
愛おしいと呼ぶ前に③
第3話 言葉にならない夜
終電まではまだ間がある、という時間に会社を出た。
駅へ向かう途中、雨上がりのアスファルトが湿った匂いを残している。傘を持ってきていたのに、結局使わずじまいだった。
ホームに上がったのは、二十二時を少し回ったころだった。
平日の夜、上り線にはそれなりに人がいる。スーツ姿の男性、イヤホンをした若い女性、疲れた顔でスマートフォンを見つめる人たち。私もたぶん、その中の一人に見えているのだろう。
電光掲示板を見上げたとき、視界の端に見覚えのある背中が映った。
紺のジャケット。少しだけ癖のある髪の毛。改札を抜けてきたばかりらしく、ICカードをポケットにしまうところだった。
世那だ、と思うより先に、身体がわずかに固まった。
気づかれる前に視線を外せばよかった、と僅かに遅れて思う。でも、もう遅かった。
「あ」
向こうが先に気づいた。
「佐伯さん、残業?」
「はい。世那さんも?」
「まあ、そんな感じです」
いつもと同じ、短い言葉のやり取り。会話が続いているのに、話題の糸口がどこにもない気がした。
LINEの延長みたいな空気が、そのままホームに漏れ出したみたいだった。
次の電車まで、あと四分。
並んで待つでもなく、かといって離れるでもなく、私たちは同じ場所に立っていた。
「今日、長かったですね」と私は言った。
「そうですね」と世那は答える。
「でもこういう時間、嫌いじゃないです」
聞き返そうとして、やめた。
こういう時間、という言葉が、胸の奥に小さく引っかかった。
残業帰りの疲れた夜のことを言っているのか。
それとも——もっと別の意味が含まれているのか。
こたえは、どこにもなかった。
電車が来て、私たちは並んで乗り込んだ。扉の近くに立ち、窓の外を流れる夜景をぼんやり見ていると、世那が口を開いた。
「この前、火災訓練のとき」
「はい」
「何か言いかけてましたよね、佐伯さん」
少し間があった。
「あのとき、途中で止まってたやつ」
「……別にいいんですけど」と世那は続ける。「ちょっと気になってたんで」
責めているわけでもない。
無理に引き出そうとしているわけでもない。
ただ、「気になっていた」というだけの声。それなのに、すぐには言葉が出てこなかった。
窓の外に、街灯が流れていく。
「……前に、付き合ってた人がいて」
自分でも驚くくらい、素直に声が出た。
「大学のとき、三年くらい」
そこまで言って、少し黙った。どこから話せばいいのか、順番がうまく見つからない。
「別れた日より、その前の思い出のほうが、残ってて」
「普通に笑ってたんです。そのときも」
世那は何も言わなかった。
電車の揺れがあって、アナウンスがあって、ただ時間だけが私を追い越していく。
「名前、呼ばれてなかったことに、あとで気づいて」
世那は何も言わなかった。
その沈黙の中で、別の夜が戻ってきた。
三年間、私たちはよく話した。他愛のない話も、少し深い話も。笑っていた時間の方が、ずっと長かったと思う。それは本当のことだ。
でも、あるとき気づいた。
彼は私を、「ねえ」と呼んでいた。「あのさ」と呼んでいた。話しかけるとき、いつも言葉が先に来て、名前は来なかった。最初はそういう話し方なのだと思っていた。名前を呼ぶ人と呼ばない人がいる。それだけのことだと思っていた。
でも、ふと思い返すと、彼が私の名前を口にした記憶が、驚くほど少なかった。
最後に呼ばれたのはいつだったか。思い出そうとして、出てこなかった。一年前か、二年前か。それとも、最初から少なかったのか。答えが出ないまま、日々は続いていた。
おかしいと思っていた。うっすらと、ずっと。
でも言えなかった。「なんで名前を呼ばないの」と言ったとして、何が変わるのかわからなかった。傷つけたいわけじゃなかった。ただ、呼ばれたかった。それだけのことを、言葉にすると重くなる気がして、飲み込み続けた。
気づかないふりをしていたのかもしれない。気づいていたのに、気づいていないことにしていた。その方が、続けていられたから。
関係は続いていた。名前がなくても、会話は成り立っていた。笑い合えていた。それが余計に、霞んでいった。名前がなくても、こんなに普通に話せるなら、私が気にしすぎなのかもしれない。何度もそう思った。思うたびに、飲み込んだ。
別れた後、しばらく経ってから気づいた。
私が怖かったのは、別れることじゃなかったのかもしれない。名前を呼んでほしい、と言えなかった自分のことを、ずっと持て余していた。言えなかったその夜々が、今も胸のどこかに積もっている。
言葉にしてみると、思っていたより些細なことのように思えた。
それでも私の中では、ずっとそこに引っかかっていたものだった。
「気づいてたのに、何も言えなかった」
居酒屋だったか、どこかの帰り道だったか。彼はいつも通り笑っていた。話していた。けれど、その夜、一度も名前を呼ばれていなかったことに、私はずっと後になってから気づいた。
気づいた瞬間、何かが音もなく落ちた気がした。落ちたものが何なのか、今もまだうまく言葉にできない。
おかしいとは、どこかで思っていた。思っていたのに、何も言えなかった。「気にしすぎ」と思われたくなかった。「重い」と思われたくなかった。だから笑い返した。いつも通りに。
一度だけ、はっきり気づいた夜があった。
その日も、友人たちと何人かで飲んでいた夜だった。彼も一緒だった。テーブルを囲んで、誰かが誰かの名前を呼びながら話していた。
「ねえ、佐伯はどう思う?」「遥ってさ、そういうとこあるよね」
名前が飛び交う中で、私は何度か話しかけられた。
でも彼からは、一度も呼ばれなかった。
「ねえ」と言われた。「それさ」と続いた。私に向けられた言葉だとわかるのに、名前はなかった。
気のせいかもしれない、と思った。にぎやかな場所だったから、名前を呼ぶ必要がなかっただけかもしれない。彼はこういう場所が少し苦手で、余裕がなかっただけかもしれない。いくらでも理由は思い浮かんだ。
でも、帰り道に二人になってからも、呼ばれなかった。
「今日楽しかったね」と言われた。「疲れた?」と聞かれた。会話は続いていた。それなのに、一度も名前は呼ばれなかった。
他の人には呼んでいた。友人の名前は、自然に口から出ていた。それが余計に、胸の中に沈んだ。私だけが、名前のない場所に置かれているみたいだった。
そのとき、何か言えばよかった。「名前、呼んでほしい」でも、「ねえ、って呼ぶのやめてほしい」でも。でも言えなかった。
そのまま、何も言わずに歩いた。
今もそうだ、と思った。世那の沈黙の中で、私はまた何も言えずにいる。
また同じ場所に戻ってきてしまった。
呼ばれなかった夜も、言えなかった夜も、全部同じ構造をしている。気づいている。おかしいと思っている。でも声にならない。声にする前に、どこかで止まってしまう。
止まる理由はそのたびに少しずつ違う。重いと思われたくない。気にしすぎだと思われたくない。せっかく続いているものを、自分の言葉で壊したくない。でも結局、どれも同じ場所に行き着く。
言えないまま、時間だけが過ぎる。
世那の沈黙は、責めているわけじゃなかった。ただ、受け取っているだけの沈黙だった。それでも私の中では、あの夜と同じ空気が動いていた。誰かの前で言葉を飲み込むたびに、その癖は少しずつ深くなる。気づいていても、止められない。
「『重い』と思われたくなくて」
「……重い、か」
世那がそこで初めて、その言葉だけを短く繰り返した。
「好きになるほど、全部信じたくなっちゃって。信じるほど、怖くなって。のめり込んでたんだと思います」
声に出した瞬間、少しだけ熱が引いた気がした。
「それ、重いって言う人もいるだろうけど」
世那はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「ちゃんと好きだったってことでもあるよね」
優しい言葉だった。慰めでもなく、断定でもなく、ただそう見えている、という言い方。
「そう思えるようになるまで、ちょっと時間かかったけど」
私は窓の外に視線を戻した。流れていく街が、雨上がりの光を反射してきれいだった。
「好きになっても——好きになればなるほど、いずれ失うのが怖くなるんです」
声は、思ったより静かに落ちていった。
「だから、うまく手加減できればよかったんですけど。それができる人じゃなかったから」
世那はしばらく黙っていた。
電車が駅に止まり、何人かが降りる。扉が閉まり。また走り出す。
「急にいなくなる、っていうより」
世那が、ゆっくり言葉を選ぶみたいに続けた。
「いなくなる前って、普通だったりするよね」
「わかってるのに、いつも通り話してる感じとか」
私は世那の横顔を見た。窓の光が、その輪郭を薄くなぞっていた。
「……それ、どういう意味で言ってるんですか」
「んー」
世那は少し考えてから、
「俺も、似たような感じです」
とだけ言った。
詳しくは話さなかった。
そのことに気づいて、私は続きを聞けなかった。聞いてはいけない気がしたわけではない。ただ、その先を知る前に、言葉の重さだけが、先に届いてきた。
「俺も、似たような感じ」
その「似たような」が、恋の終わりを指しているのか、それとも別の何かを指しているのかは分からなかい。
それでも世那が「分かる」と言おうとしている気配だけは、伝わった。
しばらくして、世那が続けた。
「もう、恋はしたくないと思ったんだ」
静かな声だった。
「でも——誰のことも好きにならないでいるのも、思ったより寂しくて」
また沈黙が来た。
今度は電車の音だけが残った。レールの継ぎ目を越えるたびに、かすかな振動が足元に伝わる。アナウンスが次の駅名を告げる。
その音は、どこか遠くに流れていくようだった。
世那の言葉が、胸の中でゆっくりと沈んでいくのを感じていた。
誰かを想い続ける痛みを、この人は知っている。私と同じような場所で、この人も一度立ち止まったことがある。そのことが、怖いような、安堵するような、どちらとも言えない感覚を連れてきた。
この人を好きになったら——
そこまで考えて、思考を止めた。
でも止めたところで、もう遅いのかもしれない。そんな気がした。
「佐伯さんは」
世那が、少し声のトーンを変えて言った。
「今は、怖くないですか」
答えようとして、言葉が出なかった。
怖い、と言うのは簡単だ。でも怖くないと言えば、それもどこか違う気がした。
「……わかんないです」
やっと出たのはそれだけだった。
「そうですよね」
世那さんはそう言って、また窓の外を見た。
次の駅のアナウンスが流れた。世那さんが「あ、ここです」と小さく言った。
「お先に」
「あ、はい。お疲れ様です」
扉が開いて、世那はホームに降りた。振り返りはしなかった。そのまま人の流れに紛れていった。
扉が閉まる。
電車が動き出す。
私は窓の外を流れていく夜景を見ながら、さっきまで世那が立っていた場所に、まだ誰かがいるような気がしていた。
「もう、恋はしたくないと思ったんだ」
「でも——誰のことも好きにならないでいるのも、思ったより寂しくて」
窓ガラスに映る自分の顔を見た。特に何も考えていないような顔をしていた。
あの夜も、名前は呼ばれなかった。それだけをまた、思い出した。
胸の奥にはまだ、温かいけれども、画鋲のように痛むなにかが残っているというのに。
次の駅まで、まだ少しある。
電車は夜の中を走り続けた。
__
#創作大賞2026 #恋愛小説部門
▶ 次の話はこちら
◀︎ 前の話はこちら