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葡萄樹の娘③

    第三話 奇跡の値段

     老司祭の私室は、人が去った後も、その人の温度を持っていた。
     エミリアが片付けを頼まれたのは、死の翌々日だった。誰もやりたがらなかったから、という理由を、頼んだ人は言わなかった。ただ「お願いできますか」と言った。エミリアは頷いた。断る言葉が、出なかった。
     部屋は質素だった。石の壁、木の机、古い燭台。蔵書は多かったが、乱れてはいなかった。長年かけて積まれた秩序が、そこにあった。

     本棚の背表紙を、指でなぞった。
     神学書、典礼の手引き、古い地図帳。どれも使い込まれていた。背表紙の色が褪せて、角が丸くなっていた。何度も手に取られた本の、その痕跡。
     一冊だけ、他より新しい本があった。
     背表紙に題名はなかった。エミリアは手を伸ばしかけて——やめた。今日は、棚の整理までだ。引き出しの中から始める、と自分に言い聞かせた。
     でも、その本の場所だけは、覚えた。
     左から三番目の棚の、端から二冊目。
     覚えておく必要があるかどうか、わからなかった。ただ、覚えた。

     引き出しを開けたのは、整理のためだった。
     奥に、小瓶があった。
     葡萄酒だと思った。色も、形も、そういう小瓶だった。でも栓を抜いたわけでもないのに、何かが鼻の奥に触れた。葡萄の甘さの、その向こうにある何か。発酵より深い、もっと人工的な——

     喉の奥が、わずかに乾いた。
     エミリアは小瓶を戻した。
     戻す前に、手が一瞬、止まった。
     なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。だから理由を考えるのをやめて、引き出しを閉めた。
     机の上の帳面に、目が行った。古い革の表紙。手に取ると、ずっしりと重かった。表紙に、何か書かれていた痕跡があった——正確には、書かれていたものが消された痕跡。こすった跡が、革の繊維を毛羽立てていた。
     エミリアは帳面を開かなかった。
     開けなかった、というより——開いてはいけない気がした。今は、まだ。
     帳面を机の端に置いて、エミリアは片付けを続けた。

    窓の外で、鐘が鳴った。
     一度だけ。
     何を告げる鐘なのか、エミリアにはわからなかった。
     ただ、鳴った。

     教会の外へ出たのは、昼を過ぎた頃だった。
     市場の端を通るとき、声が聞こえた。立ち止まるつもりはなかった。でも、言葉が耳に引っかかった。
     「——あの奇跡の夜に、うちの子は熱を出していた」
     女の声だった。誰に話しかけているのか、エミリアの位置からは見えなかった。
     「でも私たちは教会に来ていたから——」
     そこで声が途切れた。
     別の誰かが、話題を変えた。笑い声が起きて、それで終わった。
     エミリアは歩き続けた。
     でも「来ていたから」の先に続くはずだった言葉が、ずっと耳の中に残った。言われなかった言葉の形が、霧の中の輪郭みたいに、そこにあった。
     誰かの家族が、その夜、熱を出していた。
     誰かはその夜、教会にいた。
     奇跡を見るために。
    別の声も、聞こえた気がした。
     気がした、というだけだ。実際に聞こえたのか、記憶の中で混ざったのか、エミリアには判断できなかった。

     「あの夜から、夫が変わった」と言った人がいた。
     「信じた分だけ、裏切られた気がする」と言った人がいた。
     「でも——信じなければよかったとも、思えない」と言った人がいた。
     どれも、断片だった。いつ聞いたのか、誰が言ったのか、はっきりしない。市場で、廊下で、あるいは礼拝のあとで——この街のどこかで、誰かが言っていた言葉が、エミリアの中に沈んでいた。
     沈んだまま、今日まで意味を持たなかった言葉が、この朝になって、急に輪郭を持ち始めていた。
     それ以上は、エミリアには辿れなかった。
     辿れなかったけれど——小瓶の匂いの記憶が、静かにそこへ近づいていた。

     教会へ戻る道で、エミリアは少し遠回りをした。
     なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。ただ、まっすぐ戻る気になれなかった。
     石畳の路地を歩きながら、エミリアはこの街のことを考えた。ヴラネツに戻ってきてから、まだ一年も経っていない。修道院で過ごした年月の方が、この街にいた時間より長い。それでもここを「帰る場所」と呼ぶのは——呼んでいいのかどうか、今もわからないまま、呼んでいる。
     角を曲がったとき、老婆が二人、低い声で話しているのが聞こえた。
     「あの奇跡のあと、うちの夫は変わった」
     一人が言った。エミリアは足を緩めた。
     「信じすぎてしまったのね。あの葡萄酒を。もう教会なしでは何も決められなくなって——」
     「わかる。うちも同じ。子どもが熱を出しても、まず祈りに行って。薬は後でいいって」
     声が、少し沈んだ。
     「奇跡があったから、全部主がなさることだと思うようになった。人間が手を動かさなくていい、みたいに」
     もう一人が、何か言った。でも風が来て、言葉が散った。
     エミリアは歩き続けた。
     奇跡が人を救う。その言葉を、修道院でも何度も聞いた。信仰が力を与える。祈りが道を開く。そういう言葉を、エミリアは疑ったことがなかった——少なくとも、疑おうとしたことがなかった。
     でも今、石畳の上で、老婆たちの声の残滓の中に立って、エミリアは初めてこう思った。
     救われた人と、救われなかった人が、同じ奇跡の夜にいた。
     その二つが、なぜ起きたのか。
     誰も、説明しなかった。説明しようとした人が、いたのかどうかも、わからなかった。
     小瓶の匂いが、また鼻の奥に触れた気がした。

     教会へ戻ると、人が少なくなっていた。
     薄暗い廊下の先から、小さな声が聞こえた。
     誰かが歌いかけていた。
     第二節の、最初の一行だけ。
     「ぶどう酒注がれ——」
     そこで止まった。
     続きを、その人は知っているはずだった。
     誰もが知っている歌だから。
     でも止まった。
     声の主は、中年の女だった。名前は知っていたが、親しくはない。その女が、手の中の何かを——硬いもの、冷たいもの——少し強く、握り直した。
     なぜ止めたのか、エミリアには聞けなかった。
     聞いたとして、答えてもらえる気がしなかった。
     それよりも——「ぶどう酒注がれ」という言葉が、引き出しの奥の匂いと、静かに触れた。
     気のせいかもしれない、とエミリアは思った。
     でも、触れた感触だけは残った。

     蝋燭台を磨いているのを、エミリアは見た。
     誰もいない時間の、祭壇の脇。助祭見習いの青年が、ひとつずつ、丁寧に磨いていた。誰かに頼まれた様子ではなかった。ただやっていた。
     エミリアはしばらく、そこから動けなかった。
     教会で見た青年は、壁際に動かない人間だった。今日の青年は、動いていた。静かに、でも確かに手を動かしていた。
     何かが、前回と違った。
     違いが何なのか、言葉にしようとすると、するりと逃げた。
     彼はあの人を、嫌いではなかったのかもしれない——とエミリアはふと思った。
     気のせいかもしれない。
     でも、嫌いなら、あれほど長く話さなかった。嫌いなら、名前を呼ばれたとき、あんなふうに一拍だけ止まらなかった、気がする。
     なぜそう思うのか、エミリアにはわからなかった。
     見ていない場面を、なぜか知っている気がした。
     ——気がした、というだけだった。
     青年は蝋燭台を磨き続けた。エミリアが立っていることに、気づいているのかいないのか。
     エミリアはそのまま、声をかけずに行った。
     廊下を歩きながら、エミリアは考えた。
     青年が何をしたのか——正確には、何をしたと疑われているのか。鍵を持っていた。口論をした。それだけだ。それだけで、人は疑われる。
     疑うことは、正しいのか。
     正しい、と思う。疑わなければ、真実には近づけない。でも——疑うたびに、蝋燭台を磨く手が、頭の中に浮かんだ。丁寧に、ひとつずつ。誰にも頼まれていないのに。
     その手を持つ人間を、疑っていい。
     そう思うたびに、どこかが、痛かった。
     痛い、という感覚が——正しいのか、間違っているのか。エミリアにはわからなかった。
     ただ、疑うことと、痛むことが、同時に起きていた。
     その二つが同時に起きるとき、人はどうすればいいのか。
     答えは、出なかった。
     廊下の先に、窓があった。外はもう、暗くなり始めていた。

     夜、眠れなかった。
     小瓶。消された文字。途切れた声。握り直した手。蝋燭台を磨く青年。
     断片が、繋がらない。繋げようとするたびに、ひとつだけ形が合わない何かが残った。
     老司祭のことを、エミリアは善い人だと思っていた。
     今もそう思っているか、と問われたら——答えに、時間がかかった。
     善い人が嘘をつかないとは、誰も言っていない。
     そのことに気づいたのが、今夜が初めてだったことを、エミリアは少し恥じた。それから、恥じていることも、どこかおかしいと思った。知らなかっただけだ。ただ、知らなかった。
     でも——どこかで、気づけた気もした。
     その先を、エミリアは考えるのをやめた。
     蝋燭を吹き消した。
     暗闇の中で、「ぶどう酒注がれ」という旋律が、また口の奥に浮かんだ。
     エミリアはそれを、今夜は最後まで歌わなかった。

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    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

     
     
    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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