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葡萄樹の娘④

    第四話 外の血

     葬儀は、三日後だ。
     誰かがそう言っているのを、エミリアは廊下の端で聞いた。それまでに部屋を整える、とも言っていた。整える、という言葉が、エミリアの中で、別の言葉に変わった。
     ——インクが、消える。

    廊下の突き当たりで、誰かがすれ違った。

     名前も知らない信徒だった。
     会釈だけして、通り過ぎた。
     その人も、何も言わなかった。

     何がそう思わせたのか、自分でもわからなかった。ただその言葉が来て、それから、机の端に置いた帳面の表紙が、頭の中に浮かんだ。

     男が来たのは、その日の午後だった。
     教会の古参信徒で、老司祭とは長い付き合いだったと聞いていた。白髪で、背筋が真っ直ぐで、声に迷いのない人だった。
     「司祭様は、この街のために生きた方でした」
     男は言った。
     「あの方の部屋のものは、私たちが責任を持って片付けます。もうエミリアさんが負担しなくてもよくなります」
     間違っていなかった。
     一言も、間違っていなかった。
     だから、何も言えなかった。エミリアは頷いた。ありがとうございます、と言った。男は満足そうに、でも押しつけがましくなく、去っていった。
     廊下の足音が遠ざかった。
     エミリアはその場に立ったまま、自分の呼吸が、少しだけ浅いことに気づいた。
     足が、動かなかった。
     なぜ動かないのか、考えようとした。考えるより先に、身体が答えを持っていた。でもその答えを、言葉にする方法が、エミリアにはなかった。

     誰もいない時間を、エミリアは選んだ。
     夕方の、鐘の後。人が食事に散る、十数分の隙間。自分が何をしようとしているか、考えないようにしながら、廊下を歩いた。考えてしまうと、足が止まる気がした。
     老司祭の部屋の扉の前に立ったとき、来てしまった、と思った。
     来るつもりはなかったのに——いや、来るつもりだったのかもしれない。ずっと前から。あのとき小瓶を戻した瞬間から。あるいはもっと前から、霧の中で影を見たあの朝から。
     扉を開けた。
     部屋は、昨日と同じだった。誰かが入った形跡はなかった。机の端に、帳面はまだあった。

     部屋に入ってから、エミリアはすぐには机に近づかなかった。
     まず窓を見た。外は夕暮れの途中で、光がまだ残っていた。葡萄棚の枝が、風に揺れているのが見えた。
     それから燭台を見た。蜜蝋が半分ほど残っていた。
     それから扉を見た。閉まっていた。
     机を、最後に見た。
     帳面は、あった。
     エミリアは、自分がなぜこんなに時間をかけているのかわかっていた。近づけば、手を伸ばすことになる。手を伸ばせば、開くか開かないかを選ぶことになる。選ぶということは——どちらを選んでも、その先へ進むということだ。
     引き返せるのは、今だけだった。
     扉はまだ、後ろにある。
     エミリアは一歩、机へ近づいた。
     石の床が、低く軋んだ。こんな音がしたのか、と思った。いつもこんな音がしていたのか。気づかなかっただけなのか。
     もう一歩。

     足が、また止まった。
     止まるつもりはなかった。でも止まった。身体が、頭より先に決めていた。
     窓の外を、もう一度見た。葡萄棚の枝は、さっきと同じように揺れていた。何も変わっていなかった。当たり前だった。ほんの数秒しか経っていない。
     でも——部屋の中の空気が、少し変わった気がした。
     エミリアが一歩踏み込んだことで、何かが変わったのか。それとも、気のせいなのか。
     石の壁は、何も言わなかった。
     燭台の蜜蝋が、わずかに揺れた。風はない。
    エミリアは、自分の呼吸のせいだと思った。
     エミリアは、もう一度、机へ向かった。

     帳面の表紙が、近くなった。革の色が、夕暮れの光の中で少し赤みを帯びて見えた。古い革の、使い込まれた色。何年分の手の脂が、この表紙に染みているのか。
     老司祭の手が、毎日触れていた表紙。

     ふと、机の上の配置が気になった。
     帳面の左隣に、羽根ペンが一本置かれていた。インク壺は、その右側。
     おかしい、と思った。
     右利きの人間なら、ペンは右側に置く。インク壺も右側に。左側に置くのは——左利きか、あるいは、誰かが後から動かしたか。
     老司祭が左利きだったかどうか、エミリアは知らなかった。
     知らなかった、というだけのことかもしれない。
     でも——羽根ペンの先が、インク壺の方ではなく、扉の方を向いていた。まるで、何かを示すように。
     示すように見えた、というだけだった。
     羽根ペンは、ただそこに置かれていただけだ。向きに意味はない。誰かが何かを示そうとしたわけではない。
     そう思った。
     でも、目が離せなかった。
     扉の方を向いた羽根ペンの先が、示している方向に——鐘楼があった。

     エミリアは、その事実の前で、また止まった。
     開けば——この人の時間に、踏み込む。

     エミリアは手を伸ばした。
     革の表紙は、冷たかった。重かった。昨日触れたときより、重い気がした——気がしただけかもしれない。
     表紙を、開こうとした。
     指が、止まった。
     廊下の足音が、遅れて届いた。呼吸だけが、やけに大きかった。ほんの一瞬が——伸びた。
     何が怖いのか、エミリアにはわからなかった。知ることが怖いのか。知った後が怖いのか。それとも——知っても、何も変わらないことが怖いのか。
     足音は、近づいた。
     エミリアは帳面を、元の場所に戻した。来なかったことにするように、素早く。扉が開く前に、窓の方へ移動した。
     足音は、通り過ぎた。
     誰も来なかった。
     部屋には、エミリアだけが残った。帳面は机の端にあった。さっきと同じ場所に、さっきと同じ向きで。
     もう一度、手を伸ばせばよかった。
     伸ばせなかった。
     遮ったのが何だったのか、エミリアはしばらく、窓の外を見ていた。雪が、また降り始めていた。

     信じたい、と思っていた。
     何を、とは言えなかった。青年の無実を、とも言い切れなかった。ただ——何かを、信じたかった。
     疑うことは、簡単だった。痕跡があった。時間があった。動機があった。それだけ揃えば、人は疑う。疑わない方がおかしい。
     でも——蝋燭台を磨く手を、エミリアは知っていた。「苦しまれましたか」と聞いた声を、知っていた。答えを待たずに去った背中を、知っていた。
     知っているものと、見えているものが、一致しなかった。
     一致しないとき、人はどちらを信じるべきなのか。
     見えているものか。
     知っているものか。
     雪が、窓を白く塗り始めていた。
     答えは、出なかった。出ないまま、エミリアは机の方へ、もう一度だけ目を向けた。

     帰り際に、もう一度だけ机を見た。
     帳面の表紙に、光が斜めに当たっていた。夕方の、低い光。その角度でだけ、消された文字の痕跡が、うっすらと浮かんだ。
     こすった跡の下に、名前らしき形があった。
     名字の部分が——見えた。
     エミリアは、自分の名字を思った。
     息が、止まった。
     一致するはずがない、と思った。
     ——少し遅れて。
     でも、すぐには目を離せなかった。
     光が、雲に遮られた。
     文字は、また消えた。
     エミリアは部屋を出た。扉を閉めた。廊下は薄暗かった。自分の足音が、石の床に吸われていった。

     教会の裏庭、葡萄棚の枝が、積もった雪の重さに耐えるように、少しだけ撓んでいた。
     枯れているのか生きているのか、外から見ただけではわからない。
     エミリアはその枝を、しばらく見ていた。
     あの朝も、こうして灰色の空へ向かって伸びていた。あのときは、まだ何も知らなかった。
     今も、何も知らない。
     でも——何かの手前にいる、その感触だけが、雪の冷たさと一緒に、肌に触れていた。
     葡萄棚の根元に、エミリアはゆっくりと視線を落とした。
     土は、雪に覆われていた。
     その下に何があるか、今は見えない。
     春になれば——と思いかけて、やめた。
     春のことを、まだ考えられない気がした。

     部屋へ戻る道で、エミリアは自分の名字を、もう一度だけ思った。

     教会の裏口を通り過ぎるとき、足が止まった。
     止まるつもりはなかった。でも止まった。
     裏口の脇に、古い石の腰掛けがあった。誰かがいつか置いたもので、今は誰も使っていない。雪が積もって、白くなっていた。
     エミリアはそこに、少しだけ座った。
     冷たかった。でも、立っているより、よかった。
     空は、まだ灰色だった。雪は降り続いていた。音はなかった。雪が落ちる音は、積もった雪が吸ってしまう。だからこの街の冬は、静かだ。静かすぎて——何かが聞こえそうな気がする。
     聞こえない何かが、聞こえそうな気がする。
     エミリアは、羽根ペンのことを考えた。帳面のことを考えた。名字の形のことを考えた。そして——青年のことを考えた。
     考えれば考えるほど、遠くなった。
     霧の中で何かを掴もうとするように、近づくほど散っていった。
     鐘が、遠くで鳴った。
     夕方の鐘だった。
     エミリアは立ち上がった。雪が、外套から落ちた。
     歩き始めた。答えのないまま、歩き始めた。

     声に出さなかった。頭の中で、静かに形を確かめるように。子どもの頃から持っていた名前。修道院でも、この街へ戻ってからも、ずっと同じ名前。
     誰かにつけてもらった名前だ、とは思っていた。でもそれ以上は、考えたことがなかった。名前とはそういうものだと思っていた。生まれたときに与えられて、死ぬまで持ち続ける。それだけのものだと。
     消された文字の中に、あの名前の形があった。
     一致するはずがない——そう思う。そう思いたい、とも思う。その二つが、今は区別できなかった。
     教会の裏庭を通り過ぎるとき、葡萄棚の枝が、また風に揺れた。
     根は、地面の中にある。雪に覆われて、今は見えない。でも根がなければ、枝は揺れない。風を受けられない。
     エミリアは立ち止まらなかった。
     ただ、横目で見ながら、通り過ぎた。


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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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