
葡萄樹の娘①
あらすじ
霧深い古都ヴラネツ。冬の早朝、聖歌隊を補佐するエミリアは、鐘楼から人影が落ちるのを目撃する。直後、老司祭が鐘楼の下で倒れているのが発見された。
事故か、他殺か。疑いの目は、前夜に老司祭と口論した助祭見習いの青年へ向かう。鍵の痕跡、昏い声の証言——状況は青年を追い詰めていく。しかしエミリアは、蝋燭台を磨く青年の手を知っていた。
真相に近づくうち、エミリアは教会が隠してきた「偽りの奇跡」の実態と、自らの出生の秘密に近づいていく。真相を知ったエミリアは、法廷で語ることを選ばなかった。代わりに、一冊の記録帳にペンを走らせる。
信仰とは何か。赦しとは何か。霧の中で進み、最後に灯りを置く物語。
第一話 白い霧の朝に
霧は、音を遅らせる。
エミリアはそれを、子どもの頃から知っていた。石畳を踏む靴音も、遠くの犬の声も、ヴラネツの冬の朝には必ず一拍遅れて届く。まるで世界が、まだ目を覚ます準備をしていないかのように。
気づくと、その旋律が口の奥にあった。
「白い霧の朝に——」
そこまで口にして、エミリアはやめた。
どこで覚えたのか、思い出せない。ただ、誰かの声と結びつきそうで——そこで記憶はいつも途切れる。場面ではなく、温度だけが残っている。冬の、息の白さのような。それだけが身体の奥に沈んでいて、ふとした拍子に唇の方へ上がってくる。聖歌でも、祈りの言葉でもない。けれど教会の匂いがした。古い石と、蜜蝋と、微かに——葡萄の、甘すぎる残り香。発酵しかけた、どこか血に近い、あの匂い。
洗濯物は昨夜から張り綱に吊るしたままだった。
エミリアは籠を抱えて教会の裏庭へ出た。足の下で、凍った土が低く軋む。葡萄棚はまだ眠っている。冬のあいだ、樹はいつもこうだ——枝だけを剥き出しにして、灰色の空へ向かって静かに伸びている。枯れているのか生きているのか、外から見ただけではわからない。
鐘はまだ鳴っていなかった。
ミサまで、あと少し。この時間だけが、ヴラネツで唯一、誰も祈っていない時間だとエミリアは思っていた。神も、まだ耳を傾けていない。だからこの朝の静けさは、誰のものでもない。
凍った袖を引き剥がすように洗濯物を取り込みながら、エミリアはふと顔を上げた。
霧が、薄れていた。
ほんの一瞬のことだった。風が変わり、白い幕が引かれるように視界が開いて——鐘楼の上部が、灰色の空にはっきりと浮かんだ。
そこに、影があった。
人の形をした、黒い影。欄干のふちに立って——いや、立っていたのか、それとも最初からそこに落ちかけていたのか。エミリアが目を凝らした次の瞬間、影はすっと、空へほどけた。
呼吸が、一拍、遅れた。
落下音は、なかった。雪が音を飲んだのか、それとも——エミリアには判断できなかった。かわりに、金属が何かに擦れる鈍い軋みだけが、霧の中から滲み出てきた。
息を止めたまま、彼女は籠を抱えていた。
——あれは、落ちたのではなく、“引き込まれた”ように見えた。
霧はすでに元に戻っていた。鐘楼の上部は、また白い布の向こうに隠れている。まるで何も起きなかったかのように。
息を、吐いた。
白い息が、霧の中に溶けた。
自分の息なのか、霧なのか、境目がわからなかった。
エミリアは自分の目を疑った。朝の霧の中で、人影に見えただけかもしれない。枝の影か、鳥か、それとも——
音が、霧を裂いた。
教会の扉が開く。駆ける足音。複数の声が塊になって転がってくる——それまでの静けさとまるで違う質の、生々しい現実の音として。
「神父様が——司祭様が、倒れておられる!」
声が、重なった。
最初の一声が呼び水になって、次々と声が続いた。扉が開く音、廊下を走る足音、誰かが誰かの名を呼ぶ声。それまでの静けさが、一瞬で別のものに変わった。
エミリアは動けなかった。
籠を抱えたまま、石畳の上に立っていた。霧の中から声だけが来て、何が起きているのか、目で確かめる前に耳だけが知っていた。
鐘楼。
倒れている。
司祭様が。
言葉が、順番に届いた。でも繋がらなかった。繋げようとするたびに、霧の中で見たあの影が、邪魔をした。
空へほどけた、黒い影。
あれは——
「エミリアさん!」
誰かに名を呼ばれた。それでようやく足が動き、籠が手から滑り落ちた。
凍った洗濯物が石畳に散らばる音を、エミリアはどこか遠くで聞いていた。
鐘が、鳴り始めた。
一度、二度、三度。
霧の中で、鐘の音だけが世界の輪郭を示していた。
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