
修正後再審査、一通のメールが、研究モードに引き戻した。—査読への挑戦⑨
有数の学会での発表を、フロアからの貴重なご意見やご質問とともに、無事に終えることができた。
その後、発表時にいただいた知見を反映し、論文を修正したうえで、学会のトランザクションズ、いわゆる論文集へ投稿していた。
デスクジャッジ、つまり編集委員会による事前審査を通過し、2名の査読者による審査に回ってから、約2週間。
結果のメールが届いたのは、ある平日の夜だった。
自己紹介
その夜、私はジムへ行くつもりだった
その日の私は、一日の仕事を終えて帰宅し、「さあ、これからジムにでも行って汗を流してこようか」と、完全に日常のモードに入っていた。
仕事の緊張から少し離れ、体を動かして、頭を空っぽにする。
そんな、ごく普通の夜になるはずだった。
しかし、スマートフォンの画面に表示された
学会からの通知を目にした瞬間、全身の空気が変わった。
一気に、研究モードへ引き戻された。
メールを開く。
そこに記されていた結果は、
「修正の上、再審査」。
不採択ではない。
しかし、手放しで喜べる結果でもなかった。
むしろ、ここからが本番なのだと、すぐに分かった。
査読者が突きつけたのは、文章表現ではなく方法論だった
添えられていた査読者のコメントは、質的研究、特に事例分析を扱う実務家研究者にとって、極めて本質的で、避けて通れない指摘だった。
それは単に、「ここの表現が分かりにくい」とか、「この部分を補足してください」といった表面的な指摘ではなかった。
問われていたのは、論文の根幹だった。
実務家として現場に近いからこそ生じる、近接性や当事者性のバイアスをどのように統制しているのか。
事例分析としての解釈が、単なる経験談や後づけの整理にとどまっていないことを、どのように示すのか。
など
査読者のコメントは、丁寧でありながら、非常に鋭かった。
そして、ありがたいことに、その指摘は的確だった。
読んだ瞬間に、逃げてはいけない論点だと分かった。
ジムの予定は消え、MacBookの前に座った
ジムへ行く予定は、その瞬間に消えた。
そこからは、MacBookの前に向かう時間が始まった。
もちろん、単に文章を言い換えるだけでは足りない。
査読者が指摘しているのは、表現の問題ではなく、研究としての手続きの見える化だった。
自分が実務家として現場に関わってきたからこそ見えるものがある。
一方で、その近さが分析の恣意性につながらないよう、どのように距離を取り、どのように確認し、どのように解釈を絞り込んだのか。
その部分を、できる限り論文の中に書き込んでいった。
実務家研究者にとって、現場の近さは武器でありリスクでもある
今回の査読コメントを読みながら、改めて思ったことがある。
実務家研究者にとって、現場の近さは大きな武器である。
会議室の空気、現場の沈黙、発話の裏にあるためらい、制度は整っているのに行動様式が変わらない違和感。
そうしたものは、外から一度だけ観察しただけでは、なかなか捉えきれない。
実務家として現場に入り、当事者と接し、時間をかけて状況の変化を見てきたからこそ、見えてくるものがある。
しかし同時に、その近さはリスクでもある。
自分がよく知っている現場だからこそ、「分かっているつもり」になってしまう。
当事者としての記憶や実感が強いからこそ、データの外側にある理解を、無意識のうちに分析へ混ぜ込んでしまう危険がある。
だからこそ、質的研究として論文にするためには、現場に近いことをただ強みとして語るだけでは不十分なのだと思う。
何を見たのか。
誰が、どの場面で、どのように語ったのか。
その発話や観察記録を、どのような手順でコード化したのか。
なぜ、その解釈が妥当だと言えるのか。
第三者がたどれる形で、手続きを開示しなければならない。
今回の査読者の指摘は、まさにそこを突いていた。
実務家としての経験を、学術論文として成立する手続きへどう翻訳するのか。
その問いを、真正面から突きつけられたのだと思う。
24時間以内に、修正原稿を送り返した
翌朝、寝不足の頭を冷ましながら、修正原稿と修正箇所対応表をもう一度読み返した。
勢いだけで直していないか。
査読者の指摘に正面から応答できているか。
一つずつ確認したうえで、学会のシステムへ修正原稿を提出した。
通知を受け取ってから、24時間以内の再提出だった。
もちろん、修正にかけた時間の短さだけが価値なのではない。
むしろ重要なのは、査読者のコメントを読んだ瞬間に、何を問われているのかを理解し、自分の研究の弱点を引き受け、必要な手当てを形にできるかどうかだった。
その反応速度に、日々実務の意思決定の中で鍛えられてきた感覚が、少しだけ活きたのかもしれない。
実務の世界では、問題は待ってくれない。
状況を読み、論点を見極め、限られた時間の中で打ち手を決める。
その訓練が、今回の修正作業にもどこかでつながっていたように思う。
査読は、敵ではなく稽古だった
ボールは再び、査読者のもとへ戻った。
結果はまだ分からない。
再審査である以上、採択が約束されたわけではない。
修正したからといって、必ず通るわけでもない。
それでも今回の査読コメントは、私にとって単なる通過儀礼ではなかった。
実務家としての経験を、どのように学術論文の手続きへ翻訳するのか。
現場に近い研究者だからこそ、どのように方法論の透明性を確保するのか。
自分の実感を、どのようにデータと分析の言葉へ置き換えるのか。
その課題を、正面から突きつけてくれたものだった。
査読は、ときに厳しい。
しかし、それは論文を落とすためだけに存在しているわけではない。
少なくとも今回の私にとって、それは自分の研究を一段深く掘り下げるための、貴重な稽古だった。
ジムには行けなかった。
けれど、その夜、私は別の意味でかなり汗をかいた。
今はただ、静かに次のジャッジを待っている。
そして同時に、今回の修正作業そのものが、私にとってまた一つ、研究者としての稽古になったのだと思っている。
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