Corpus et Anima ―『ELDEN RING』における身体と人格
『ELDEN RING』では、身体と人格の対応関係が何度も崩される。陰謀の夜は、その最も分かりやすい例である。
死のルーンによって起きた最初のデミゴッドの死では、本来なら同時に失われるはずの肉体と魂が、ラニとゴッドウィンに分かれて死んだ。ラニは自らの肉体を殺して魂を残し、ゴッドウィンは魂だけを殺されて肉体を残した。
結果として、一方には肉体を持たない人格が残り、もう一方には人格を失った肉体が残ることになった。
この対照だけを見るなら『ELDEN RING』では身体と人格をかなり明確に切り離して考えられるようにも見える。
実際、肉体を失ったラニはその後も自分をラニとして認識し、イジーやブライヴとの関係を保ち、自らの目的を遂行している。
しかし、作中にはこの理解だけでは処理しにくい人物が多い。
身体を捨てても同一人物として振る舞う者がいる一方、生来の身体そのものを自分の意思に反するものとして扱う者もいる。
身体を交換できる者、一つの魂に二つの身体を持つ者、元の身体を残しながら自律的な意思を失う者まで存在する。
身体を失ったあとにも人格が残るのなら、身体は本人ではないのか。
逆に、同じ身体が残っていても意思が失われた場合、それを同じ人物と呼べるのか。
作中の事例を追っていくと、身体と人格のどちらかを一方的に本体とみなすことは難しくなる。
ラニ―肉体を捨てたあとも続く人物
ラニが陰謀の夜に殺したのは、自分自身の肉体だった。
彼女は神人として生まれ、二本指によって後継者候補として選ばれていた。
その肉体には、本人の意思とは別に神人としての立場が結びついている。
ラニがそこから離れるために選んだのが、自らの肉体だけを殺すことだった。
その後のラニは人形の身体を使っているが、作中では別人として扱われない。
イジーは彼女をラニとして扱い、ブライヴも同じ主人に仕え続ける。
褪せ人との関係も、人形になったあとのラニ本人との関係として進む。
陰謀の夜以前から続いていた目的や記憶も維持されている。
この事例だけを見るなら、本人の連続性は肉体よりも魂や記憶、意思の側にあると考えやすい。
ただし、ラニは肉体を捨てたあと、身体そのものを不要にしたわけではない。
新たな身体を得て、そこから他者と会話し、移動し、褪せ人と契約を結ぶ。
生来の肉体は交換できても、世界に存在し続けるには何らかの身体を必要としている。
ラニの事例から分かるのは、生まれ持った肉体がそのまま人格ではないということまでだろう。
身体そのものが人格にとって無意味だというところまでは進めない。
ゴッドウィン―人格を失った身体が世界に残る
ゴッドウィンはラニとは反対に、魂を殺され、肉体を残した。
陰謀の夜以前のゴッドウィンには、古竜フォルサクスとの戦いや和解など、生前の人物像を示す逸話が残されている。
しかし死後の肉体から、その人格が継続していることを示すものはほとんどない。
それでも彼の身体は、単なる死体にはならなかった。
黄金樹の根元に置かれた肉体は異様に変化し、死の根を通して各地へ影響を広げていく。
死に生きる者の発生や死根の拡散は、魂を失ったゴッドウィンの肉体と結びついている。
ラニだけを見るなら、魂に人格があり、身体は交換可能な器だと考えることもできた。
しかしゴッドウィンの肉体は、魂がないにもかかわらず世界へ作用し続ける。
もちろん、その作用をゴッドウィン本人の意思と考える根拠はない。生前の人格が死後の肉体を操作しているわけでもない。
それでも、残された肉体は意味を失わず、その後の世界に新しい現象を生んでいる。
身体は人格を失えば無価値になるわけではない。
少なくとも『ELDEN RING』では、人格とは別に身体そのものが歴史を持ち、変化し、周囲へ作用することがある。
この点は、後に身体を単なる「器」として考えようとしたときに問題になる。
魂が抜けたあとも変化し続ける身体は、人格とは別であっても、完全に受動的な容器ではない。
マレニア―自分の身体に属するものを拒む
ラニとゴッドウィンでは、身体と魂が死によって分けられた。
マレニアでは、その境界が一つの身体の内部にある。
マレニアは生まれながらに朱い腐敗を宿している。
後から感染した病ではなく、彼女の身体とともに存在してきたものであり、その影響で手足を失っている。
それでも彼女は腐敗に従って生きてきたわけではない。ミケラの無垢金によって腐敗を抑え、義肢を使いながら剣士として戦い続ける。
マレニアが自分を表す言葉も「腐敗の女神」ではなく「ミケラの刃」である。
ここでは、生まれ持った身体と本人の自己認識が一致していない。
腐敗はマレニアの身体の外にある異物ではない。しかし本人は、それを自分が従うべき本質として扱っていない。
むしろ長い間、腐敗によって自分の身体が変えられることに抵抗している。
ラダーンとの戦いでは、その抵抗が破られる。エオニアの花が咲き、腐敗はケイリッド一帯へ広がる。
褪せ人との戦いでも再び開花し、マレニアは腐敗の女神として姿を変える。
腐敗を解放したあとも、そこにいる者を完全な別人と呼ぶことは難しい。
戦闘の連続性もあり、マレニアとして認識できる特徴も残っている。
一方で「ミケラの刃」として腐敗を抑えていた状態と、腐敗の女神としての状態を同じものとして扱うことにも無理がある。
さらに、マレニアは生来の手足を失っていても、義肢によって剣士としての自己を維持している。
生まれつき身体に存在する腐敗は拒み、後から加えられた義肢は自分の行動を支えるものとして使う。
身体のどこまでが本人なのかを、生来のものか人工のものかという基準だけで決めることもできない。
セレン―交換できる身体と、崩れる個体
魔術師セレンは、身体を交換しても人格を維持できる人物として描かれる。
彼女の原輝石を別の身体へ移すと、セレンは新しい身体で活動を再開する。
記憶も目的も変わらず、源流魔術への執着やレアルカリアへの姿勢も以前のままである。褪せ人との師弟関係も継続している。
この段階では、セレンという人物の連続性は肉体より原輝石の側にあるように見える。
少なくとも元の肉体を失ったことだけでは、人格の連続性は失われない。
しかし、その後に魔術師球へ組み込まれた状態では事情が変わる。
セレンは完全に消滅したとは言い切れず、褪せ人への反応も残している。
それでも、それ以前のように自分の目的を説明し、独立した一人の魔術師として行動する状態ではない。
身体を一つの身体から別の身体へ移すことには耐えられた人格が、複数の魔術師と集積された状態では輪郭を失う。
この違いを見ると、本人性の維持には魂や原輝石だけでなく、一人の存在として世界へ働きかけられる身体的な境界も関係しているように見える。
D―一つの魂と二つの身体
死を狩る者Dと、その弟は、身体と魂が一対一で対応するという前提から外れている。
二人は別々の身体を持ちながら、一つの魂を共有する存在として語られている。
それでも作中では、完全に同一の人物として扱われているわけではない。
兄と弟は別々の場所に存在し、異なる経験を持つ。
兄の死後には弟が行動を引き継ぐが、単純に兄が別の身体で復活したという描かれ方でもない。
もし魂だけが人格の本体なら、一つの魂を共有する二人を一人と扱うこともできそうだが、実際の描写はそう単純ではない。
身体が異なれば、置かれる場所も、経験する出来事も、他者との関係も異なる。
その差が、一つの魂を共有しながら別々の人物としての輪郭を作っている。
Dの存在は、ラニから導きやすかった「身体ではなく魂が本人である」という理解にも例外を作る。
セルブスの傀儡―身体が残っても失われるもの
セルブスの傀儡では、別の問題が生じる。
傀儡化された人物は、元の身体と外見を保っている。しかし自律的に考え、行動する人物としての性質は失われている。
ネフェリを傀儡にした場合を考えると分かりやすい。外見だけならネフェリ本人であり、別の身体へ交換されたわけでもない。
それでも、それまでのネフェリと同じ人物として扱うことには無理がある。
身体の連続性は完全に残っているが、意思の連続性が断たれているからである。
ラニは元の身体を失っても本人として扱われる。一方、傀儡は元の身体を残していても、人物として重要だった部分を失う。
この二つを並べるだけでも、同じ身体が残っていることを本人性の決定的な基準にはできない。
何が残れば、同じ人物なのか
ここまでの事例を並べると、身体と人格の関係を一つの条件で説明することは難しい。
ラニでは生来の肉体を失っても、記憶や意思、人間関係が継続している。ゴッドウィンでは人格が失われても身体が残り、その後の世界へ影響を与えている。
マレニアでは身体そのものの内部に、本人が拒絶する要素が存在する。
セレンは身体を交換しても同一人物として振る舞うが、魔術師球となったあとには個人としての境界が曖昧になる。
Dでは一つの魂に二つの身体が対応し、傀儡では元の身体を保持したまま自律的な意思が失われる。
身体を基準にするとラニやセレンを説明しにくい。魂を基準にするとDが問題になる。
意思を基準にすれば傀儡との区別はつくが、ゴッドウィンの肉体が死後も世界に持つ意味を説明するものにはならない。
記憶や他者との関係を加えても、単独で十分な基準にはならない。
ここまでなら、「本人」は身体、魂、記憶、意思、関係の複数の要素によって成立している、とまとめることもできる。
ただ、その整理にも前提がある。
身体、魂、記憶、意思を別々の部品として並べ、その中から人格の本体を探そうとする限り、人格そのものがそれらとは別に存在していることを暗黙に想定することになる。
問いの反転―身体は人格の器なのか
身体を交換しても人格が継続するラニやセレンを見ると、身体を人格の器として扱いたくなる。
しかし、それでは他の事例が説明しにくい。
マレニアの場合、身体は単に人格を収納しているわけではない。
朱い腐敗によって身体が変化すれば、彼女が取れる行動や、周囲との関係も変化する。
義肢も同様で、本人ではない人工物でありながら、剣士としてのマレニアの行動を支えている。
Dでは、同じ魂を共有していても、二つの身体で異なる時間を過ごすことによって、それぞれの経験に差が生まれている。
セレンも原輝石さえ同じなら、どの身体でも完全に同じでいられるとは言い切れない。
魔術師球となったあとに個人としての行動が大きく制限されることからも、身体の状態は人格がどのように表出できるかに影響している。
ゴッドウィンも、この問題から外れてはいない。
魂を失った肉体に生前の人格が残っているとは言えないが、だからといって身体がただの空白になったわけでもない。
残された身体は変化を続け、死の根を通じて新しい関係を狭間の地との間に作っている。人格と身体が分離した結果、身体の側に何も残らなかったわけではない。
身体は、完成した人格を後から入れる容器というより、その人物が経験を得るための条件として働いている。
どこへ行けるか、何ができるか、誰と関係を結ぶかは身体によって左右され、その経験は記憶や意思にも影響する。
身体を交換しても人格が続くことと、身体が人格の形成に関係しないことは同じではない。
陰謀の夜に戻る
陰謀の夜では、ラニとゴッドウィンの死によって、肉体と魂が実際に分けられた。
この出来事だけを見ると、身体と人格も同じように切り分けられるように思える。
ラニは肉体を失っても自分を維持し、ゴッドウィンは魂を失ったことで生前の人格を失ったからである。
しかし、その後の二人は片方だけで完結していない。
ラニは生来の肉体を捨てたあと、新しい身体を使って活動を続けている。
人形の身体を通じて他者と会話し、移動し、契約を結び、自分の目的を進める。
元の身体を失っても人格は継続したが、その人格が世界と関係し続けるためには、別の身体が必要だった。
ゴッドウィンは逆に、生前の人格を失ったあとも肉体が残った。
その身体は本人の意思を表しているわけではないが、単なる抜け殻として停止することもなく、変化を続け、死の根を通じて狭間の地との新しい関係を作っていった。
陰謀の夜によって身体と魂を分けることはできた。
しかし、その後の二人を見る限り、身体と人格まで互いに無関係なものとして分けられたわけではない。
ラニは身体を替えてもラニであり続けた。
ただし、人形の身体を得たあとのラニは、肉体を捨てる以前と同じ条件にいるわけではない。
ゴッドウィンもまた、人格を失ったからといって、残された身体の意味まで失ったわけではない。
身体は人格そのものではない。だが、人格を容れるだけの器でもない。
その人物が何を経験し、どのように行動し、何者として他者や世界と関係できるかを決める条件の一部として、身体は人格の形成とその後のあり方に関わり続ける。
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