
最期
16年前:70代後半の母
2010年頃、70代後半の義母に認知症の兆候が現れた。それを機に、私は、義母と同じ歳の実母に、「テレビ番組でもよく取り上げられているエンディングノートを買ってきたので書いてくれる?」と切り出し、実家にノートを置いてきた。両親の銀行口座や保険などの資産の把握に加え、人生の締めくくり方に関する希望を訊いておきたかった。心身共に健康な母が、どう受け止めたかは分からないが、母はノートに必要事項を記入してくれた。多分、父には何も聞かず、母が母の意思で書いたと思う。
「手に負えなくなったら遠慮なく公的な力を借りて下さい」と書かれていた。「子供には迷惑をかけたくないので、ヘルパーさんの支援を受けて自宅で過ごしたい。それが無理になったら、ためらわず施設に入れてね」ということだと私は理解した。母との普段の会話からそう解釈した。「延命治療は望まない」とも書かれていた。
14年前:40代半ばの私
東日本大震災から1年ちょっと経った40代半ばの夏。私は、地元の乳腺外科クリニックで乳がん疑いとなり、がん専門病院で精密検査を受けることになった。青天の霹靂だった。まだ「疑い段階」だったが、私の質問に対するクリニック医師の誠実な回答やネット検索で、乳がん闘病が始まることを確信した。
私の乳がんに関する知識はゼロ。「がん=死」というイメージが先行した。死が急に現実味を帯び、思ってもみなかった感情が湧いてきた。衝撃を受けた。当事者になってみないと見えない感情や世界があると痛感した瞬間だった。
がん専門病院の初診までは少し時間があり、落ち着かない日々を送っていたある日。御茶ノ水のニコライ堂の近くを通った。吸い込まれるようにニコライ堂に入った。私の生活には信仰や宗教がない。神頼みをすることも殆どない。新興宗教の執拗な勧誘にあった経験があるので、宗教には負のイメージがあった。なのに、迷わずニコライ堂に向かった。人気がなく静かで安全な場所で1人になりたかっただけかもしれない。理由は分からない。
私の乳がん闘病は多くの人に支えられた。多くの同病仲間に恵まれ、彼女らとの交流を通じて、「病と闘う覚悟を持たないと、どんな治療を選択しても道は開けない」と悟った。その覚悟は、「子供が成人するまでは、といった強い想いや、信じるものがないと持ちづらい。持ち続けられない」と度々認識させられ、「人は信仰が身近にないと生きていけない時がある、信仰が心の支えになる」という見識の意味を理解した。
ある時、カナダ在住の闘病仲間が、「カナダでもがん闘病仲間(キリスト教徒の白人カナダ人)がいる。彼女らは一通りの治療を終えると『あとは神に任せる』と肩の荷を下ろし楽に生きている。再発の不安はあると思うが、自分が楽になる術を知っている」と話してくれた。私の心に深く刻まれた。
9年前:インド・チェンナイ
乳がんや乳房再建の通院が年に一度になった頃、夫がインド・チェンナイへ異動になった。私は5カ国6都市目への帯同を決め、チェンナイに住み始めた。インドはヒンドゥー教の国というイメージがあったが、ヒンドゥー教を中心とする多宗教共生の国で、私のチェンナイ人ドライバーはキリスト教徒だった。「ある出来事を機にヒンドゥー教から改宗した」と言っていた。信仰している宗教がなんであれ、信仰は日常生活の一部で、宗教は社会に根付いていた。
文化習慣などの根底にはヒンドゥー教があり、死生観・輪廻転生の考え方は国民に根付いているように思えた。また、社会に色濃く残るカースト制とそれに伴う顕著な貧富の格差、不平等な医療アクセス、行き届かない生活インフラなどの要因から、インドでは日本と比べものにならないほど、日常生活において死が身近だった。
「こんな社会だからこそ輪廻転生という考え方が必要で、この考え方がないと身近な人の死を受け入れ、そして乗り越えて生きて行けないのか」「日常生活で人の命は儚いと繰り返し認識させられるからこそ死生観が根付くのか」といったことを漠然と考え、次から次へと想定外が起こる日常に刺激と疲労を覚えながら過ごした。
7年前:50歳の友人
インド在住時、ある友人(新卒同期入社、友人も私も転職していた)から久しぶりに連絡がきた。悪性リンパ腫と闘っていると知った。抗がん剤治療が順調に進んでいった。
メールにいつも添えられる彼女らしい前向きな言葉に、私はかえって不安を覚えた。「家族を含めて周りに気を遣い、本音を吐き出せていないのでは?」という想いが常に頭の片隅にあった。なぜなら「がん闘病は、身体的のみならず精神的に辛い、過酷!」と自身の乳がん闘病を通して痛感していたからだ。現実味を帯びた死と向き合うのは甘くない。当事者になって初めて分かった。
「彼女が弱音を誰かに吐き出しているならそれでいい。彼女が弱音をあえて言葉にしないことを望んでいるのならそれでいい。言霊ではないが、言葉にすることで、気持ちが崩れ辛くなることがあることも、自身の闘病で分かった」と考えを巡らせてもみたが、不安を払拭することはできなかった。
日本に帰国した時、彼女が入院している大学病院に向かった。彼女は、悪性リンパ腫に併発した疾病が原因で、ICUの常連患者になっていた。ICUの面会受付で「彼女は現在ICUにはいません」と告げられた。もちろん、病院からは彼女に関する情報は一切教えてもらえなかった。
彼女にLINEするも返信がない。自宅に電話をしても連絡がつかない。諦めかけた時、彼女から「今はXX病院に入院している」という一文の素っ気ない返信が来た。予定を何とか調整し、彼女がいる療養型病院に向かった。
彼女の病室に入った瞬間、「私は明るく楽しく彼女に接しないと駄目だな」と直感的に思った。布団から出ている彼女の腕は「骨しかない?」と思うような細さで、スマホを持つ力すらなかった。そんな状態で、たまたま私のLINEを見てくれて、力を振り絞り「今はXX病院に入院している」と私に返信してくれたのだ。
彼女とは1時間ぐらい話した。「酸素マスクなしでこんなに話せたのは久しぶり!」と彼女は笑みを浮かべた。彼女との会話から、彼女は自身の病状や家族の状況を正確に理解した上で、冷静に判断していることが分かった。彼女が人工呼吸器を拒否している理由を話してくれたが、その時の目力からは彼女の決意の強さが、言葉からは子供への溢れる深い愛情が伝わってきた。
「そろそろ帰るね。また来るね」と私が言うと、「こんなに細い腕のどこから、こんなに強い力が出てくるの?」と驚くほどの強さで彼女は私の手を握りしめ、目に涙を浮かべながら何度も「ありがとう!」と最期の別れのように言った。私は、「彼女は全て分かっている」と悟りながら一生懸命笑顔を作った。
帰り際に、彼女の闘病をずっと支えている彼女の従妹に会った。「あんなに元気に楽しそうに話している彼女を見るのは久しぶり」と驚いていた。純粋に嬉しかった。彼女の詳しい状況も話してくれた。
病院を出てすぐ、彼女と仲が良い同期(新卒入社同期)に電話した。その同期は、彼女のお見舞いに行きたいと言っていたので、状況を説明するために電話をかけたが、彼女の状態を共有できる誰かと話をしないと、私自身の気持ちが整理できないから電話をしたようにも思う。
「お見舞いは歓迎だと言っていたよ。正直に言うと、彼女はやせ細って別人のようになっている。私は、がん闘病で痩せ細り姿が変わってしまった友人と接した経験があるので、彼女を目にした時も普通に接し会話を楽しむことができたけど、もし動揺してしまうようなら…」と伝えた。結局、その同期が彼女の病院に向かうことはなかった。彼女のお葬式で「平常心を保つ自信がなかったから行けなかった」と言っていた。
私が彼女と会えた数カ月後、彼女は旅立った。彼女は、「子供がXXするまでは!」を目標に、病と全身全霊で最後まで戦い抜いた。残念ながらその目標は達成できなかった。
多くの奇跡的な偶然が重ならないと、私は彼女に会えなかった、彼女とあんなに長く話せなかった。第六感的な感覚が全てで働き、お互いの想いが通じて実現できたような、科学では説明できないような事象により、彼女と会えて話せたように感じた。初めて体験する不思議な感覚だった。
5年前:80代後半の母
インドから本帰国し、東京での生活が軌道に乗り始めた2020年1月上旬。SNSで「中国でSARSのような肺炎」という一文が目に飛び込んできた。2003年当時の生活拠点、マレーシア・ジョホールバルとシンガポールの景色と共に、SARSを恐れるあまりに人々が取ってしまう言動が生き生きと色を帯びて蘇ってきた。「え?知らない間に感染が広がり、多くの人の命を奪ったSARSの再来?中国は正確な情報を出さないよね?」と血の気が引いた。
1年遅れの東京オリンピックの開催を目前に控えた頃、インドではデルタ株が猛威を振るっていた。現地にいた日本人の友人や夫の会社の現法から伝わってくる状況は悲惨で、コロナ感染への恐怖が増した。
日本でも高齢者のワクチン接種が始まり、遠く離れた実家との電話が増えた。両親は二人で自立して生活を送っていたが、コロナ感染であっという間に旅立っても不思議ではない80代後半だった。私は、乳がん闘病で「医療行為はやってみないと分からない。統計的な確率は参考になるが、個々人の確率は、『上手くいく・いかない』の50%」と悟ったので、新しいmRNAワクチンの予期できぬ副作用で、高齢両親が旅立つこともあり得ると心の準備をした。
私との会話から母が何かを感じ取ったのか、母が「もうこの年齢なので、ワクチンの副作用で何かあっても、それはそれでいい。コロナであっという間にあの世に行けるのなら、それも悪くない」とポロっとこぼした。本音なのか、私への気遣いなのかは分からない。ただ、母は「自宅で自然に逝きたい」という想いが強くなっているように感じた。
話が前後するが、クルーズ船で日本が戦々恐々としていた頃、母が急に痩せた。一見して分かるほどの痩せ方だったので、母が月一ペースで通っていた、かかりつけ医が「がん」を疑ったのだろう。測定した腫瘍マーカーはかなり高く、母の主治医は母に検査を勧めるも、「この年齢だから悪い所があって当たり前。痛くも痒くもないので検査はしなくて大丈夫」と返答したらしい。
だが、母は大腸内視鏡検査だけは受けていた。初めての検査で、体験談を表情豊かに語っていた。母は「先生の顔を立てるために1つぐらい検査を受けておいた」と言っていたが、母なりに気になることがあったと私は気づいていた。検査結果は異常なしだった。
私は、母が私の乳がん闘病を見て、考え方が変わったように感じることがあった。私も、乳がん闘病後は、高齢の母に「自覚症状がない状態であちこち調べなくてもいい」と話していた。乳がん闘病の当事者になって辿りついた私なりの1つの結論だった。
3年前:90歳になった母
母は90歳あたりから初期の認知症の兆候が出始めた。同時に、脈略もなく「私は95歳までは生きたい」といった発言をするようになった。
高齢になると理性の働きが悪くなる。認知症が少しでも入ってくると、「本能>理性」の傾向が明らかに強まる。私はこれらのことを認知症義母の介護から学んでいたので、「母はまだまだ生きたいのかな?それとも生物的本能?本能的に旅立ちの日が近づいていると感じ取っている?」と理解に苦しんだ。「95歳まで生きたい」という言葉が、延命処置希望を意味しているのか否かは分からなかった。母は既に状況判断や理性的思考が難しくなっていた。
ある日、「母が入院した」と父から電話がかかってきた。母がかかりつけクリニックに定期通院で行き、脚の浮腫みを訴え、心不全が分かり、そのクリニックから紹介された総合病院に緊急入院したようだった。
総合病院の母の主治医から私に電話があり、病状や処置の説明、処置に伴うリスク説明と同意の確認、延命処置に関する意向の確認などがあった。「延命処置は希望しない」と私は即答した。不思議と迷いはなかった。母が認知症発症前までは一貫して「延命は希望しない」と言っていたことに加え、私が乳がんなどの闘病を通して、闘病の辛さを痛感していたので、即答できたように思う。
出産を除くとこれが初めての入院だった母。「この歳でこんな経験をするとは」と母は繰り返し言い、私はその度に「この歳だからこうなるのよ」と心の中で呟きながら頷いた。ご多分に漏れず、入院中はせん妄があり、認知症も進行した。心不全は末期がんが原因だと判明した。
母は、持ち前の頑張りと、認知症で詳しい病態は理解できず、「私は元気になれる!元に戻れる!」と信じることができたためか、足腰が弱ったものの、1カ月後に歩いて退院した。自宅に戻った。がんの治療は行わず、母が最期の時間を安らかに過ごせるように環境を整え、かかりつけ医に訪問診療で対症療法と緩和ケアだけをお願いした。私が私の責任で決めた。父は私に一任だったし、一人っ子なのでそれが可能だった。
それから1年後、母は自宅で93年の人生に幕を閉じた。旅立つ前日まで母の日常があった。母はその日常がまだまだ続くと信じていたと分かるような痕跡が家のあちこちにあった。「最期まで自立して自宅で過ごしたい!」という母の長年の強い想いは叶ったと私は肯定的に捉えている。
90代半ばの父
父は50代で赴任先の海外で交通事故に遭い、脳挫傷で生死を彷徨った。奇跡的に回復し、社会復帰を果たした。若い頃からずっと足腰が強く姿勢がいいためか、90代半ばの今も杖は要らない、背中も曲がっていない。
画像検査では脳挫傷の痕がはっきりと分かるのに、認知症の兆候はない。後遺症のてんかんが70代で出現したので、数カ月に一度の通院はしているが、病院に行くのは基本その通院のみだ。人の身体は神秘的だ。
母も父も「父が先に逝く」と思っていたが、マイペースで健康な父が母の最期の時間を支えた。人生は分からない。
還暦を迎えた私
「ACP(人生会議)の普及に力を入れて!」という声が、医療現場から事あるごとに聞こえてくる。医療福祉費が年々増加する中、高齢者医療への風当たりが強くなっている。
家族や自分の最期について考える機会を持つことは必要だと分かっている。その一方、「死が身近ではない時にイメージする最期と、現実味を帯びた時に希望する最期は異なる」と経験的に知っているだけに、「自分なりの基準を考え、時が来たら、覚悟を決め自身で決断を下す必要性を、頭の片隅に置いておくことぐらいしか出来ないかな?」と答えを探している。最期を考えた経験があれば、必要な時に決断しやすくなるのかもしれない。
母の遺品整理で、母が60代の時に書いたドナー提供カードが出てきた。後期高齢時代の母の言動を知った上で、母がそのカードに書き込んだ文書を見ると、大病を患ったことがない60代だからこそ書けた文書にも思えた。人の気持ちは状況で変わる。当事者にならないと見えない感情がある。
高齢になれば理性の働きは衰え、認知症が少しでも入ってくると、理性より本能の働きが強くなる中で、高齢者本人の延命に関する意思をどう捉えるのか。医療との関わりがあまりない家族や大病の経験がない家族が、人生会議を開いて、どこまで最期をイメージできるのか。信仰や死生観が根付いていない日本社会でイメージできるのか。
科学や医療は日進月歩。高額な新薬が開発され保険適用になる。そのニュースを肯定的に捉える一方、高額な費用が伴う治療選択肢が増え、自分自身で線引きをしたり、経済的理由で諦めざるを得ないことが増えたりして、患者本人や家族の苦悩が増すのでは?と思ってしまうことがある。
周りの人々が見せてくれた生き様や与えてくれた教訓を参考に、たまにだが最期を考えている。