メインコンテンツへスキップ
見出し画像

「前にある島」第1話(第一部/五部)

    ★ 小説のあらすじ ★
    親友が死んだ。会いに行こうと思った一日前だった。
    泣きながらアカペラで歌を送り、祭りの法被をかき集め、東京まで最後の別れに向かった。
    その頃だった。過疎の島を復活させようとする変な老人と、猫十匹と暮らす自由な女性に出会ったのは。二人はどこかおかしかった。
    人の死も。島の衰退も。人生の失敗も。「終わり」ではなく、「続き」として見ていたからだ。
    そして島には、奇妙な言葉が二つ残されていた。
    ――「ある、いる、なる」 ――
    ―― 人は世界を反対に見ている ――
    消えた人は、本当に消えたのか。失われたものは、本当に失われたのか。
    実在する瀬戸内海の離島を舞台に描く、笑いと涙、再生と希望の物語。

    📖 この物語は全五回です。
    ・ 第一回 消えゆくもの(このページ)
    ・ 第二回 島へ向かう
    ・ 第三回 生きている人達
    ・ 第四回 人は世界を反対に見ている
    ・ 第五回 前にある島

    第一章 間に合わないかもしれない

    「乳もませて〜」
    二十年ぶりに会った同級生の女子に、ガンちゃんがいきなりそう言ったとき、オレは飲みかけのビールを吹きそうになった。
    けれど驚いたのは、その言葉の内容じゃない。
    それをガンちゃんが言ったことだ。

    本名は岩城和弘。岩城だからガンちゃん。
    小学校三年のときに転校してきた近所の同級生。
    子どもの頃のガンちゃんは、そんな冗談を言うような男ではなかった。
    控えめで声も大きくなく、輪の中にいても少し後ろに立っているような男子。勉強も運動も特別目立ったわけではない。
    だから余計に、大人になってからのその一言が妙におかしくて、そして嬉しかった。
    ああ、ガンちゃんはじけたな~、そう思った。

    それから毎年、秋の太鼓祭りのたびにガンちゃんは東京から帰ってくるようになった。
    太鼓台をかく(担ぐ)ためでもあり、幼なじみに会うためでもあり、
    たぶん、田舎に残してきた自分の何かを確かめるためでもあったのだと思う。
    地元にいる友だちというのは、いつでも会えると思うせいで案外会わないものだ。用事がないと電話もしない。近くにいるからこそ遠い。
    それでも、ガンちゃんが帰ってくるとなると話は別だった。
    「ガンちゃん帰ってくるらしいぞ」
    その一言で、いつも何人かが集まった。

    昼は太鼓を一緒にかつぎ、夜は飲み屋をいくつもまわりながら祭りの話や昔話に花を咲かせた。
    太鼓祭りのときはガンちゃんを集う会が恒例となり、気づけば二十年が経っていた。
    ある意味、ガンちゃんのおかげでオレたちはつながり直していた。
    そのガンちゃんが、膀胱がんになったと聞いたのは四年前だった。

    抗がん治療を受け、一度は体調も持ち直した。
    翌々年の祭りには二年ぶりに帰ってきていつものように飲んだ。
    少し痩せたなとは思ったが、それでもガンちゃんはガンちゃんだった。
    「また来年も飲もうや」
    たぶん、そんなことを言った。
    人はそういう約束をあまりにも簡単に口にする。
    来年もあると思っているからだ。 
    そして一年前の六月十一日。その日がすべての始まりだった。

    地元にいるガンちゃんの従兄弟が店に駆け込んできた。
    「ガンちゃん、かなり悪いみたいなんよ。できたら見舞いに行ってやってくれんか」
     
    一瞬、思考が追いつかなかった。
    かなり悪い。見舞いに行ってやってくれ。
    それが何を意味するかくらい五十七にもなれば分かる。
    分かるのに分かりたくなかった。
     
    うちは酒屋だから日曜日しか休みがない。
    すぐに頭の中で日付を数えた。六月十五日の日曜日に行くか。
    いや、仕事の段取りを考えると、二十二日の方が楽かもしれない。
    一緒に行く予定の地元の連れ、宅間に連絡した。
    宅間は同じ町内で育った幼なじみ。毎年ガンちゃんと三人で同じ太鼓台をかき、祭りのあとに飲み、くだらない話をしてきた一番近くにいる友だ。

    その晩、オレはひとりで近所に今月オープンした店へ飲みに行った。
    ひとりで飲みに行くなんて初めてだったかもしれない。
    誰かを誘う気にもならなかったし、家にいるのも落ち着かなかった。
    「ゆずや コーヒー&おでん」という店。
    なんかアンバランスやな~って思った。カウンター席だけのちっちゃな、けど清潔感がありおしゃれな内装。店内のテレビからどうでもいいニュースが流れ、隣の席では知らない人たちが笑っている。
    世界はいつも通り動いている。
    カウンターに座り、気さくなママさんと世間話をした。お互いのこともいろいろ話した。それでも、オレのなかで針は止まったままだった。

    翌十二日の朝、ともちゃんからLINEが届いた。
    ともちゃんはオレらより一回り下の、明るくて芯の強い人。
    ガンちゃんは再婚だったから、一緒になってくれてありがたいな~とみんな思っていた。
    LINEを開くのが怖かった。
    開いたら何かが決まってしまうような気がして…。
     
    画面には深刻な言葉が並んでいた。
    容体がかなり悪いこと。
    できれば早く来てほしいこと。
    無理を言っているのは分かっているが急いでほしいこと。
    今日は十二日、木曜日。明日はどうしても無理だけど、十五日の日曜日にしていた予定を十四日の土曜日にに変えた。

    土曜は営業日だけれども、酒屋が一日閉まったところで世の中は困らない。
    ガンちゃんに会えないことでの後悔は嫌だ。
    そう思ってともちゃんに連絡した。
    するとすぐにまたLINEの着信音が鳴った。
    「救急搬送されました」
    続けてもう一つ。
    「間に合わないかもしれません」 
    その文字を見たとき、心臓が一度嫌な跳ね方をした。

    間に合わないかもしれない。なんだそれは。
    間に合うとか間に合わないとか。そういう話なのか、人が死ぬというのは。
    こっちは愛媛。ガンちゃんは東京にいる。
    飛行機で行くか、新幹線にするか。何時に出ればいいか。店をどうするか。宅間にどう伝えるか。
    そんな段取りを考えようとしているのに、画面の中ではもう時間が別の速さで進んでいた。 

    ともちゃんが病床のガンちゃんの写真を送ってくれた。
    スマホ画面をスクロールするのを躊躇した。
    見なければ、まだガンちゃんは祭りのときのガンちゃんのままだ。
    冗談を言い、酒を飲み、おどけながら下ネタを言い、同級生らに囲まれて笑っているガンちゃん…。
     
    写真の中のガンちゃんはチューブにつながれていた。
    顔は痩せ、口元には力がなく目を閉じていた。
    思わずスマホを伏せる。あれがガンちゃんなのか。いや、ガンちゃんだ。
    けど、オレの知っているガンちゃんとはあまりにも遠かった。

    翌十三日の朝、ともちゃんからのLINEをおそるおそる開く。 
    「なんとか朝は迎えられました」
    その一文を見て、胸の奥が少しほどけた。
    生きている。
    まだ生きている。
    たったそれだけのことが、その朝は奇跡のように思えた。
    ガンちゃんにメッセージを送った。
     
    「あと二日、なんとか頑張ってくれ」
     
    しかし、ふと我に返った。
    これは誰に向かって言っているのだろう。
    ともちゃんにか。
    ガンちゃんにか。
    神様にか。
    あるいは、自分自身に言い聞かせているだけなのかもしれない。
    その日の夜だった。スマホが鳴った。
    ともちゃんからだった。
    それまで何度もLINEのやり取りはしていた。けれど、直接電話がかかってきたのは初めてだった。胸がざわついた。
    何かあったのだとすぐに分かった。
    電話に出る。ともちゃんの声が聞こえた。
    「LINEのテレビ電話、してもらえませんか」 

    その言葉を聞いた瞬間、空気が変わった。
    会いに行くことばかり考えていた。
    東京へ行くことばかり考えていた。
    けれど今、この瞬間にも声を届ける方法があった。
    オレはすぐに宅間へ連絡した。
     
    「今から来れるか。ガンちゃんとテレビ電話できるかもしれん」
     
    宅間はすぐ来た。二人で待った。
    一時間ほどだったと思う。やけに長かった。
    スマホをテーブルの上に置き、ただ画面を見ていた。
    何度も時計を見た。何を話すか、考えようとした。
    しかしいざとなると何も浮かばない。
     
    がんばれ。
    待っとれよ。
    会いに行くけん。
     
    そんな言葉しか出てこない。
    それで十分なのかもしれないし、それでは全然足りないのかもしれない。 
    しばらくして、スマホが鳴り、ともちゃんがテレビ電話をつないでくれた。

    スマホ画面に映ったのは病室だった。
    白い天井。
    白い壁。
    機械の音。
    ともちゃんの気配。
    そしてベッドに横たわるガンちゃん。

    「ガンちゃん、聞こえるか」
     
    画面に向かって、大きめの声で呼びかける。
    自分の声が少し上ずっているのが分かった。
    宅間も横から声をかけた。
     
    「ガンちゃん、宅間ぞ。分かるか」
     
    ガンちゃんは苦しそうだった。
    目を閉じ、呼吸のたびに少し肩が動く。
    言葉は出ない、もう出せる状態ではなかった。
    けれどオレらの呼びかけに反応してか、ガンちゃんの目が大きく開いた。
    ほんの少しだったかもしれないが、オレたちにははっきり分かった。

    聞こえている。分かっている。
    ガンちゃんはそこにいる。
    チューブにつながれていても、声が出なくても、
    ガンちゃんは、そこにいた。
    口元がゆるんだ。歯が少し見えた。
    笑おうとしたのかもしれない。いや笑ったのだと思う。
    思いつく限りの言葉をかけた。
     
    「祭り、また一緒に行こうや」
    「みんな待っとるぞ」
    「ともちゃんも、子どもらもよう頑張っとるぞ」

    何を言ったのか正確には覚えていない。
    ただ必死だった。十五分ほどのテレビ電話だった。
    終わったあと、部屋は急に静かになった。
    スマホの画面が暗くなり、そこにオレと宅間の顔がぼんやりと映る。
    五十を過ぎた男二人が、情けない顔をしていた。

    宅間が先に泣いた。
    その顔を見たら、オレもだめだった。

    宅間とは長い付き合いだが、
    男同士で向かい合って泣くなんて初めてのことだった。
    恥ずかしいとか、みっともないとか、
    そういうものはどこかへ行ってしまっていた。
    ただ、悲しかった。
    ガンちゃんが死にかけていることが、
    間に合わないかもしれないことが悲しかった。
    そして何より、声も出せず、
    それでも必死に目を開いてくれたガンちゃんが
    たまらなく愛おしかった。

    第二章 乾杯、アカペラ

    テレビ電話が終わったあとも、オレと宅間は動かなかった。
    さっきまで二人して泣いていたせいか、
    なんとなく顔を見合わせるのも気恥ずかしい。
    何を話したのかよく覚えていない。

    ガンちゃんの昔話だったと思う。
    小学校のころの話。祭りの話。
    あいつは昔から女にもてんかったな、とか。
    そんなくだらない話だった気もする。
    けれど不思議だった。
    さっきまで死を目の前にしていたのに、気づけば笑いながら昔話をしていた。
    人間というのは勝手なものだ。
    悲しくて仕方がないのに、思い出話になると笑ってしまう。
    ガンちゃんも、きっとそんなやつだった。
    しばらくしてふと思いついた。

    「歌でも送ろうか」
     
    宅間が顔を上げた。
    「歌?」

    「うん」
     
    そのとき、なぜそんなことを思いついたのか分からない。
    ただ、そのときは自然だった。
    会いに行けない。抱きしめることもできない。
    何かを渡すこともできない。だったら歌くらいしかない。
    そんな気がした。何を歌うか考えた。
    二人ともほぼ同時に、出だしの歌詞
    「かたい絆に~想いをよせて~」が浮かんだ。長渕剛の『乾杯』。
     
    スマホを立てかけた。
    伴奏はない、アカペラだ。
    宅間が歌い、オレが歌う。
    歌詞をとばしたり、音を外したりもしたが関係なかった。
    うまく歌うためじゃない。ガンちゃんに届けるためだった。
    録画が終わると、そのままともちゃんに送った。
    「ガンちゃんに聞かせてやって」それだけ書いた。
     
    翌日。ガンちゃんは亡くなった。
    会いに行く約束は間に合わなかった。
    けれど、そのあとともちゃんから届いたLINEを読んだとき、オレは泣いた。今度は悲しくてじゃない。嬉しくて泣いた。 

    酸素濃度が57くらいになってヤバい!と思ってた時に、
    ひーくんと宅ちゃんの乾杯の歌を聞かせたら、
    85まで回復してて奇跡だなと思いました✨
    そして、「乾杯♪大きな♪」
    と一緒に口を動かしていました。
    お二人との絆を感じました。本当に本当にありがとうございました。

    ともちゃんからのLINEメッセ

    ひーくん。
    下の名前から付いた、オレの小学校時代のあだ名だ。
    今ではほとんど呼ぶ人はいない。
    ガンちゃんや宅間たち、幼馴染だけが使う呼び名だった。
     
    ガンちゃんは、あの動画を聞いていた。
    そして一緒に歌おうとしていた。
    もう声も出なかったはずなのに。
    オレは何度もその文章を読み返し、そして思った。
    なんとも不思議な時間だったな、と。
     
    友達同士でアカペラの歌を録画するなんて、普段なら絶対にやらない。恥ずかしくてできない。宅間だって同じだったはず。
    なのに、その夜は自然にできた。
    今振り返ると、あれは少しだけ日常の外側だった気がする。
    「異空間」、そんな言葉が浮かぶ。
    そして思い返してみると、人生には時々そういう場所が現れる。
    時間の流れが少し変わるような場所だ。


    十二年前、大阪で空手の合同稽古があった。
    山のふもとにある手作りの道場だった。
    稽古が終わり、みんなで宴会をしていたときのことだ。
    空手の先輩、下澤七段が突然、道場の隅に置いてあった大太鼓を叩き始めた。すると佐々木二段、通称ウルフも加わった。
    ドン、デン、ドン。ドン、デン、ドン。

    今度はまた別の誰かが、壁に掛かっていた法螺貝を持ち出して吹き始める。
    ボッ、ボッ~、まともな音は出ないが、それなのに不思議と太鼓に合っていた。
    夏の熱気がまだ残る夜だった。

    一人がやおら立ちあがり踊り始めた。
    二人、三人と続く。踊りといっても型なんかない。
    阿波踊りみたいでもあり、全然違うようでもある。
    思いついたままに手足を動かしているだけだった。
    みんな上半身裸の男たち。
    オレも加わった。

    最初は少し照れくさかった。
    けれど踊り始めると恥ずかしさは和らぎ、それ以上に楽しくなった。
    太鼓を叩くやつ。法螺貝を吹くやつ。踊るやつ。
    それを見ながら、柏手でリズムをとるやつ。
    傍から見れば異様な光景だったかもしれないが、みんなその場を楽しんでいた。気づけば、みんな同じ空気を吸い、同じ輪になっていた。
    「なんだこれ、映画みたいや。」そう思った。

    あれも異空間だった。


    もう一つ思い出した。
    十年ほど前の祭りの夜、「博多一番鶏」という焼き鳥屋で飲んでいた。
    店内は太鼓関係者でほぼ満席だった。
    夜九時ごろだったと思う、突然、店の照明が全部消えた。
    一瞬、店内がざわつく。停電か。
    そう思った次の瞬間、暗くなった店内を見て、ふと誕生日のサプライズを思い出した。
    祭りの夜だった。なんとなく、いける気がした。
    オレは大声で叫ぶように歌った。
    「ハッピーバースデーツーユー」
     
    すると、幾つかのテーブルで続きの一節が返ってきた。
    「ハッピーバースデーツーユー」
     
    続く「ハッピーバースデーツーユー」のあと、「ディア~」のところになると、みんな好き勝手に、
    「ディア~庄内~」
    「ディア~一番鶏~」
    「ディア~健ちゃん~」
    太鼓台の名前だったり、店の名前だったり、誰かの名前だったり。
    それぞれが思いついた言葉を入れて歌っていた。
     
    そして最後の「ハッピーバースデーツーユー」になる頃には、
    ほとんど店じゅうが大合唱になっていた。
    歌が終わると、店じゅうに笑い声が広がり、大きな拍手が起きた。
    やがて照明が戻った。ほんの数十秒の出来事だった。
    知らない人どうしなのに、みんな笑っていた。
    店じゅうがひとつになったような気がした。
    たった四節の歌だった。
    誰かが何かを成し遂げたわけでもない。
    何かが変わったわけでもない。
    けれど、あの時間だけは確かに日常の外側だった。


    人は案外、人の目を気にして生きている。
    恥をかかないように。
    変に思われないように。
    浮かないように。
    オレもそうだ。
    けれど、ごくたまに、何かの拍子に、そういうものが全部消える瞬間がある。
    ガンちゃんに送った『乾杯』が、そうだった。

    あの夜、うまく歌おうとも、格好よく見られたいとも思っていなかった。
    ただ、届けたかった。
    それだけだった。
    あの夜のことは、今も消えない。
    なぜ残っているのかは分からない。
    けれど人生には、ときどきそういう瞬間がある。
    後になってから意味を持ち始める時間だ。

    その頃はまだ気づいていなかった。
    そんな時間を、ごく自然に生きている人たちがいることを。
     
    一人は、過疎の島を本気で復活させようとしている男。
    もう一人は、猫に囲まれて暮らしながら、目の前の一日を愛している女性。

    その頃のオレは、まだ二人のことをよく知らなかった。
    いや。本当は、自分のことすら分かっていなかったのかもしれない。

    けれど今振り返ると、あの夜からもう始まっていた。

    画像

    第三章 法被の夜

    通夜と葬儀の日程が決まった。
    けれどオレは、それまで待つ気になれなかった。
    どうしても、その前に会いたかった。
    ともちゃんにLINEを送った。
     
    「昨夜は本当にありがとう。
    ともちゃんのおかげで、ガンちゃんと話ができた。
    ああしてキャッチボールできて良かった。
    ところで通夜には行けそうにない。
    その代わり、明日、最後に会いに行きたい。宅間と二人で行きたい。」
     
    しばらくして返信が来た。
    「納棺に立ち会いませんか。」
    納棺…。しばらく画面を見つめた。
    その言葉の重さが、すぐには飲み込めなかったが
    「行きます。」そう返した。
     
    夜になって、またともちゃんから連絡が入った。
    「ガンちゃんを祭りの装束で送ってあげたいんです。法被を用意できませんか。」
    時計を見ると夜九時を過ぎていた。
    祭りの法被は個人の持ち物ではない。町内で管理している。
    普通なら難しい時間だった。
    それでも何人かに電話、事情を話すとみんな二つ返事だった。

    「分かった」
    「今から聞いてみる」
    「なんとかするわ」

    ありがたかった。
    ガンちゃんのためならと、その一言で何人かが動いてくれて、
    しばらくして法被が見つかった。
    そして、夜十一時のちょっと前に持って来てくれた。
    間に合ったー--。ほっと息を吐いた。
    なぜか、それだけで少し救われた気がした。
    法被を見ながら、ガンちゃんのことを考えた。
     
    小学校三年のとき、ガンちゃんは転校してきた。
    仲間の輪ができあがった頃だったから、子どもなりに大変だったと思う。
    おとなしいやつだった。
    勉強も運動も、それほど目立たない。声も大きくない。
    休み時間に中心になって騒ぐようなタイプでもなかった。
    だから正直、小学生の頃はあまり話した記憶がない。
    家は近所だった。歩けば数分。
    しかし、オレはスポーツ少年団の仲間とばかり遊んでいた。

    その頃のオレは勉強もスポーツもそれなりにできた。
    ありがたいことに周りからも評価されていて、
    毎年、学年はじめの学級委員に選ばれた。
    当時はそれが嬉しかった。期待されることも、頼られることも。
    けれど今思えば、ずいぶん肩に力が入っていた。
    期待に応えようとしていた。
    良い子でいようとしていた。
    周りからどう見られるかをいつも気にしていた。
    ところが高校へ行くと自分より勉強のできるやつも、運動のできるやつも山ほどいることを知った。
    そのとき不思議とほっとした。
    無理して頑張ってきたことから解放された。
     
    ガンちゃんはそんなことは知らない。
    高校も別だったし、その後しばらく会うこともなかった。
    再び会うようになったのは二十年ほど前。
    祭りだった。
     
    東京から帰ってきたガンちゃんを囲んで、自然と飲み会をするようになった。気づけば、毎年の恒例になっていた。
    そこで見たガンちゃんは、子どもの頃とは少し違っていた。
    いや、変わったというより、変わろうとしていた。
    昔のガンちゃんなら絶対に言わないような冗談を言った。
    下ネタも言った。
    みんなを笑わせようとしていた。
    「乳もませて〜」も、その頃だった。
    オレは本当に驚いた。そんなことを言う男じゃなかったから。

    けれど今思う。あれは無理をしていたわけじゃない。
    ガンちゃんなりに殻を破ろうとしていたんじゃないかと。
    大人になって、ガンちゃんから聞いたことがある。
    自分は昔から劣等感があった、と。
    勉強もスポーツも中途半端だった。
    人前に出るのも得意じゃなかった。
    もっとできる男になりたい。もっと立派になりたい。
    そんな話だった。
     
    そのままで十分なのにと、オレは思った。
    ところが人は、自分のことになると分からない。
    そんな話をする一方で、祭りになると本当に楽しそうだった。
    太鼓台をかいているときも、飲み会で笑っているときも、子どもみたいな顔をしていた。
    田舎が好きだったのだと思う。
    祭りが好きだったのだと思う。
    そして何より、昔からの仲間と遠慮なく話せる時間が好きだったのだと思う。
    だからこそ、ともちゃんは、祭りの法被を着せて送りたいと思ったのだろう。法被を畳みながらそんなことを考えた。
     
    明日、東京へ行く。
    ガンちゃんに会う。
    本当は生きているうちに会いたかった。
    オレは法被を丁寧に畳み、バッグの中へしまった。

    第四章 東京、納棺

    六月十四日。
    朝早く愛媛を出た。宅間と二人だった。
    新幹線の中で何を話したのか、あまり覚えていない。
    祭りの話をしたかもしれない。ガンちゃんの話をしたかもしれない。
    気持ちはずっと東京にあった。
    バッグの中には法被が入っている。
    それだけが、確かな手触りを持っていた。
    赤レンガ調の東京駅に着いた、7年ぶりの東京だった。
    在来線に乗り継ぎ、ともちゃんの待つ世田谷の家へ向かった。
     
    初めて訪れる、三階建ての大きな家だった。
    ともちゃんのご両親。お姉さん夫婦。そしてガンちゃん一家。
    みんなで暮らしていた。
    ともちゃんが迎えてくれた。
    画面越しでは何度も見ていた顔だったが、会うのは初めてだった。
    「遠いところ、本当にありがとうございます」
    少しやつれているように見えたが、とても落ち着いていた。
    もうずっと前からこの日を受け止めてきたのだろう。
    ガンちゃんが選んだ人らしいなと思った。
     
    部屋へ案内された。
    東京に住む同級生たちも来ていた。久しぶりに顔を合わせ、近況を話したり、ガンちゃんの思い出を語り合ったりした。みんな静かだった。
    ガンちゃんがつないでくれた縁だった。

    やがて納棺の時間になった。
    部屋へ入るとガンちゃんがいた。
    しばらく足が止まった。
    その姿を見た瞬間、何かが胸につかえた。
    数日前、スマホの画面で見た顔だった。
    けれど違った。あまりにも静かだった。

    ガンちゃんは目を閉じていた。
    苦しそうな表情はなく、穏やかな顔だった。眠っているようにも見えた。
    でも違う。その違いだけは、はっきりと伝わってきた。
    オレは近づいた。声をかけようと思った。
    けれど何を言えばいいのか分からなかった。

    やっと会えたな。
    でも遅かったな。
    そんな言葉ばかり浮かぶ。

    手に触れた。
    冷たかった。
    それなのに、首筋には血管の筋がうっすらと浮いていて、今にも目を開きそうだった。
    ああ。本当に死んだんだ。
    その冷たさが、ようやく現実を連れてきた。
    人が死ぬということは、こういうことなのか。
    何年も一緒に祭りで笑っていた男が、酒を飲んでいた男が、
    ついこの前まで電話で話していた男が、こうして動かなくなっている。
    そのことが、どうしても結びつかなかった。
     
    法被を着せる手伝いをした。みんなで形を整えた。
    祭りの装束を身につけたガンちゃんは、少しだけ生き返ったように見えた。祭りの日の顔だった。太鼓台の話をしているときの顔だった。
    「似合っとるな」と誰かが言った。
    みんな少しだけ笑った。
    そして少しだけ泣いた。

    しばらくして納棺師さんが髪を整えていた。
    ガンちゃんは昔から髪が多かった。
    その立派な髪に少し手を焼いているようにも見えた。
    場の空気を少しでも和らげたくて、オレは言った。
    「ガンちゃん、髪の毛分けてや」
    その場に小さな笑いが起きた。
    ほんの少しだけだった。
    けれど、その時間はガンちゃんらしかった。
     
    部屋の隅では、子どもたちが過ごしていた。
    ともちゃんが明るく振る舞っていたからだろうか。
    子どもたちは、思っていたほど悲しそうには見えなかった。
    長男のたいちは静かに父親のそばへ行き、そっとおでこにキスをした。
    まだ小さな娘、ゆずなちゃんも、真似をするように近づいて、同じようにおでこへキスをした。

    悲しい場面のはずなのに、不思議と温かかった。
    とても自然で、やさしい時間だった。
    ガンちゃんは幸せ者やな。
    そんな言葉が胸の奥からあふれてきた。 

    ガンちゃんは、この子たちのことが大好きだった。
    祭りの飲み会でも、よく子どもの話をしていた。
    オレら世代の集まりでは、子どもの話題なんてあまり出ない。
    けれどガンちゃんだけは違った。
    休みの日にどこへ連れて行ったとか。
    最近こんなことができるようになったとか。
    そんな話になると、本当にうれしそうだった。
     
    ガンちゃんは再婚だった。
    四十代後半で家庭を持ち、五十前と五十後に二人の子どもに恵まれた。
    だからだろうか。
    話す顔はいつも少し照れくさそうで、それでいて誇らしげだった。
    もっと見ていたかっただろうな。
    子どもたちの成長を。家族の未来を。見たかっただろうな。
    納棺が終わったあと、ともちゃんと少し話した。
    疲れているはずなのに、気丈に振る舞っていた。
    何度も礼を言われた。礼を言うのはこっちの方だった。

    ガンちゃんと一緒になってくれてありがとう。
    あいつに家庭をつくってくれてありがとう。
    子どもたちを授けてくれてありがとう。

    そう言いたかった。
    けれど実際には、うまく言葉にならなかった。
    最期に会わせてもらった。
    最期に声を届けさせてもらった。
    そのお蔭でここへ来ることができた。
    ただ、そのことだけを伝えた。

    帰る前、もう一度ガンちゃんの顔を見た。
    不思議なくらい穏やかだった。
    オレはここ数年、仏教や哲学を学んできた。
    死についても考えてきた。
    人は死なない。向こうの世界がある。
    そんな話もたくさん読んだ。
    けれどその日、冷たくなった友人の手に触れたとき、そういう言葉は全部どこかへ消えてしまった。
    残ったのは一つだけだった。

    ガンちゃん。おらんなったな。

    画像

    第五章 アルジャーノンに花束を

    東京から帰ってしばらくした頃だった。
    部屋の本棚を見ていて一冊の本が目に入った。

    『アルジャーノンに花束を』

    ガンちゃんからもらった本だった。
    本を手に取ると、いろんなことを思い出した。

    ガンちゃんは本が好きだった。
    祭りの飲み会でも、本の話をすることがあった。
    といっても、文学青年みたいな感じではない。
    いろんな本を読んで、少しでも自分を成長させたい。
    そんな思いが強かったように思う。
    ガンちゃんは昔、自分には劣等感があったと言っていた。
    勉強も。
    スポーツも。
    人付き合いも。
    全部中途半端な気がしていたらしい。
    もっと賢くなりたい。
    もっと立派になりたい。
    もっと自信を持ちたい。
    そんな話を聞いたことがある。
    オレはそのたびに、そのままでええやないかと思った。
    けれど人は、自分のことになると分からない。
    ガンちゃんもそうだったのだろう。
    ずっと、自分なりの答えを探していたのかもしれない。

    そんなガンちゃんに、オレはいろんな本を送った。
    死についての本。
    哲学の話。宇宙論。
    オレなりに整理した文章。
     
    実を言うと、それまではあまりそんな話はしていなかった。
    祭りの飲み会で哲学の話なんてしようものなら、たいてい茶化される。
    死についての話も同じだ。
    みんな悪気はない。けれど酒の席では重たすぎる。
    だからいつも、祭りの話や昔話ばかりだったし、それはそれで楽しかった。
    ただ、ガンちゃんが病気になってからは違った。
    今なら伝えられるかもしれない。
    いや、伝えなければいけない気がした。

    オレが長いこと学んだり考えてきたこと。
    死について。
    人が生きるということについて。
    そんなものを少しずつ送るようになった。
    ガンちゃんは真面目に読んでくれた。
    感想もくれたし、質問もしてくれた。
    そのやり取りはとても楽しかった。
    同級生とこんな話ができるとは思っていなかった。
    そしてある日、今度はガンちゃんから送られてきた一冊の本が
    『アルジャーノンに花束を』だった。 

    正直に言う。
    そのときのオレには、この本の良さがまるで分からなかった。
    少し読んで本棚へ戻した。そのまま忘れていた。
    けれどガンちゃんが亡くなってから、この本のことが気になって調べてみた。

    知的障害を持つ青年が、手術によって天才になる物語だった。
    頭が良くなれば幸せになれるのか。
    人は何によって価値が決まるのか。
    そんな問いが流れているという。
     
    ガンちゃんらしいな、って思った。
    ガンちゃんはずっと頑張ろうとしていた。
    もっと立派になろうとしていた。
    もっと良い自分になろうとしていた。
    けれど本当に欲しかったものは、そこだったのだろうか。

    祭りで笑っているとき。
    子どもの話をしているとき。
    ともちゃんの話をしているとき。
    あいつは幸せそうだった。
    少なくともオレにはそう見えた。
    なのに本人は、いつも何か足りない気がしていた。
    その気持ちもなんとなく分かる。オレも同じだからだ。

    今なら読める気がした。
    いや、今だから読まなければならない気がした。
    ガンちゃん。
    お前が何を思ってこの本を送ったのか。
    それはもう聞けない。
    だから読むね。
    オレは『アルジャーノンに花束を』を開いた。

    画像

    ▶ 第二部「島へ向かう」

    #創作大賞2026
    #エンタメ原作部門

     

     
     
    愛媛県の酒屋店主。趣味は空手、読書。昔ある宗教に属するも心がついていかず頓挫。2023年のある出会いをきっかけに再び精神世界の探求がはじまる。驚きの宇宙論、全く新しい人間意識の捉え方に目からウロコの毎日なり♪

    あなたへのおすすめ