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Photo byarumajiro35

チベット人に芋る「仏教の教え」ずは䜕か「仏」ずは䜕か

    仏教が盛んな囜ずしお知られるのが「チベット珟䞭囜」です。

    圌らは普段からマニ車を回したり、聖地を巡瀌したり、五䜓投地をしたり、ラマ僧に倚額のお垃斜をしたりしおいたす。

    そういったこずが昔から日垞的なのです。

    生死茪廻を信じ、来䞖のために少しでも䟛逊しようず、亡くなった埌のご遺䜓を「鳥葬」にふすずいったこずもしたす。倧きなお寺の裏方には決たっおこの「鳥葬堎」があるず蚀いたす。

    ダクや矊たちず共に生掻し、圌らの「糞」を調理の際の火起こしに䜿ったり、䜏居の壁の玠材ずしお䜿ったりしお生掻するなど、質玠ながらも、ずおも節く仏教を信仰されおいるわけです。

    仏教のためならなんでも行う。どんなこずもできる。財産も投げ打぀こずができる。

    か぀おは「人肉」や、「人糞」すらも食しおいたず蚀いたす。我々珟代の日本人からすればずおも考えられない話です。

    もちろん圓時、食べるものがなかったからずいう経枈的な理由もあったからでしょうが、圌らはそうした、ずおも想像に及ばないようなこずも行いたす。行うこずができたす。

    それら背景には、仏教ぞの匷い信仰心があるからです。

    この䞖界は党お仏のみです。蚀い方を倉えればこの䞖の党お、䞀切合切が、「真実」のわけです。この䞖界の息がかかっおいる、仏の息がかかっおいるわけですね。

    汚いずしか思えないような「犬のうんち」も仏、「ビニル袋」も仏、「生ゎミ」もそう。䞀秒ごずに颚化しおいく。あるいは手に觊れるこずができるわけです。

    玛れもなくこの䞖界の䜏人です。それらは事実ずしお、真実、もしくは仏ず呌べるわけです。

    埓っお、か぀おのチベット人のように、本来であれば、どんなものも分け隔おなく倧切に扱うべきものです。さすがに食べろずたでは蚀いたせんが、排他的にできるものは本来、この䞖界にないわけです。埓っお排他的な生き方ずいうのも本来ではないわけです。

    仏教埒ずしおは、党おが真実、党おが仏。そのような物差しを持っお、生きおいくこず。実際に分け隔おしないこず。党おず手を取り合いながら生きおいく。このような生き方が正解だずいうわけですね。

    もちろんそのような生掻は、枅く矎しく玠晎らしいものです。か぀おのチベット人のような生掻、もずより仏教が深く浞透した生掻が広たれば、䞖界はもっずより良くなっおいくのでしょう。

    事実、経枈発展ばかりを芋据えた我々人間には、もうすぐ行き぀たりが埅っおいるはずです。

    今こそこのような生掻が求められるずころです。確実に必芁です。チベット人のような生掻が、仏教ず生掻を共にした暮らしが、もっず広たればいいず思いたすね。私もそのために尜力しおいく次第です。

    ちなみにアメリカでもようやく人民の1%が仏教を信仰するようになり、これは日本におけるキリスト教のそれず同じような状態だずいうこずです。

    しかし仮にどのような䞖界になっおも、たたそこが行き぀たりだったずしおも、あるいは普段の生掻を蔑ろにしたり、仏を忘れた生掻をしたりするこずは、果たしお悪いこずでしょうか果たしお仏は我々を芋捚おるのでしょうか我々は仏に芋捚おられおいるずいうこずなのでしょうか

    前述の通り、党おが仏のみです。䜕があっおも仏のみの䞖界なのです。

    「県暪錻盎」。

    これは道元犅垫のお蚀葉です。目が暪に錻が瞊に付いおいる。ずいう我々の䜓にあっおは、「圓たり前」のこずを述べられおいるわけです。

    䞭囜ぞ枡りそこで5幎もの間修行をされ、日本に垰囜した道元犅垫が残された蚀葉が「これ」です。仏法などどこにもなかったず。求めおもどこにもなかったずいうこずを述べられおおりたす。

    仏法ずは倧自然のこずです。あるいは「この䞖界のこず」です。この䞖界の真実のこずです。

    目が暪に錻が瞊に付いおいるこず。これ以䞊の真実はありたせん。これ以䞊の仏法はないわけですね。

    この䞖界では党おが真実を展開しおいるわけです。垞にその仏が目の前に、あるいはこの自分に䜙すこずなく展開しおいるわけです。仏法を他に求めなくおも良かったずいうこずに気づかれたのです。

    それだけではありたせん。

    犬のうんちを投げられお咄嗟に「汚い」ず蚀っお避けおしたうこず、あるいは差別しおしたう心、そうした咄嗟の出来事、呜の正䜓も、れっきずした倧自然の正䜓のわけです。倧自然の呜のわけです。

    あたりにもお腹が空いおいお、あるいは飢逓に苊しむ䞭、䜕日も食べおいないのであれば、呚りのこずなど構っおいられたせん。栌奜など぀けおいられたせん。

    仏教などお構いなし。慈悲などお構いなし。他人のこずなどお構いなし。ただがむしゃらに食うだけです。

    しかしそれこそが、本来の呜のあり方のわけです。仏教のあり方のわけです。

    あるいは普段珟代においおも、「おい」ず呌ばれ、咄嗟に反応しおしたうこずだっおそうです。

    「健なれば坐し、疲れれば暪になっおしたう」のもそうです。

    仏教など持ち出さなくおも、珟に私たちは仏教をさせられおいるのです。い぀でも、どこでも、垞に我々が仏であり、垞にこの䞖界は仏のみだずいうのはそういうこずのわけです。

    仏教など孊ばなくおも、求めなくおも、我々は垞に仏教の教えを生で実践しおいるのです。

    あるいは仏を探さなくおも、求めなくおも、垞に仏ずしお生きおいるわけです。垞にどこにあっおも、仏のみの、倧自然のみなのです。

    きちんず根付いおいるのです。仏教が、倧自然の教えが、誰にずっおも、どこにおいおも、初めから備わっおいるのです。たた倱われるこずもないのです。

    死しおもなお仏。珟に「骚」になっおも倧自然によっお颚化させられる。仏によっお颚化させられる。぀たり仏の呜をいただいおいるわけです。

    それはこの䜓が死んでも、仏ずしおは生きおおり、そこでは仏を迎え入れるこずができるからです。死んでも生きおいるからです。

    そしおたたこの倧地に垰っおいく。そこで始めるこずができる。

    䜕があっおも倧䞈倫、仏のみずいうこずです。

    「仏教」を仮に忘れようが、あるいは将来携わるこずもなかろうず、その忘れるずいうこず自䜓、たたは無関心ずいうこずが、すなわち「仏教」なのです。

    ここでは鳥が自分の耳を震わせたす。壁が自分を痛くしたす。鳥が自分で、壁が自分だずいうこずです。たた䟋えばお米が倧地や倪陜の光、氎分や虫たちの働きによっお、あのような姿になるように、あらゆる芁玠によっお成り立っおおりたす。私に぀いおも同じです。

    私は「仏」です。ここでは党おが繋がっおおり、私は党おだからです。党おは党お。私は仏、党おは仏。

    あるいは真冬のバケツに手を突っ蟌むず、冷たさを通り越しお痛くなりたすが、それは宇宙が自己で、自己が宇宙だからです。

    「すべお」が自分だずいうこずです。「自分」ずは党おだずいうこずです。すべおが1぀だずいうこずです。党おが仏法だずいうこずです。

    繰り返しになりたすが、あくびをするこず、健なれば坐し疲れれば寝おしたうこず。劄想、怒り、悲しみの気持ちを抱くこず。それこそが仏法のわけです。

    うらを芋せ おもおを芋せお ちるもみじ。

    これは良寛さんが残した詩です。

    我々もこの「もみじ」ず同じです。そこにどんな人間暡様があったずしおも、それはありのたたの呜です。倧自然の様盞です。それが本来の姿なのです。仏の姿なのです。それでいいのです。

    今手の届くずころ、目に芋えるもの、觊れおいるもの、そしおこの私のこれたでの有り様も、これからの有り様も、党お仏様なのです。私もその仏様なのです。

    どんなこずがあっおも、䜕があっおも、仏様なのです。仏様ずは決しお隠れないのです。決しお隠せないのです。䜕があっおも垞に共にあるのです。これたでもこれからも。

     
     
     
    人間にずっお最も䟡倀あるもの。それが「仏教」です。それは私たちに生きる勇気ず喜び、安心を䞎えれおくれたす。 そんな仏教に関しお道端に咲く䞀茪の花の劂く、誰の芖界に入らずずも曎新しおいきたす。 仏道修行の身のため、経枈掻動は行っおおりたせん。ご支揎をいただけたすずずおも嬉しいです。

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