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愛おしいと呼ぶ前に①

    あらすじ

    都内のオフィスで働く佐伯遥は、人との距離を保ちながら静かな日常を送っていた。
    雨の朝、エントランスで出会った高村世那との会話をきっかけに、ふたりは少しずつ言葉を交わすようになる。
    過去の恋で傷ついた遥は、好きになるほど失う未来を想像してしまう。世那もまた、病気で恋人を亡くした痛みを抱えていた。
    触れすぎず、離れすぎず。
    形を定めないまま、ふたりは惹かれていく。
    やがて世那に転勤の話が持ち上がる。最後の夜、ベンチで向き合ったふたりは約束こそ交わさないが、それでも想いを手放さないことを選ぶ。
    数か月後の夏の終わり。遥は世那から届いたコーヒー豆で朝の一杯を淹れ、短いメッセージを送る。
    離れていても、想うことをやめない。その静かな決意が、遥をそっと前へ動かしていた。

    第 1話 予感の痛み

     職場では、うまくやっている方だと思う。
     挨拶はする。会議では発言する。ランチに誘われれば断らない。誰かが困っていれば手を貸す。それだけのことを、それだけの温度でやっている。特に嘘をついているわけじゃない。ただ、全部を出しているわけでもない。

     人と話すとき、私はどこかで力を使っている。相手の言葉を受け取って、適切な言葉を返して、表情を合わせて、間を外さないようにする。そういうふうに振る舞うことはできる。ただ、それが自然かどうかは、よくわからない。たぶん二十代の半ばごろから。慣れたというより、慣らした、という感じに近い。

     昼休みになると、一人で過ごす。
     ビルの裏のベンチに行って、文庫本を開く。誰かに声をかけられれば話すけれど、自分からは動かない。その時間だけが、力を使わずに済む時間だった。孤独が好きなのかと聞かれれば、違う気がする。ただ、一人のときの静けさに、いつのまにか慣れてしまった。慣れると、それが普通になる。普通になると、それ以外が少しだけしんどくなる。

     誰かと深く関わることを、意識的に避けているわけじゃない。ただ、あるところで自然に止まってしまう。どこかに線があって、私はいつもその少し手前で立ち止まる。気づいたら立ち止まっている。そういう癖が、いつのまにか身についていた。


     あの日、雨が降っていた。音が、いつもと違っていた。
     傘を閉じてロビーに入ると、濡れたコートや鞄の匂いが空気に混じり、ビル全体がいつもより少し重くなる。私はエントランスの端に寄り、鞄についた雨粒をタオルで拭いた。急ぐほどではないが、濡れたまま席につくのが好きではなかった。

     そのとき、視界の隅に、同じように立っている人がいた。
     同じビルで何度か見かけた顔だった。どこかのフロアの人、というくらいの認識しかない。三十代くらいの男性で、今日は紺のジャケットが肩のあたりまで濡れていた。鞄は気にしていないようだったが、脇に抱えた書類の束を、両腕でかばうようにしている。書類だけを、守っていた。

     その抱え方が、なぜか目に留まった。
     鞄でも、スマートフォンでも、自分自身でもなく——書類だけを。

     胸の奥が、きゅっとした。
     うまく説明できない感覚だった。痛みとも、懐かしさとも、少し違う。ただ、何かが引っかかった。

     エレベーターが開いた。
     タイミングが重なり、二人で乗り込んだ。

     扉が閉まる直前、彼の社員証が腕の動きに合わせて小さく揺れた。そこに印刷された名前を、なぜか目で追ってしまった。

     高村世那

     読んだというより、視界に入った、という感じだった。それでも、文字は網膜に残った。

    「その……、大丈夫ですか。すごく濡れてますけど」

     口から出てから、余計なことを言ったかもしれないと思った。

    「これですか」

     彼は書類に視線を落として、少し笑った。

    「まあ、なんとか。中身だけは死守したんで」

    「中身だけ……」

     思わず繰り返した。

     そうやって守っても、こぼれるものがある。
     そのことを、私はどこかで知っている気がした。

     エレベーターが止まり、彼が先に降りた。
     扉が閉まる前に、軽く会釈をされた。名前も知らない人からの、丁寧な会釈だった。

     私はまだ、高村世那、という文字を頭の中で繰り返していた。


     火災訓練の通知は、二週間前から社内掲示板に貼ってあった。
     毎年この季節にある行事で、参加は義務だった。午後二時に業務を中断して、避難階段で各自の担当フロアごとに整列する。私は総務なので、誘導する側に回ることが多い。今年も同じだと思っていた。

     ところが今年から班の編成が変わったらしく、私は五階から八階の混合班に組み込まれた。見回すと、知らない顔が半分以上いた。

     避難階段の踊り場で、整列が完了するのを待っていると、隣に人が来た。
     紺のジャケットは今日は着ていなかったが、顔は覚えていた。

     高村世那だった。

     彼はこちらに気づいたかどうか、わからなかった。スマートフォンをポケットにしまって、非常口の表示灯をぼんやり見上げていた。

     そのとき、誘導係の上司の声が飛んだ。

    「遥さん、そちら側に並んでください」

     振り向いた瞬間、視界の端で、彼もつられるように顔を動かしたのがわかった。
     並び直しながら、少しだけ距離が縮まる。

    「思ったより、あっさり外に出されるもんですね」

     彼が言った。こちらに向けて言っているのか、独り言なのか、境界が曖昧な声だった。

    「ですね」

     相槌を打つ。
     それだけで終わるつもりだった。

     でも、言葉が続いた。

    「……人も、けっこうあっさりですよね」


    「急にいなくなったり」

     言ってから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。初対面に近い相手に向ける言葉ではなかった。

     けれど彼は、驚いた様子を見せなかった。
     ほんの少しだけ間を置いてから、

    「……経験者、ですか?」

     と言った。

     ちょっとだけ、と言いかけて、口の中で溶かした。
     代わりに、小さく笑った。うまく笑えていたかどうかは、わからない。

     彼はそれ以上聞かなかった。

     整列の号令がかかり、列が動き始めた。それきり、訓練が終わるまで、二人とも何も言わなかった。

     でも、沈黙は気まずくなかった。

     それが少し、怖かった。


     訓練が終わり、フロアに戻ると、オフィスはいつも通りの音に戻っていた。キーボードの音、電話の呼び出し音、誰かの笑い声。私はそれを少し遠くで聞きながら、席に着いた。
     ほんの一瞬、少しだけ現実から浮いたような感覚が、ゆっくりと薄れていく。さっきまで少しだけ軽かった呼吸が、元の重さに戻っていくようだった。
     誰にも見られていない時間が、また始まった。


     その日の夕方、会社の近くのカフェで佳奈と向かい合っていた。

     藤井佳奈は同期で、広報部にいる。学生のころから変わらず、ものを言うときに前置きを置かない。それが苦手な人もいるのは知っているが、私は嫌いじゃなかった。佳奈の言葉は、いつも私が自分で気づかないふりをしていることを、真正面から名指しにする。

    「そのデザイナーさんの話、三回目だよ。遥」

     コーヒーカップを両手で包んだまま、佳奈が言った。

    「え、そんなにしてた?」
    「してる。今日の昼に一回。先週の金曜に一回。で、今」

     私はカップに視線を落とした。

    「……なんか、気になっちゃって」

    「好きになりそうでビビってる顔してる」

     直球だった。

    「違うよ。そこまでじゃないよ」

    「それを世の中では、好きになりそうって言うんだよ」

     佳奈は笑ったが、目は笑っていなかった。笑いながら本気で言う、佳奈のいつものやり方だった。

     私も笑った。
     でも笑いながら、胸の奥で何かが小さく縮むのを感じた。

     好きになったら、また——。

     言葉にはならなかった。いつもそこで止まる。

    「遥」

     佳奈が呼んだ。

    「痛いのが嫌なのはわかる。でもさ」

     続きを待つ。

    「痛くなる前に止めるの、もったいなくない?」

     私は何も言わなかった。

     窓の外では、まだ雨が降っていた。傘をさした人たちが、足早に通り過ぎていく。誰もこちらを見ていなかった。

     高村世那、と胸の中でそっと呼んでみた。

     声には出さなかった。
     出す必要もなかった。

     名前を知っている。
     それだけが、小さく灯っていた。

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    #創作大賞2026 #恋愛小説部門
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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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