
葡萄樹の娘⑥
第6話(最終話) 葡萄樹の娘の歌
街は、いつも通りだった。
鐘が鳴り、人が動き、教会の扉が開いた。ミサは続いた。聖歌は続いた。老司祭の席だけが空いて、それも少しずつ、日常の中に溶けていった。
老司祭は不慮の事故で亡くなった——その物語を、街は静かに信じ始めていた。
誰かが疑っているかどうか、エミリアにはわからなかった。わからないまま、日々は続いた。
嘘ではない物語が、本当の物語の上に、静かに積もっていく。雪のように。足跡を消すように。
エミリアには、止めるすべもなかった。
風が、畝った。
葡萄棚の枝が、揺れる音がした。
エミリアは、その音を、いつもより長く聞いていた。
エミリアは、この街の内側に立っていた。
完全には、受け入れられていない。住人たちの視線が、少しだけ遠いことは、変わらなかった。
でも、離れなかった。
境界に立ち続けることを——いつからか、選んでいた。選んだと気づいたのは、ずっと後になってからだったけれど。
青年は、まだ教会にいた。
去ると言っていたのに——あるいは、まだ去れないでいるのか。エミリアには、わからなかった。
ただ、以前と一つだけ違うことがあった。
祈るとき、青年はもう誰かの言葉を使わなかった。口を動かさず、目を閉じて、ただそこにいた。膝をついて、手を組んで、長い時間をそこで過ごした。
それが祈りかどうか——エミリアには知る由もなかった。
でも、そう見えた。
あの夜、青年が何を思っていたか、エミリアにはわからなかった。でも、蝋燭台を磨く手の動きを思い返すたびに、なんとなく、わかる気がした。気がした、というだけだった。
嫌いではなかったのだ、と、そう思う。
嫌いなら——あれほど長く、話さなかったはずだ。
青年は今日も、同じ場所にいるだろう。
膝をついて、目を閉じて、誰かの言葉ではない何かと向き合っている。それが何なのか、エミリアには知る由もなかった。
でも——向き合っている、ということだけは、わかった。
逃げていない。去っていない。まだここにいて、何かと向き合っている。
それで十分なのかもしれない、とエミリアは思った。十分かどうか、誰かが決めることではない。ただ——向き合っている人間の姿は、そういう空気を持っている。
エミリアはそれを、遠くから見ていた。
近づかなかった。
近づかなくても、わかることがあった。
——記録——
私はあの人が善い人だったかどうか、今もわからない。
善い人が嘘をつかないとは、誰も言っていない。嘘をついた人が、誰かを守れないとも、言っていない。
あの人は私を、この街に置いた。理由は、最後まで言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか。その違いを、私はもう問わないことにした。
どちらであっても——置かれた、という事実は変わらない。
あの人が何を知っていたのか、今となってはわからない。
奇跡は、起きるものだと——どこかで読んだ気がする。
起こすものではない、と。
あの葡萄酒が何だったのか、私にはわからない。
でも——あの夜、誰かが祈っていたことは、本当だった。
祈っていたことだけは、誰も消せなかった。
私の名前を、どこかで見たのかもしれない。消された記録の中で。あるいは——最初から知っていて、それでもこの街に置いたのかもしれない。
知っていて、置いた。
知らずに、置いた。
どちらであっても、置かれた事実は変わらない。でも——その二つは、私の中では同じではない。
同じではない、と気づいたとき、少しだけ泣きたくなった。
泣かなかった。
泣く代わりに、ここに書いた。
ペンを持つ手が、少しだけ震えた。
気づいたのは、最初の一文字を書いてからだった。
震えていた、ということは——怖かったのだと思う。
何が怖かったのか、今もはっきりとは言えない。
書くことが怖かったのか。
書いたものが残ることが怖かったのか。
それとも——書いても、何も変わらないことが怖かったのか。
どれも、正しい気がした。
どれも、少し違う気もした。
震えたまま、書いた。
震えが止まるのを待たなかった。
それで十分だと、今は思っている。
十分だと思うことにした——
と言う方が正確かもしれない。
でも、その違いも。
もう、問わないことにした。
雪解けの朝だった。
霧はまだ薄く残っていたが、光が違った。冬の光ではなかった。何かが変わろうとしている、その手前の光だった。
教会の裏庭で、子どもたちが歌っていた。
葡萄樹の娘の歌を——第一節から、最後まで。
エミリアは葡萄棚の傍に立って、聞いていた。歌いはしなかった。ただ、聞いた。
子どもたちは意味を知らない。でも歌は続く。知らない口から、知らない声で、続いていく。
声が、少しずつ重なっていった。
最初は一人だった。それに別の声が加わって、また別の声が加わった。音程が少しずれても、誰も気にしなかった。子どもたちは気にしなかった。ただ歌っていた。
途中で一人が歌詞を忘れた。声が小さくなって、消えた。でも他の声が続いた。しばらくして、また戻ってきた。どこかで拾い直したように、また歌い始めた。
完全ではなかった。
でも、続いていた。
遠くで、誰かの生活音がした。桶の音か、扉の音か。それが歌の間に混ざって、また消えた。歌だけが残った。
エミリアは、いつのまにか、聴いているのかただそこにいるのか、わからなくなっていた。
耳が歌を追っているのか。
歌がエミリアを包んでいるのか。
区別が、どこかで溶けた。
風が来た。葡萄棚の枝が揺れた。歌は続いた。
それでいい、とエミリアは思った。
意味を知らずに歌える間は——この街は、まだ何かを持っている。
葡萄棚の根元に、小さな芽があった。
雪の下から、ほんの少しだけ、顔を出していた。
枯れていなかった。
冬のあいだ、ずっと生きていた。
エミリアはしばらく、その芽を見ていた。それから、部屋へ戻った。
部屋は、静かだった。
窓の外で、風が動いていた。葡萄棚の枝が揺れる音が、かすかに届いた。それだけだった。鐘は鳴っていなかった。人の声もなかった。
エミリアは机の前に座った。
帳面を、手元に引き寄せた。革の表紙は、冷たかった。いつ触れても、冷たい。石の部屋の空気が染みているのか、それともこの帳面自体が、そういう温度を持っているのか。
わからなかった。
窓から、光が斜めに入っていた。雪解けの朝の光は、冬のそれより少しだけ柔らかかった。白というより、薄い金色。その光が、机の端を照らしていた。
帳面の表紙にも、少しだけ当たっていた。
消された文字の痕跡が、またうっすらと浮かんだ。第四章で見たあの角度と、似た光だった。
エミリアは、今度は目を逸らさなかった。
見た。ただ、見た。
それから、帳面を開いた。
——記録——
この街の真実は、誰にも語られない。
語られなかったことと、なかったことは、違う。
起きたことは、起きた。言葉にされなくても、記録されなくても、誰かの胸の中で石のように沈んでいても——起きたことは、起きた。
私はそれを、ここに書く。
誰かに読ませるためではない。語るためでもない。
ただ——消えないために。
けれど——消えもしない。
*エミリア・記*
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