メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史174】 「石谷家文書」 251213 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史174】 「石谷家文書」    251213

    はじめに ←目次 
    ←【重要史料】 【全】 【重史一覧】
     
    【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
     【粛清 佐久間信盛】 【足蹴事件】
     【5月26日】 【5月27日】 【5月28日】 【5月29日】 ← 
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】
     【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 251213 

    【重史174】                    251213

    ①進上 利三  空然(石谷光政) 人々御中

    ②御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、

    ③静穏の筋目、之たるべく候、

    ④新暦、御吉兆、珍重、休期有るべからず候、

    ⑤重ねて、頼辰・仁首座(禅僧の首位者)、下国候(土佐へ)、

    ⑥弥、始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、

    ⑦取り乱し候間、重ねて申し展(の)べ候、

                          「石谷家文書」


     天正十年1582、一月十一日。             158200111

     信長は、元親に、朱印状を送った。

     取次は、明智光秀。
     光秀の窓口は、斎藤利三。
     使者は、石谷頼辰(利三の実兄)。

     元親の窓口は、石谷光政。                →【人物】
     
    光政は、元幕府の奉公衆。
     元親の舅(娘が正室)。
     石谷頼辰の義父。
     したがって、齋藤利三にとっても、義父ということなる。
     
     主 光秀の進退に関わる一大事である。

     斎藤利三は、必死だった。
     正に、緊迫の一場面。
     主従の思いが、ひしひしと伝わって来る。

     以下は、利三から、光政に宛てた書状。
     「御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候」、とある。
     要するに、
     「承諾しなければ、抹殺される」
     「急がれよ」
     と、言っているのである。

       (ウハ書)
      「       (墨引)      斎藤内蔵助
           進上              利三
            空然(石谷光政)     人々御中       」

         尚々、御朱印の趣も、
         元親御ため、然るべく候、

         (行間書)
        向後までも(これからも)、
        惟日、如在を存じべからざるの由も(疎略にしないと)、
        申され候間、
        行々、静穏の筋目、之たるべく候、
        以上、

       新暦、御吉兆、珍重、休期有るべからず候、

       仍って、
       今度(こたび)、元親、御請けに申すに付きて、
       則ち、御朱印成され候の間、
       重ねて、頼辰・仁首座(禅僧の首位者)、下国候(土佐へ)、

       弥(いよいよ)、始末、然るべく様に、
       万事、御異見、尤もに、存じ候、

       次、御湯治の事、
       御養性(生)に於いては、然るべく候、

       猶、様子、頼辰、申し上げらるべく候、
       取り乱し候間、重ねて申し展(の)べ候、
       恐惶謹言、

        正月十一日     利三 (花押)
       進上
        空然
          人々御中
                              (「石谷家文書」)

     信長は、天正九年の後半にも、朱印状を送っていた。
     「重ねて、頼辰・仁首座」、とある。
     したがって、この前にも、朱印状を送っていた。
     おそらく、天正九年の後半頃。            →【重史181】
     使者は、同じ。

     「元親記」によれば、
     その時の内容は、
     「予州・讃州、上表申し、阿波南半国、本国に相添え遣わさるべし」
     と、いうものだった。                →【重史181】

     元親は、これを承諾せず。
     「四国御儀は、某が手柄を以って、切り取り申す事に候」
     交渉は、暗礁に乗り上げた。             →【重史190】

     信長は、絶対専制君主。               →【重史146】
     誇り高い男。
                        →【重史146】
     「上意下達」
     命に従わぬ者は、容赦しない。

     なれど、・・・・・。
     これまでの、経緯があった・・・・・。

     だが、だからと言って、それをそのまま聞き入れることなど、有り得な
     い。

     信長は、疑い深い。                 →【重史146】
     「災いの芽は、摘んでおかねばならぬ」、のである。

     信長は、元親に、新たな朱印状を発した。
     それが、この日、天正十年正月十一日。
     内容が、さらに、厳しくなっていた。

     光秀は、急いでいた。
     斎藤利三、同。
     石谷頼辰、同。
     「休期有るべからず候」、とある。 

     正に、一大事。
     「危急存亡の秋」
     元親に、とっても、・・・・・。
     明智に、とっても、・・・・・。
     長引けば、長引くほど、不利になる。

     そして、再び、土佐へ。

     信長は、「阿波南半国」を取り止めた。
     元親には、「土佐一国」のみとした。
     →【重史042】 0521 そ第78話⑧
     「逆らえば、踏みつぶすのみ」、なのである。

     土佐は、僻遠の地。           →本能寺への道 そ第78話⑨
     頼辰は、おそらく、二月十日前後に土佐に着いた、と思われる。

     それ故なのだろうか・・・・・。
     「緊迫感」に、何か温度差のようなものが感じられる。


     【引用】【四国】 十 0111

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582 目次



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ