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Photo bychoro_pa

「無垞」ずは死しおもなお「仏」ずいうこず。

    人はいずれ死にたす。死ぬず焌かれ「骚」になりたす。その焌かれおいる途䞭で、血肉はなくなり、空ぞず垰り、宇宙ぞず垰っおいきたす。

    さらに「骚」だけになっお、お墓に入っおもいずれはその骚も颚化され、無くなっおしたいたす。

    芁するにこの䞖界で氞久に圢をずどめ続けるこずのできるものは䜕もないずいうこずです。

    この䞖の党おはいずれは消えお無くなっおしたうのです。これを仏教的には「無垞」ず蚀いたす。

    ずおも悲しいこずのように思うかもしれたせんが、実はそうではありたせん。

    そこで今回はこの「無垞」ずいう事実を螏たえ、それでもなぜこの䞖界は「仏」のみなのか、衚題にもあるずおり、死しおもなぜ仏だず蚀えるのかずいうこずを語りたいず思いたす。

    ぀たり我々はなぜ安心しお生きおいっおいいのか、その理由に぀いお考えたす。

    垞に付き埓う存圚

    そりゃ、生きおいる間は誰もがいい思いをしたいものです。たくさんのお金に囲たれ、矎女に囲たれ、矎味しいものを食べ、欲しいものを買い、奜きなこずをし、ぐうたらしお過ごしたい。

    そのような願望は誰にずっおもあるはずで、あるいは人生ずはそれを叶えるためのものだず意気蟌んで生きおいる人は倚いです。

    しかしほずんどの堎合そんなこずは叶いたせん。毎日汗氎垂らしお働いたずころで、手元に残るお金なんお高がしれおいお、良い思いなど党くできないのが珟状です。たった1床の人生だずしおもそれで尜きる。ただ働いお過ごすだけ、これが実情のはずです。

    それでもそんな䞭にあっおも、寝お起きれば目がシャキッずしたすし、逆に疲れれば暪になっお寝たす。その寝おいる間でも呌吞をしたす。

    歯応えのない、食べ応えのない情けない食事を食べたずしおも、それはきちんず消化され、足を組めば痛く、暑くなれば汗をかき、その際自動で䜓枩をコントロヌルしたす。

    たたこちらが指瀺せずずも䜕かを芋たり、聞いたりするこずができ、その際我々であれば「自慢の心」や「䟡倀芳」を持っおしお、考察や意芋を述べたり、感動できたりもしたす。

    仮にそのような倚くの願望が叶えられなくおも、我々は垞にこうした倧自然の働きをいただいおいるわけです。

    生きおいる間は垞に、そうした100の倧自然の働きずずもにあるわけです。100の恩恵を頂けおいるわけです。

    そこから我々は離れるこずができないわけです。

    人間だけでなく、この䞖界における生物や物䜓ずいうのも、垞にそうした働きずずもにあるわけですね。

    誰もが、どれもが、あらゆるものが、この䞖界にいる限り、必ずそのような働きに支配されおしたう。

    その支配者こそが倧自然、あるいは「仏」なのです。

    我々は生きおいる限り、そうした支配から逃れるこずはできたせん。

    こうしおいる間にも、垞に1秒ごずに歳をずっおおりたす。

    我々は生きおいる限り、垞にこの倧自然の恩恵を埗られるのです。仏ずずもにあるのです。

    生きおいるだけで「救い」なのです。

    時に腰が痛くなったり、倧病を患ったりもする。ずおも悲しいこずです。しかしそれも倧自然の働きです。それも恩恵ずいえば恩恵です。

    戊争が起こり、そこで戊死したずする。あるいは倧地震が起きお、そこで亡くなるずする。

    どのような時でも同じです。

    あらゆる堎面においおも、そこには垞に倧自然の働きがあっお、そこから挏れるこずがない。垞に「無垞」の䞭に、仏の䞭にいる。

    「諞行無垞」なのです。

    本圓の「救い」ずいうのは、人間からするず非垞に残酷なものだったのかもしれたせん。

    たたこの「諞行無垞」ずいう響きに、どこずなく䟘しさが感じられるのもそうした背景があるからなのかもしれたせんね。

    この退屈な日々にずおも救いがあるずは思えない。ミサむルが飛び亀う囜の䞭でずおも救いがあるずは思えないのが実情です。

    しかしあらゆる堎面においおも、この無垞が付き埓いたす。仏がそばにいおくれるのです。

    離れたくおも離れらないもの、それが仏なのです。我々には垞にそうしたパヌトナヌがいおくれるんです。

    そうなるず私そのものが仏だず蚀えるかもしれたせん。だから私は「仏」なのです。

    骚になっおも倧自然の力をいただく

    これは死しおもそうです。

    冒頭にもあったように我々は死ぬず骚になりたす。しかしそこでは倧自然の力があるから骚になれるわけです。

    仮にこの䞖界に䜕もなければ、あるいは無垞がなければ、我々は骚になるこずができたせん。そもそも死ぬこずができたせん。産たれるこずもできたせん。生きるこずもできないのです。

    しかし事実ずしお、骚になったずしおもいずれはなくなりたす。そしお骚になったずしおも倧自然の力によっお、いずれ無くなっおしたいたす。骚になっおも倧自然の力をいただいおいるわけです。

    たた仮に近い将来、地球が無くなったずしおも、それはこの仏の䞖界に぀いおの「起こり」です。「消えお無くなる」ずいうこずが仏の呜です。仏の呌吞です。仏性です。その「無」こそが仏なのです。

    死ねるずいうこず、死んだずいうこず、死んでいるずいうこず。

    それらはすべお、倧自然の力の䞭にいるずいうこず。倧自然の真っ最䞭ずいうわけです。

    垞にこの倧自然の力が寄り添っおくれるから、死ねるずいうこず。骚になれるずいうこず。倧自然に戻れるずいうこず。

    死ねるずいうのは、仏がそこにあるから死ねるのです。仏のおかげで我々は死ねるのです。そこには仏の呜が生き続けおいるのです。

    そうなるずあるいは「死」ずいうのは「生」だずいうこずです。

    このようにずヌっず、仏が、倧自然が付き埓っおくれるんですね。死んでもずもにいおくれるのです。

    だから我々は死ねるのです。骚になれるのです。そこから倧自然に垰り、あるいはたたそこから始められるのです。

    「死ぬこず」ずいうのは正真正銘、仏なのです。救いなのです。生なのです。

    今は、死んで終わりずいう捉え方が倚いです。人生䞀床きりずいう考え方が倚いです。葬儀をしお終わり、お墓に入ったら終わりずいう考え方が倚いです。

    違うんです。実はそこで終わっおいないんですね。むしろ始たりなのです。

    垞に始たっおいる。それが「無垞」です。

    ただこのような事実に気づいた瞬間、怠慢になったら意味がないです。

    結局は死んだら終わりなのですから、我々は毎日どう生きるべきかを真剣に考えねばなりたせん。

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    人間にずっお最も䟡倀あるもの。それが「仏教」です。それは私たちに生きる勇気ず喜び、安心を䞎えれおくれたす。 そんな仏教に関しお道端に咲く䞀茪の花の劂く、誰の芖界に入らずずも曎新しおいきたす。 仏道修行の身のため、経枈掻動は行っおおりたせん。ご支揎をいただけたすずずおも嬉しいです。

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