなかった翌年の予定と航空券は、父にとってがんに支配される物語から逃走線を描く行為であり、がんに抵抗するエージェンシーだったのです。

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    このnoteでは、日々の臨床や日常の風景、映画や文学の中で出会う人生の物語を、ナラティヴ・セラピーを触媒にして再考するエッセイを発信しています。

    ​慣れ親しんだものを、見知らぬ異国のものにする ── exoticise the domestic

    Bourdieu, 1988

    ​見慣れた日常のストーリーを少し違う角度から眺めてみる。そんな時間を、ご一緒できたら嬉しいです。

    野村涼子

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    ★自己紹介note

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    訪問看護師11年目(主に精神科)。 スクールカウンセラー経験も。 現在地は在宅看護とナラティヴ・セラピーの交差点。「心身の語りに耳を澄ませる」を羅針盤に、日常の文脈でケアを続けています。 日々出会う人生の物語に、ナラティヴ・セラピーという光を当てるエッセイを発信中。

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