
第2話:売れないマーケター 売上がゼロなら、僕の価値もゼロだと思っていた--でもキミは | キミと僕と心の利益率
※これは連作です。前回の記事は下記です。ストーリーとして公開しています。マーケティング理解促進のための実験的作品ですので読み方GuideをPDFで参照して頂けるようにしました。→ https://nich-idea.com/kimikoiguide
下記は前回の記事1話目
下記は次の3話目です。
第4話公開:今度は「キミ」から見た世界です。
1〜3話で楠瀬が推定していた彼女の気持ちは、本当はどうだったのか。キミの気持ちも名前も明らかになります。
あらすじ
売上が立たず、このままではあと五か月で資金が尽きる。
追い詰められていく楠瀬は、次第に彼女の店にも足を運べなくなっていた。
お金を使えない自分。
仕事で役に立てない自分。
何も与えられない自分。
そんな自分に、彼女と会う価値があるのだろうか。
人がなぜ商品を選ぶのかを考え続けてきたマーケターの楠瀬は、彼女が自分を選ぶ理由まで理屈で理解しようとする。
しかし彼女が求めていたのは、価値でも、利益でも、役割でもなかった。
仕事とお金、価値と愛情。
すれ違う二人の感情を通して、「人はなぜ誰かを選ぶのか」を描いた、マーケティングの理屈を散りばめた恋愛小説。
感情起点のマーケティングの理屈を、ストーリーによる感情の揺れ、それを言っているのがマーケティング上の感情であると理解して頂けます。
第一章 夜を使い切るように
まだ、そこそこ金が残っていた頃、僕はよく酒を飲んだ。
しかも、あまり上品な飲み方ではなかった。
仕事を終えて誰かと食事をして、ワインを一本飲んで帰るような酒ではない。
お金を垂れ流すように使う、ただ、ただの浪費。
帰りたくなかった。
たぶん、それだけだった。
夜遅くまでパソコンに向かい、文章を書き、広告を作り、画像を選び、販売ページを直して、アクセス解析を見た。
今日も問い合わせはなかった。
今日も売れなかった。
何時間もかけて公開したものにも、ほとんど反応はなかった。
そういう日は、パソコンを閉じることが嫌だった。
閉じた瞬間に、
今日も駄目だった。
という結果だけが確定してしまうような気がしたからだ。
だから歓楽街へ出た。
最初の一杯は、まだ気分転換だった。
二杯目も、たぶんそうだった。
けれど三杯目あたりから、酒を飲みたいのか、夜を終わらせたくないのか、自分でも分からなくなった。
店を変えた。
もう一軒だけ。
もう少しだけ。
知らない人とくだらない話をして、笑って、金を払った。
また別の店へ行った。
金を使っている間だけは、自分がまだ大丈夫な側にいるような気がした。
僕には昔、事業がずいぶんうまくいった時期があった。
だから金を使うことに対する感覚が、少しおかしくなっていたのだと思う。
人と飲めば多く払った。
店へ行けば、できるだけ金を使った。
誰かに何かしてもらえば、すぐに返そうとした。
困っている人がいて、金で解決できることなら出した。
善人だったからではない。
たぶん、それが僕にとって一番簡単だった。
金を出せば、その場では役に立てる。
喜ばれる。
少なくとも、そこにいていい理由になる。
若い頃の僕の中では、
金を払えることと、
自分に価値があることが、
かなり近い場所に置かれていた。
そんなことに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
第二章 マーケターだって、作品を作っている
マーケティングという仕事は、外から見ると随分と論理的な仕事に見えるらしい。
市場を調べる。
競合を見る。
誰に売るのかを決める。
価格を決める。
広告を作る。
数字を分析する。
改善する。
もちろん、それは間違っていない。
僕だって同じことをする。
でも、企画から制作、実装まで一人でやっている人間にとって、仕事はそんなに整然としていない。
最後には必ず、自分で決めなければならない。
このタイトルでいく。
この写真でいく。
この言葉を一番上に置く。
この価格にする。
この順番なら最後まで読んでもらえると思う。
この商品なら誰かに必要としてもらえると思う。
どれだけデータを見ても、最後の数センチには自分の判断が残る。
そして公開する。
そこから先は、他人が決める。
読むか。
読まないか。
クリックするか。
閉じるか。
問い合わせるか。
買うか。
いまはAIで一人起業ができるとか、AIを使えば事業を自動化できるとか、景気のいい言葉が飛び交っている。
確かにAIは文章を書く。
画像も作る。
企画案も出す。
広告案も作れる。
コピーだって百本くらいなら一瞬で出てくる。
でも、百本出たからといって百本売れるわけではない。
むしろ困る。
どれを使うのか決めなければならないからだ。
何をAIに渡すのか。
どんな一次情報を与えるのか。
どこが違うのか。
何を直すのか。
何を捨てるのか。
何を世の中へ出すのか。
最後に判断するのは人間だった。
僕の仕事がなくなったというより、
自分の手ですべてを書く人から、
編集者や監督のような立場へ少し変わっただけなのだと思う。
最後に選ぶのは僕だ。
最後に世の中へ晒すのも僕だ。
そして、それが売れなかったとき、
AIが傷ついてくれるわけではない。
販売ページまで全部自分で作れば、なおさらだった。
それは人間の僕が一生懸命に作った作品なのだから。
写真を決める。写真なんて簡単に決められる?そんなことはないんだ。数千枚の中から選ぶ、探すんだよ。
コピーを書く。
最初の一画面で何を見せるかを決める。
どこで実績を見せるか。
どこで価格を見せるか。
どこで不安に答えるか。
最後のボタンに何と書くか。
そこまで自分で組み上げたものは、僕にとって単なる商品ページではなかった。作品だった。
漫画家が何本もの線から一本を選ぶ。
小説家がいくつもの言葉から一文を選ぶ。
写真家が何百枚の中から一枚を選ぶ。
僕も似たようなことをしていた。
何日も考えて作ったものを世の中へ差し出して、
それでも反応がなければ、
商品が売れなかった、
というだけでは終われないことがある。
自分の作ったものが拒絶されたように感じる。
もっと悪い夜には、
自分そのものが拒絶されたように感じる。
無力感に苛まれ、世界から隔絶された孤独の中に沈んでいく気がするんだ。誰に責められているわけでもないけれども。
もちろん、世界は僕を責めているわけでもないことを
マーケターとしての僕は知っていた。
露出が足りないのかもしれない。
市場が違うのかもしれない。
価格かもしれない。
タイミングかもしれない。
競合かもしれない。
アルゴリズムかもしれない。
理屈ならいくらでも説明できる。
でも、夜中に一人で画面を見ていると、その理屈はあまり役に立たなかった。
問い合わせはゼロ。
売上もゼロ。
数字のゼロが、
自分そのものに見えてくる。
そしてキミにこんなこと言えない。本当は会いたい。でも、もう手渡せるものもない。楽しい時間も作れないかもしれない。
そんな僕にきっと価値はないのだろう。
キミが見ているのは、多分普通にやっているマーケターの僕なのだから。
できないこともある、ヤバいこともある、でも、きっと他人はそれを許してくれない気がする。
きっと、キミもそうなんだろう。と思うと
たまらなく、怖くなった。
破綻の足音とキミを失うであろう恐怖が両方襲ってくる。
第三章 あと五か月で資金ショート
あと五か月。
資金がもって、五か月だった。
何度計算しても、ほとんど同じだった。
固定費を払う。
生活する。
仕事を続ける。
広告費も少しは必要になる。
何かを試せば、そのためのお金もいる。
そうやって引いていくと、僕に残されている時間は、おおよそ五か月だった。
半年ではない。
一年でもない。
五か月。
百五十日くらい。
そう考えると、余計に嫌になった。
今日が終われば百四十九日になる。
明日が終われば百四十八日になる。
売上が立たなくても、
時間だけは正確に減っていく。
マーケティングという仕事の残酷なところは、働いた時間と売上が比例しないことだった。
十時間働いたから、十時間分の売上が発生するわけではない。
一週間かけてページを作っても、一件も問い合わせが来ないことがある。
記事を何本書いても、何も売れないことがある。
広告を出して、外れることもある。
昔なら、それでもよかった。
外したら、もう一度試せばよかった。
僕は長い間、事業とはそういうものだと思っていた。
何本か外す。
その中で一本当てる。
一本当たれば、それまでの外れを全部取り返せることもある。
でも、そのやり方には前提がある。
次を試せる金があること。
次を作れる時間があること。
そして何より、
自分はまた当てられる、
と思えていること。
その三つが、少しずつなくなっていた。
酒の値段まで変わって見えるようになった。
以前なら一晩10万円使えば、
10万円使った、
で終わった。
今は違う。
残り時間を少し削った。
そう見えるようになった。
それでも飲んだ。
自分でも馬鹿だと思った。
でも、やめられなかった。
でも家へ帰れば、パソコンがある。
パソコンを開けば数字がある。
数字を見れば、
あと五か月、
という言葉が頭の中に浮かぶ。
だから酔っている間だけは、忘れたかった。
作りかけのクリエイティブはたまって、思いついたは良いけれども、試しに出すにしても時間は削られる、当たるとも思えないアイディアが山積みになっていた。
かといって、出さなければ終わるだけ。
何かをしていれば、何かは削られる。
そのグルグル思考のせいで、余計に身動きがとれなくなっていく。
筋肉が収縮して固くなっていくことが自分でも理解できるほど。
背中が痛い。その痛みを感じる度に、僕の精神はまた自分を信じられなくなっていくんだ。
第四章 僕自身が薄くなっていく
お金が減っていくと、不思議なことが起きた。
行けない場所が増えた。本当は行きたいと思うけれども、どの場所もお金がなくなってくると僕の相応しい場所ではないと感じるようになった。
惨めな気分が襲ってくる。
本当は行けないわけではない。
コーヒー一杯くらいなら飲める。
食事だってできる。
でも、昔から通っていた店ほど行きづらくなった。
それは以前の僕を知っている人がいる場所だった。
僕はプライド以前に自己価値が低いのだろう。そしてこの世界の中で、マーケターという人種の中で稼げない奴に価値なんかないんだ。
だから、僕は当てて、お金を使えること、世界に渡すことができることを自分の価値だと信じていた。それが僕の価値であると。
マーケティングで当てれる人間は恐ろしく利益率が高い。だから、生活も派手になっていく。贅沢をしたいわけではなく、仲良くしている人の価値なども考えるとなるべく高く支払いたい。
だから派手になる。本当は懐事情がキツイと思っているときでも
間違ったスピリチュアル的精神で、人のために出せば上がっていくなんてものを言い訳にして、「稼げばいい」と言いきかせてやっていくんだ。
だから今の僕は昔の馴染みの店、高級店の人に
「最近来ないですね」
と言われるのが嫌だった。
「今日はいつもの飲まないんですか」
と言われるのも嫌だった。
昔と同じようにお金を使えない自分を見せることが、ひどく惨めに感じられた。惨めというだけならまだマシだった。
お前に価値なんかないと突き付けられているようで、僕の価値なんてどこにもないような気がして吐き気がするようになったんだ。
だから少しずつ行かなくなった。
人にも会わなくなった。
それは節約なのだと、自分では思っていた。
でも、本当は少し違った。
僕自身が薄くなっていくような気がしていた。
自分で商売をしている人間にとって、口座残高はときどき残酷なくらい直接的だ。
売れない。
だからお金が減る。
お金が減る。
ということは、僕が作ったものに誰も金を払っていない。
その商品を考えたのも僕だった。
コピーを書いたのも僕だった。
ページを作ったのも僕だった。
写真を選んだのも僕だった。
売り方を決めたのも僕だった。
そうすると、最後には、
お金がない=だから僕には価値がない。
そんな馬鹿げたところまで思考が落ちていく。
僕は他人の商売には、そんなことを言わない。
売れなかった理由を分解する。
商品と人間を分ける。
施策の失敗と人格を分ける。
一度広告が外れたからといって、その人の人生まで失敗したことにはならない。価値がないのではなく、購入してくれる人との接続が出来なかっただけだ。
そんなことくらい分かっている。
でも、自分のことになると、それができなかった。
何をしても当たらない。何をしても問合せさえも起きない。
第五章 楽しそうじゃないから
ある夜、歓楽街でかなり飲んだあと、僕はキミの店の前まで歩いた。
もう閉店していた。当然だった。
本当は知っていて歩いてきてしまったのだから。会おうか、連絡しようかすごく迷っていた。
本当は会いたい。
でも、時計を見て、そのまま帰ろうと思った。
そのときスマートフォンが鳴った。
キミからだった。
「そこにいるでしょ」
僕は思わず窓を見た。
カーテンの隙間から、キミがこちらを見ていた。
少しして鍵が開いた。
「何で入ってこないの」
「閉まってたから」
「いつも閉まってから来てたじゃん」
「今日はいいよ」
キミは僕の顔を見た。
「飲んできた?」
「少し」
「嘘」
「何が」
「結構飲んでる」
僕は笑った。
「よくわかったね」
キミの顏は少しばかりいぶかし気だった。
「どこで飲んでたの?」
「いつもの辺り」
「女の人がいるところ?」
「いるところもあるよ」
「ふうん」
「何?」
「別に」
キミはそう言って、先に店の中へ戻った。
何となく、少しだけ機嫌が悪くなったようにも見えた。
でも、その頃の僕は、それ以上考えなかった。
店へ入ると、カウンターの後ろには相変わらず何本もの酒が並んでいた。
キミの店舗にも、キミが入れてくれたのだから営業外なのだからしっかりお金になるようにしなくてはと思った。
ワイン。
ウイスキー。
リキュール。
ヴーヴ・イエロー。
昼間に来る人から見れば、洒落たカフェの飾りに見える。
でも僕は知っている。
その多くは、僕が来た夜に二人で飲むために増えていったお酒だった。売上を高くできるメニュー。時間外の特別メニューだった。
キミは水を置いた。
「今日はお酒出さないよ」
「何で?」
「もう飲んでるから」
「酒いっぱいあるじゃん」
「今日は出さない」
「なんで。一緒に飲もう。いつも一緒に飲んでいるじゃない」
キミは僕を見た。
「だって、楽しそうじゃない。」
僕は黙った。
歓楽街では、そんなこと誰にも言われなかった。馴染みの店、馴染みの女の子、馴染みのボーイ。誰にもそんなこと言われなかった。
何杯飲んだのか。
いくら使ったのか。
今日はどこから来たのか。
そういうことを聞く人はいた。
でも、
僕が楽しいのかどうか、
そこを気にした人はいなかった。
キミだけが、店に入って五分もしないうちに気づいた。
「何かあった?」
「別に」
「別にの顔じゃないよ」
僕はしばらく黙った。
言いたくなかった。
口にしてしまえば、本当にその数字が現実になるような気がした。
でもキミは待った。
だから言った。
「あと五か月なんだよね」
「何が?」
「お金。僕の会社」
キミの表情が止まった。
「今のままだったら、五か月くらいで厳しくなる」
初めて人に言った。
キミはしばらく何も言わなかった。
それから、僕の向かいに座った。
「……怖い?」
僕は少し笑った。
「怖くないわけないじゃん」
その夜からだったのだと思う。
僕がキミを助ける側だけではなくなったのは。
第六章 数字の向こうにいる人
数日後、キミの店で面白いことがあった。
以前、僕たちが作ったチラシを見て来てくれた女性が、今度は友人を連れてきた。
閉店後、キミが嬉しそうに話してくれた。
「今日さ、紹介で新しい人が来てくれたよ」
「誰の紹介?」
「前にチラシ見て来てくれた人」
「へえ」
「今回は広告出してないのに来てくれた」
僕は笑った。
「それが強いんだよ」
「何で?」
「もう広告だけを見て来てるんじゃないから」
「じゃあ何を見て来てるの?」
「その人が、この店なら大丈夫だったよって言ってくれたんでしょ」
キミは少し考えた。
「うん」
「だったら、その人の信用を借りて来てくれたんだよ」
「でも今日、その人に来てもらうために広告費使ってないよ」
「今日はね」
「じゃあタダ?」
「違うよ」
僕は言った。
「その信用ができるまでに、キミがちゃんと積み上げてきたものがある。見えないかもしれないけれど、そこにキミはお金を使っているよ」
「お金を?」
キミは少し首を傾げた。
「それもマーケティングなの?」
「そうだよ」
「広告じゃないのに?」
「広告だけがマーケティングじゃないから」
僕はコーヒーを飲んだ。
「初めてのお店に入るときって、少し怖いでしょ」
「まあね」
「写真は綺麗だけど、本当にいい店なのかなとか。感じ悪かったら嫌だなとか。お金払って失敗したら嫌だなとか」
「あるね」
「でも、自分が信用してる人から『あそこ良かったよ』って聞いたら、その怖さが少し減る」
キミは頷いた。
「だから紹介って強いんだ」
「そう」
僕は言った。
「人は商品やサービスだけを買ってるんじゃなくて、そこにお金を払っても大丈夫だと思える安心まで一緒に買ってることがあるんだよ」
「また難しい言い方するね」
「職業病」
キミは笑った。
その話には続きがあった。
何日かして、その女性がもう一度来てくれた。
キミが何気なく、
「どうしてまた来てくださったんですか」
と聞いたらしい。
その日の閉店後、キミが僕に話した。
「この前の人ね、また来てくれた理由教えてくれた」
「何だった?」
「前に話したこと覚えててくれたからだって」
「何を?」
「仕事で嫌なことあったって話」
「それで?」
「次に来てくれたとき、私が『その後どうですか』って聞いたんだって」
僕は少し黙った。
「それが嬉しかったって」
広告は、人に店の存在を知ってもらうことができる。
写真で興味を持ってもらうこともできる。
文章で、行ってみようかなと思ってもらうこともできる。
でも、二度目に扉を開けてもらう理由は、それだけではない。
覚えていてくれた。
ちゃんと自分を見てくれていた。
雑に扱われなかった。
また行っても大丈夫だと思えた。
僕たちは結果だけを見れば、それをリピート率と呼ぶ。
数字にすれば、それだけだ。
けれど、その数字を作っているものは、
「ここなら私は大切にしてもらえるかもしれない」
という、一人の人間の感情だった。
マーケティングでは数字を見る。
でも、数字を動かしているのは、いつも人だった。
そして人を動かしているものは、最後には感情だった。
欲しい。
怖い。
安心したい。
失敗したくない。
大切にされたい。
自分の選択を間違いだったと思いたくない。
僕たちは、それを顧客心理や購買動機という言葉で整理する。
でも、専門用語を外してしまえば、
ただの人間の気持ちだった。
僕はそのことを、何年も知っていたはずだった。
第七章 正しい説明だけでは、人は動かない
僕自身の商品は、相変わらず売れなかった。
ある夜、販売ページをキミに見せた。
本当は見せたくなかった。
格好悪かったからだ。
「これ、最近作ってるやつ?」
「うん」
キミはしばらく画面を読んだ。
調査。
広告。
写真。
Web制作。
SEO。
集客。
企画。
僕にできることを、一通り書いていた。
「どう?」
僕が聞いた。
キミは少し困ったような顔をした。
「すごいのは分かる」
「じゃあいいじゃん」
「でも、昔の私だったらお願いしないと思う」
少し腹が立った。
「何で」
「私が困ってたことが書いてないから」
「サービスのページなんだから、何ができるか説明しないと駄目だろ」
「うん。でもさ」
キミは画面を指した。
「昔の私がこれ読んでも、自分に必要なのか分からないと思う」
「何で?」
「だって私、SEOやりたいとか、広告やりたいとか思ってなかったもん」
言われてみればそうだった。
「じゃあ、何に困ってたの」
「何からやればいいのか分からなかった」
キミは言った。
「Instagramもやってた。Googleもやってた。予約サイトもあった。でも全然うまくいかなくて、何が悪いのか分からなかったんだ。書き方がいけないのだろうとかは分かっていたけれど。でも、もっと根本的に、わたしがやった店舗が良くないのかな?」と。
僕は黙った。
「だからさ」
キミが続けた。
「『何から手をつければいいのか分からなくなっていませんか』って最初に書いてあったら、昔の私は読むと思う。」
胸の奥に何かが引っかかった。
自分がずっと人に教えてきたことだった。
人は、説明が正しいというだけでは動かない。
そこに自分の悩みを見つけたとき、初めて先を読む。
そして、
この人は自分が何に困っているのか分かっているかもしれない、
と思ったとき、少しだけ警戒を解く。
マーケティングの世界では、それを訴求や顧客理解と呼ぶ。
でも、人間の言葉に戻してしまえば、
「あなたが困っていることを、私は分かっています」
という合図なのかもしれなかった。
人がお金を払う前には、小さな恐怖がいくつもある。
自分には合わないかもしれない。
また失敗するかもしれない。
騙されるかもしれない。
金を無駄にするかもしれない。
相談したのに理解してもらえないかもしれない。
だから、機能を説明するだけでは動かない。
この人なら、少なくとも自分の困っていることを雑に扱わないかもしれない。
そう思えたとき、初めて一歩を踏み出せることがある。
僕はマーケティングをしているつもりで、
いつの間にか自分の能力を説明することばかり考えていた。
第八章 僕の価値とお金と行動方式
その日の帰り際、キミが棚からワインを取ろうとした。
「今日はいいよ」
「何が?」
「酒」
「珍しいね」
「節約」
冗談っぽく言った。
キミは少し黙ってから、コーヒーを淹れた。
僕はそれを飲んだ。
たったそれだけだった。
でも妙に居心地が悪かった。
昔なら、少し高い酒を開けた。
店の売上になるからと言って、いろいろ頼んだ。
それが僕なりの、この場所にいる方法だった。
気づいたら言っていた。
「ごめんね」
キミが振り返った。
「何が?」
「今日、全然お金使えなくて」
キミの顔が変わった。
「は?」
「いや、だから」
「何言ってるの?」
思っていたより強い声だった。
「別に……」
「はじめちゃん」
名前で呼ばれた。
「前から思ってたんだけどさ」
「何」
「はじめちゃん、お金の使い方、ちょっとおかしいよ」
僕は笑った。
「今さら?」
「笑い話じゃない」
キミは本当に笑っていなかった。
「お金が大事なのは分かるよ。私だって店やってるから。売上なかったら怖いし、お金なくなったら続けられない」
「うん」
「でも、それとは別にはじめちゃん少しおかしい」
「そんなに?」
「かなり」
ひどい言われようだった。
「人と飲んだらいっぱい払って、店に来たら高いもの頼んで、何かしてもらったらすぐ返そうとして」
キミは僕を見た。
「そんなに人にお金払う人、普通いないよ」
「昔からそうなんだよ」
「だから変なんじゃん」
返す言葉がなかった。
「何でそんなに払うの?払ってばかりなの。」
「払えるなら払えばいいと思ってるだけだよ」
「違う」
「何が?」
「払わないと、その場所にいちゃいけないと思ってるでしょ」
図星だった。
「そんなことない」
「あるよ」
「何で分かるの」
「今、コーヒー一杯でごめんって言ったよね」
僕は黙った。
キミは少し声を落とした。
「私ね、高いワイン頼んでくれるの嬉しかったよ」
「ほら」
「最後まで聞いて」
怒られた。
「売上になるから嬉しかった。でも、それで閉店後に店開けてたわけじゃないよ」
僕は黙っていた。
「ヴーヴ置いたのだって、はじめちゃんが飲むからだったけど、いっぱいお金使わせたくて置いてたんじゃない」
「じゃあ何で」
「一緒に飲みたかったからでしょ」
さらっと言った。
僕は返事ができなかった。
キミはコーヒーを一口飲んだ。
それから、また僕を見た。
「はじめちゃん、お金なくなったら、自分までなくなると思ってるでしょ」
その言葉は痛かった。
「そこまでは思ってないよ」
「思ってるよ」
「言い切るね」
「だって最近、ここにも来なくなったじゃん」
僕は答えなかった。
「前に行ってた店にも行かなくなったって言ってたし、人にも会わなくなってるでしょ」
「お金を使ってしまうからね。今の状態ではね」
「ほら」
キミはため息をついた。
「お金使わなくても会えばいいじゃん」
簡単に言う。
でも僕には、それが簡単ではなかった。
第九章 値札のついていない価値
「僕には何もできないから」
ぽつりと言った。
「何が?」
「今の僕が行っても。誰かに何かしてあげられるわけじゃないし」
キミは僕を見ていた。
「私、はじめちゃんに何かしてほしくて会ってると思ってるの?」
答えられなかった。
「私、店の集客してもらったから、はじめちゃんが好きなの?」
また答えられない。
「高いワイン買ってくれるから?」
「それはないと思う」
「じゃあ、何でそこだけお金になるの」
何も言えなかった。
キミはしばらく考えてから言った。
「はじめちゃんさ」
「何」
「私の店に、価格だけで選ばれないようにしようって言ったじゃん」
僕は頷いた。
「言ったね」
「安いから来る人だけにしない方がいいって」
「うん」
「じゃあさ」
キミは僕を見た。
「何で自分は、お金払えなくなったら選ばれなくなると思ってるの?」
胸の奥を刺された。
「店と人間は違うよ」
「何で?」
「違うだろ」
「でも、今日お金になってないものにも価値あるって言ったじゃん」
「信用の話?」
「そう」
キミは続けた。
「口コミとか、紹介とか、また来たいって思ってもらうこととか。それって今すぐお金にならなくても価値あるんでしょ」
「あるよ」
「じゃあ、はじめちゃんのも残ってるじゃん」
「何が」
「私の中に」
僕は黙った。
「店のこと一緒に考えてくれたこととか、私が怖いって言ったとき聞いてくれたこととか、スタッフのことでぐちゃぐちゃになったとき閉店後までいてくれたこととか」
キミは僕を見た。
「それ、いくらなの?」
「値段なんてないよ」
「でしょ」
「うん」
「じゃあ価値ないの?」
何も言えなかった。
「はじめちゃん、仕事では分かってるじゃん。値札ついてないものが、最後に選ばれる理由になるって」
その通りだった。
店の雰囲気。
接客。
安心感。
評判。
昔から知っているということ。
あの人がいるから行く、という理由。
一つ一つには値札がない。
でも人は、それで選ぶ。
僕は何年も、そんなことを人に話してきた。
なのに自分のことになると、今日いくら稼いだかしか見ていなかった。
「私さ」
キミが言った。
「マーケターが必要なら、もう別の人にも頼めるよ」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
自分でも馬鹿だと思った。
キミは続けた。
「チラシだって、前より分かる。誰に来てほしいかも考えられる。写真だって、こういうのがいいって少し分かる」
「よかったじゃん」
「うん」
少し間があった。
「でも、私、はじめちゃんの代わり探してるわけじゃない」
僕は顔を上げた。
「マーケターとして必要だから会ってるんじゃないよ」
キミは少し照れたように視線を落とした。
「それくらい、いい加減分かってよ」
僕は何も言えなかった。
商品なら、その場で価値を説明できる。
機能を並べられる。
実績も出せる。
価格も出せる。
比較表だって作れる。
でも、人間関係には販売ページがない。
自分が何も提供していないのに、なぜ相手がそこにいてほしいと思うのか。
それを証明する数字が、僕には見つけられなかった。
第十章 心の利益率
「私がはじめちゃんに会いたいって思うことに、利益率なんてないでしょ」
キミはそう言った。
僕は少し笑った。
たぶん、笑うところではなかった。
「いや、あるだろ」
キミの表情が止まった。
「何が?」
「心の利益率」
「……何それ」
「一緒にいて楽しいとか、安心するとか、寂しくなくなるとか。そういうのだって、何かを得てるだろ」
言った瞬間、少しまずかったかなと思った。
でも、その頃の僕は止まれなかった。
「マーケティングだって同じだよ」
「何が」
「人って結局、感情の利益があるから買うんだよ。安心したいとか、失敗したくないとか、自信がほしいとか、認められたいとか」
僕は続けた。
「化粧品だって、物そのものだけ買ってるわけじゃない。綺麗でいたいとか、自信を失いたくないとか、そういう感情がある。保険だって、何かあったときの恐怖を減らすために金を払う。相談にお金を払うのだって、自分一人では答えを出せない怖さがあるからだろ」
キミの顔が少し険しくなった。
「だから人間関係だって、完全に何も返ってこないなんてないだろ」
「……」
「僕といることで安心するとか、楽しいとか、何かあるから会うんだろ。それだって心の利益だろ」
「本気で言ってる?」
「別に変なこと言ってないと思うけど」
「変だよ」
声が低くなった。
「はじめちゃん、それ本当におかしいよ」
「何が?」
「何でもマーケティングにしないと分からないの?」
「そういう話じゃない。理屈だよ。物事の構成は変わらないだろ」
「そういう話じゃん!」
キミが声を上げた。
店の中に響いた。
「利益率とか、リターンとか、交換とか、ずっとそればっかりじゃん!」
「でも、人が動くってそういうことだろ」
「全部、理屈にして、そうじゃないでしょ」
「何が違うんだよ」
僕も声が大きくなった。
「私、お客さんじゃない!」
その一言で、僕は黙った。
「はじめちゃんのこと、買ってるわけじゃない!」
「そんなこと言ってないだろ」
「同じだよ!」
キミの目に涙が浮かんだ。
「はじめちゃん、自分の話するときだけ全部仕事の言葉に変える。難しいような理屈とか構成とか言うけど、どこに、気持ちがあるの?どこに感情があるの」
胸を刺された。
「お金がないなら価値がない。役に立てないなら会う意味がない。何かしてもらったら返さなきゃいけない。好きって言われても、それにも理由があって、その理由に見合うもの返さなきゃいけないって」
「そんなこと……」
「あるよ!」
キミが僕の言葉を切った。
「あたしが会いたいって言ってるだけじゃ駄目なの?」
何も言えなかった。
「今日は何もしてくれなくていいって言ってるのに」
キミは続けた。
「コーヒー飲んで、くだらない話して帰ればいいって言ってるのに、それでもはじめちゃんは、僕は何を返せばいいんだろうって考えるんでしょ?」
図星だった。
「それ、もう優しさじゃないよ」
「じゃあ何だよ」
「怖がってるだけじゃん」
頭に血が上った。一生懸命やっていたからだ。
「簡単に言うなよ」
「何が?」
「キミには分からないよ」
言ってしまった。
キミの顔が変わった。
「……何が分からないの」
「あと五か月なんだよ、僕は」
声が震えた。
「五か月したら、この仕事続けられないかもしれない。今までみたいに金も使えない。昔みたいな僕じゃなくなるんだよ。そんな人間が誰かのところに行って、何もせず座ってて、それでいいなんて思えるわけないだろ!」
言い終わると、店が静かになった。
キミは僕を見ていた。
そして少し震える声で言った。
「じゃあさ」
「何」
「私も、店が駄目だったとき価値なかったの?」
息が止まった。
「お客さんが来なくて、売上なくて、泣いてた頃の私って価値なかった?」
「そんなこと言ってないだろ」
「同じことじゃん」
違うと言いたかった。
でも違わなかった。
「私には言ったよね」
キミの頬を涙が落ちた。
「売れないからって、店そのものに価値がないわけじゃないって」
僕は何も言えなかった。
「なのに、自分だけ特別なの?」
「……」
「はじめちゃんだけは、売れなかったら価値なくなるの?」
答えられなかった。
「そんなわけないじゃん」
僕は俯いた。
しばらくして、
「ごめん」
と言った。
キミは首を振った。
「今日は帰って」
その言葉が、一番怖かった。
だから僕は初めて言った。
「帰りたくない」
キミは泣いたまま僕を見た。
でも、
「今日は帰って」
と、もう一度言った。
終わったと思った。本当に心の底から。
バカなことをしたと、こんなこと言わなければ良かったと思った。僕は全部失うのかもしれない。
第十一章 お金を払えば買える場所と、買えない場所
店を出た。
夜の街を歩いた。
昔、何度も飲み歩いた歓楽街だった。
店はいくらでもあった。
財布にも、まだ金はあった。
2万円払えば、しばらく誰かが話してくれる。
5万円使えば、もう少し長くいられる。
金を払えば、その時間だけは歓迎される。
僕は長い間、それを居場所のように使ってきたのかもしれない。
考えてみれば、それも恐怖との交換だった。
一人で帰る恐怖。
寂しさを感じる恐怖。
自分には誰もいないと気づく恐怖。
何も成果を出せなかった一日と二人きりになる恐怖。
僕はお金を払って、その恐怖を数時間だけ遠ざけていた。
マーケティングでは、人が何にお金を払うのかを考える。
便利だから。
楽しいから。
美しくなれるから。
時間を節約できるから。
でも、もっと奥まで掘れば、
人は何かを得たいだけではなく、
何かから離れたいことがある。
失敗したくない。
損したくない。
老いたくない。
孤独になりたくない。
恥をかきたくない。
置いていかれたくない。
自分には価値がないと思いたくない。
なりたい未来へ近づくことと、
なりたくない未来から離れることは、
たぶん同じ選択の裏表だった。
人はその間で動く。
僕も同じだった。
そして今夜初めて、
金を払わなくても、
「楠瀬さんだったら、いいよ」
と言ってくれた場所を、
僕は自分の言葉で失った。
どの店にも入れなかった。
金を払えば買える時間と、
金を払っても買えないものの違いが、
初めて少しだけ分かった気がした。
第十二章 値下げは、恐怖に負けた結果だった
それから数日、キミの店には行かなかった。
仕事をした。
相変わらず売れなかった。
焦った僕は、自分の商品を安くしようとした。
半額。
もっと下げてもいいと思った。
とにかく現金が欲しかった。
販売ページを書き換えている途中で、手が止まった。
昔、キミが、
「お客さん来ないし、少し安くした方がいいのかな」
と言ったときのことを思い出した。
僕は何と言っただろう。
安くしても、そもそも知られていなければ来てもらえない。
価値が伝わっていなければ、値段を下げてもさらに安いところと比べられるだけになる。
値下げそのものが、価値を増やすわけではない。
そんなことを僕は偉そうに言った。
いま僕は、自分で同じことをやろうとしていた。
しかも理由は分かっていた。
売れないのが怖い。
このまま金がなくなるのが怖い。
誰にも選ばれないのが怖い。
だから価格を下げる。
値下げそのものが悪いわけではない。
戦略として価格を変えることはある。
でも、このときの僕は戦略で下げようとしていたわけではなかった。
恐怖から逃げるために、値段を下げようとしていた。
マーケティングとは、人の感情を見る仕事だ。
それを基点として人に伝える仕事だ。
なのに一番見えていなかったのは、
自分の感情だった。
第十三章 何もしに来てない
三日後。
僕はキミの店の前にいた。
手には何もなかった。
酒もない。
ケーキもない。
プレゼントもない。
仕事の資料もない。
手ぶらだった。
それだけのことなのに、怖かった。
僕は長い間、何かを持って人のところへ行くことに慣れていた。
お金。
仕事。
情報。
贈り物。
何か相手に渡せるものを持っていれば、そこに行く理由ができる。
今日は、それが何もなかった。
閉店時間は過ぎていた。
ノックした。
少ししてキミが出てきた。
ガラス越しに僕を見た。
やがて鍵が開いた。
「何しに来たの」
少し冷たい声だった。
僕は答えた。
「何もしに来てない。キミに会いにきた」
キミの顔が少し変わった。
「本当に?」
「うん」
「仕事の相談?」
「しない」
「マーケティング?」
「今日はしない」
「お酒は?」
「飲まなくていい」
「何か持ってきた?」
「何も」
少し沈黙した。
「手ぶら?」
「うん」
キミは僕を見た。
それから、少しだけ横へよけた。
「じゃあ入って」
その一言だけで、目頭が熱くなった。涙がこぼれ落ちそうだった。
第十四章 今度は私が聞く
その夜、キミはコーヒーを二つ淹れた。
お酒は出なかった。
僕も欲しいと言わなかった。
しばらく何も話さなかった。
先に口を開いたのは僕だった。
「この前、ごめん」
「うん」
「キミには分からないって言ったのも」
「うん」
「本当は分かってほしかったんだと思う」
キミは少しだけ笑った。
「面倒くさいね」
「自分でもそう思う」
少しして、キミが言った。
「私ね、マーケティングなんてまだ全然分からないよ」
「うん」
「でも、はじめちゃんが私の店で何してたかは覚えてる」
「何してた?」
「最初に私の話聞いてた」
僕は少し驚いた。
「看板も見たし、チラシも見たし、Instagramも見た。でもその前に、何で店やりたいのとか、誰に来てほしいのとか、私が何したいのか聞いたじゃん」
「そうだったね」
「だから今度は私が聞く」
「何を?」
「はじめちゃん、本当は何したいの?」
答えられなかった。
「売上以外で」
もっと答えられなかった。
キミは少し笑った。
「ほら」
「何」
「自分のこと、全然分かってないじゃん」
「そうなのかもね」
「誰に来てほしいの?」
「お店やってる人とか、小さい会社とか」
「広い」
僕はキミを見た。
その言い方は、昔僕がキミにしたものだった。
「困ってる人」
「広い」
「こうして言われると僕も全然できていないんだな」
困ってしまった。本当に分からないんだ。
「誰に教わったと思ってるの」
キミは少し楽しそうだった。
「一番助けたい人を一人だけ考えて」
その言葉も、僕が言ったものだった。
しばらく考えた。
そして不意に、少し前のキミが浮かんだ。
何をやっても伝わらないと言っていた夜。
自分で何かできるようになりたいと言っていた人。
やることが多すぎて、自分の店なのに自分の居場所ではないと言っていた人。
「……キミみたいな人かも」
「私?」
「店や事業始めたけど、何したらいいか分からなくなってる人」
キミは黙って聞いていた。
「広告会社に頼むほど整理できてない。誰かに相談しようにも、自分が何に困ってるのかさえ分からない。Instagramもやってる。Googleもやってる。ホームページもある。でも全部バラバラ」
言葉が少しずつ出てきた。
「何かしなきゃとは思ってる。でも何をすればいいのか分からない。やってるのに結果が出ないから、自分の店そのものが駄目なんじゃないかって思い始めてる」
キミはしばらく何も言わなかった。
「それ、昔の私だね」
「うん」
「じゃあ、それ書けばいいじゃん」
「簡単に言うね」
「はじめちゃんが私に言ったんでしょ」
またそれだった。
第十五章 恐怖を煽るのではなく、恐怖を理解する
それから僕たちは販売ページを直した。
キミはマーケターではない。
だから難しい専門用語では話さない。
ただ、昔の自分ならどう感じるのかを教えてくれた。
「これ、結局何してくれるの?」
「いろいろ」
「いろいろじゃ分かんない」
「そこから?」
「だって分かんないもん」
「じゃあこれは?」
「それって、私が昔困ってたこと?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目じゃない?」
厳しかった。
でも正しかった。
僕は文章を書き換えた。
何から手をつければいいのか分からなくなっていませんか。
Instagramも更新している。
Googleも触っている。
ホームページもある。
それでも新しいお客さんが増えず、何が悪いのか分からない。
誰かに相談しようにも、自分が何を相談すればいいのかさえ整理できていない。
そんな人へ。
キミが画面を読んだ。
「こっちの方が分かる」
「何が違う?」
「昔、怖かったときのこと思い出す」
その言葉で、僕は手を止めた。
マーケティングには、恐怖を利用するような手法もある。
不安を刺激する。
損をする可能性を強調する。
いま動かなければ遅いと思わせる。
確かに、それで人が動くこともある。
でも、それだけがマーケティングではない。
むしろ僕がやりたかったことは、その反対だった。
恐怖を作ることではなく、
その人がすでに抱えている恐怖を理解することだった。
新しいお客さんが来ない怖さ。
このまま店を続けられなくなる怖さ。
自分のやり方が全部間違っているかもしれない怖さ。
周りはうまくいっているように見えるのに、自分だけ取り残されている怖さ。
誰にも相談できない怖さ。
何をすればいいのか分からないまま、お金だけが減っていく怖さ。
そこに、
あなたの不安はおかしくない。
一緒に整理できる。
と伝える。
「人ってさ」
僕が言った。
「商品が欲しいからだけで動いてるわけじゃないんだよね」
「また難しい話?」
「今日は簡単」
僕は笑った。
「怖いんだよ」
「何が?」
「失敗することが」
キミは少し考えた。
「じゃあマーケティングって、人を怖がらせる仕事なの?」
「違うと思う」
僕は画面を見た。
「その人が何を怖がっているのか、ちゃんと分かろうとする仕事なんじゃないかな」
言ってから、自分でも少し驚いた。
何年もマーケティングをやってきたのに、
その言葉が妙にしっくりきた。
人は必ずしも、一番安いものを選ぶわけではない。
一番機能が多いものを選ぶわけでもない。
この人なら大丈夫かもしれない。
ここなら失敗しないかもしれない。
自分のことを分かってもらえるかもしれない。
その感情が、最後の一歩を押すことがある。
価値を伝えるというのは、
機能を並べることだけではない。
その人が何を恐れ、
何を望み、
どんな未来なら少し安心できるのかを考えることでもある。
僕はそれを何年も仕事にしてきた。
そして今、自分自身が、
何を恐れているのかをキミに見つけてもらっていた。
第十六章 最初の一人
ページを公開した。
すぐには何も起きなかった。
一日。
二日。
三日。
数字は大して変わらなかった。
以前なら、すぐに全部を壊していたかもしれない。
タイトルを変える。
価格を変える。
商品を変える。
また別のものを作る。
でも今回は少し待った。
そして、ある日の午後だった。
問い合わせが一件来た。
画面を何度も見た。
間違いではなかった。
相談したい、と書いてある。
最後に、こんな一文があった。
「ページを読んで、自分のことを書かれているように感じました。」
しばらく画面を見ていた。
僕の能力一覧を見て問い合わせたわけではなかった。
SEOができるからでもない。
写真が撮れるからでもない。
AIを使えるからでもない。
この人なら、自分が困っていることを分かってくれるかもしれない。
そう感じたから、連絡してくれた。
人が動いたのは、情報だけではなかった。
その情報を読んだときに生まれた感情だった。
僕はスマートフォンを取った。
誰に送ろうか考える必要はなかった。
キミに送った。
「一件、問い合わせ来た」
すぐに既読になった。
「本当?」
「本当」
少しして、
「よかったじゃない!」
と来た。
僕は、
「まだ一件だけだけど」
と返した。
すると、
「前もそうだったでしょ」
と返ってきた。
「何が?」
「最初の一人って、すごく嬉しいんだから」
画面を見ながら笑った。
昔、キミが初めてチラシから一人来てくれたと連絡してきた日のことを思い出した。
あのとき僕は、キミより喜んでいた。
今度は逆だった。
第十七章 ヴーヴ・イエローとケーキ
夜。
店へ行くと、キミはもう閉店準備をしていた。
僕を見るなり言った。
「遅い」
「約束の時間前だろ」
「今日は早く閉めた」
「何で」
「お祝いだから」
店に入る。
テーブルの上にケーキがあった。
棚を見ると、ヴーヴ・イエローが冷えていた。
僕は笑った。
「一件で?」
「いいじゃん」
「前に言われたよね。今度はヴーヴイエローにケーキ持ってきてって」
「覚えてたんだ」
「持ってきてないけど」
「今日は私が買った」
「何のお祝い?」
キミは少し考えた。
そして言った。
「はじめちゃんが、もう一回始めたお祝い」
胸の奥が少し痛くなった。
いい意味で。
キミはシャンパンを開けた。
小さな音がした。
二つのグラスに泡が上っていく。
「乾杯」
「何に?」
僕が聞いた。
キミは笑った。
「分かんない」
「またそれ?」
「理由なくてもいいじゃん」
グラスを合わせた。
しばらく飲んでから、キミが言った。
「はじめちゃん」
「何」
「また変なこと考えてるでしょ」
「何で分かるの」
「顔」
「どんな顔」
「マーケティングの顔」
僕は笑った。
「何それ」
「何でも分析しようとしてる顔」
「職業病なんだよ」
「今日は仕事禁止」
「じゃあ僕、ここにいる意味ないじゃん」
冗談で言った。
キミの顔から笑いが消えた。
しまったと思った。
キミはグラスを置いた。
「そういうこと、もう言わないで」
「ごめん」
「何もしてくれなくていいから来てよ」
僕は黙った。
「お金なくてもいいって意味じゃないよ」
「分かってる」
「仕事はちゃんと何とかしないと駄目だよ」
「厳しいね」
「当たり前でしょ」
キミは少し笑った。
それから、静かに言った。
「でも、仕事うまくいってないときにまで、私のところからいなくならないで」
僕はグラスを見た。
泡はもう少なくなっていた。
「努力するよ」
「そこ、努力するとこじゃないでしょ」
「じゃあどうすればいいの」
キミは少し考えた。
「普通に来ればいいんじゃない?」
簡単に言う。
でも、僕にとってはそれがずっと難しかった。
何かを持っていく。
何かをする。
金を払う。
役に立つ。
そうしなければ、人のそばにいてはいけないような気がしていた。
キミが僕を見た。
「ねえ」
「何」
「前に言ってたじゃん」
「何を?」
「人って、怖いから動くことあるって」
「うん」
「はじめちゃんも同じだったんだね」
僕は少し笑った。
「何が怖かったと思う?」
「お金なくなること」
「それもある」
「仕事なくなること」
「それも」
キミは少し考えた。
「私に、価値ないって思われること?」
僕はグラスを置いた。
正解だった。
「……たぶんね」
キミは呆れたように笑った。
「馬鹿だね」
「うん」
「本当に馬鹿」
「二回言わなくてもいいだろ」
「だって」
キミは僕を見た。
「あたしが、そんなことでいなくなると思ったんでしょ」
答えなかった。
それが答えだった。
終章 今度は、キミが僕の感情を見つけた
一件の問い合わせで、僕の会社が救われたわけではない。
残り資金が急に増えたわけでもない。
五か月という数字が消えたわけでもない。
明日になれば、また仕事をしなくてはいけない。
記事を書く。
ページを直す。
広告を考える。
また外すかもしれない。
何も売れない日もあるだろう。
事業は、そんなに都合よく奇跡を起こしてくれない。
それでも、以前とは少し違っていた。
僕は長い間、
マーケティングとは価値を伝える仕事だと思っていた。
もちろん、それは間違っていない。
でも、価値だけを見ていても、人が動く理由は分からない。
人を動かしているものは、もっと生々しい。
怖い。
安心したい。
失敗したくない。
認められたい。
誰かに分かってほしい。
置いていかれたくない。
ひとりになりたくない。
自分には価値があると思いたい。
僕たちは、それを顧客心理とか、購買動機とか、便益とか、いろいろな名前で呼ぶ。
数字にすることもある。
クリック率。
問い合わせ率。
成約率。
リピート率。
紹介率。
事業を続けるなら、数字は必要だ。
数字を見ないマーケティングなど、たぶんない。
でも、その数字の向こうには必ず誰かがいる。
「お客さん」という一つの言葉でまとめてしまうけれど、一人一人には違う生活があって、怖いことがあって、欲しい未来があって、誰かに分かってほしいことがある。
リピート率の一件には、
「前に話したことを覚えていてくれたから」
という気持ちが入っているかもしれない。
問い合わせ率の一件には、
「自分のことを書かれているように感じたから」
という安心が入っているかもしれない。
紹介の一件には、
「この人になら勧めても大丈夫」
という信用が入っている。
マーケティングで動いているのは、数字ではない。
数字になった、人の心だった。
そして恐怖も、その中にある。
失敗したくない。
損したくない。
後悔したくない。
自分だけ取り残されたくない。
だから人は、安心できるものを探す。
信用できる人を探す。
自分のことを理解してくれそうな言葉のところで、少し立ち止まる。
マーケティングとは、人を怖がらせる技術ではない。
少なくとも僕がやりたいマーケティングは、そうではなかった。
その人がすでに抱えている恐怖を知り、
何ならその恐怖を少し小さくできるのかを考えることだった。
僕はそれを何年も仕事にしていた。
それなのに、自分自身の恐怖だけは、ずっと見つけられなかった。
僕は酒に金を払っていたのではない。
一人で帰る怖さから逃げていた。
人にたくさん金を払っていたのは、気前のいい人間でいたかっただけではない。
何も与えられない自分には価値がない、
という恐怖から逃げていた。
仕事を安くしようとしたのも、現金が欲しかっただけではない。
誰にも選ばれない自分を見るのが怖かった。
人と会わなくなったのも、節約だけではない。
昔より金を使えなくなった自分を見られて、
価値のない人間になったと思われることが怖かった。
僕は、人の感情を仕事にしてきた。
それなのに、
一番理解していなかったのは、
自分の感情だった。
そしてキミは、
マーケティングなんて全然分からないと言いながら、
その恐怖を見つけた。
楽しそうじゃないから。
そう言って酒を出さなかった。
払わなくてもいい。
そう言った。
何もしなくても来ていい。
そう言った。
そして僕が、
心にも利益率がある、
なんて言ったとき、
本気で怒ってくれた。
たぶん僕の言っていたことは、理屈として全部間違っていたわけではない。
商売では、人の感情も価値になる。
安心を提供すれば、選んでもらえることがある。
信用を積み重ねれば、未来の売上につながることがある。
感情は人の行動を変える。
だからマーケティングは感情を扱う。
でも、一つだけ違うことがあった。
感情には、
売上に変わるものもあれば、
そもそも売上に変えなくていいものもある。
キミが僕に会いたいと思うことを、
僕は何かへ変換しなくていい。
何かを返さなくてもいい。
利益率を計算しなくてもいい。
ただ、
会いたい、
で終わっていい。
僕には、それが一番難しかった。
少し前、
僕は初めて手ぶらでこの店へ来た。
何しに来たの、
と聞かれて、
何もしに来てない、
と言った。
そしてキミは、
じゃあ入れば、
と言った。
たぶんあの日だった。
僕がもう一度見つかったのは。
僕は以前、
キミの店を誰かに見つけてもらおうとした。
まだキミを知らない人へ、
ここにこんな店がある。
こんな人がいる。
そう伝えようとした。
チラシを作った。
言葉を考えた。
写真を選んだ。
誰に来てほしいのかを、一緒に考えた。
そして少しずつ、キミの店は誰かに見つかっていった。
今度は逆だった。
売れないことで、
金が減ることで、
昔の自分でいられなくなることで、
僕は少しずつ自分自身を見失っていた。
役に立てない僕には価値がない。
金を払えない僕は、人に会わない方がいい。
何も持っていない僕は、好きな人のところへ行ってはいけない。
そんなふうに、自分を薄くしていた。
その僕を、
キミが見つけた。
僕が昔キミに言ったことを、
ひとつずつ僕へ返しながら。
価値は価格だけでは決まらない。
今日売れなかったからといって、すべてが無価値になるわけではない。
信用は、目の前の売上に出なくても残る。
誰かの中に残った記憶も、
安心も、
信頼も、
また会いたいと思う気持ちも、
値札がついていないだけで、
消えているわけではない。
そして人間には、
そもそも値札をつけなくていい部分がある。
僕はグラスを置いた。
キミを見た。
「ねえ」
「何?」
「今度はさ」
少し照れた。
「僕が何も持ってこなくても、開けてくれる?」
キミは笑った。
「気分による」
「ひどいな」
「でもまあ」
少し間を置いた。
「はじめちゃんだったら、いいよ」
僕も笑った。
カウンターの後ろには、昼間には飾りにしか見えない酒が並んでいる。
その中には、僕のために買ったものが何本もあった。
でもたぶん、もう僕は、
それを全部飲まなくてもいい。
コーヒー一杯でもいい。
何も頼まない夜があってもいい。
何かを教えなくてもいい。
誰かの役に立たない時間があってもいい。
キミと少し話して、
くだらないことで笑って、
明日また仕事をすればいい。
まだ五か月は終わっていない。
たぶん人生も、まだ終わっていない。
明日作るものが当たる保証なんてない。
また外れるかもしれない。
それでも、
もう一度作ってみようと思う。
誰かが何を怖がっているのか。
何を望んでいるのか。
どんな言葉なら、
「自分のことかもしれない」
と思ってくれるのか。
数字の向こうにいる、一人の人間を想像しながら。
そしてもし、また僕自身を見失いそうになったら、
たぶん僕はこの店へ来る。
高い酒を買うためではない。
売上を作ってあげるためでもない。
マーケティングの相談をするためでもない。
ただ、
キミに会いに来る。
今度は、
キミが僕を見つけてくれたから。
だから僕はもう一度、
自分が作ったものを、
世界へ出してみようと思う。
※きっと、この物語のように「感情」が人を動かしているということを頭ではなく感覚で理解して頂けたら、もっと店舗集客、マーケティングをあなた自身で構築して頂けると思います。
下記は次の3話目です。
前回のお話を読む
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