
第3話:好きのあとは?―ねえ、そのあとを聞かせてよ | キミと僕と心の利益率
※小説タイトル「キミと僕と心の利益率」の3話目。これは連作です。前回の記事は下記です。ストーリーとして公開しています。
マーケティング理解促進のための実験的作品ですので読み方GuideをPDFで参照して頂けるようにしました。→ https://nich-idea.com/kimikoiguide
前回の2話は下記。
次の記事4話は下記
※今度は「キミ」から見た世界です。
1〜3話で楠瀬が推定していた彼女の気持ちは、本当はどうだったのか。キミの気持ちも名前も明らかになります。
全話一覧は下記
あらすじ
「好き」と言った。
でも、その先を僕は言えないままだった。
少しずつ仕事が戻り始めた楠瀬一。けれど、自分の中では「昔ならできたことが、今はできない」という感覚が消えない。
そんなある日、キミが楠瀬の仕事部屋で、女性たちの宣材写真を目にする。
「この子たちの目の前には、はじめちゃんがいるんでしょ」
仕事だと分かっていても、嫉妬してしまうキミ。そこから二人の間にずっと残っていた問いが、ついに言葉になる。
「好きのあとは?」
仕事、お金、自分の価値、誰かを信じる怖さ。
そして、名前のなかった二人の関係。
『キミと僕と心の利益率』第三話「好きのあとは?―ねえ、そのあとを聞かせてよ」。今回は、「好き」と言ったその先の物語です。
第一章 仕事が戻ってきた。でも、僕の未来はまだ戻っていなかった
最初の問い合わせが一件来たからといって、もちろん僕の会社が助かったわけではなかった。
それでも、自分で書き直したページを読んだ人から、
「自分のことが書かれているように感じました」
と連絡が来たことは、思っていた以上に僕を救った。
何を作っても反応がなく、どれだけ考えて公開しても、誰にも届いていないような日が続いていたからだ。
まだ届くんだと思った。
僕が考えて、書いて、作ったものを見て、その向こうにいる誰かが動いてくれる。
その事実だけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
ただ、銀行口座を開けば、現実が劇的に変わったわけではないことも分かった。
固定費は毎月落ちる。
生活にも金はかかるし、仕事を取るためにも、新しいものを作るためにも金は必要になる。
一件問い合わせが来たからといって、翌月の売上まで保証されるわけではない。
僕がキミに話した、
「あと五か月くらい」
という数字も、まだ頭の片隅から消えてはいなかった。
そんなとき、昔から知っている歓楽街の人間から久しぶりに連絡が来た。
「はじめちゃん、まだ写真撮ってる?」
懐かしい名前がスマートフォンに表示されていた。
「撮ってるよ」
そう返すと、すぐに、
「女の子の宣材、お願いできない?」
と続いた。
僕にとって、それはまったく知らない仕事ではなかった。
昔から歓楽街の店や人間を知っていたし、そこで使われる写真が、普通のプロフィール写真とは少し違うことも分かっていた。
ただ綺麗に撮ればいいわけではない。
SNSで使うのか。
店内に貼るのか。
バースデーイベントのポスターなのか。
目的によって必要な写真は変わる。
Instagramで使うなら縦構図も必要になる。
ポスターにするなら名前や日付を載せる余白も必要だ。
高級感を出したい子もいれば、かわいらしく見せたい子もいる。
少しグラビア寄りの世界観を求められることもある。
僕は写真を撮るだけではなく、その写真を使って告知画像やポスターを作ることもできた。
必要ならコピーも考えられるし、Webにまで広げられる。
「来週いける?」
「いけるよ」
予定表に仕事を書き込んだ。
ほんの一行だった。
でも、何も入っていない予定表を見るのではなく、仕事のために時間を空けるという感覚が戻ってきたことが嬉しかった。
少しだけ、昔の自分に近づいたような気がした。
撮影の日、久しぶりに仕事として歓楽街へ入った。
僕が何を悩んでいたとしても、街は何も変わっていなかった。
看板はいつものように光っていたし、店の前には人が立っていた。
昔から知っている人間は、僕の会社が危ないことなど知らないまま、
「久しぶりじゃん」
と普通に声をかけてきた。
その普通さが、その日はありがたかった。
女の子を撮った。
照明を調整し、髪の毛の流れを見て、顔の角度を少し変えてもらう。
「もう少し顎を引いて。うん、かわいいね」
「そう。その位置」
「目線、こっちにしてください。うん、世界でいちばんかわいいね」
シャッターを切る。
液晶を見せる。
また撮る。
「かわいいね。この角度いい」
そう言うと、女の子が笑った。
何百回もやってきたことだった。
頭で考えるより先に、身体が動いた。
撮影が終われば、今度はパソコンの前だった。
写真を選び、色を整え、肌を調整し、不要なものを消していく。
バースデー用のポスターなら、そこへ名前や日付や店名を入れる。
モニター上で綺麗に見えるだけでは足りないから、テストプリントもした。
気づけば夜中になっていた。
疲れていたけれど、それでも少し嬉しかった。
納品すると、
「めっちゃいい」
とすぐに返事が来た。
そのあとに、
「もう一人お願いしていい?」
と続いた。
その一件が二件になり、二件が三件になった。
「この子のバースデーもお願いできる?」
「できるよ」
「店のSNS画像も作れる?」
「作れる」
「だったら撮影から全部まとめてお願いしていい?」
「いいよ」
そんなやり取りが続いて、僕の予定表は少しずつ埋まり始めた。
外から見れば、仕事が戻ってきたように見えた。
僕自身も、最初はそう思っていた。
第二章 今日の10万円は、今日働いたから生まれただけ
キミにも、その話をした。
「最近、仕事増えてる」
「本当?」
「うん。撮影とか、制作とか」
キミは素直に笑った。
「よかったじゃん」
僕は、たぶんその言葉をずっと待っていた。
二話目のあの夜、僕はキミに格好悪いところをずいぶん見せた。
会社のお金が減っていることも話した。
このままなら数か月で厳しくなることも話した。
売れないと、自分まで価値がなくなっていくように感じることまで話してしまった。
だから今度は、少し違う僕を見せたかった。
ほら。
僕はちゃんとやっている。
まだ終わっていない。
ちゃんと戻ろうとしている。
そう言いたかった。
「すごいじゃん」
とか、
「頑張ったね」
とか。
そんな言葉をもっと聞きたかったのだと思う。
キミは確かに喜んでくれていた。
それなのに、不思議なくらい僕自身は安心できなかった。
むしろ仕事が増えるほど、焦りも強くなっていった。
撮影が入れば、その日は移動して、撮影して、帰ってから写真を選ぶ。
そこから現像して、レタッチして、ポスターを作る。
テストプリントをして修正を入れ、また出力する。
納品が終われば、翌日は別の撮影だった。
金は入った。
確かに以前のようなゼロではなくなった。
ある夜、納品を終えて銀行口座を確認すると、その日の仕事の代金が入っていた。
僕はその数字を見ながら、急に思った。
今日の10万円は、今日僕が働いたから生まれた。
では、明日の10万円はどこにあるんだろう。
どこにもなかった。
明日もまた、僕が働かなければならなかった。
ブラウザには、何日も前から書きかけのままになっている自分の記事が開いていた。
タイトルだけは決まっている。
でも本文はほとんど進んでいない。
自分のサービスページも途中だった。
広告用に作ろうと思っていた画像も完成していなかった。
本当なら、そういうものを作らなければならないことを僕は知っていた。
僕が寝ている間にも検索される記事。
僕が撮影に出ている間にも読まれるページ。
僕がその人を知らなくても、向こうから、
「この人に相談してみよう」
と思ってもらえるようなコンテンツ。
自分の名前で積み上がっていくものが必要だった。
そんなことは、マーケターなのだから嫌になるほど分かっている。
でも、自分の記事を三時間書いたところで、その日のうちに三万円になるとは限らない。
よもや、ならないことの方が多い。
撮影へ行けばお金になる。
納品すれば請求できる。
だから目の前にある仕事を先にやる。
そうすると、自分の未来を作るための仕事がまた一日遅れる。
気づけば午前二時を過ぎていた。
納品を終えてから、自分の記事を開く。
三百文字だけ書いてみる。
でも頭がもう働かない。
保存して寝る。
翌日読み返して、
僕は何を書こうとしていたんだろう。
と思って、また閉じる。
仕事が増えれば増えるほど忙しくなり、忙しくなればなるほど、自分自身を売るためのものを作る時間がなくなっていった。
売上はゼロではなくなった。
それなのに、僕は前より焦っていた。
第三章 女の人がいるところ?
ある夜、少し遅い時間にキミの店へ行った。
「今日も仕事だった?」
「うん」
「撮影?」
「撮影して、そのあと打ち合わせ」
「どこ?」
「錦の方」
キミはグラスを拭きながら僕を見た。
ほんの少し間を置いて、
「女の人?」
と聞いた。
「まあね」
「ふうん」
僕は少し笑った。
「何?」
「別に」
その言い方を、僕は知っていた。
少し前にも同じようなことがあった。
歓楽街でかなり飲んだあと、キミの店の前まで歩いていった夜だった。
キミは僕の顔を見て、
「どこで飲んでたの?」
と聞いた。
「いつもの辺り」
と答えると、
「女の人がいるところ?」
と聞いた。
「いるところもあるよ」
と答えたら、
「ふうん」
と言った。
あのときの僕は、それ以上考えなかった。
歓楽街で酒を飲むなら、女性がいる店に行くことだってある。
僕にとっては、それだけのことだった。
当時の僕には、それよりも会社のお金が減っていくことの方がずっと重大だった。
何より、自分のことで精いっぱいだった。
だからキミの「ふうん」が、何を飲み込んだ音なのか、考えもしなかった。
第四章 僕の部屋に女の子が増えていった
歓楽街の仕事が増れるにつれて、キミの店へ行けない日も増えていった。
「今日来る?」
と連絡が来ても、
「納品終わってない」
と返す。
次の日は撮影で、その次の日は編集だった。
そんな日が続いたある日、
「ちゃんと食べてる?」
と聞かれた。
「多分」
と返すと、
「多分って何」
とすぐに返ってきた。
その日の夜、キミは僕のところまで食べ物を持ってきた。
「別に持ってこなくてもよかったのに」
「今日何食べた?」
「コーヒー」
「それ食べ物じゃないじゃん」
「豆だから」
「そういう問題じゃない」
そんなことを言いながら部屋へ入ってきたキミが、しばらくして黙った。
パソコンはついたままだった。
二台あるモニターの片方には、レタッチ途中の女の子が大きく映っている。
机の上には、バースデーポスターのテストプリントが何枚も置いてあった。
プリンターの横にも、まだ確認していない写真が積まれている。
華やかなドレスを着た女の子。
ジャケットだけを羽織った女の子。
白いワイシャツの下に下着しか着ていない女の子。
ベッドの端に座って笑っている女の子。
キミの肩から、ほんの少し力が抜けたように見えた。
怒ったわけではなかった。
顔をしかめたわけでもなかった。
ただ、
「へえ……」
とでも言うように、一瞬だけ思考が遠くへ行ったような顔をした。
僕にとっては全部、仕事だった。
この写真は肌が少し赤い。
こっちは背景が暗い。
こちらはポスターにするなら文字を入れるスペースが足りない。
僕はそんなことばかり考えていた。
でもキミは、一枚の写真を手に取った。
少し眺めて、
「これも、はじめちゃんが撮ったの?」
「うん」
次の一枚を見る。
「これも?」
「そうだよ」
「これも?」
「うん」
何枚か見たあと、キミは何も言わなくなった。
写真をめくる速度だけが、少し遅くなっていた。
第五章 この子たちの目の前には、はじめちゃんがいるんでしょ
しばらくして、キミが聞いた。
「これって、二人っきりで撮るの?」
「スタッフがいるときもあるよ」
「いないときもある?」
「あるよ」
キミはワイシャツ姿の写真を見ながら、
「なんで下着にワイシャツなの?」
と聞いた。
僕は少し笑った。
「そういうコンセプトだから」
「誰が決めるの?」
「本人の希望もあるし、店から言われることもあるし、僕が提案するときもある」
「じゃあ、これは?」
「それは僕」
「このポーズも?」
「うん」
キミは次の一枚を取った。
「これも?」
「それも」
また別の一枚を見る。
「……これも?」
「うん」
写真に写っている女の子は、どの子も綺麗だった。
かわいい子もいた。
大人っぽい子もいた。
少し幼く見える笑い方をする子もいた。
キミは写真を見ながら、何かを探しているようだった。
それが何なのか、僕にはまだ分からなかった。
キミには分かっていた。
同じ女だから。
仕事だから笑っている顔と、そうではない顔。
愛想として口元だけを動かしているときの顔。
言われた通りにポーズを取っているだけの顔。
それくらいなら分かる。
でも、この写真の中の女の子たちは、別に嫌そうな顔をしていなかった。
ものすごく好意的というわけでもない。
恋をしているような顔でもない。
でも。
まんざらでもない。
少なくとも、この瞬間を嫌がってはいない。
そういう微妙な表情だった。
そして、その表情を作らせた人間は写真には写っていない。
キミは写真の向こう側を見ていた。
女の子が少し笑っている。
その直前に、はじめちゃんが何か言ったんだろうか。
目を細めている。
かわいい、と言われたのだろうか。
少し恥ずかしそうに口元を緩めている。
どんな声をかけたんだろう。
しばらくして、キミが写真を見たまま言った。
「この子たちの目の前には、はじめちゃんがいるんでしょ」
「そりゃそうだよ。僕が撮ってるんだから」
キミは僕を見た。
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「こういう格好して、こういう顔してるときも、はじめちゃんが目の前にいるんでしょ」
「撮影だからね」
「分かってるよ」
「じゃあ何?」
キミは少し迷ったあと、
「かわいいって言う?」
と聞いた。
「言うよ」
「……言うんだ」
「撮影だから。表情を作ってもらうために言うこともある」
「綺麗とか?」
「言う」
「セクシーとかも?」
「必要なら言うよ」
キミは黙った。
写真へ視線を戻した。
少しして、
「この笑顔も?」
と聞いた。
「何が?」
「はじめちゃんが何か言って、笑ったんでしょ」
「多分。撮ってるときのこと全部は覚えてないよ」
「そっか」
それだけ言った。
僕にはまだ、何が問題なのか分からなかった。
キミは分かっていた。
はじめちゃんは仕事をしているだけなのだろう。
たぶん本当にそうだ。
でも。
この女の子たちも、本当に全部ただの仕事なの?
キミには、その疑問があった。
僕は少し面倒になって、
「だから仕事だって」
と言った。
「分かってる」
「じゃあ何なんだよ」
キミはしばらく写真を見ていた。
それから、小さな声で、
「嫌なの」
と言った。
「何が?」
「分かってるけど、嫌なの」
僕は思わず少し笑ってしまった。
まったく予想していなかったからだ。
「もしかして妬いてる?」
キミの顔が変わった。
「笑わないでよ」
「いや、だって仕事だよ」
でも僕の中には、それだけではない感情がほんの少しあった。
僕を?
本当に?
キミが僕のことで、こんな顔をするのか。
僕を取られたくないと思ってくれているのか。
ほんの少しだけ、嬉しかった。
だから笑ってしまった。
でも、キミにはそんなことは分からない。
「分かってるって言ってるでしょ」
僕は笑うのをやめた。
キミは写真を机に戻した。
「私、撮ってるはじめちゃん知らないもん」
「見たことないからね」
「この子たちは知ってるでしょ」
僕は黙った。
「カメラ持って、こうしてって言って、かわいいって言ってるはじめちゃん」
「だから仕事だよ」
「それも分かってる」
キミは怒っていた。
でもその顔は、怒っているというより、どこか寂しそうに見えた。
そのとき、パソコンの画面に通知が出た。
今日撮影した女の子からだった。
「はじめちゃん今日ありがとー♡ めっちゃ盛れてる! またお願いするね」
キミも画面を見た。
僕は何となく説明しなければいけないような気がして、
「昔から知ってる子だから」
と言った。
言ったあとで、余計だったと思った。
キミは画面を見たまま、
「聞いてないけど」
と言った。
そして少しして、
「この子も、はじめちゃんって呼ぶんだ」
と言った。
僕にとっては、昔から呼ばれていた名前だった。
別に特別でも何でもなかった。
でもキミは違った。
楠瀬さん。
ずっと、そう呼んでいた。
閉店間際の店に僕が来た。
店のことを話した。
どうしたらいいか一緒に考えた。
売上がない夜も話した。
誰もいなくなった店で、二人だけで何時間も話した。
特別な時間だと言って僕を迎え入れた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
その時間を積み上げてきた。
そして、ようやく。
少し恥ずかしくて、それでも勇気を出して、
「はじめちゃん」
と呼んだ。
キミにとって、その呼び方にはそこまでの時間が全部入っていた。
それなのに。
好きだとも言われていない。
付き合ってもいない。
ただ仕事で会っている女の子が、
「はじめちゃん」
と軽々しく呼ぶ。
そんなふうに、簡単に呼べてしまう。
私はあそこまで来るのに、あんなに時間がかかったのに。
キミはそれ以上何も言わなかった。
僕にはまだ、その重さが全部は分かっていなかった。
第六章 僕の彼女じゃないじゃん
「仕事だよ」
僕はまた同じことを言った。
疲れていた。
納品は残っている。
翌日も撮影だった。
自分の記事はまったく進んでいない。
僕は僕で必死だった。
だから、キミの感情を受け止める余裕がなかったのだと思う。
「仕事なのは分かってるよ」
「だったら何なんだよ」
「嫌って言ってるだけじゃん」
「でもさ」
本当は、もっと軽いことを言いたかった。
心配しないでよ。
僕はキミが好きだよ。
そんなことだった。
それだけ言えばよかった。
でも、僕はバカだった。
少し冗談っぽく、安心させるつもりだったのかもしれない。
関係が壊れるとか取られるとか言っても、まだ何も始まってないだろ。
その程度の軽い比喩のつもりだった。
そして僕は言ってしまった。
「キミ、僕の彼女じゃないじゃん」
言った瞬間、間違えたと思った。
キミの顔が止まった。
「……そうだよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「そうだよ。彼女じゃないよ」
「キミ」
「だって、はじめちゃんが言ってくれなかったんだよ」
僕は何も言えなかった。
キミは、彼女だと思っていたわけではない。
名前がついていないことくらい分かっていた。
でも。
名前がついていないからといって、何もなかったわけではない。
二人で積み上げてきた時間があった。
閉店しそうな店で、僕を迎え入れた夜があった。
一緒に考えた。
一緒に悩んだ。
泣いた。
笑った。
好きと言われた。
ようやく、はじめちゃんと呼んだ。
その全部の先に、
いつ言ってくれるんだろう。
いつ、その続きを言ってくれるんだろう。
そう思っていた。
なのに、
「彼女じゃないじゃん」
と言われた。
まるで、その時間が何もなかったかのように。
キミの目に、少しずつ涙が溜まっていった。
「私が良くなかったの?」
「違う」
「じゃあ何?」
「違うんだよ」
「何が違うの?」
答えられなかった。
「はじめちゃんがズルいんじゃないの」
その言葉が刺さった。
「好きって言ったじゃん」
「言った」
「私に好きって言ったよね」
「言ったよ」
キミの声が少し震えた。
「じゃあ、そのあと何?」
僕は黙った。
「ねえ」
キミは僕を見る。
「私、あのとき一番カッコ悪かったよ」
胸が痛んだ。
「店も駄目で、自分でも何してるか分かんなくなって、自暴自棄だったかもしれない」
「キミ」
「それでも私、言ったじゃん」
僕は何も言えなかった。
「一生懸命だったよ」
涙が落ちた。
「はじめちゃんが好きって言ったから、私、はじめちゃんって呼んだじゃん」
僕はキミを見る。
「ねえ」
キミは泣きながら言った。
「好きなら、その先を教えてよ」
仕事がうまくいっていない。
会社もまだ安心できない。
お金も十分とは思えない。
そんな状態で、誰かと未来の約束なんてしていいのか分からなかった。
キミは僕の顔を見ながら聞いた。
「うまくいってないから?」
「……」
「仕事が?」
「それもある」
「お金がないから?」
「それもある」
「だから、なに?」
第七章 キミから見た僕は、僕が思っているほど壊れていなかった
キミは少し黙ってから言った。
「心配って言うけどさ、お金のこと、はじめちゃんずっと心配してるけど」
「心配するだろ」
「それは分かるよ」
キミは部屋を見回した。
「でもさ、私から見たら、はじめちゃんって、そんなに何もない人には見えないんだよ」
僕は少し苛立った。
「何それ」
「だって仕事してるじゃん。家もあるし、車もあるし、カメラもいっぱいあるし、パソコンだって何台あるのって感じだし」
「そういう話じゃない」
「分かってるよ。でも、最近また仕事も増えてるじゃん」
「それは単発なんだって」
「それも聞いた」
キミは少し困ったように僕を見た。
「でもね、はじめちゃんが言うほど、私には全部終わりそうには見えないんだよ」
「キミには分からないよ」
そう言うと、キミの顔が変わった。
「そういう言い方やめて」
「だって本当に違うんだよ」
「はじめちゃんが前にどれくらい稼いでたとか、どれくらいお金使えてたとか、私は全部知らないよ」
僕は黙った。
「でも、たぶんそこなんでしょ?」
答えられなかった。
「昔のはじめちゃんと比べてるんでしょ」
胸に刺さった。
「前ならこれくらい気にしなかった。前ならもっとお金使えた。前なら仕事だってもっと簡単に取れた。そういう昔のはじめちゃんと比べて、今の自分がダメだって思ってるんじゃないの?」
何も言えなかった。
たぶん、その通りだった。
僕が本当に怖かったのは、銀行口座の数字だけではなかった。
昔の僕には、何かを動かせるという感覚があった。
売上が必要なら考えた。
人が必要なら集めた。
問題が起これば手を打った。
全部うまくいったわけではない。
それでも、自分には現実を動かす力があると思っていた。
だから金を使うことも怖くなかった。
使っても、また作ればいいと思っていたからだ。
でも今は違った。
書いても届かない。
作っても売れない。
考えても結果にならない。
昔ならできたことが、できない。
僕が一番見たくなかったのは、金が減っていくことではなかったのかもしれない。
できたはずの自分が、いなくなっていることだった。
そして、それをキミに知られることが怖かった。
成功していない僕を見られるのが怖いのではない。
僕自身が、そんな僕には価値がないと思っていた。
僕はこれまで、何かを差し出せば、人の好意に近づけると思っていた。
ハードに仕事をする。
稼ぐ。
少し成功する。
知識を身につける。
相手を困らせないようなスマートさを覚える。
僕が後天的に身につけてきたものは、たぶん全部、たった一人でいいから、自分をただ好きだと言ってくれる人に近づくためのものでもあった。
でも、何かを差し出せば差し出すほど、そこには理由ができた。
仕事ができるから。
金を出すから。
役に立つから。
楽しい時間を作るから。
そういう理由を一つずつ積み上げていって、僕は「ただ好き」という場所へ近づいているつもりだった。
でも、本当は近づけていなかったのかもしれない。
今の僕には、以前ほど差し出せるものがない。
だからキミが、
それでもいい。
今のはじめちゃんが好き。
と言ってくれても、僕にはうまく受け取れなかった。
自分でも信じていない僕を、どうしてキミが好きでいられるのか分からなかった。
キミは僕を見ながら言った。
「私、昔のはじめちゃんと付き合いたいって言ってるんじゃないよ」
僕は顔を上げた。
「今のはじめちゃんに言ってるんだよ」
それから少しだけ怒った顔をして、
「はじめちゃんが今のはじめちゃんを嫌いだからって、私まで嫌いだって勝手に決めないでよ」
と言った。
何も言えなかった。
第八章 私がまたダメになったら、はじめちゃんいなくなるの?
「でも、この先どうなるか分からないだろ」
僕は言った。
「仕事が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。金だって、この先どうなるか分からない。だから怖いんだよ」
キミは少し間を置いた。
「私だって分からないじゃん」
「何が?」
「今は店も前より良くなったかもしれない。でもさ」
キミの目から涙が落ちた。
「私がまたダメになったら、はじめちゃんいなくなるの?」
「そんなわけないだろ」
僕はすぐに答えた。
キミは僕を見た。
「じゃあ同じじゃん」
何も言えなかった。
「そういうことでしょ? はじめちゃんが言ってるのって」
「違うよ」
「何が違うの?」
「僕は……」
「うまくいってない自分じゃ、私と一緒にいられないって言ってるんでしょ」
「それは」
「私にはそんなこと言わなかったじゃん」
胸が痛んだ。
「店がダメだったときも、売上がなかったときも、何をやっても駄目って私が泣いてたときも、はじめちゃんいたじゃん」
僕は何も言えなかった。
「なのに、なんで自分だけはダメなの?」
キミは涙を拭いた。
「お金のせいにしてるだけじゃん」
「違う」
「ズルいよ」
その言葉が、やけにはっきり聞こえた。
僕は何か説明しようとした。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「怖いんだよ」
キミが黙った。
「何が?」
僕は少し迷ってから、ようやく言った。
「キミを信じること」
キミの表情が変わった。
「僕がキミを信じて、それでキミがいなくなったら、僕はどうすればいいんだよ」
声にして初めて、自分がそれをどれほど怖がっていたのか分かった。
「今だって、仕事も、お金も、自分のことも何とか戻そうとしてる。それでキミまで信じて、それで、ある日キミがいなくなったら」
僕はキミを見た。
「この気持ち、どう処理すればいいんだよ」
本当は、キミが今嘘をついていると思っていたわけではない。
今は、本当にそう思ってくれているのかもしれない。
でも。
人の気持ちは変わる。
半年後。
一年後。
僕の仕事が戻らなかったら。
僕が以前みたいに何かを動かせなかったら。
今はいいと言ってくれているキミも、いつか思うかもしれない。
やっぱり、この人には価値なんてなかった。
そう思われることが怖かった。
僕はずっと、好かれるための理由を集めてきた。
その理由がなくなったあとでも好きだと言われた経験を、僕はどう信じればいいのか分からなかった。
キミはしばらく何も言わなかった。
第九章 一緒なら沈んだってかまわないって、私言ったじゃん
しばらくして、キミが小さな声で言った。
「……覚えてないの?」
「何を?」
「私、言ったじゃん」
「あのとき?」
キミは少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「酔ったせいにしてたけど、自暴自棄だったのかもしれないけど……でも、本当だったんだよ」
僕は何も言わなかった。
「私だってさ、一番カッコ悪い私で、精いっぱい言ったじゃん」
キミの目にまた涙が溜まった。
そして、あの夜の言葉をもう一度言った。
「もう、二人でいればいいじゃん。一緒なら沈んだってかまわないって」
胸の奥が痛くなった。
あの店。
閉店しそうな時間。
外には誰もいない。
客も帰っている。
静かな店内に、僕とキミだけがいる。
僕はいつも、キミに会いに行った。
何か特別なことをするわけでもない。
仕事の話をした。
店の話をした。
どうでもいい話もした。
その時間だけが、少しずつ積もっていった。
キミにとって、あの店はもう単なる店舗ではなかったのかもしれない。
誰もいない、閉じた空間。
二人だけの時間。
何もかもうまくいかなくても。
店が沈んでも。
自分が沈んでも。
このまま二人でいられるなら。
その沈んだ先だって、きっと温かい。
キミは、そう思った。
「覚えてない?」
「……覚えてる」
「忘れちゃったのかと思った」
「忘れてないよ」
「じゃあ、なんで」
答えられなかった。
キミは僕を見た。
「私、はじめちゃんが成功してから一緒にいたいなんて、一回も言ってないよ」
何も言えなかった。
「沈むかもしれないときに、一緒にいたいって言ったんだよ」
それは、確かにそうだった。
僕がちゃんとしてからでも、お金が戻ってからでも、昔の僕に戻ってからでもなかった。
何も分からなくなっていた夜に、キミはそう言った。
「私だって怖かったよ。店もダメだったし、自分も嫌だったし、何にも自信なかった」
キミは涙を拭いた。
「それでも言ったじゃん。はじめちゃんと一緒ならって」
僕は何も言えなかった。
「なのに、はじめちゃんは、私がいつかいなくなるかもしれないからって、今も私を信じないんでしょ」
「そうじゃない」
「同じだよ」
少し間があった。
「私だって、はじめちゃんがいなくなるの怖いよ」
僕はキミを見る。
「仕事がうまくいって、また昔みたいになって、知らない人がいっぱい増えて、女の人も周りにいっぱい増えて、そのうち私のところなんて来なくなるかもしれない」
「そんなこと」
「分からないじゃん」
言い返せなかった。
「未来なんて、私にも分からないよ。絶対いなくならないって約束なんて、私にもできないし、はじめちゃんにもできないでしょ?」
「うん」
「でもさ」
キミは僕を見た。
「今の私は、あなたといたいんだよ」
僕は黙った。
「ただ、それだけ」
涙を拭いて、キミは続けた。
「未来の私じゃないよ。未来のあなたでもない」
僕は何も言えなかった。
「私は今ここにいるじゃん」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「ちゃんと逃げずに選んでよ」
胸が苦しくなった。
「手を伸ばしてよ」
キミが言う。
「今ここにいる私の気持ちは、未来の気持ちじゃない。今ここにあるんだよ」
僕はキミを見る。
「信じてよ」
少し間があった。
「この今一瞬の時間」
胸が詰まった。
未来のことばかり考えていた。
半年後。
一年後。
金。
仕事。
会社。
キミの気持ち。
全部、まだ来ていない未来だった。
その未来を恐れて、今目の前にいるキミまでいないことにしようとしていた。
キミは泣きながら言った。
「いなくなるかもしれないからって、今ここにいる私まで、いないことにしないでよ」
「私、今ここにいるじゃん。好きって言ってくれたじゃん。私も、はじめちゃんにいてほしいって言ってるじゃん。それじゃ駄目なの?」
僕は答えられなかった。
キミは少し泣きながら笑った。
「この先どうなるか分からないから何も始めないって、それやってたら何にも始まらないじゃん」
「怖いんだよ」
「私も怖いよ」
「じゃあどうするんだよ」
少し考えてから、キミは言った。
「一緒に怖がればいいじゃん」
僕はキミを見た。
一緒に怖がる。
そんなこと、考えたこともなかった。
怖いものは自分で処理するものだと思っていた。
仕事が怖いなら、自分で何とかする。
金が怖いなら、自分で稼ぐ。
自信がなくなったら、自分で戻す。
カッコ悪いことは、できるだけ人に見せない。
相手を困らせない。
スマートでいる。
それが僕のやり方だった。
なのに。
怖がってもいいのか。
キミの前で。
カッコ悪いことを言ってもいいのか。
「仕事がなくなるのが怖い」
「金がなくなるのが怖い」
「キミがいなくなるのが怖い」
そんなことを、全部言っていいのか。
本当に?
二人で怖がるなんて、考えたこともなかった。
「一人で全部処理しようとするから、はじめちゃんおかしくなるんだよ」
少し笑いそうになった。
でも、キミが泣いていたから、うまく笑えなかった。
第十章 好きのあとは?
少しして、僕はキミの後ろへ回った。
何となく、正面から顔を見るのが恥ずかしかった。
それでも離れたくはなかった。
後ろから、ふわっとキミを抱きしめた。
強くは抱かなかった。
逃げられないようにしたかったわけでもない。
ただ、そこにいることを確かめるように腕を回した。
キミも逃げなかった。
僕は頬をキミの頬の近くへ寄せた。
「はじめちゃん」
「うん」
「仕事がうまくいってないから、お金が心配だから、ちゃんとしてからって、ずっとそうやってそのあとを言わないじゃん」
僕は黙った。
「好きってところまでは言ったのに」
キミは少しだけ顔を動かした。
「好きのあとは?」
胸が苦しくなった。
「ねえ」
キミの頬を、また涙が落ちた。
「そのあとを聞かせてよ」
僕は何も言えなかった。
するとキミが、
「はじめちゃん、前に言ってたじゃん」
と言った。
「何を?」
「パッケージングとか、ラベリングとか」
僕はキミの頬の横で目を閉じた。
「世の中のものって、最初から全部意味が決まってるわけじゃなくて、名前をつけると、それになるんだって」
確かに僕が言った。
商品でもサービスでも、そこに何かが存在しているだけでは、人には何なのか分からないことがある。
だから意味を与える。
名前をつける。
誰のためのものなのか。
どんな時間なのか。
何を得られるのか。
それを言葉にする。
そうすることで、人は初めてそれを一つのものとして認識できる。
キミは続けた。
「うちのコーヒーだってそうじゃん」
「コーヒー?」
「チョコレートのトリュフを溶かしたやつ」
「ああ」
「普通にトリュフコーヒーって言ったら、それだけじゃん。でも、『二人の時間』とかさ」
「何それ」
「知らない。今考えた」
泣いているのに、少しだけ笑った。
「『未来もあまく』とか」
「それ、メニュー名?」
「別にいいじゃん」
僕も少し笑いそうになった。
でもキミは真剣だった。
「そういう名前をつけたら、ただのコーヒーじゃなくなるでしょ。恋人専用のメニューみたいになるでしょ」
「……なるかもね」
「それを、はじめちゃんが言ってたんじゃん」
そうだった。
同じものでも、どんな名前をつけるかによって、受け取られる意味は変わる。
素材だけでは商品にならない。
体験に名前をつけ、意味を与える。
誰のためのものなのかを決める。
それがパッケージングであり、ラベリングなのだと、僕はキミに話したことがあった。
キミはそんなことまで覚えていた。
「名前をつけると、それになるんでしょ」
僕の胸が苦しくなった。
「じゃあ、私たちは?」
答えられなかった。
「ねえ。好きのあと、そのあとちゃんと名前をつけよ」
キミは僕の腕の中で泣いていた。
「はじめちゃんがつけてよ。ちゃんと」
「……」
「そうじゃなかったら、私いったい誰なの?」
「キミはキミだよ」
言った瞬間、自分でもひどい答えだと思った。
キミの顔が歪んだ。
「そういうこと聞いてない」
「分かってる」
「分かってないよ」
僕は何も言えなかった。
「私は、はじめちゃんの何なの?」
好きな人。
大切な人。
会いたい人。
失いたくない人。
いくらでも言葉はあった。
でも、そのどれもが逃げ道に聞こえた。
キミが欲しいのは感情の説明ではなかった。
僕たちの関係に、僕がどんな名前をつけるのかだった。
「好きな人?」
キミが聞いた。
「それ、本当に私なの?」
「そうだよ」
「だったら、ちゃんと言ってよ」
僕は少しだけ腕に力を入れた。
「僕が怖かったんだよ」
第十一章 名前をつけることが怖かった
僕は、名前をつけることを知らなかったわけではない。
むしろ、その意味を知りすぎていたのだと思う。
名前をつければ意味が生まれる。
意味が生まれれば、期待が生まれる。
商品と呼べば、対価に見合う価値を求められる。
サービスと呼べば、提供する責任が生まれる。
約束と呼べば、それを守る責任が生まれる。
では、恋人と呼んだらどうなるのだろう。
その人の未来に、自分がいることを期待させる。
明日もいる。
来月もいる。
来年もいる。
好きだと言っただけでは曖昧だったものに、輪郭が生まれる。
僕は、それが怖かった。
それだけではなかった。
恋人になれば、もっと近くで僕を見られる。
昔なら簡単に動かせたものを、今の僕が動かせないことも知られる。
仕事が取れない日も。
売上を計算している夜も。
昔なら迷わず使えた金額を前にして考えてしまう自分も見られる。
僕は、成功した自分なら愛せた。
何かを動かせる自分なら信じられた。
人に必要とされている自分なら、価値があると思えた。
でも、それができなくなった自分を、僕自身がまだ愛せなかった。
だからキミにも見せたくなかった。
そして。
今はいいと言ってくれても。
この先も同じとは限らない。
人の気持ちは変わる。
半年後。
一年後。
仕事が戻らなかったら。
金がなくなったら。
僕が何も差し出せない人間になったら。
いつかキミも、
やっぱりこの人には価値がない。
そう思うかもしれない。
それが怖かった。
「僕さ、ちゃんとしてから言いたかったんだと思う」
「ちゃんとって何?」
キミはすぐに聞いた。
「会社がうまくいったら? お金が増えたら? 昔みたいになったら?」
僕は答えられなかった。
「それ、いつなの?」
分からなかった。
「一千万?」
「何が?」
「お金」
「そういう話じゃない」
「じゃあ三千万?」
「違うよ」
「じゃあいくらあれば、はじめちゃんはちゃんとするの?」
僕は何も言えなかった。
キミは少し泣きながら笑った。
「ほら。決まってないじゃん」
その通りだった。
僕は「ちゃんとしたら」と言いながら、その「ちゃんと」が何なのかを自分でも決めていなかった。
それなら、いくらでも先送りできる。
一千万でも足りないと言える。
三千万でも不安だと言える。
仕事が戻っても、昔ほどではないと言える。
いつまででも。
僕は未来を理由に、今を先送りできる。
キミは僕を見た。
「私、昔のはじめちゃんと付き合いたいって言ってるんじゃないよ」
胸が痛んだ。
「今のはじめちゃんに言ってるんだよ」
そして、少し怒った顔で言った。
「はじめちゃんが今のはじめちゃんを嫌いだからって、私まで嫌いだって勝手に決めないでよ」
僕は何も言えなかった。
第十二章 好きのあと
しばらく二人とも黙っていた。
モニターには、まだ知らない女の子の写真が大きく映っていた。
僕はキミの後ろから腕を回したまま、その画面を見た。
さっきまでキミが嫌がっていた写真。
僕にとっては仕事。
キミにとっては、僕の知らないところへ誰かが入ってくるように見えた写真。
「僕さ」
「何?」
「ちゃんと頑張ってるじゃん」
自分で言ってから驚いた。
仕事の構造を説明したかったわけではなかった。
単発仕事をしなければ現金が作れないことも、自分のコンテンツが進まないことも、本当だった。
でも、本当に言いたかったのはもっと単純だった。
キミに褒めてほしかった。
認めてほしかった。
僕はまだ大丈夫だと言ってほしかった。
キミは少し間を置いて、
「頑張ってるよ」
と言った。
「知ってるよ。すごいって思ってるし、仕事戻ってきてよかったって思ってる」
「だったら」
「だから、頑張ってることと寂しいことは別なんだって」
僕は黙った。
「成功してほしいよ。でも会いたい」
キミは言った。
「仕事はしてほしい。でも女の人のところは嫌なの」
「……うん」
「どっちも本当なの」
僕は初めて、その二つを同時に考えた。
人の感情は、マーケティングの図解みたいに綺麗に一方向へ並んでくれない。
好きだから応援できる。
好きだから寂しい。
好きだから成功してほしい。
好きだから遠くへ行ってほしくない。
仕事だと分かっている。
でも嫌。
矛盾している。
でも、全部本当なのだ。
未来はまだ何も決まっていなかった。
会社がどうなるのかも。
僕が昔のように何かを動かせる感覚を取り戻せるのかも分からない。
キミがずっと僕を好きでいてくれる保証もない。
僕だって同じだ。
絶対なんて言葉を、未来に対して使うことはできない。
でも。
目の前にいるキミは本物だった。
今、僕の腕の中にいる。
寂しいと言った。
嫌だと言った。
怖いと言った。
それでも、僕といたいと言った。
僕はずっと、たった一人でいいから、まっすぐ自分を好きだと言ってくれる人が欲しかった。
そのために働いた。
稼いだ。
知識をつけた。
スマートになろうとした。
何かを差し出せる人間になろうとした。
でも。
今、僕の腕の中にいるキミには。
それらは、もう要らないのかもしれない。
もちろん、仕事をしなくていいわけではない。
努力をしなくていいわけでもない。
そうではなくて。
愛されるための代金として、それらを差し出さなくてもいい。
それでも、キミはここにいる。
今この瞬間を、未来の不安のためにうやむやに失ったら。
この時間は二度と戻ってこない。
今、寂しいと言っているキミ。
今、僕を選んでいるキミ。
今、僕の腕の中にいるキミ。
明日のキミではない。
一年後のキミでもない。
このキミに手を伸ばせるのは、今しかない。
僕は頬をキミの頬に寄せていた。
少しだけ離した。
キミの顔を見るために。
キミも僕を見た。
僕は一度息を吸った。
「僕はキミが好きだよ」
「それは聞いた」
少し怒ったように返された。
「うん」
僕はキミを見る。
「だから、そのあと」
少しだけ怖かった。
それでも、もう逃げたくなかった。
「僕の恋人になってほしい」
キミは何も言わなかった。
その沈黙が怖くなった。
「……違った?」
キミの目から、また涙が出た。
でも今度は少し笑っていた。
「遅いよ」
責めているようには聞こえなかった。
安堵したような声だった。
キミは分かっていたのだと思う。
僕が好きなことも。
特別だと思っていることも。
でも僕が臆病だから、このまま最後まで手を伸ばしてこないかもしれない。
そんな不安があった。
分かってた。
分かってたけど、不安だった。
ようやく。
そんな「遅いよ」だった。
「ごめん」
「本当に遅い」
「うん」
「私、ずっと考えてたんだから。仕事うまくいってないからかなとか、お金ないからかなとか、私が何か違ったのかなとか」
「それは違う」
「今なら分かるよ」
「何が?」
キミは涙を拭きながら笑った。
「はじめちゃんが面倒くさいだけだった」
僕も笑った。
「ひどいな」
「本当じゃん」
「否定できない」
少し間があった。
「で?」
僕が聞いた。
「何が?」
「返事」
キミはわざと考えるような顔をした。
「どうしようかな」
「ここまで泣かせてそれ?」
「だって、はじめちゃんズルかったし」
「それは認める」
キミは少し笑った。
そして、
「いいよ」
と言った。
一話目のあの言葉を思い出した。
楠瀬さんだったら、いいよ。
閉店しそうな時間に来た僕を、キミが初めて店の中へ入れてくれたときの言葉だった。
でも、今度は違った。
キミは少し照れたように、
「はじめちゃんだったら、いいよ」
と言った。
それが、僕たちについた最初の名前だった。
第十三章 僕の仕事にも、まだ名前がなかった
しばらくして、キミは机の上のバースデーポスターを持ち上げた。
「これさ」
「何?」
「はじめちゃんが作ったって、誰が分かるの?」
僕は少し驚いた。
ポスターには女の子の名前があり、店名があり、イベントの日付もSNSのアカウントも入っている。
必要なものは全部あった。
僕の名前だけがなかった。
「別に僕の広告じゃないからね」
「それは分かってるけど」
キミは他の制作物も見ながら言った。
「こんなにいっぱい作ってるのに、はじめちゃんが何してる人なのか、これだけ見てもよく分かんないね」
「どういう意味?」
「写真撮る人?」
「それだけじゃない」
「ポスター作る人?」
「それもする」
「SNS画像作る人?」
「するよ」
「コピーも書くし、Webも作れるんでしょ?」
「そう」
キミは少し考えたあと、
「じゃあ何する人なの?」
と聞いた。
答えようとして、僕は止まった。
僕の頭の中では全部つながっている。
撮影も。
デザインも。
コピーも。
Webも。
集客も。
全部マーケティングの一部だった。
でも、外から見れば一件ずつバラバラの仕事に見える。
キミが言った。
「はじめちゃん、自分の仕事にも名前つけてないじゃん」
僕は苦笑した。
「さっき私に言われてたのと同じじゃん」
「仕事と恋愛一緒にするなよ」
「いつも一緒にしてるの、はじめちゃんじゃん」
何も言い返せなかった。
キミは少し得意そうに笑った。
「名前つけると、それになるんでしょ」
また言われた。
でも、今度は仕事の話だった。
僕は毎日、誰かが見つかるための広告を作っていた。
誰かが選ばれるための写真を撮っていた。
それなのに、自分自身の仕事には輪郭がなかった。
一件が終われば納品して終わり、その対価として金だけが残る。
だったら、一件の仕事を僕自身の次の仕事へつなげればいい。
歓楽街向けのプロモーション撮影。
宣材写真を撮るだけではなく、バースデー告知やSNS素材、広告クリエイティブまでまとめて制作するサービス。
一件一件をバラバラに売るのではなく、一つの意味としてまとめる。
名前をつける。
ページを作る。
実績として残す。
そうすれば、今日の仕事が明日の広告になる。
僕はそこまで考えてから、少し笑った。
「キミ、たまにすごいこと言うね」
「たまにって何」
「いや」
「誰に教わったと思ってるの」
今度は僕が黙った。
第十四章 今日を売りながら、明日を作る
恋人になった翌日から、人生が急に楽になったわけではなかった。
撮影もあったし、納品もしなければならない。
銀行口座を見れば、まだ安心できる状態ではなかった。
だから単発の仕事を止めることもできなかった。
今日の現金は必要だった。
それでも、一件一件を少しずつ自分の未来にも残すことにした。
依頼主に許可を取り、出せるものは実績として掲載した。
そのままでは出せないものは、誰なのか分からない形に加工した。
どういう依頼だったのか。
何を目的に撮影したのか。
なぜこの構図にしたのか。
どうして写真だけではなく、ポスターやSNS用画像までまとめて制作したのか。
少しずつ自分のサイトへ書いていった。
撮影から帰って一時間だけ書く日もあった。
翌日は三十分だけ直した。
納品を終えたあと、眠くても一件だけ実績を追加した。
思ったようには進まない。
それでも、ゼロではなかった。
今日の現金を作る仕事をしながら、明日の問い合わせを作る仕事もする。
その両方を、少しずつやるようになった。
そして、しばらくして一件の問い合わせが来た。
知らない名前だった。
紹介でもなかった。
「検索して見つけました。女性キャストの撮影と、バースデーイベント用の告知制作をまとめてお願いできますか」
僕はしばらく画面を見ていた。
自分が働いている最中に、数日前に作ったページを誰かが見つけてくれた。
僕が営業したわけでもない。
知人から紹介されたわけでもない。
昨日作ったものが、今日の僕の代わりに働いてくれた。
まだ一件だった。
それだけで会社が救われるわけではない。
でも、それは今までの五万円とは少し違った。
今日僕が働いたから生まれたものではなく、昨日作ったものが今日の仕事を連れてきた。
僕はすぐにキミへスクリーンショットを送った。
「来た」
とだけ書いた。
すぐに、
「何が?」
と返ってきた。
「自分のページから」
少しして、
「すごいじゃん!」
と返ってきた。
続けて、
「よかったね」
と来た。
その「よかったね」は、前より少しだけ違って聞こえた。
第十五章 彼女だから嫌なの
数日後、キミの店へ行った。
「この前、ずいぶん喜んでたね」
キミは少し嫌そうな顔をした。
「前も喜んでたよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあなんで今回は違ったの」
キミは少し考えた。
「今回は、はじめちゃんのところに残ってるからじゃない?」
「何が?」
「仕事」
僕は黙った。
「前の仕事もすごいよ。でも、あれってその子の写真になるでしょ。その店のポスターになるでしょ。今回は、はじめちゃんが作ったものを見て、はじめちゃんに連絡してきたんでしょ?」
「そうだね」
「だったら、そっちの方が嬉しい」
僕は少し笑った。
「マーケターみたいなこと言うね」
キミも笑った。
「誰に教わったと思ってるの」
帰り際、キミが聞いた。
「明日は?」
「撮影」
「どこ?」
「錦」
少し嫌そうな顔をした。
「女の人?」
「女の人」
「下着?」
「まだ知らない」
「ワイシャツ?」
「知らないよ」
「二人っきり?」
「多分スタッフいる」
「多分って何」
僕は笑った。
「まだ嫌なの?」
「嫌だよ」
「仕事だよ」
「分かってる」
「またそれ」
キミも少し笑った。
「分かってるけど嫌なの」
「勝手だな」
「うん」
「認めるんだ」
キミは僕を見る。
「だって今は彼女だから、嫌って言ってもいいでしょ」
僕は少し止まった。
その言葉が、思っていたより嬉しかった。
昨日までと何も変わっていない。
僕は同じ仕事をする。
女の子を撮る。
かわいいと言う。
キミはそれを嫌がる。
嫉妬がなくなったわけではない。
でも、その感情を置く場所ができた。
「そういうもの?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「でも前より言いやすい」
「何が?」
「嫌って」
僕は少し考えた。
恋人という名前がついたことで、キミは自分の感情を置く場所を見つけたのかもしれない。
僕も同じだった。
「じゃあ僕も言っていい?」
「何を?」
「男の客と楽しそうにしてると嫌」
キミは笑った。
「仕事だよ」
「分かってる」
「じゃあ何?」
僕も笑った。
「分かってるけど嫌なの」
キミは声を出して笑った。
「同じじゃん」
本当に同じだった。
終章 名前をつけたものを、これから未来にする
僕の会社が完全に戻ったわけではなかった。
今日の仕事をこなしながら、明日の仕事を作る日々は続いている。
現場へ行き、撮影して、納品する。
その合間に記事を書き、実績を追加し、自分の名前で残るものを少しずつ増やしていく。
すぐには結果が出ない。
それでも、知らない人から問い合わせが来ることが少しずつ増え始めた。
昔からの知り合いでもない。
僕が酒を飲んだ場所で出会った人でもない。
僕が作ったものを見て、僕の仕事を知り、僕を選んでくれた人だった。
まだ小さな変化だった。
それでも、今日働いた分だけ売れる仕事から、昨日作ったものが今日の誰かを連れてくる仕事へ、少しずつ変わり始めていた。
キミとの関係にも名前がついた。
名前をつけたからといって、未来が保証されたわけではない。
絶対にいなくならないという約束ができたわけでもない。
未来なんて誰にも分からない。
キミにも分からないし、僕にも分からない。
人の気持ちだって変わるかもしれない。
会社だってどうなるか分からない。
それでも。
未来が分からないからといって、今ここにいる人までいないことにしなくていい。
名前をつけるというのは、未来を固定することではないのかもしれない。
今あるものを、二人で同じ言葉で呼ぶことなのかもしれない。
ある夜、キミの店で、チョコレートのトリュフを溶かしたコーヒーを飲んでいた。
「これさ、本当に名前つける?」
僕が聞くと、キミが笑った。
「何に?」
「これ。恋人専用メニュー」
「やだよ。恥ずかしい」
「自分で言い出したんじゃん」
「例えだよ」
「『二人の時間』は?」
「ダサい」
「キミが言ったんだろ」
「じゃあ『未来もあまく』」
「もっとダサい」
二人で笑った。
結局、そのコーヒーに新しい名前はつかなかった。
でも、それでよかった。
僕たちには、もう別の名前がついていた。
キミがカップを持ちながら言った。
「ねえ。明日も女の人?」
「仕事ね」
「分かってる」
「嫌?」
「嫌」
僕は笑った。
「彼女だから?」
キミも笑った。
「そう」
僕はコーヒーを飲んだ。
未来はまだ分からない。
会社がどこまで戻るのかも、この仕事がどこまで大きくなるのかも分からない。
僕がもう一度、昔のように自分を好きになれる日が来るのかも分からない。
でも。
僕はずっと、たった一人でいいから、自分をただ好きだと言ってくれる人が欲しかった。
そういってくれる人がいつか現れると思っていたんだ。
自分がいわゆる力を手に入れることができたら。
そのために、いろんなものを手に入れた。
働いた。
稼いだ。
知識を身につけた。
スマートになろうとした。
何かを差し出せる人間になろうとした。
でも、今の僕を僕自身が愛せないからといって、キミが今の僕を選ぶことまで拒んではいけなかった。
それでは、キミの気持ちまで僕が勝手に決めることになる。
キミはもう、キミ自身が沈むかもしれない夜に、
「一緒なら沈んだってかまわない」
と言っていた。
僕より先に、怖いところへ来ていた。
もし沈んだとしても。
二人なら、そこは温かい。
キミはそう思っていた。
だから今度は、僕がキミを信じる番だった。
絶対にいなくならないと保証されたから信じるのではない。
未来のキミが僕を好きだと約束してくれたからでもない。
いなくなる可能性まである世界で。
気持ちが変わる可能性まである世界で。
それでも、今ここにいるキミを選ぶ。
たぶん、信じるというのは、そういうことなのだと思う。
未来が決まってから名前をつけるのではない。
名前をつけたものを、これから二人で未来にしていく。
仕事も同じだった。
完璧に成功してから、自分の仕事に名前をつけるわけではない。
まだ小さくても、今できることに輪郭を与えて世の中へ出す。
誰かに見つけてもらいながら、少しずつ育てていく。
僕はずっと、すべてが整ってから始めようとしていた。
仕事がうまくいったら。
金が戻ったら。
自信が戻ったら。
昔の自分に戻れたら。
でも、そんな日は永遠に来なかったかもしれない。
キミはもう、今ここにいた。
僕の仕事も、今ここにあった。
今、僕の目の前にいるキミ。
寂しいと言ったキミ。
嫌だと言ったキミ。
怖いと言ったキミ。
それでも僕といたいと言ったキミ。
このキミは、明日にはもう今日のキミではない。
僕も同じだった。
だから僕は、二度と訪れない時間に手を伸ばすことにした。
今あるものに名前をつけ、その続きを作ることにした。
今日を生きるための仕事をしながら、明日へ残るものを作る。
未来のために頑張りながら、今日キミのところへ行く。
怖くなったら、一人で全部処理しようとしない。
キミの前で怖がってもいい。
カッコ悪いことを言ってもいい。
一緒に怖がる。
たぶん僕は、これからも何度も間違える。
また仕事ばかりする日もあるだろう。
キミもきっと、分かっているのに嫌だと言う。
僕も仕事だと分かっているのに、キミが男の客に笑っているのを見て妬くかもしれない。
それでも今度は、僕たちが何なのかを、もう分からないままにはしない。
好きと言った。
そのあとも言った。
そして、名前をつけた。
未来が怖くないからではない。
今、目の前にいるキミを、未来への恐怖だけで失いたくなかったからだ。
だから今度は、その名前の続きを、二人で作っていけばいい。
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