
愛おしいと呼ぶ前に⑥
第6話(最終話) 会いたい人
カーテン越しの光が、テーブルの上のガラス瓶に挿してあるカスミソウに柔らかく落ちている。窓を開けると、カーテンがゆっくりふくらんで、また戻った。朝の風が、部屋をひとめぐりした。
読みかけの本が、栞を挟んだまま伏せてある。コーヒーミルの音が部屋に響き、すぐに止んだ。豆は、世那が東京から送ってきたものだった。「こっちで見つけた店のやつ」と、短いメッセージが添えられていた。
熱いコーヒーを淹れながら、窓の外を見た。どこかで風が吹いたのか、木の葉が一斉にさらさらと囁いて、また静かになった。夏が終わりかけている空だった。青いのに、どこか薄い。
肩まで伸びた髪が、首に触れた。切りに行こうと思ったまま、もう何週間も経っている。
世那と最後に会ったのは、春だった。
あれからどのくらい経ったのか、日数では数えていない。ただ、季節がひとつ動いた。それだけは確かだった。
遠くなった、とは言い切れない。でも、前と同じとも言えない。
何かが少しずつ変わったのか。
それとも、何も変わっていないのに、変わったように感じているだけなのか。この気持ちをなんと呼んだらいいのかわからない。ただ、世那のことを想うと胸に灯る、あの小さな熱だけは、まだ確かにあった。
コーヒーをマグカップに注いで、私は椅子に腰かけた。深く、落ち着いたコーヒーの香りが、部屋にゆっくり広がっていた。
スマートフォンの画面が光った。
「世那」と表示されていた。
『元気ですか』
久しぶりに来た短いひと言だった。以前なら、「元気?」だった。
私はゆっくり考えてから、ラインに言葉をのせた。
『元気です』
送信してから、コーヒーを一口飲んだ。少しほろ苦かった。
しばらくして、またスマートフォンの画面が光った。
『ここからはタワーが見えます』
『人も車も、電車も流れてる』
東京の景色だと思った。世那の部屋から見える窓の外を、私は知らない。どんな高さで、どんな方角なのか。タワーがどのくらいの大きさに見えるのかも。
窓の外を私は見た。電線があって、隣の屋根があって、その向こうに空がある。どこかで鳩が鳴いていた。
『こちらはとても静かだよ』
『さっきから鳩の声がしてるの』
打ってから、少し微笑んだ。東京のタワーと、鳩の声。並べるとちぐはぐだった。でも、それでよかった。
『そちらは、にぎやかそうだね』
『うん、少し』
世那は今どんな顔をしているのだろう。画面を見つめながら、想像した。窓の外を見ているのか、それともスマートフォンを見ながら私のことを思ってくれているのか。コーヒーを飲んでいるのか、それともまだ朝ごはんを食べていないのか。
わからない。
わからないまま、それでも感じていた。少し痛くて、少し温かかった。
痛みがなくなればラクになる、とずっと思っていた。
でも今この瞬間、胸の奥にあるいたみを手放したいとは思わなかった。痛くても、ふたつとない確かさを抱きしめている。それだけで、じゅうぶんだ。
スマートフォンを持ったまま、もう一度コーヒーカップに唇を寄せる。
文字を打った。
『いま、コーヒーを淹れたところなの。少しほろ苦いわ』
送信ボタンに指がふれた。
カーテン越しの光が、テーブルの上でゆっくり動いていた。
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第6話 了
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