
愛おしいと呼ぶ前に②
第2話 距離が縮む時間
停電は、午後三時十七分に起きた。
後から聞いたところでは、近隣の変電設備のトラブルでビル全体が影響を受けたらしい。ただその瞬間の私には、フロアの蛍光灯の光が一斉に落ちた、という事実だけがあった。
PCの画面が暗転し、空調の音が途切れる。
窓からの光だけが残り、オフィスはいつもと違う表情を見せた。数秒の静寂のあと、あちこちで声が上がる。スマートフォンのライトが点けられ、ビルの管理室に連絡を取ろうとする人の声がした。
私は非常口の場所を確認してから、階段に向かった。
停電時には各フロアの状況を見て回る必要がある。
非常灯が薄く灯る階段は、窓がないぶんフロアよりずっと暗かった。歩けないほどではないが、段差の境界がわずかに曖昧になる程度の暗さだった。
五階から階段を降りようとしたとき、下から上がってくる人と鉢合わせた。
高村世那だった。
彼はスマートフォンのライトが、足元ではなく少し先を照らす角度で揺れている。
踊り場で互いに気づき、動きが止まる。
「あ」と私は言った。
「どうも」と彼が言う。
どちらもすぐには動かなかった。階段を挟んで、上と下に立ったまま、わずかな間だけ視線が止まる。
「上、どんな感じですか」
彼が聞いた。
「みんないます。混乱はそこまでないです」
「こっちも同じです。ただ、しばらく動けなさそうで」
そう言って、彼は踊り場の壁に背を預けた。私も、反対側の壁に寄る。非常灯の薄い光の中で、互いの顔がかろうじて分かる距離だった。
「足元、気をつけてください」
彼がライトを傾けて、私の立っている段差を照らした。
「ありがとうございます」
その気遣いが、あまりにも自然で、だからこそ、受け取る側のほうが一瞬だけ遅れた。
「暗いと、変に昔のこと
思い出しません?」
彼が言った。壁のほうを向いたまま、独り言のように落とす。
「……思い出したくないことほど、勝手に出てきます」
気づけば、そう返していた。
「ですよね」
一拍、沈黙が落ちる。
「だから、こういうの嫌いじゃないです」
「嫌いじゃない、んですか」
「隣に誰かいると、少しだけラクになるから」
私は壁のほうを見たまま
答えなかった。
"誰か"
その言葉だけが、頭の中で小さく反響する。
今ここにいるのは、私だった。
胸の奥が、わずかに騒がしくなる。
それに気づかれないように、「そうですね」とだけ言った。
電気が戻ったのは、それから二十分後だった。
昼休みのベンチは、私の小さな領域だった。
ビルの裏手にある、日当たりの悪い一角。自動販売機と、申し訳程度の植え込みと、三人掛けのベンチ。喫煙所が隣にあるので、タバコが苦手な人は近づかない。私はタバコの煙よりも、人の多い場所の方が苦手だったので、ここが気に入っていた。
その日も、文庫本を開いて座っていた。
隣の喫煙所に人が来たのは、昼休みが半分ほど過ぎたころだった。気配で顔を上げると、高村世那が煙草に火をつけているところだった。
私に気づいて、軽く目を細めた。笑ったのだと思う。
「ここ、よく使ってますよね」
「……気づいてました?」
「うん。いつも本読んでる人、だなって。こっちで勝手に呼び名つけてました」
「呼び名……?」
「ベンチの人」
私は少し考えてから、言った。
「そのままですね」
「センスなくてすみません」
ページをめくるとき、端が少し折れているのに気づいて、そっと伸ばした。
ふと顔を上げると、世那がこちらを見ていた。煙草を持ったまま、視線だけがこちらに向いている。
目が合うと、彼は少し困ったように笑った。
「丁寧に読むんですね」
「……癖なんです。本が傷むのが嫌で」
彼は何か言いかけて、やめた。
「そうですか」とだけ言って、煙草に視線を戻した。
彼は煙を吐いて、喫煙所の柵に寄りかかった。植え込みの方を見ながら、
「ここ、なんか落ち着くんですよね」
と言った。
少し間があって、
「……人が少ないからかな」
そこで言葉は止まった。続きはなかった。
私は本に視線を戻した。ページは読み進まなかった。
「人が少ないから」という言葉を、しばらく頭の中で転がしていた。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。どちらとも取れるまま、どちらとも決めずに、持っていた。
煙草が半分ほどになった頃、世那が言った。
「その本、面白いですか」
「……人によると思います」
「どういう人に向いてますか」
少し考えた。
「一人でいるのが苦じゃない人、かな」
世那は少し笑った。煙を吐いてから、「じゃあ俺には向かないかもしれない」と言った。
「一人が苦手なんですか」
「苦手というより」
世那は植え込みのほうを見たまま、少し間を置いた。
「一人でいると、考えすぎるんですよね。だからまあ、誰かがいると、気が紛れるというか」
私はその言葉を、すぐには返せなかった。
誰かがいると、気が紛れる。停電の踊り場で聞いた言葉と、どこか重なった。あのときも世那は、同じようなことを言っていた。隣に誰かがいると、少しだけラクになる、と。
同じことを、この人は何度も言う。言うたびに少し違う形で、でも同じ方向を向いている。
「……私は逆かもしれない」
気づけば口に出していた。
「一人の方が、頭が静かで」
「ああ」と世那は言った。否定でも肯定でもない、ただ受け取っただけの声だった。「それはそれで、しんどそうですね」
「慣れました」
「慣れた、か」
世那がこちらを見た。どんな顔をしているか、確認したくなかった。本に視線を落としたまま、ページをめくった。読んでいなかった。
しばらく、会話が途切れた。でも沈黙は重くなかった。煙草の煙が風に流れていく音と、遠くの通りを走る車の音だけがあった。
もう少し話していたい、という気持ちが、言葉になる前にどこかへ消えた。消えたというより、言葉にしなかった。言葉にしてしまうと、何かが変わる気がしたから。
煙草が短くなると、世那は携帯灰皿に押しつけた。立ち上がる気配がした。
でも、すぐには立たなかった。
柵に寄りかかったまま、植え込みの方を向いている。帰るでもなく、話しかけるでもなく、ただそこにいた。私も本を閉じるタイミングを失って、膝の上に置いたままにしていた。
風が来て、植え込みの花が、小さく揺れた。
「……なんか、ここにいると時間の感覚がなくなりますね」
世那が言った。独り言のような声だった。
「昼休みが終わるのに気づかなくなります」
「それ、困りませんか」
「困ります。でも、まあ」
そこで言葉が止まった。続きはなかった。
私は植え込みの方を見た。世那が何を見ているのか、確かめたかったわけじゃない。ただ、同じ方向を向いていたかった。
立ち上がるなら今だ、と思った。昼休みはもう残り少ない。戻る理由なら、いくつでも作れた。
でも足が動かなかった。
帰りたくない、という言葉は違う気がした。ここにいたい、も少し違う。ただ、この時間が終わることに抵抗があった。
「佐伯さんは」
世那が、こちらを向かないまま言った。
「昼休み、いつもここですか」
「……だいたい」
「そうですか」
それだけだった。何かを確かめたかったのか、ただ言葉を置いただけなのか、読めなかった。
少し間があって、世那が立ち上がった。
「じゃあ、また」
こちらを見て、軽く目を細めた。
「また」と私は返した。
世那が角を曲がって、見えなくなった。私はしばらく、立ち上がらなかった。立ち上がってしまうと、この時間が完全に終わる気がした。もう少しだけ、その手前にいたかった。
残り香が、しばらくベンチのあたりに漂っていた。
LINEを交換したのは、その翌週だった。
きっかけは些細なことだ。ビルの清掃スケジュールが変わり、裏のベンチが使えない日ができた。伝えようとして手段がなく、翌日会ったときに口頭で話し、その流れで交換した。
最初はビルの情報を共有する程度だった。
それがいつの間にか、別の話になっていた。
世那からのメッセージが届いた。
「今日のベンチ、空いてました?」
すぐに返す。
「先客がいたので、違うとこで食べてました」
「浮気された気分です」
「ベンチと私、どっちにですか」
「両方です」
既読をつけたまま、しばらく画面を見つめた。
返信を打ちかけて、止めた。少し考えて、消した。
何を書けばいいかわからない、というより、どこまで書くべきかを迷っていた。
言葉は、増やすほど重くなる。それを私は知っていた。だから削る。削って、削って、残ったものだけ送る。
結局、「ベンチは逃げませんよ」とだけ送った。
既読がついて、すぐにスタンプが返ってきた。小さな熊が笑っているやつだった。
思ったより早かった、と思った。それだけのことなのに、画面を閉じるまで少し時間がかかった。
それ以上のやり取りはなかった。
スマートフォンを伏せて、天井を見た。
胸の奥が、きゅっとした。
痛みとも、温かさとも、少し違う。名前のつけられないまま、その感覚は夜の部屋に静かに満ちた。
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