メインコンテンツへスキップ
見出し画像

愛おしいと呼ぶ前に⑤

    第5話 痛みごと愛おしい

     世那の東京勤務が正式に決まったのは、木曜日の午後だったらしい。

     昼休み、ベンチの横を通りかかったとき、少し離れた場所で世那が誰かと話しているのが見えた。相手は同じビルの別の会社の人らしかった。

     「来月から、東京に行くことになりまして」
    その声だけが、風に乗って届いた。

     その日の昼、いつものベンチに行くと、世那はすでにいた。コーヒーを片手に、前を向いていた。

     隣に座ると、世那がぽつりと言った。

    「今日のコーヒー、薄いですね」

    「明日は濃いといいですね」

    「明日も、ここにいます?」

    「……たぶん」

     たぶん、と答えながら、その言葉の奥に何が入っていたか、自分でもよくわからなかった。
     明日も会えますように、という祈りなのか。
     明日も来てください、という願いなのか。
     どちらとも、言い切れなかった。

     世那は何も言わなかった。コーヒーを一口飲んで、また前を向いた。

     それからの一週間は、とろとろと流れて、どこか不思議だった。
     エレベーターで乗り合わせる。廊下ですれ違う。ベンチで、短い会話。どれも、いつも通りのことだった。でも、その"いつも通り”に、少しだけ力がいるようになっていた。

     世那の最終出社日は、来週の金曜日だった。


     木曜日の夜、私はベンチに一人で座っていた。
     約束はしていなかった。世那が来るかどうかも、わからなかった。それでも、ここに来ていた。

     小さな封筒をトレンチコートのポケットに入れていた。昨夜、便箋を一枚だけ取り出し、少し迷って書いた言葉が入っている。

     「あなたを想う痛みさえも、大切にしたいと思っています」

     渡せなくてもいい、と思っていた。
     書いたってことだけで、少しは前に進めた気がした。
     でも、ここまで来てしまったのは、やっぱり渡したかったからなのかもしれない。この一筆箋を渡して、それで結果がどう変わったって、それはそれだけのことでしかない。

     風が心を逆撫でながら通るたびに、少し身震いした。遠くで車の音がした。誰かの話し声が聞こえて、すぐに消えた。時計を見ると、思ったより時間が経っていた。

     もう帰ろうと思って、立ち上がりかけたとき、足音が聞こえた。
     振り返ると、世那が息を切らしてこちらに向かってきていた。コートのボタンが一つ外れたままで、髪が少し乱れていた。

    「間に合った」

     世那はベンチの前で止まって、肩で息をしながら言った。

    「どうしたんですか」

    「なんか、このまま終わるのが嫌で」

     世那は隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。風が吹いて、また少し寒くなった。

    「俺、約束があまり得意じゃなくて」

    「……そうなんですか」

    「守れなかったことがあって」

     それだけ言って、世那は少し間を置いた。遠くを見ていた。

    「昔、付き合ってた人がいたんだ」

     私は黙っていた。

    「病気で、先にいなくなった」
     声は静かだった。ずいぶん時間が経った話のように聞こえた。

    「末期の頃、仕事が忙しくて。行くって言いながら、病院に行けない日が増えて。俺がいないあいだに、弱っていくのを人づてに聞く感じで」

    「……」

    「ちゃんと好きだったのに、ちゃんと守れなかった」

     風が止んだ。

    「だから……また誰かを好きになるの、ちょっと、怖くて」

     私は世那の横顔を見た。街灯の光が、輪郭だけを薄く照らしていた。

    「怖くて、って……」

    「最近、ちょっとだけ、揺れてて」

     それ以上は言わなかった。「怖くて」という言葉だけが、空気の中にしばらく残った。

     遠くでまた車の音がした。誰かを好きになるのが怖い、と思いながら、揺れている人の隣に座っていた。

     また歩き出せると思った。でも立ち上がれなかった。
     どのくらい黙っていたか、わからない。

     気づいたとき、声が出ていた。
    「……あの、東京に行っても」

     世那が、こちらを見た。

    「……また、会えますか」

     言葉にしてしまってから、少し後悔した。こんな問いを出したら、世那が答えなければいけなくなる。約束が得意じゃない人に、約束を迫るみたいだった。

     世那は少しのあいだ、何も言わなかった。
     何か言いかけた気がした。「また」という音が、唇の形だけ動いて、消えた。

    「……会えたらいいよね」

     優しい言葉だった。でも、約束とは少しだけ違っていた。

     「そうね」と言おうとした。でも声にならなかった。代わりに、ポケットの中の封筒に触れた。指先が、紙の角に当たった。

    「……これ」

     取り出すと、指先が少し震えていた。
    「渡せなくてもいいって思ってたんだけど」

     世那が封筒を受け取った。
    「読んでいい?」
    「はい」

     世那は封筒を開けて、便箋を広げた。短い文章だった。それでも世那はしばらく、その一文を見つめていた。

     やがて、小さく微笑んだ。

    「ずるいな」

    「……?」

    「先に、言われた」

     世那は便箋を丁寧に折って、封筒に戻した。それから、前を向いたまま言った。

    「俺も同じだ。遥を想って痛くなる時間ごと、愛おしい」

     「遥」と呼ばれた。
     「さん」がなかった。それだけのことなのに、胸の奥で何かが静かに解けた気がした。

     私はまっすぐに世那を見た。

    「会えなくなるかもしれない未来ごと、あなたが大事なの」
     思ったより、声は落ち着いていた。

    「怖い。とても怖いけど、それでも」
     世那は何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。

     確実な約束はなかった。「また会おう」も、「待ってる」も、なかった。それでよかった。
     あてのない口約束より、この沈黙のほうが、ずっと真実だった。
     離れても、どこにいようと想うことはやめない。好きだと思う前に心の中にいる、そんな人が世那だった。

     風がまた来た。今度は、さっきよりも少しだけ温かかい。
     季節がゆっくりと、だけど確実に動こうとしている夜だった。

    __
    #創作大賞2026 #恋愛小説部門
    ▶ 次の話はこちら

    ◀︎ 前の話はこちら

     
     
    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

    あなたへのおすすめ