
愛おしいと呼ぶ前に④
第4話 離れそうになる心
エレベーターのボタンを押してから、扉が開くまでの数秒が、妙に長く感じることがある。
その日の昼過ぎ、私はいつものようにエレベーター前で待っていた。ロビーはちょうど人の少ない時間帯で、足音もなく、空調の音だけが低く流れていた。
扉が開く直前に、後ろから声がかかった。
「佐伯さん、ちょっといいですか」
振り返ると、世那が立っていた。いつもより、少し表情が硬い。
「伝えたいことがあって」
エレベーターの扉が開いて、また閉じた。私たちはそのまま乗らなかった。
「うちの事務所、東京に拠点を出すって話があって」
世那は少し間を置いてから、続けた。
「そこに、行かないかって言われてる」
一秒か、二秒か。
「……すごい。大抜擢じゃない」
声は、思ったより自然に出た。
「そうなのかな」
「絶対そうだよ。世那さんなら、やれると思うわ」
世那は小さく笑った。どこか照れたような、それでいて何かを確かめるような顔だった。
私はその顔を見ながら、胸の奥に何かが沈んでいくのを感じていた。言葉にする前に、もう沈んでいた気がした。
エレベーターがまた来て、今度は私たちは乗り込んだ。扉が閉まる。それぞれ別のフロアのボタンを押す。短い時間、どちらも何も言わなかった。
世那が先に降りた。
扉が閉まってから、私は一人でもう少しだけ上へ運ばれた。
佳奈とは、駅近くの居酒屋で会った。金曜の夜、カウンター席は埋まっていて、私たちは奥のテーブルに案内された。
とりあえず生ビールを頼んで、他愛のない話をいくつかしてから、佳奈が言った。
「で、その人、遠く行っちゃうかもなんだ」
「うん。でも、仕事だし。応援するしかないよね」
「『しかない』って言ってる時点で、応援する気ゼロじゃん」
ビールのグラスをそっと置いた。
「そんなことないよ。ただ……会えなくなったら、さみしくなるけど、それなら、これ以上近づかない方がいいかなって」
「ほら出た」と佳奈は言った。「痛くなる前にブレーキ踏むやつ」
「だって、痛いのは嫌だよ」
佳奈はしばらく私を見ていた。責めているわけじゃない目で。それでも、何かを見透かしているような目で。
「じゃあさ」
グラスを両手で包みながら、佳奈は言った。
「痛くても、それも丸ごと受けとめて、愛おしいって思えるくらい、ちゃんと誰かを愛せたこと、ある?」
答えられなかった。
口を開きかけて、閉じた。何かが喉のあたりで止まって、うまく言葉にならなかった。
うつむくと、テーブルの木目が見えた。傷のひとつひとつが、妙にはっきりしていた。
佳奈はそれ以上、何も言わなかった。ただ一緒にビールを飲んだ。それだけだったけど、その沈黙が、何よりも雄弁だった。
駅に向かいながら、スマートフォンを取り出した。
世那とのトーク画面を開く。最後のやりとりは三日前だった。途切れそうで途切れない会話で、世那からの「おやすみ」で終わっている。私はそれに短く返して、そのままになっていた。
新しいメッセージはなかった。
そうだよな、と思った。何かを期待していたわけじゃない。ただ、確かめただけだ。そう自分に言い聞かせて、画面を閉じた。
改札を通って、ホームに降りる。電車を待ちながら、もう一度だけ画面を開いた。やはり何も変わっていない。当たり前だ。
佳奈の声が頭の中で繰り返された。
「痛くても、それも丸ごと受けとめて、愛おしいって思えるくらい」
私はその言葉を、ちゃんと受け取れていなかった気がした。受け取る前に、どこかへ流してしまっていた。
電車が来た。乗り込んで、窓際に立った。スマートフォンをポケットにしまった。今度は開かなかった。
帰りの電車の中で、窓ガラスにおでこをつけた。目を閉じると、電車の揺れだけが伝わってきた。
痛くても、それも丸ごと受けとめて、愛おしいってほど。
言葉を咀嚼し反芻した。私にそれができるのか、できないのか、まだわからなかった。ただ、できていないことだけは、確かだった。
数日後、昼休みにベンチへ行くと、世那がすでに座っていた。
そっと隣に座ると、世那はスマートフォンをポケットにしまって、少し前を向いたまま言った。
「もし行ったら、多分、一年くらいは戻ってこれないと思うんだ」
風が少し吹いた。サワサワ、サワ……と、木の葉が揺れた。
「……それだけなんだけどね」
世那の声は静かだった。ただ伝えたかった、というだけの声だった。
風は花粉を運び、桜の花びらがふわりと舞い降りた。世那はベンチの少し前を向いたまま、特に何かを待っているわけでもなさそうだった。
だからこそ、返せなかった。
何か言うべき雰囲気ではなかった。でも何も言わなくていいわけでもなかった。その境界に、私は立っていた。
返せばよかった。すぐに。「そうなんだね」でも「うん」でも。でも0.5秒が過ぎた。その0.5秒で、何かを一滴とりこぼした。それが何なのか、うまく説明できない。ただ、返すタイミングを、すでにとりにがしていた。
そのことに気づいた瞬間、余計に言葉が出なくなった。
世那はこちらを見ていなかった。見ていないけれど、完全に切れてもいない。ただ、傍らに座っている、というだけの曖昧な距離がまだそこにあった。声を出せば届く。たったそれだけのことだ。私は続く言葉を探していた。
息を吸った。言葉が来る前に、指先がぎこちなく泳いだ。呼び止めようとした呼吸だけがあった。
「行かないで」という言葉が、浮かんだ。たぶん、本音だった。でも言えなかった。言えば彼を困らせるだけだとわかっていた。すがれるような女ではない。だから、その言葉は飲み込んだ。
「頑張って」も浮かんだ。でもその言葉で彼の背中を押すくらいなら、黙っている方がまだマシだった。
「待ってても……」と言いかけて、止めた。そう言えるほど健気な女でもない。かといって、彼の胸にとびこんで気持ちを打ち明けられるほどの、情熱も勇気もなかった。「待っている」と言えば、私たちの関係が何なのかを言葉で決めることになる、その怖さが先に来た。怖い、という自覚が来た瞬間、その言葉も落ちていった。
いったい、私はなんて言ったらいいのか。
何か言う言葉を探せば探すほど、どれも喉元の手前で止まった。ひとつずつ、形にならないまま、浮かんでは消えた。
世那が、少し髪をかきあげた。前を向いたまま、視線だけが微妙に外れた。何かを見たわけじゃない。ただ、気配が少し動いた。
そのとき気づいた。
世那は待っていなかった。責めているわけじゃない。ただ、返事を求めていなかった。言ってもいい、言わなくてもいい、そんな空気がそこにあった。それが優しさなのか、それとも別の何かなのか、私にはわからなかった。
その空気の中で、喉から出かかった私の言葉は静かに飲み込まれた。
あゝ、もう無理だ、と思った。
無理、というより、なんて言ったらいいのかわからない、という感覚だった。言葉にする勇気が、たちまち萎んでいった。口にすれば、壊れそうで。世那はなんと言うだろう。声にならない溜め息だけがこぼれた。
やっと出てきたのは、強がりな言葉だった。
「……私なら、だいじょうぶです」
「大丈夫?」
「誰かがいなくなるのには、もう慣れてしまったので」
世那が、少し眉をひそめた。
その表情から私は目をそらし、揃えた自分の膝の上に視線を落としていた。
——あの夜も、名前は呼ばれなかった。
居酒屋の帰りだった。並んで歩いていた。彼が何か話していて、私も笑っていた。ふと、呼ばれそうな間があった。名前を言いかけるような、あの一瞬の吸気。でも言葉は別の方向へ流れて、私の名前は出てこなかった。そのとき私は何も言わなかった。何も言えなかった。ただ隣を歩き続けた。
記憶はとぎれとぎれにに浮かんでは、すぐに消えた。元彼の笑っていた顔。いつも通りだった夜。気づいていたのに、何も言えなかった自分。
昼休みのざわめきが、少しずつ遠のいていくのが分かった。
私は弁当箱を巾着袋にしまい、世那は最後のひと口分のコーヒーを紙コップごと握りしめる。
腰を預けていたベンチの冷たさが、ゆっくりと太ももから離れていく。
両手をベンチのふちについて、ひと呼吸おき、上体を前に倒す。スーツの生地が、しゃり、とわずかに音を立てる。
立ち上がろうとしたとき、膝の裏にたまっていた血が一気に流れ出すような、軽いめまいがした。
足の裏がコンクリートを踏みしめる感触を確かめるように、体重を左右に移し替える。
ベンチの背もたれに、さっと影が伸びては消える。ビル風が世那のネクタイの先を揺らし、ワイシャツの袖口にひんやりとした空気が入り込んでいく。
腕時計に視線を落とす。秒針が一つ々進む音を聞いた気がして、自然と背筋が伸びる。ポケットの中で、社員証のプラスチックがかすかに触れ合う。
ベンチから離れると、さっきまでの柔らい時間が背中のほうへ遠ざかっていった。
「お先に失礼します」と言おうとして、一瞬止まった。事務的な気がしたから。でも他に思いつかなかった。
「……お先に失礼します」
「あ、はい」
世那の声は、穏やかだった。軽い、というわけじゃない。でも呆気なかった。ただ、いつも通りの喋りすぎないひとだった。その彼らしさが、よりいっそう私の胸をせつなくさせた。
世那が「じゃあ、また」と言った。
「また」
その言葉が、心の中でこだました。「また」というのはいつになるだろう。来週か、それとも——。東京に行ってからも、「また」があるならいいのだけれど。
たよりなかった。このまま消えてしまいそうで。
世那も立ち上がって歩き出していた。
背中が遠ざかっていく。ゆっくりではなかった。走っているわけでもなかった。ただ、いつものように歩いていった。
呼べば届く距離だ。
名前を呼べば、振り返るだろう。それだけのことだ。一歩踏み出せばいい。声を出せばいい。でも声にならなかった。呼べなかった、というより、ためらった。引き止める理由などなかった。呼び止めて、それからいったい、どうする。その先がわからない。
世那の、もの言わぬ背中が角を曲がる手前まで来た。
「今だ!」と心が叫んだ。
それなのに声は出なかった。
角を曲がって、見えなくなった。
私はそのまま、しばらくベンチを背にして立っていた。座り直す気にもなれなかった。かといって、すぐに歩き出す気にもなれなかった。ただ、世那が見えなくなった方向を、黙って見ていた。
風が来た。少し肌寒く感じて見上げると、さっきより雲が増えていた。立ち止まったままの私を追い越して西へ流れていく。雨になる空気の匂いがした。
あのとき、もっとうまい見送り方があったかもしれない。追いかければもしかして、引きとめられたかもしれない。でも、もう過ぎたことだ。そう思いながら、最後まで戸惑っていた。
オフィスに向けて、一歩、また一歩と、歩き出した。
歩きながら、私の弱気が耳元で囁いた。
この人も、いつかいなくなる。だったら、今のうちに離れておいたほうがラクだ。これ以上好きにならないほうが安全だ。
胸を焦がし、心がちぎれることがないように。忘れられなくなる。眠れなくなる。決してそんなことのないように。
そう思いながら、それでも、と思った。
雨が降り出したのは、ビルに戻った直後だった。窓から覗いたベンチは、さっきまで二人で座っていたのに、もう誰もいない顔をしていた。ペンキが少しはげた端の部分が、なぜかやけにはっきり見えた。アスファルトに雨粒が浮いて、光を弾いていた。
涙みたいだ、と思った。
でも私は泣いていなかった。
泣くもんか。
泣いてしまったら、溢れかけているこの気持ちを、もう抑えきれなくなる気がして。
その夜、家に着いたのは八時を少し過ぎたころだった。
鍵を開けて、ドアを押す。玄関の空気が、外の湿った匂いをまだ少し含んでいた。ドアを閉めると、外の音がふっと途切れた。その静けさの中に、しばらく立っていた。それから靴を脱いだ。
もう片方も脱いで、揃える。明かりをつけると、部屋がいつも通りの形で現れた。どこかだけ、うまく重ならなかった。
バッグをいつもの場所に置こうとして、やめた。椅子の背にかけようとして、それもやめた。結局、床に置いたままにした。コートをフックに掛けると、金具が小さな音を立てた。その音だけが、部屋に残った。
ひとまずソファに腰を下ろし、しばらくクッションにもたれかかっていた。テレビを見るでもなく、ただ、そこにそうしていた。まるで、遠くから旅をして来た人みたいだった。
キッチンで水を一口飲んだ。冷蔵庫を開けて、昨日の残りを温める。椅子に座って、半分ほど食べたところで箸を置いた。残りはそのままにした。湯気はもう出ていない。皿の上で、少しずつ冷めていった。
スマートフォンを取り出した。世那とのトーク画面を開こうとして、やめた。新しいメッセージがないことはわかっていた。わかっているのに、開こうとした。それに気づいて、画面を伏せた。
ソファに戻る。今度は座らなかった。自分がさっきまで座っていた形に窪んだクッションを、しばらく見ていた。手を伸ばしかけて、止めた。結局、そのままにした。
言葉は、あとから来る。来たときには、もう遅い。
窓の外で、風が木を揺らす音がした。一度だけ、強く。それからまた、静かになった。雨はもう止んでいるらしかった。カーテンの向こうで、車のライトが光った。
世那の「じゃあ、また」という声が、またどこかから戻ってきた。優しい声だった。でも、あの言葉と、私が飲み込んだものの間には、はかりしれない何かがある気がした。
グラスの水を全部飲んだ。冷たくなかった。口の中に、水の感触だけがしばらく残った。グラスをテーブルに置く。底が天板に当たる、小さな音がした。それでも、胸のどこかがまだ渇いていた。
寝室に入り、明かりを落とした。スタンドライトだけを点けて、ベッドの端に腰を下ろす。シーツに手のひらを滑らせる。皺が一本、うまく伸びなかった。
寝るにはまだ早い時間だったけれど、このまま起きていてもどうしようもなかった。明日になれば、またいつもの私が目を覚ますだろう。
横になって、毛布を肩まで引き上げた。スタンドライトを消す。暗くなった部屋の中で、目を閉じた。
眠い。だけど眠れるかどうかはわからない。ただ、このまま目を閉じていたかった。この夜をやり過ごすだけでいい、と思った。
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