
葡萄樹の娘⑤
第五話 語るか、黙るか
「エミリアさんは、あの朝、鐘楼の方を見ていたと聞きました」
声は穏やかだった。敵意はなかった。それが、かえって重かった。
「見たことを、話してもらえますか。それがあの方のためになります」
あの方のため。
エミリアは、その言葉を口の中で繰り返した。間違っていない、と思った。この人は、間違ったことを言っていない。だから——
見た、と言えば、何かが動く。
言わなければ、何かが止まる。
どちらが正しいのか、その問いが、答えを飲み込んでいた。
「少し、考えさせてください」
エミリアはそう言った。男は頷いた。親切に、辛抱強く、頷いた。
教会の廊下で、別の声が来た。
「教会の名誉のために——」
その先は、言葉にならなかった。言葉にしなくても、意味は十分に伝わった。
エミリアは何も言わなかった。何も言えなかった、のとは、少し違う。言う言葉を、持っていなかった。
両側から、正しさが来ていた。
どちらも、間違っていなかった。
だからどちらにも、答えられなかった。
しばらく、廊下に立っていた。
左から来た声と、右から来た声が、
エミリアの中でまだ、どちらも鳴っていた。
祭具室の前に来たのは、夕方だった。
なぜここへ来たのか、エミリアは自分に問わなかった。問うと、引き返してしまう気がした。
鍵を、手の中に持っていた。冷たい鉄の感触。誰かが使い込んだ、微かに擦れた溝。この鍵がどこにあったか、誰が最後に触れたか——そういうことを、彼女はもう知っていた。
知った上で、それでも来てしまった。
蜜蝋の匂いが、扉の隙間から滲んでいた。
エミリアは鍵を握ったまま、動けなかった。
開けてしまえば、何かが始まる。
始まったものは、もう止められない。
それがわかっていて——それでも、ここまで来た。
——あの夜も、こんな温度だったはずだ。
記憶は、においから始まった。
エミリアは目を閉じた。
においの中に、立っていた。蜜蝋の、冷たい空気の、その奥に——声があった。まだ聞こえていない声が、聞こえてくる前の静けさの中に、すでにあった。
扉を開けなくても、わかっていた。
あの夜、この扉の向こうで何が起きたか。何が言われたか。何が言えなかったか。
それをエミリアは、誰かから聞いたわけではなかった。でも——知っていた。この街の石が知っているように、葡萄棚の根が知っているように、ただ知っていた。
目を開けた。
扉が閉まった音がした、と青年は後で言った。でも最初にそこへ来たのは自分だったと、青年は言わなかった。
どちらが先に口を開いたのか、エミリアには知る方法がない。ただ——どちらが先であっても、最初の言葉はもう、引き金ではなかった。引き金はずっと前から引かれていた。あの夜はただ、弾が出ただけだ。
「マテウシュさん」
老司祭が名前を呼んだ。助祭見習いの、洗礼名。教会の外では誰も呼ばない名前。
その呼び方が、すでに間違いだった。
老司祭は、気づいていなかったのかもしれない。
あるいは——気づいていて、それでも呼んだのかもしれない。
どちらだったのか、エミリアには知る由もなかった。でも、その呼び方が部屋の空気を変えた、ということだけは——回想の中でも、はっきりとわかった。名前一つで、空気は変わる。それが正しい呼び方であっても、間違った呼び方であっても。
呼ばれた側だけが知っている、その重さがあった。
青年は振り返らなかった。祭具の棚に向かったまま、背中だけで答えた。
「何の用ですか」
「話がある」
「聞きたくありません」
老司祭は構わず続けた。それが間違いの二つ目だった。
「明日のミサの朗読について——」
「関係ない」
青年が振り返った。エミリアの目には見えないはずの場面なのに、なぜか表情がわかる気がした。怒っていない。それが怖かった。怒りではなく——何か別のもの。折れる直前の枝の、あの静けさ。
「関係ない、とは」
「司祭様が私に話すことは、何も関係ない。もうずっと前から」
老司祭が一歩、入った。
「マテウシュ」
「その名前で呼ばないでください」
声が低くなった。抑えている。抑えているのが、かえって重かった。
「その名前で呼ぶ権利が、司祭様にはない」
「それは——」
「僕の弟は死にました」
沈黙。
エミリアは、息を止めていた。
気づいたのは、蜜蝋の火が揺れてからだった。
「僕の弟は死にました。あの奇跡の夜に。熱を出して、薬もなくて、でも親は教会に来ていた。奇跡を見るために。葡萄酒が聖なる血に変わるのを見るために」
青年は一歩、前に出た。
「あれは何でしたか」
老司祭は答えなかった。
沈黙が、続いた。
答えないことが、すべての答えだった。青年もそれを知っていた。知っていて、それでも聞いた。聞かずにいられなかったのか、聞くことで何かを確かめたかったのか。
老司祭の背中が、わずかに動いた。
息を吸ったのか、それとも——何か言いかけて、やめたのか。
青年は、その動きを見ていた。
エミリアには見えないはずの場面なのに、その「見ていた」という事実が、なぜかわかった。青年が老司祭の背中から目を離さなかった、ということが。
まだ、信じたかったのかもしれない。
何かを。誰かを。あるいは——自分が信じてきたものを。
「あの奇跡は、何でしたか。司祭様」
「それは……複雑な、経緯が」
「複雑」
青年が繰り返した。声に、初めて刃が混じった。
「弟が死んだことが複雑なんですか。それとも、あなたが嘘をついたことが複雑なんですか」
「嘘とは言い切れない。信仰の力というものは——」
「やめてください」
遮った。老司祭が口を閉じた。
「やめてください。そういう言葉を。ずっと聞かされてきた。信仰の力、主のご意志、試練と恵みは表裏一体——全部聞きました。全部信じようとした。でも」
青年の声が、微かに割れた。
一度、口を閉じた。
閉じてから、また開いた。言葉が出てくるまでに、少し時間がかかった。急いでいるのに、言葉だけが追いつかない——そういう間だった。
喉の奥で、何かが詰まっているように見えた。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。それより前にある何か。言葉になる前の、むき出しの何か。それが青年の喉のあたりで、形を探していた。
エミリアには、その形が見えた気がした。
——気がした、というだけだった。
「弟の顔を見たとき。冷たくなった顔を見たとき。私はそこで何を信じればよかったんですか」
答えられる言葉は、なかった。
それを老司祭はわかっていた。わかっていて、それでも口を開いた。それが三つ目の、最も大きな間違いだった。
「主は——」
「あなたの偽りの奇跡が、多くを壊した」
静寂。
蜜蝋の火が、また揺れた。今度は風のせいではなかった。
青年は自分が言った言葉を、一拍遅れて聞いた。その顔に、後悔が走った——でも取り消しは、しなかった。できなかったのか、しなかったのか。エミリアには、わからない。
部屋が、静かになった。
青年の言葉が、石の壁に染みていくような静けさだった。怒鳴った後の静けさではなかった。何かが——言葉という形をとって、空気の中に放たれた後の、静けさ。
老司祭は、動かなかった。
青年も、動かなかった。
二人の間に、言葉が浮いていた。「あなたの偽りの奇跡が、多くを壊した」——その言葉が、まだそこにあった。放たれた後も、消えずに。
エミリアは、その言葉が老司祭に届いた瞬間を、見た気がした。
届いた、というより——刺さった。
刺さって、老司祭の中の何かに、触れた。
それが何だったのか。罪悪感なのか、後悔なのか、あるいは——ずっと前から知っていた事実の、再確認なのか。
言葉にできなかった。
ただ——老司祭が次に口を開くまでの間が、いつもより長かったことだけは、感じた。
「……そうかもしれない」
老司祭が言った。
青年が、固まった。
「そうかもしれない、と——私は思ってきた。ずっと」
声が変わっていた。弁明ではなかった。謝罪でも、なかった。もっと手前の、もっとみすぼらしい何か。
「だからといって——私には、最初から」
そこで止まった。続きが来なかった。言葉が足りないのではなく、言葉の前に、何かが欠けていた。
老司祭は自分が何を言いかけたのか、自分でもわかっていないように見えた。
「……わかりません」
青年が遮った。今度は刃ではなく、疲れた声で。
「わかりません。でも」
一歩、下がった。
「もうここにはいられない」
それだけ言って、扉に向かった。
老司祭は引き止めなかった。
扉が開いて、閉まった。
残ったのは蜜蝋の匂いと、言い終わらなかった言葉と、返せなかった問いだけだった。
どのくらい、そこに立っていたのかわからなかった。
記憶の中にいた時間と、実際に経った時間が、一致している気がしなかった。あの夜は長かった。でも今、戸口に立っているエミリアの中では——ほんの一息のことだったような気もした。
蜜蝋の匂いが、まだそこにあった。
老司祭はもういない。青年は去った。でも匂いだけが、あの夜のまま、扉の隙間に残っていた。
消えないものがある、とエミリアは思った。
言葉は消える。人は消える。でも——匂いは、思いがけず長く、残る。
エミリアは祭具室の戸口で、鍵を握ったまま立っていた。
どこが不可逆点だったのか、と彼女は考えた。
「弟が死んだ」と言った瞬間か。「偽りの奇跡が」と言った瞬間か。それとも老司祭が「そうかもしれない」と認めた、あの一瞬か。
——違う。
エミリアはゆっくりと思い至った。
不可逆点は、あの夜ではなかった。もっとずっと前——彼の弟が冷たくなった朝に、すでに何かが終わっていた。あの夜の口論は、終わっていたものを、ただ言葉にしただけだ。
言葉にされると、もう戻れない。
それだけのことだった。
——その「それだけ」が、鐘楼の下で老司祭を倒した。
エミリアは鍵を、棚の上に置いた。音を立てないように。誰かが聞いていないか、確かめるように。
扉を出ると、外から歌が聞こえた。
子どもたちが、教会の裏庭で歌っていた。
「ぶどう酒注がれ 杯は満ちて
罪は雪にまぎれて 足跡を消すという」
あのとき、誰かが途中で止めた歌の、続きだった。
子どもたちは意味を知らない。ただ歌っていた。音として、旋律として。
エミリアは、立ち止まった。
「けれど娘は知っている 枝の一本ごとに
誰かの祈りと嘘が 結び目のようにあることを」
口論の場面が、歌詞と——重なった。
何と何が重なったのか、言葉にはできなかった。ただ重なった。自分の意志とは関係なく、勝手に。
エミリアは、この歌の意味を、初めて聞いた気がした。ずっと知っていたはずの歌を。子どもの頃から口ずさんでいたはずの、あの旋律を。
子どもたちは歌い続けた。
エミリアは何も言わなかった。
翌日の聴取で、エミリアは答えた。
「霧で、よく見えませんでした」
嘘ではなかった。本当のことでも、なかった。その間のどこかに、エミリアの言葉はあった。
男は少し間を置いた。それ以上は、聞かなかった。
何を言えば正しいのか、エミリアにはわからなかった。
正しい、という言葉自体が、この場では意味を持たない気がした。正しいことを言えば、誰かが傷つく。正しくないことを言えば、何かが消える。
何も言わない、という選択肢も、あった。
でも——何も言わないことも、何かを選ぶことだった。
沈黙は、答えではない。でも沈黙も、言葉と同じように、何かを決める。
エミリアは、一度だけ息を吸った。
そして——
「霧で、よく見えませんでした」
自分が言った言葉が、耳の中に残っていた。声に出したことで、その言葉は——もう取り消せない形になった。石畳に落ちた雪のように、そこにある。
嘘をついた、とは思わなかった。
本当のことを言った、とも思えなかった。
ただ——選んだ、と思った。
廊下の先に、窓があった。外は夕暮れだった。空の端が、低く赤かった。その赤が、少しずつ灰色に変わっていくのを、エミリアはしばらく見ていた。
選んだことの重さが、足の裏から、じわりと上がってきた。
軽くはなかった。
それでも——持てない重さではなかった。
助祭見習いに会ったのは、その夜だった。
どちらから来たのでもなく、廊下で行き合った。
エミリアは立ち止まった。青年も、立ち止まった。
「あなたが背負うべき罪は、あの夜の言葉まで。それ以上は、あなたのものではない」
青年は答えなかった。
しばらくして、目を閉じた。誰かに向けてではなく——自分の内側へ向かうように、静かに。
それが祈りなのかどうか、エミリアにはわからなかった。祈りに見えた、というだけだった。
エミリアは、その場を離れた。
部屋に戻って、エミリアは帳面を開いた。
あのとき開けなかった帳面ではない。新しい、白い紙の帳面。教会の書庫から、一冊だけ持ってきた。
ペンを持った。
最初の一文字を書くまでに、少し時間がかかった。
窓の外で、風が鳴った。葡萄棚の枝が、揺れる音がした。
エミリアは、書いた。
何を書いたかは、この物語には記されない。ただ——書いた。インクが紙に染みた。それは消えなかった。誰も読まないかもしれない。でも、消えなかった。
ペンを置いた。
帳面を閉じた。
部屋は静かだった。
翌朝、エミリアはいつも通りに起きた。
いつも通りに顔を洗い、いつも通りに聖歌隊の補佐へ向かった。廊下を歩き、扉を開け、挨拶をした。誰かが何かを言い、エミリアは頷いた。笑顔を作ったかどうか、自分でも覚えていない。
ミサの間、エミリアは歌った。
声は出た。音程も外れなかった。隣に立つ人も、何も言わなかった。つまり、いつも通りだった。
でも——歌いながら、エミリアはずっと、別のことを考えていた。
聖歌の言葉が、耳を通り過ぎていく。意味が、するりと逃げていく。長年歌ってきた言葉なのに、今日だけは、どこか遠い言語のように聞こえた。
口は動いている。声は出ている。でも、どこかが——ない。
ミサが終わって、人が散っていく中で、エミリアは祭壇の前に少しだけ残った。
老司祭の席は、まだ空いていた。
誰かがいつか座るのか、それとも、しばらくこのままなのか。エミリアには知る由もなかった。ただその空白が、礼拝堂の中で静かに存在していた。空白であることが、何かを語っているように。
エミリアは、その席を見たまま、何も祈らなかった。
祈りの言葉が、出てこなかった。出そうとして——出てこなかった。
それが喪失なのか、それとも何か別のものなのか。
判断できないまま、礼拝堂を出た。
外は、曇っていた。霧ではなかった。ただの、灰色の空だった。でもエミリアには、霧と同じに見えた。晴れる前の、重い空気。何かが変わる前の、静けさ。
——あるいは、何も変わらないことの、重さ。
エミリアは空を見上げたまま、少しだけ立っていた。それから、歩き始めた。
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