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Memento Mori ―『ELDEN RING』における死者の残留と継承

Memento mori は「死を忘れるな」「自らが死すべき存在であることを忘れるな」という意味で知られる言葉である。
『ELDEN RING』に当てはめると、この言葉には少し皮肉な響きが生まれる。

黄金律は、運命の死を取り除くことで始まった。
死を秩序の外へ追いやった世界を、祝福によって何度でも立ち上がる褪せ人が進み、最後には封じられていた運命の死を解放する。

しかし、死が制度から排除されたことと、死者に由来するものが世界から消えることは同じではない。

『ELDEN RING』における死は、個体を構成していたものが一度に失われる出来事としては描かれていない。

死は単純な概念ではない

ラニとゴッドウィンの対比だけを見れば「肉体の死」と「魂の死」という二分は分かりやすい。

ラニは肉体を殺し、魂を残した。
ゴッドウィンは魂だけを殺され、肉体を残した。黒き刃の夜では、死が二人の間で分かれて現れている。

ただし、この対称性をそのまま『ELDEN RING』全体の死へ広げると、収まらないものが出てくる。

作中には、魂のほかにも霊、怨霊、肉体に残る痕跡、死者から継承されるもの、追憶に残された力など、死後も作用を続けるものが複数存在する。
これらを一つの「魂」や「記憶」にまとめることはできない。

とくに、ゲーム上のHPや死の状態異常を、そのまま世界設定上の死の分類に対応させることにも注意が必要になる。
数値上の処理と、肉体や魂、運命の死について語られる設定は別の層にあり、両者を同じ座標上へ置くには根拠が必要になる。

同様に「魂は原則として永遠である」「運命の死とは肉体と魂を同時に失うことである」といった一般則を先に置いてしまうと、個々の事例をそのモデルへ押し込むことになる。

この世界では、死によって何が失われ、何が残り、何が別の媒体へ移り、何が再び作用するのかが一様ではない。

まず見るべきなのは、それぞれの死者に何が残っているのかである。

肉体と人格は同じ場所に残らない

ラニは自らの肉体を殺し、魂を残した。その後は人形の身体で活動しているが、過去の記憶や人間関係、自らの目的は継続している。元の肉体を失っても、ラニという人格は維持されている。

セレンにも似た現象がある。原輝石を別の身体へ移した後も、それまでの人格と目的を保っている。原輝石が魔術師の魂に関わるものである以上、少なくとも彼女の場合、自己同一性は元の肉体だけに固定されていない。

しかし、そこから肉体を単なる交換可能な容器と考えることもできない。

ラニの遺体には死の呪痕が残っている。魂が離れた後も、その身体に何が起きたのかという痕跡は消えていない。

ゴッドウィンではさらに極端である。彼は魂だけを殺され、肉体を残した。その身体は死後も変質を続け、死の根を通じて狭間の地へ影響を広げている。

ラニとゴッドウィンを並べると、人格の存続と肉体の存続が別の軸で扱われていることが分かる。

肉体に残るものを、そのまま人格的な「記憶」と呼ぶ必要はない。
死の呪痕や身体の変質は、本人が思い出す経験とは異なる。傷、呪い、外部との接触、変質の経過など、その身体が辿った履歴に近い。

人格が肉体から離れても、身体の履歴まで失われるとは限らない。

この性質は、身体の一部だけが切り離された場合にも現れる。

シャブリリのブドウは、黄色く爛れた病み人の眼球である。それを盲目の巫女へ捧げることで、彼女は「彼方の灯」へ導かれていく。
シャブリリ本人については、両目を潰された後、その眼窩に狂い火の病が宿ったことが別に語られているが、シャブリリのブドウそのものが本人の眼球であるとはされていない。

これとは別に、騎士ヴァイクの眼球である「指痕のブドウ」が存在する。
そこには彼の全身と同じように指痕の火傷が刻まれている。三本指との接触によって生じた痕跡が、身体から切り離された後にも残っている。

しかも、その眼球は単に古傷を保存しているだけではない。ハイータに渡すことで、彼女を「彼方の灯の元」へ導くものとして働く。

ここから、元の持ち主の視覚記憶まで眼球に保存されているとは言えない。

それでも、身体の一部が切り離された時点で無個性な物質になるわけではない。
身体は、それまでに受けた作用を痕跡として保持する場合がある。

壺が引き継ぐもの

死者の肉が単なる物質として扱われていないことを、より直接的に示すのが戦士壺である。

アレキサンダーはラダーン祭りの後、戦場に残された戦士たちを自らの中へ取り込む。
通常の摂食であれば、食べた肉は分解され、新しい身体を作る材料になる。誰の肉だったかは、その過程で意味を失ってもよい。
だが、戦士壺ではそうなっていない。アレキサンダーは強い戦士の肉を取り込むこと自体に価値を見いだし、彼の中身には「継承の澱」という表現が使われる。

誰を取り込んだのかが、その後の壺に関係している。

ただし、死者がそのまま壺の中に保存されるわけでもない。
アレキサンダーが、取り込んだ戦士たち一人一人の人格や記憶を語ることはない。セレンの原輝石のように、一人の魂が別の身体へ移されているわけでもない。

壺で起きているのは、個体そのものの保存よりも、もっと部分的な継承に見える。

生殖を介さず、血縁関係のない死者の身体を直接取り込み、そこに残っていた何かを一つの個体へ集積していく。
かなり乱暴な比喩を使えば、血統を介さない遺伝に近い。

何が継承されているのかは明確ではない。力、身体的な性質、生前に蓄積した何かなのか、あるいは霊的な残滓まで含むのかは分からない。

それでも、死体を喰らって栄養にしているだけなら、強い戦士の肉を選ぶことや「継承」という表現の意味は薄くなる。壺に入った肉は、元の個体との関係を完全には失っていない。

影の地の大壺では、この性質がさらに残酷な形で現れる。

罪人たちは切り刻まれ、大壺へ詰め込まれ「善き人」になることを求められる。巫子たちもその工程に組み込まれており「歯の鞭」には、傷つけられた巫子たちの肉が他の肉とよく馴染んだことが記されている。
身体を切り分け、複数の人間の肉を混ぜ、一つの新しい存在へ作り直す処置である。

しかし「中身肉」には、大壺を満たす肉に怨霊がこびり付いていることが明記されている。その肉は「善き人になるために切り刻まれ、大壺に詰め込まれた罪人どものなれの果て」でもある。

切断され、他人の肉と混ぜられた後にも、罪人たちに由来する怨霊は残る。

巫子たち自身の恨みまで同じように残っているかは分からない。確認できるのは、巫子の肉が他の肉と馴染んだというところまでであり、その人格や感情が完成した壺の中にどのような形で残ったのかは示されていない。

戦士壺の「継承の澱」と影の地の大壺を同じ技術や原理として扱うこともできない。成立事情も目的も異なる。

共通しているのは、肉が誰のものであったかが意味を持ち続けていることにある。
人間を切り刻み、混ぜ、別の形へ作り直しても、その身体に由来するものが完全には失われない。

死者は一つの場所に保存されない

死後に残るものは肉体だけではない。

遺灰には霊が宿る。セレンの原輝石は魂の移動に関わる。死体には呪痕や変質の履歴が残り、眼球には接触の痕跡が刻まれる。
壺では死者の肉に由来するものが別の個体へ継承され「中身肉」には怨霊が残る。

放浪の画家の絵画では、さらに別の形が現れる。

画家は「死して消えゆく者たちの最期の景色」を描く。
そして、その絵に描かれた場所へ赴くことで、画家の霊と「最期の名残」に出会うことができる。

絵画そのものに何かが保存されているのか、場所に残されたものへ絵画が接続しているのか、その仕組みは説明されない。

ただ、死者が最後に見た景色と、その場所との関係が、本人の死によって完全には失われていない。

こうした例をすべて「記憶」と呼ぶと、それぞれの違いが見えなくなる。

ラニやセレンが保持する人格的な記憶と、ラニの遺体に刻まれた呪痕は同じではない。
遺灰に宿る霊と、中身肉に付着する怨霊も違う。
絵画から辿る最期の景色も、また別の残り方をしている。

一人の存在を構成していたものは、死後に一つの場所へまとめて保存されるわけではない。

魂に残るものがあり、肉体に残るものがあり、霊として残るものがあり、場所や物を介して死者の痕跡へ接続できる場合もある。

死は、個体を構成していたものを一括して消去する出来事ではなく、それらを複数の形へ分ける出来事として現れている。

追憶は読み出される

その中で、追憶は少し性質が異なる。

デミゴッドや偉大な英雄は、死すると追憶として樹に刻まれる。
その追憶には「かつての主たちの力」が残り、指読みを介して武器、魔術、祈祷などへ変えることができる。追憶そのものを使用し、ルーンへ変換することもできる。

ここでは、死者に由来するものが残っているだけではない。

残されたものへ別の人間がアクセスし、別の形式へ変換して利用できる。

元の人物が復元されるわけではなく、人格や記憶が褪せ人へ移るわけでもない。
死者に由来する「力」が切り出され、別の主体によって再び使われる。

壺では肉に残ったものが新しい身体へ組み込まれ、遺灰では霊が呼び出される。追憶では力が武器や技、あるいはルーンへ変換される。

追憶は、残留したものが後から読み出され、別の作用へ変えられる例になる。

しかも、追憶は黄金樹だけに刻まれるわけではない。

影の地で得られる追憶には、黄金樹ではなく影樹に刻まれたものがあり、それでも指読みによって主の力を得たり、ルーンへ変えたりできる。

さらに、祖霊の王は「黄金樹の外にある神秘」とされながら、その追憶は黄金樹に刻まれている。

この二つを合わせると、追憶が刻まれる樹と、その存在が属していた秩序は一致しない。

追憶を、黄金律への帰属を示すものとして扱うことは難しい。
強大な存在に由来する力が樹に刻まれ、後から別の形へ変換できる状態で残る現象として見る方が整合する。

「記述された力を読み出す」という表現を使うなら、ここでは比喩に留まる。
確認できるのは、追憶が樹に刻まれ、そこに主の力が残り、指読みによって別の形へ変換できるというところまでである。

黄金樹以前にも死の行き先はあった

死者に由来するものが残る現象は、黄金樹より古い。

黄金樹無き頃、死は霊炎に焼かれ、死の鳥はその火守りだったとされる。黄金樹葬とは異なる死の処理が、すでに存在していたことになる。

祖霊もまた、黄金樹の外にある神秘として語られる。そこでは死から命が芽吹き、黄金樹へ還ることとは異なる形で死と生が接続されている。

死の鳥と霊炎、祖霊の循環は同じ仕組みではない。
それでも、黄金樹が死者の唯一の行き先ではなく、黄金樹以前にも、その外にも、異なる死の処理や循環が存在していたことは分かる。

黄金律は、死と残留と継承がすでに存在する世界の上に成立している。

この点を踏まえると、黄金律が死後の残留そのものを作り出したとは考えにくい。

黄金律に特徴的なのは、別の部分にある。

黄金樹は何を引き受けたのか

黄金律の下では、死者は黄金樹の根へ還される。

同時に、黄金律は運命の死を取り除き、封じることで成立した。
死そのものの条件を変え、その上で死者を黄金樹へ還す死生観が成立している。

ここで区別しておきたいのは、死後に何が残るのかという問題と、その残ったものをどこへ帰属させるのかという問題は同じではないということだ。

遺灰、怨霊、肉体の痕跡、追憶のような死後の残留は、黄金樹以前にも、その外にも確認できる。
一方、死者を黄金樹の根へ還すという経路は、黄金律の下で制度化された死者の行き先に関わる。

黄金律が死後に何かが残る仕組みそのものを作ったのではなく、すでに死者がさまざまな形で残る世界に、黄金樹へ還るという死後の経路を置いたと考える方がよい。

黄金樹を「メモリーツリー」と呼ぶなら、この意味に限られる。
世界中の死者を保存する唯一の装置ではない。人格、肉体の履歴、怨霊、霊魂、知覚の痕跡まで、すべてを黄金樹が回収しているわけでもない。

それでも黄金樹には追憶が刻まれ、黄金律の社会では死者がその根へ還された。

強大な存在の力を保持する樹としての性質と、死者の行き先として制度化された黄金樹。この二つは重なっているが、同じものではない。

祖霊の王の例は、この区別をはっきりさせる。
黄金樹の外にある神秘であっても、その追憶は黄金樹に刻まれる。
黄金樹に記録されることと、その秩序に属することは別の問題である。

残されたものを使う褪せ人

褪せ人は、世界に分散した死者の残留物に接触する。

遺灰から霊を召喚し、追憶から主の力を得る。
追憶をそのままルーンへ変えることもでき、各地に残されたルーンは褪せ人自身の成長に使われる。

これらを一つの吸収能力として扱うことはできない。

遺灰の霊を褪せ人自身へ取り込むわけではなく、追憶から死者の人格を受け継ぐわけでもない。ルーンによる成長と、壺による肉の継承も別の仕組みである。

共通しているのは、褪せ人が異なる種類の残留物に接触し、それぞれに対応した方法で再び作用させる位置にいることにある。

遺灰は召喚され、追憶は力へ変換され、ルーンは成長へ変わる。

褪せ人は、死者を一つの器へ集積する存在というより、残されたものを利用可能な形へ変える主体に近い。

『ELDEN RING』の継承は、血統や魂の転生だけで成り立っているわけではない。
死後に分かれたものが、それぞれ別の経路を通って次の存在へ渡る場合もある。

運命の死が戻った後

物語終盤、褪せ人は黄金樹を焼き、マリケスを倒し、封じられていた運命の死を解放する。

黄金律は、運命の死を取り除いた状態を前提として成立していた。その条件は、ここで失われる。

ただし、運命の死が解放されたことで、それまで世界に存在していた死後の残留まで消えるとは示されていない。

黄金樹葬がその後どう変わるのか、死者が黄金樹へ還らなくなるのか、追憶の扱いが変化するのかは描かれていない。
黄金樹そのものについても、燃えたことで完全に消滅したとはされていない。

ここから具体的な新しい死生制度を組み立てることはできない。

それでも、黄金律が死を扱うために置いていた前提が失われたことは確かである。

運命の死を排除した世界を進んできた褪せ人は、最後にはその死を自ら解放する。

Memento mori という言葉をこの物語に重ねるなら、その意味はここにある。

残されたものは、次へ渡る

『ELDEN RING』では、死者は一度に失われない。

肉体を失っても人格が残る場合があり、魂を失っても肉体だけが世界へ作用し続ける場合がある。
身体には傷や呪い、接触の履歴が残り、死者の肉には継承されるものがあり、切り刻まれた肉にも怨霊が残る。
霊は遺灰に宿り、最期に見た景色も本人の死とともに完全には失われない。

追憶では、残された力を別の主体が取り出し、武器や技、ルーンへ変換することまでできる。

これらは同じ現象ではない。魂が残ること、肉体に履歴が残ること、霊が留まること、怨念が肉に付着すること、力が読み出されることには、それぞれ別の仕組みがある。

ただ、生前には一人の存在に属していたものが、死後にも世界へ残り、その一部が別の存在へ受け渡されるという点では共通している。

黄金樹は、その性質を生み出した存在ではない。黄金樹以前にも、黄金樹の外にも、死者を残し、循環させ、別の形へ継承する仕組みは存在している。

黄金律は、その世界の上に、運命の死を排除し、死者を黄金樹へ還す死生制度を置いた。

死後に何が残るのかという問題と、残ったものをどこへ帰属させるのかという問題は別にある。

さらに、残されたものがその場に留まり続けるとも限らない。

肉は別の身体へ入り、霊は呼び出され、力は別の形へ変換される。
死後に分かれたものは、それぞれ異なる経路を通って次へ渡っていく。


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