
葡萄樹の娘②
第二話 杯と鍵と、口論の夜
老司祭は、鐘楼の下で見つかった。
仰向けに、両腕を体の脇に揃えるように。雪の上に、静かに。まるで自分でそこへ横たわったかのように——とエミリアは後で聞いた。直接見た者がそう言った。「まるで眠っているみたいだった」と、その人は繰り返した。繰り返すたびに、声が小さくなった。
教会の中は、ゆっくりと音で満ちていった。祈りの声、啜り泣き、誰かが誰かの名を呼ぶ声。石の壁がそれを吸って、また吐き出す。エミリアは入口近くに立ったまま、動けなかった。動き方がわからなかった。
人々は動いていた。誰かの顔を確かめるように、誰かの手を握るように。
エミリアは、いない顔を探していた。
老司祭の席が、空いていた。
当たり前のことだった。でもエミリアは、その空白を、しばらく見ていた。あの席にはいつも、同じ人がいた。同じ姿勢で、同じ方向を向いて。それが今日はない。
ないことが、あることより、目に入った。
人は、いなくなって初めて、場所を持つのかもしれない、とエミリアは思った。いる間は、その人と場所は一体だった。いなくなると、場所だけが残る。空白という形で。
誰かが、その席の前を通り過ぎた。
一瞬だけ、足を緩めた。でも立ち止まらなかった。通り過ぎてから、少しだけ歩幅が小さくなった。
エミリアは、その背中を見ていた。
教会の中の空気は、いつもと違った。
祈りの声は同じだった。啜り泣きも、聖像の前に膝をつく人の姿も、見慣れたものだった。でも——何かが、ずれていた。
エミリアはしばらく、その「ずれ」が何なのか考えた。
においだ、と気づいたのは少し後だった。
教会はいつも、蜜蝋と石の冷たさと、わずかな葡萄酒の香りがする。それがこの場所の匂いだった。修道院にいた頃も、同じ匂いがした。どこの教会も、似たような匂いがした。
でも今日は、それに何かが混じっていた。
人の、体温の匂い。
集まりすぎた人間の、息と汗と涙が混ざった、生々しい匂い。
信仰と、体温は、切り離せない。
そのことが、今日に限って、少しだけ怖かった。
「昨夜ね」
老婆が話しかけてきたのは、エミリアが水盤の近くで立っていたときだった。誰かに話すというより、声に出さずにいられなかった、という様子だった。
「祭具室の方から、声が聞こえたの。遅い時間に。消灯の後だったから、おかしいと思って」
「何が聞こえましたか」
老婆は少し黙った。
「言葉まではわからなかったけれど——低くて、長い声だった。怒鳴るのとは違う。あれは……もっと昏い声だった」
昏い声。
エミリアはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。怒りの声でも、哀しみの声でもなく——昏い声。それが何を意味するか、老婆は最後まで言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「誰の声でしたか」
老婆は首を振った。
「一人じゃなかったと思う。でも——それ以上は」
そこで誰かに呼ばれて、老婆は行ってしまった。エミリアは水盤の冷たさだけを手に残して、その場に立っていた。
老婆の話が、頭から離れなかった。
昏い声、という言葉が、まだそこにあった。でも——昏い声が、悪意から来るとは限らない。哀しみも、昏くなる。後悔も、昏くなる。
そう思った。
でも、そう思いたいだけかもしれない、とも思った。
昏い声、という言葉が、頭の中に残っていた。でも——昏い声が、悪意から来るとは限らない。哀しみも、昏くなる。後悔も、昏くなる。
そう思った。
でも、そう思いたいだけかもしれない、とも思った。
その二つが、エミリアの中で、静かに向き合っていた。どちらが正しいのか、決める方法がなかった。決めたくなかった、のかもしれない。
決めてしまうと——何かが、始まる。
教会の中の音が、続いていた。祈りの声、足音、誰かの息遣い。日常が、事件の上に積もっていく。
エミリアは、その音の中に、立っていた。
動いていない人間が、動いている人間より、目に入った。
壁際に、青年がいた。助祭見習いの、あの青年。祈ってもいない。泣いてもいない。ただ、何かを見ている——あるいは何も見ていない目で、人々の動きを眺めていた。
エミリアが近づくと、青年は視線だけを向けた。体は動かさなかった。
「昨夜——祭具室にいましたか」
青年はすぐには答えなかった。考えていたのか、言葉を選んでいたのか、エミリアには判断できなかった。
「いました」
それだけ言った。説明しなかった。
エミリアは次の言葉を探した。でも青年は続けなかった。ただそこに立って、答えを出し終えた人間の静けさで、エミリアを見ていた。
「一人でしたか」
何かが、遅れた。
迷いなのか、確認なのか、思い出しているのか——
エミリアには読めなかった。
「最初は」
それだけだった。
帰りかけて、青年は一度だけ振り返った。
「司祭様は——苦しまれましたか」
答えを待たずに、行ってしまった。
エミリアは答えられなかった。——いや、答えを知らなかった。ただその問いが、どこかに刺さったまま、抜けなかった。
青年が去った方向を、エミリアはしばらく見ていた。
廊下の角を曲がって、もう見えなくなっていた。でも、その場に残った何かが——空気の揺れのような、体温の残滓のような——まだそこにあった。
苦しまれましたか。
あの問いは、誰のためだったのか。
老司祭のためか。それとも——自分のためか。答えを知りたかったのか。それとも、答えを聞かずにいられなかっただけなのか。
エミリアには、わからなかった。
わからないまま、廊下を歩いた。祭具室の方へ、足が向いていた。
鍵は、祭具室の管理棚に戻されていた。
エミリアはそれを、自分の目で見た。戻ってはいた。正しい場所に、正しい向きで。でも——持ち手の部分に、新しい擦れがあった。金属が金属に押しつけられたような、鋭い痕。
エミリアはそれを、しばらく見ていた。
昨日の朝の姿を、覚えていなかった。
——覚えていなかった。
それだけの話だった。
昨夜の鍵の管理者が誰だったか、エミリアはすでに聞いていた。
管理棚の扉を閉めた。
金属の、小さな音がした。
教会の中では、その音だけが、やけにはっきり聞こえた。
夜になっても、霧は晴れなかった。
エミリアは自分の部屋で、膝の上に何も持たずに座っていた。暗くなってから、ようやく蝋燭に火をつけた。
昏い声。最初は。苦しまれましたか。
断片が、繋がらない。
繋げようとするたびに、ひとつだけ、形が合わない何かが残った。
「司祭様は苦しまれましたか」
あの問いが、消えなかった。
犯した者が聞く言葉ではない——と思う。思うけれど、犯した者がそう聞かない理由も、エミリアには言えなかった。言葉にしようとすると、霧のように散った。
蝋燭の火が、揺れた。
霧はまだ、晴れていなかった。
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