メインコンテンツへスキップ
見出し画像

Summer Wool ― 夢を追う君が好き ―《2》【#創作大賞2026】

    《1》《2》《3》《4》《5》《6》《7》《8》



    「わたしさ、一目惚れしちゃったかもしれない」
    風馬くんと初めてドッグランへ行った翌日。
    仕事終わりのロッカールームで、舞さんが下着姿のまま唐突にとんでもないことを言い出した。
    小学生の息子がいる母親とは思えないくらい、彼女は昔から自由奔放だ。
    思い立ったら即行動。恋愛の話になればなおさらで、毎回こちらが置いていかれる。
    毎度のことながら、彼女の惚れっぽさには呆れるを通り越して、羨ましさすら覚える。
    「でも北海道だもんなぁ。さすがに遠すぎるよね」
    「え! ど、どっち?」
    「どっちって何よ。まだ何も言ってないじゃん」
    舞さんは笑いながらTシャツに腕を通す。
    「あー、息子かお父様かってこと?」
    「え、父親もありなの?」
    「冗談だって。いくらわたしでもおじさんは無理よ。息子だよ。牧場やってる長男」
    その瞬間、ほんの少しだけ胸を撫で下ろしてしまった自分に気づく。
    「凪沙ってば、顔赤いよ」
    にやにやと笑いながら、ロッカーの扉越しにこちらを覗き込んできた。
    「もう〜、ウブだなあ」
    ほんの少しの間見かけただけ。まともに話したわけでもない。そんな相手をどうやって好きになるんだろう。
    わたしが尋ねると、「それを一目惚れって言うんだよ」と舞さんは呆れたように笑った。
    「人ってね、出会った瞬間に、無意識で相手を“好きか否か”で振り分けてるらしいよ」
    さらりと髪をまとめながら、舞さんは続ける。
    「顔が好みだったんだよね。しかも父親からあんな話聞かされたらさ。『責任感のある男性っていいな』って、そりゃ思うじゃん」
    指に絡んだ髪を掻き上げ、そのまま慣れた手つきでバレッタを留める。
    「人を好きになるのなんて簡単だよ。大事なのは、好きだと気づいた自分の気持ちを信じるか、怖くなって胸の奥へしまい込むか。恋って、その違いだけで始まったり、終わったりするから」
    無造作にまとめた髪の隙間からのぞく白いうなじと、ふわりと漂う甘い香りに思わずどきりとした。
    「惜しかったな。あと十歳若くて子どもがいなかったら、わたし今すぐ北海道へ行ってたわ」
    そんなことをぶつぶつ言いながら、舞さんはママチャリに乗って帰って行った。

    ——責任感、か。
    わたしにとって、それはひどく重たい言葉だった。
    「凪沙には責任感が足りない」
    新年早々、母にそう言われた。
    三が日も仕事だから、今年のお正月は帰省できない——そう伝えたのは、大晦日の夜だった。
    おせちの準備もあるのだから、もっと早く予定を知らせるべきだったとは思う。
    けれど、昨年のお盆に続いてお正月まで帰らないとなれば、母がどんな反応をするかは容易に想像がついた。
    そう思うと、連絡すること自体が億劫になっていた。

    元旦の朝。
    夜勤明けで帰宅した直後、母から電話がかかってきた。実家に集まっている兄一家や祖父母、それに両親からの新年の挨拶だろう。
    そんなふうに思いながら、ぼんやりとした頭のまま電話に出た。
    でも、開口一番に母が放ったのは、否定しようがない一言だった。
    「凪沙には責任感が足りない。戸塚家が一堂に介して、一年の始まりを祝うことの意味をあなたは全くわかっていない」
    絞り出すような声だった。もしかして母は泣いていたのかもしれない。

    実家は福岡市内の中心にある比較的大きな総合病院で、現在理事長を務めている父は、医師である兄夫婦にいずれは病院を任せるつもりでいる。
    祖父母の代で開院した小さな診療所を、医師の父と看護師の母が病床数二百床まで大きくし、市内に分院を持つほどの規模となった。
    兄とわたしは、幼い頃から当然のように医師になることを期待されて育った。
    六つ上の兄が医学部に合格したときのことを、今でもよく覚えている。
    わたしは心のどこかで、ほっとしていた。
    両親はわたしにも医学部進学を強く望んでいたけれど、兄ほど勉強が得意じゃなかったわたしは、それでも何かしら医療に関わらなければならない気がして、気づけば興味もないまま地元の国立大学の看護学科へ進学していた。 母は、自身が看護部長を務めた経験から、医学部を諦めるのならせめて博士課程に進むようわたしに求めた。
    そのつもりはなかったが、「臨床経験を積んでからそのうちに」と返事するしかなかった。

    大学卒業後すぐに地元を離れたのは、期待に応えられなかった自分と向き合うのが苦しかったからだと思う。あるいは、ただ逃げたかっただけなのかもしれない。
    自分には応えきれない期待を向けられ続ける重圧と、親の価値観の中で将来が決まっていくような息苦しさから。
    実家を離れることで、ようやく自由を取り戻せるのだと思っていた。
    だけど、目的も意思もないまま手にした自由は、思っていたほどわたしの人生を変えてはくれなかった。
    他にやりたいことも見つからないまま漫然と日々を過ごし、容赦なく減っていく時間とお金に焦りだけが募っていった。
    そして結局、上京して半年後に、誰から言われるまでもなくわたしは看護師として就職した。
    東京の大学病院への就職が決まると、母は目に見えて安心した様子だった。
    遠回りはしたけれど、思ったより早くまともな方へ戻ってきた——そんなふうに感じていたのかもしれない。
    経験と学歴を積み、いずれは実家の病院で母の役割を担ってほしい。そんな期待もあったのだと思う。
    けれど、兄が女医と結婚し、後継者として大切にするべき存在がはっきりしてきた頃から、両親の関心は兄夫婦と、生まれたばかりの初孫へ向かうようになった。
    むしろ、三十歳を前にして相手もおらず、仕事でもこれといった実績のない娘は、近所や親戚に対して体裁の悪い存在らしい。
    父は、わたしに対して露骨に嫌味を口にするようになった。 母もまた同じ看護師として、娘が悪く言われることを、自分のことのように感じて肩身が狭くなっているように見えた。

     ◇

    一回目のプレイデート以降も、わたしたちは週に一度は会うようになった。
    不規則勤務のわたしに合わせて、就活を終えて時間に余裕のある風馬くんが、毎回自分の予定を調整してくれていた。
    「マメタちゃん、トキと遊ぶようになって走るの速くなりませんでした?」
    リードを外され気持ちよさそうに広場を駆け回る二匹を目で追いながら、風馬くんが声を弾ませる。
    「そうだね」
    投げられたフリスビーを追って勢いよく走り出したトキちゃんを、マメタが必死に追いかけていく。
    その様子をぼんやり眺めながら、ふとロッカールームでの舞さんの言葉を思い出していた。

    しっかりしているけど、そもそも風馬くんはまだ大学生だ。
    彼から見れば、三十歳目前の女なんてはじめから対象外だろうし、犬のプレイデートで会っているだけの関係で、ママ友?……いや、飼い主友達くらいにしか思っていないはず。
    なのに、彼と会うのが楽しみになっているわたしのこの気持ちは何なんだろう。
    犬好き同士で話が合うのが楽しいだけか。それとも、若い男性に慕われていることに、どこか背徳感めいたものを感じているのか。
    もしそうなら、この気持ちは恋愛感情とは違うはずだ。
    ……本当に?
    そう思いたい自分がいるだけなのかもしれない。
    そもそもこんなに誠実そうな男の子を前に、そんなことを考えている自分が気持ち悪くて、思わず頭を振った。

    「戸塚さーん! 今の見ました? マメタちゃん、トキが落としたフリスビーを咥えて持ってきてくれましたよ!」
    いつの間にかベンチを離れていた風馬くんが、マメタを撫でながらこちらへ向かって叫んだ。
    警戒心の強いマメタが、わたし以外の人間にここまで懐いているのは初めてだ。
    耳の付け根を両手で撫でられると、マメタは前脚をぐんと伸ばし、顔を思いきり上へ向けてお尻ごと尻尾を振る。
    喜ぶ時に見せるその愛らしい仕草は、これまでわたしにしか見せたことがなかった。
    もっと撫でてほしいと両手に擦り寄ってくるから、いつも写真に残そうとしてもなかなかうまく撮れない。

    シャッターチャンスを逃すまいと、わたしは慌ててスマートフォンを構えた。
    マメタの口からフリスビーを外すと、風馬くんは草の上にしゃがみ込み、興奮した様子で太腿にすり寄ってくるマメタの体幹を優しく撫で始めた。
    ショート動画用に撮影しながら、わたしは、彼の後ろ姿をぼんやり見つめていた。

    ——けっこう、なで肩なんだ。
    身長も、わたしと変わらないくらい。
    華奢な体つきは、後ろ姿だけならどこか女性っぽい印象を受ける。
    細い目に、すっと通った鼻筋。
    少し神経質そうなその顔立ちは、大柄で骨太な印象だった兄とは正反対だ。
    舞さんが一目惚れしたのが弟ではなく兄の方だったのも、なんとなく納得してしまう。
    わたしの好きなタイプって、こういう風だっけ。
    中学生の頃、たぶん好きだったバスケ部の男の子の顔を思い出そうとしたけれど、背が高かったこと以外ほとんど覚えていない。
    それならと、病棟で一番人気の、アイドルみたいな顔をした研修医を思い浮かべてみる。透明感のある肌に、はっきりとした二重。中性的な顔立ちに加えて背も高い。
    けれど、ああいう顔が自分の好みなのかと言われると、何だか違う気がする。
    いつの間にか、誰かを好きになるという感覚自体が遠いものになっていた。

    グランドの土が盛り上がった場所で遊び始めたトキちゃんに気づき、マメタが駆けていくと、どこで見つけたのかわからない杖のように長い木の枝を手に、風馬くんはわたしの座るベンチへ戻ってきた。
    遠くを見ながら、ペットボトルのお茶を喉を鳴らして飲んだかと思えば、今度は二匹へ合図を送るように、その枝を高く振り上げる。
    その自由気ままな仕草は、どこか少年みたいだ。
    「風馬くんの初対面の時の印象が変わったな」
    「え? それって、良い意味ですか?」
    聞こえていないと思っていたのに、不意に振り向かれて焦った。
    「いや良いとか悪いとかじゃなくて。若いのにしっかりしているし、クールな人なのかなって思ってたんだけど、犬と遊んでる時はちゃんと男の子っぽいなって」
    「僕、ちゃんと男の子なんですけどね」
    彼は少し困ったように笑った。
    「まあ、人間より動物の方が好きなのは事実です」
    「じゃあ、わたしと同じだ」
    遠くで戯れあう二匹を眺めたまま、ぽつりとそんな言葉がこぼれた。
    「戸塚さんって、看護師さんだって言ってましたけど……もしかして動物病院ですか?」
    「そっか。わたし、動物病院の看護師になればよかったのか」
    自分で口にした言葉がおかしくて、ふふっと笑う。
    「残念ながら、人間を看る方のナース。ちなみに実家も人間の病院です」
    「ご実家も病院なんですね。それはすごいな」
    風馬くんは感嘆したように声を漏らした。

    「わたしたち、似てるのかもね。実家が自営業で、長男がちゃんと跡を継いでくれるから、自由でいられる末っ子ってところ」
    風馬くんが、きょとんとした顔でこちらを見た。
    「自由か。僕ってそんなふうに見えます?」
    少し寂しそうに笑う彼を見て、ぎくりとした。
    まずいことを言ったのかもしれない。
    「父と兄は勘違いしているみたいですけど、僕は、いずれ牧場に戻って兄を手伝うつもりなんです」
    「何も知らないくせに、勝手に似てるだなんて言ってごめんね」
    「そんな風に謝らないでください」
    彼は困ったように首を振った。
    「戸塚さんのことを否定したかったわけじゃなくて……。お兄さんがいるんですね」
    「うん。父の病院を継ぐ予定の兄が一人。兄はわたしと違って医者だから」
    言いながら、わたしは彼の父親が話していたことと、今彼が口にしたことの食い違いに気づいた。
    父親は、まるで息子がもう牧場を離れてしまったかのように語っていて、その口調にはどこか寂しさが滲んでいた。

    「あのさ、聞いていいのかわからないんだけど。さっきの話。将来的には牧場を手伝うつもりで、その前に一般企業に就職するってことなの?」
    風馬くんは、遠くへ視線を向けたまま頷いた。
    それから少し考え込むように黙ったあと、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
    「就職が決まっているのは、電力システム関連の製品を扱ってる会社です。ちょっとマニアックな話になるんですけど、例えば、太陽光発電と放牧を両立するシステムを推進している部門があるんです」
    彼の話を聞きながら、広大な草原に放たれた羊の群れを想像した。たくさん並んだ太陽光パネルの下で、羊たちがのんびりと草を食んでいる。
    伸びた草がパネルに影を落とす前に、羊たちが草刈りの役目を担うのだという。
    なんだか少しだけ未来の牧場を見ているような気分になった。
    「実際日本でもすでに行われているんですけど、アメリカやヨーロッパの大規模な取り組みを学ぼうと思っています。それで、僕は海外営業部を希望しているんです」
    「海外のお客さん相手に営業するってこと?」
    「というより、海外の販売会社と協力して市場を広げたり、顧客である電力会社をサポートする部署ですね」
    そこまで説明してから、彼は少し視線を落とした。
    「羊を活用した新しい産業との連携についても、海外を含めてもっと広い視点を持っておきたくて。
    うちの牧場なんて小規模なので、事業として広げていくには人手や資金だけじゃなくて、情報やコネクションも必要なんです。だから、一度外の会社で農業の枠にとらわれない考え方を学べたらなと思っています」
    静かな口調なのに、その言葉には妙な説得力があった。
    そうか。この人の妙に落ち着いたところは、芯の強さにあるのかもしれない。
    自分が何をすべきか、その先に何が必要なのかを彼はきちんと見据えている。
    何者にもならなくていいという、かつてわたしが求めた自由とはまるで違い、目的を達成するために自分の意志で外の世界を選択するという自由。
    勝手に自分の境遇と重ねていたことを恥ずかしく思った。
    けれど、不思議だ。
    彼の話を聞いていると、焦りや劣等感とは別のところで、胸の奥に小さな熱が灯る。
    止まっていた何かが少しずつ動き出すような、まるで彼の中にある熱が少しずつこちらへ移ってきているみたいな心地よさがあった。



    #創作大賞2026 #恋愛小説部門


     
     
    音楽からインスピレーションを得て描いた創作小説を投稿します。まずは、小説投稿サイト『monogatary.com』で執筆した作品をご覧いただければと思っています。

    あなたへのおすすめ