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第4話:ペルソナ推定と感情の乖離――思い込みの答え合わせ キミから見た世界 | キミと僕と心の利益率

    ※小説タイトル「キミと僕と心の利益率」の4話目。これは連作です。前回の記事は下記です。ストーリーとして公開しています。
    マーケティング理解促進のための実験的作品ですので読み方GuideをPDFで参照して頂けるようにしました。→ https://nich-idea.com/kimikoiguide

    第5話は下記

    前回の3話は下記。

    全話一覧は下記

    あらすじ

    明かされる、カフェ店主「キミ(香月紬(こうづきつむぎ)」の視点。1~3話までを公開。

    • 行動を見る女と、理屈で逃げる男: 父親のトラウマから、「人の言葉より行動を見る」ようになっていたキミ。彼女にとって、閉店後の孤独なカフェにふらりと現れてくれる楠瀬(はじめちゃん)は、いつしか心を許せる特別な存在になっていた。

    • すれ違うインサイト(本音): 彼の助けで店は繁盛するが、彼女の世界に自分の居場所がなくなることに嫉妬した楠瀬は、次第に店から足が遠のく。さらに事業に行き詰まり自信を失った彼は、「心の利益率」というマーケティングの理屈を盾にして、自分の無価値さを語り始める。

    • 感情の爆発: 「私、お客さんじゃない!はじめちゃんのこと、買ってるわけじゃない!」。キミが求めていたのは、お金でも役立つ機能でもなく、カッコ悪い弱さも見せてくれた「ただのはじめちゃん」だった。

    • 好きの、その先へ: 彼の周りの女性モデルたちへの嫉妬と、「彼女じゃないじゃん」という言葉による衝突。完璧なペルソナ(推定)では測れない「本当の人間の感情」に直面したとき、これまで待つことしかできなかったキミは、震える手で自ら彼に手を伸ばす。

    マーケティングの正しい理屈を、生々しく泥臭い感情が打ち破る。 すれ違い続けた不器用な二人が、見えない未来を「一緒に怖がる」ことを選ぶまでの物語。

    第一章 帰ってこない夜に、私は人の言葉より行動を見るようになった


    「紬、今日もバイト?」

    高校二年の秋。西日が差し込み、
    チョークの粉が微かに舞う教室で、
    鞄を肩にかけようとしていた私に後ろから友達が声をかけた。

    「うん。今日ちょっと長いんだ」
    「また? 働きすぎじゃない?」
    「家にいても暇だし」

    私は喉の奥にこびりつくような感情を飲み込み、
    唇の端だけを持ち上げて笑ってみせた。

    香月紬(こうづきつむぎ)。
    それが私の名前だ。
    学校を辞めて、
    働いていたとき楠瀬さんと知り合った。
    それから数年して
    自分の城であるこの小さなカフェの店を持った。

    自分のことを、
    そういえば楠瀬さんにはあまり話したことはない。
    話しても仕方のないことだし、
    今の私はここにいるのだから。

    それでいいんだ。

    楠瀬さんはそこにいるのだから。

    でも、過去のことを少し思い出す日もある。

    あの頃の私は、人に自分のことを説明するのがひどく苦手だった。
    本当は、家に帰りたくなかった。

    でも「家に帰りたくない」と言えば、
    どうして、と聞かれる。
    どうしてと聞かれたら、父のことを話さなくてはいけない。

    酒を飲むと荒れること。
    女性関係のことで母と揉めること。
    夜になっても帰ってこない日があること。
    帰ってきたと思えば、玄関の向こうから、胃液がじわりとせり上がるような酒の饐えた匂いがすること。

    そんなことを一つずつ説明するくらいなら「家にいても暇だから」と嘘をつく方がずっと楽だった。

    父は、普段からどうしようもない人だったわけではない。
    仕事はしていたし、自営業者としてそれなりに商売も続けていた。
    機嫌がよければ家族で出掛けることもあったし、私に何かを買ってくれることもあった。

    特段、何がという父でもなかった。
    仕事の話をする父を、
    子どもの頃の私は格好いいと思ったことさえある。
    だから余計に分からなかった。

    昨日まで普通だった人が、
    どうして今日は帰ってこないのか。
    家族が大切だと言った人が、
    どうしてまた同じことで母を泣かせるのか。

    夜、薄暗い自分の部屋で布団を頭まで被っていると、
    廊下の向こうの音ばかりが鼓膜を執拗に叩いた。

    母が受話器を乱暴に置く音。
    冷蔵庫の重い扉が開閉する唸り。
    秒針の無機質な刻み。
    深夜になって外の砂利をタイヤが踏み躙る音が響くと、
    みぞおちの奥が硬く結びついた。

    父が帰ってきた。
    そのことには少し安堵する。
    でも同時に、お腹のあたりが石のように硬くなる。
    今日は普通なのか。
    また喧嘩になるのか。
    酒を飲んでいるのか。

    翌朝になると、父は意外なくらい普通の顔をしていることもあった。
    そして何日かすれば、
    「もうしない」
    と言う。
    「家族が一番大事だから」
    とも言った。

    私は、それが全部嘘だったとは思っていない。
    たぶん父は、その瞬間には本当にそう思っていたのだろう。
    でも、人が本気で言った言葉でも、そのあと同じように行動するとは限らない。

    私は少しずつ、それを学んでいった。

    誰かが何を言ったかより、実際に何をするのかという「行動」の重みを見るようになった。
    本当に来るのか。
    約束したことをやるのか。
    困ったときに逃げないのか。
    昨日と今日で態度が変わらないのか。
    そういうものを見てからでないと、私は人を信じられなくなっていた。

    でも、自分でカフェを作ってからは思った。
    大人になったいまキレイごとではなくて父の気持ちも母の気持ちもいづれも分かる気がした。

    仕事をすることが、こんなにシンドイこと。誰にも言えないことがたくさんあることを今の私なら分かるから。

    でも若い学生の頃、多感期では無理だったんだ。

    高校に入ってアルバイトを増やしたのも
    家にいる時間を少しでも短くしたかったからだ。

    学校が終わったら働き、そのまま遅い時間に帰る。
    それなら、家で何かが起きていたとしても、そこにいる時間は短くて済む。
    けれど、体はそんなに器用ではなかった。

    朝、目覚まし時計の電子音がけたたましく鳴っていることは分かっているのに、鉛のように重い腕は布団から出ない。

    洗面所の冷たい水で顔を洗っても、
    頭の奥にへばりついた泥のような眠気は剥がれ落ちなかった。

    遅刻が増えた。
    欠席も増えた。

    ある日、担任に呼ばれた。
    「香月、このままだと進級、厳しいぞ」
    先生の口が動いているのを見ながら、
    私は制服のスカートに手のひらを押しつけていた。

    じっとりと汗が滲んでいた。
    家のことを話せばよかったのかもしれない。
    夜眠れないことも。
    家にいたくなくて働いていることも。
    でも、口を開けば全部、自分が助けを求めているみたいになる。

    「じゃあ、辞めます」
    自分でも驚くほど、平らで乾いた音が口から落ちた。
    「香月、本当にそれでいいのか?」
    「大学行くつもりもないんで」

    教室を出て階段を降りる途中、一度だけ冷たい手すりをつかんだ。
    足の裏が床から数ミリ浮いているような感覚がして、うまく力が入らなかった。

    学校を辞めたかったわけではない。
    ただ、自分で辞めたことにしてしまった方が楽だった。
    誰かに奪われたわけでも、
    家庭に壊されたわけでもない。
    私が自分で選んだ。
    そういうことにした。

    それから私は働いた。
    高校中退は社会的に言えば中卒だ。
    それでも雇ってくれるところって
    そんなになかった。社会が甘くないと
    大人が言っていたことがそのとき分かった。

    そして、ようやくなんとかは入れた飲食店の接客。

    接客を覚え、人との距離を覚え
    相手の顔を見れば機嫌が悪くなる少し前くらいは分かるようになった。
    それでも、大人になった私はよく言った。

    「私、高校もちゃんと出てないから」
    「昔から努力なんてしてこなかったし」
    自分が何をしてきたかではなく、何を持っていないかばかり数えていた。
    そんな私が、いつか自分の店を持ちたいと思うようになった。
    たぶん、自分で何かできる人になりたかったのだと思う。

    第二章 「楠瀬さんだったら、いいよ」――私にとっては、かなり特別だった

    店を始めてからの私は見えない鎧を着込んで必要以上にちゃんとしていた。

    父みたいにはなりたくなかった。
    感情でスタッフを振り回したくない。
    誰かだけを特別扱いして、周りを不快にさせるようなこともしたくない。
    嫌なことがあっても顔に出さない。
    店主なのだから、きちんとしていなければいけない。
    そうやっているうちに、
    自分の店なのに、自分が一番気を遣う場所になった。

    結局のところは経営ははじめてだ。
    雇ってもらっているときには正義だったことが
    実は従業員側の勝手な我がままであることも多いことを身をもって感じた。

    スタッフが帰り、木の扉の鍵を閉める。
    一人きりの店内。静寂の中、椅子をテーブルの下へ押し戻す摩擦音だけが響く。

    その時だけ、張り詰めていた肩のラインがようやく数ミリ下がった。

    ただ、一人になると
    今度は青白いスマホの光に顔を照らされながら売上を見る。
    そして、予約表を見る。

    今日もこれだけか。
    明日は大丈夫なのか。
    誰もいない店で、今度は数字に追われ、胃の奥をひりつかせる。

    そんな頃、楠瀬さんが店へ来るようになった。
    マーケティングが仕事とは聞いていたし知っていたけれども、でも何屋さんなのかは実は分からなかった。

    写真を撮る。Webも作る。広告も分かる。文章も書く。会社もやっている。
    話を聞けば聞くほど、私とは違う世界の人に見えた。

    私が「何もしてこなかった」と思っていた分だけ、楠瀬さんは何でもやってきた人に見えた。

    物腰は柔らかくて良い人。私、お店をやろうと思っているんだ!と言ったときに「突然だね。どこに出すの?」と聞かれた。

    そして、お店が出来てから、楠瀬さんに「できたよ」と連絡をした。
    それからしばらくして楠瀬さんはお店に現れるようになった。

    多くの知り合いのお客様などが、こうした方がいい。それは間違っている。
    そんな店では駄目だとか助言のつもりか、教えてやっているみたいな感じで口を出してきた。正直うんざりしていた。

    楠瀬さんは、そういう言い方をあまりしなかった。
    私がスタッフの愚痴を言っても、店の売上の話をしても、すぐに正解を出そうとはしない。

    グラスの氷が溶ける微かな音の隙間で
    ただお酒を飲みながら聞いている。
    それが楽だった。

    ある夜、閉店間際に楠瀬さんが来た。
    私はもうシンクに水を張り、食器を沈めて片づけ始めていた。

    「あ、ごめん。もう閉める?」
    「うん。閉めようと思ってた」
    「じゃあ帰るよ」

    本当に扉へ戻ろうとした。その背中を見た瞬間、
    「いいよ」
    と、喉の奥から勝手に声が滑り落ちた。
    楠瀬さんが振り返った。

    「楠瀬さんだったら、いいよ。でも、閉まりそうな前に連絡してくれたら開けておくから」

    言ったあと、少し恥ずかしくなって、私は洗いかけの食器へ視線を戻した。蛇口から落ちる水音が、妙に大きく聞こえた。

    私は、誰にでもそんなことをしていたわけではない。
    夜。スタッフはもう帰っている。店には私一人。
    そこへ男性客を残す。または時間は終わっているのに招き入れるなんて、嫌な相手なら絶対にしない。

    少しでも怖い人なら、閉店時間になったら帰ってほしい。
    疲れてもいるし。

    でも、楠瀬さんとは二人になっても平気だった。
    もともと知っている人で安心をしていたのもある。

    背中を向けて洗い物ができた。
    少し静かになっても、何をしているのか気にならなかった。
    そういう安心を、自分が持っていることは分かっていた。
    楠瀬さんくらい人との距離に慣れている人なら、
    それくらいの意味は分かると思った。

    でも、何も言わなかった。
    ただ、また来るようになった。
    しかもクローズドのギリギリか、既に終わっているお店にふらりと。

    第三章 二つ目のグラスを出したのに、あなたは何も聞かなかった


    楠瀬さんが「ワインでも置いてあればもっと売上に貢献できるんだけどな」と言ったから、バックバーに置くことにした。

    好きとか嫌いだけじゃなくて
    そうして考えてくれることが嬉しかった。
    そのときはお店もそんなに良いときではなくて、すごくありがたかった。

    仕入れ先のひんやりとしたセラーの中で、
    一本のボトルを手に取った。

    これ、好きかな。

    そう思った。値段を見た。少し高い。
    一度棚に戻して、そのままほかの商品を見て回ってまた最初のボトルの前に戻ってきた。

    結局のところ、最初のそれを購入することにした。
    どうせ来るし。そう思えば、自分でも説明がついた。
    店に置く商品なのだから、客が飲むものを仕入れるのは普通だ。

    その夜、楠瀬さんが来た。
    ワインを見て、
    「あれ、お酒なんて置き始めたの?」
    と聞いた。
    「飾り」
    「へえ」
    それ以上聞いてこなかった。少し拍子抜けした。
    わざわざ、楠瀬さんが言ったから用意したのに。

    閉店後、その重いボトルをカウンターに置いた。
    「飲む?」
    「飾りじゃなかったの?」
    「飾りだけど、飲めるよ」
    一本開けることになって、私はガラスのグラスを二つ出した。
    「何で二つ?」
    「一人で一本飲むの?」
    「そのつもりだけど」
    「やめなよ。というか私が付き合ってあげる」
    本当は、一緒に飲みたかった。

    でも、そんなことは言わない。
    私の中では、触れれば澄んだ音の鳴るグラスを二つ出したこと自体が答えだと思ったから。

    それから、ウイスキーも置いた。
    リキュールも増えた。
    ほとんど楠瀬さんしか飲まない。
    飲まないというか、そもそもカフェだから。
    夜に来る、楠瀬さんだけのメニューだった。

    彼が来ない日は、
    閉店時間が近づくほどスマホの黒い画面を見る回数が増えた。

    一度見る。何もない。伏せる。少ししてまた見る。
    そのうち、自分から送るようになった。
    「今日来ないの?」と。

    いつも同じ時間に来る彼が
    少し期間を置いてお店に来なくなるだけなんか物足りなかった。
    いや、不満足とかじゃなくて店の終わりには会いたいと思った。

    送信ボタンを押すと、胸のあたりがざわざわと落ち着かなくなる。
    今日は来てくれるかな?会えるかな

    画面が光る。
    「まだいる?」
    ほっとした感じが自分でもわかった。
    「開けておくよ」
    震える指先を隠すように、すぐ返した。

    私としては、好意があることを
    かなり分かりやすくしているつもりだった。

    誰にでもお酒を置かない。
    誰にでも閉店後まで開けない。
    誰にでも「今日来ないの?」なんて送らない。

    楠瀬さんなら分かると思っていた。
    ところが、本当に来るだけだった。
    座る。飲む。話す。帰る。

    この人、分かってないのかな。と思った。
    でも、そのうち考えが変わった。
    いや。こんな人が分からないわけない。

    女性ともたくさん接してきたと言っていた。
    歓楽街の女の子の撮影やら関係も多いみたいだし。
    マーケティングなんて人の気持ちを考える仕事までしている。

    それなら、分かっていて何も言わないのかもしれない。
    そう思った瞬間、みぞおちの奥が冷たい石を飲んだように冷えた。
    私が思っているほど、私のことを好きではないのかもしれない。

    第四章 何度も来るのに、一度も私を外へ連れ出してくれない

    楠瀬さんは何度も来る。それを常連さんと言うのだから、それはそれで単に嬉しいことだけど。

    けれど、来るのはいつも遅い時間だった。
    仕事が終わったあと。
    近くにその時間までゆっくり入れる店は多くない。
    ここなら開けてくれる。お酒もある。くだらない話もできる。
    だから私は、
    私に会いに来ている
    なんて誤解しているのではないか?
    だって、この店が都合いいだけの本当の常連さんとしてただ利用をしてくれているだけなのかもしれない。

    ある休日の昼下がり、一人で出掛けた先に
    楠瀬さんが好きそうな場所を見つけた。

    スマホを開いた。
    「今度一緒に行きません?」
    そこまで打ったけれど親指が送信のところで止まった。

    手のひらにじわっと汗が滲み、画面がいつもより滑る感じがした。
    忙しいよね。
    昼間も仕事してるだろうし。
    一人で会社やってるんだから、
    休みくらい一人でいたいかもしれない。

    連絡しない理由はいくらでも出てきた。
    文字を全部消した。BackSpaceキーを押すたびに、胸がちくちくと痛んだ。
    本当は、楠瀬さんに誘われたかった。店じゃなくて会いたい。そう言ってほしかった。

    少なからず
    私は、そう言って貰えるようにしてたつもりだったんだ。
    一般的に考えたらしない対応をしていたつもりで
    お店じゃなくて個人として受け入れていることを見せているつもりだった

    その日の夜。
    「今日まだ開いてる?」
    と連絡が来た。画面の青白い光を見ながら、昼間消した文章を思い出した。

    来てくれる。
    嬉しい。

    でも、少しだけ腹が立った。
    また店なんだ。

    それでも、
    「開けておくよ」
    と返した。

    第五章 「私は努力なんてしてこなかった」――あなたには、私がそう見えていなかった

    ある夜、スタッフの話になった。
    店主だから強く言えない。

    黙っていれば、今度は何も言ってくれないと思われる。

    自分で作った店なのに、
    自分の居場所じゃないような気がする。そんな話をしていた。

    「自分で会社やったり、店やったりしてる友達なんて、私いないんだよ」
    「そうなの?」
    「いない」

    普通の友達には話しづらい。
    売上が怖い。
    スタッフに嫌われている気がする。
    店を辞めたい。そんなことを言われても困るだろうと思ってしまう。

    「別に答えてほしいわけじゃないんだけどさ」
    「うん」
    「でも、分かってほしいじゃん」
    口に出したら、思っていたより細く弱い声になった。
    「楠瀬さんだったら分かるでしょ」

    楠瀬さんは、グラスを傾けながら自分の過去を話した。
    会社をやったこと。売上を作ったこと。一度駄目になったこと。今は一人で別の会社をやっていること。

    失敗の話までしたけれど、私には全部すごく見えた。
    「すごいことじゃない」
    そう言うと、楠瀬さんは少し変な顔をした。
    私はそのまま、
    「私は努力なんてしてこなかった人間だから、何も分からないんだよ」
    と自嘲気味に言った。

    楠瀬さんの目の色が少し変わった。
    「そんなことないでしょ」
    「何が?」
    「自分は何もしてこなかったってやつ」
    「だって本当だもん」
    「本当に何もしてこなかった人が店なんか始めないよ」
    そこから急に彼の声が熱を帯びた。カウンター越しに、その熱が真っ直ぐぶつかってくる。

    人を雇って。給料を払って。売上を見て。客のことを考えて。夜まで店のことを考えて。それを努力していないと言うなら、努力って何なんだ、と。

    私は少し笑った。
    「楠瀬さん、酔ってないのに熱いね」

    でも、心の中では激しく戸惑っていた。
    この人には、私はそんなふうに見えているんだ。

    高校も卒業していない。
    大学も行っていない。
    資格もない。私は自分をそう見ていた。

    一方で、目の前の楠瀬さんは、
    何でもできる人に見えた。
    だから、その人自身が、
    自分には価値がない、
    と思って怯えていたんて、
    その頃の私は想像もしていなかった。

    第六章 「普通のお客さんのために、お酒なんて置かないよ」

    店が本当にしんどかった頃、二人でヴーヴ・イエローを開けた抜いた。
    コルクを抜く、くぐもった音が、深夜の店内に吸い込まれた。

    スタッフとの関係もうまくいかない。売上も上がらない。
    店を始める前は、自分の場所が欲しかった。
    なのに店を作ったら、そこで一番気を遣っているのが自分だった。

    「最近、自分の店舗なのに、自分の居場所じゃないみたいなんだよ」
    私はグラスの細い脚を指の腹でなぞりながら話した。

    「私が作った店なのにさ。スタッフがいるとずっと気を使ってる。店主だからちゃんとしなくちゃとか、変なこと言っちゃ駄目とか、誰かだけ特別にしちゃ駄目とか」

    言いながら、胸の奥が少し苦しくなった。

    「一人になったらなったで、今日も売上これだけかって思うし」
    「自分の場所が欲しかったんじゃなかった?」
    「そう」
    私は笑った。
    「そうなんだよ」
    それから楠瀬さんを見た。
    「でもね」

    アルコールが血の巡りを早くしていた。
    頬が熱かった。
    いつもなら喉のところで止める言葉が、その日は簡単に出た。

    「楠瀬さんが来てくれると、あたしの場所なんだって思うんだ。こんなふうに店舗を私物化できるのはオーナーの私の特権でしょ」
    「キミにそういって貰えてうれしいよ。ありがとう。確かにオーナーの特権だね」
    「そう。いつも嬉しいんだ。ほっとするんだ」
    言ってから、少し恥ずかしくなった。
    楠瀬さんも何かに気づいたような顔をした。
    「もしかして酔ってる?」
    「酔ってるよ」
    「結構酔ってるね」
    「だから言えるんじゃん」
    笑った。でも本当だった。
    「本当は、こんなこと言っちゃ駄目なんだけどね」
    「何で?」
    「だって楠瀬さん、お客さんでもあるし」
    「僕、もうあんまり客のつもりないけど」
    「知ってる」
    「知ってるんだ」

    私はバックバーを見た。
    ワイン。ウイスキー。リキュール。黄色いラベルのシャンパン。
    「あのさ」
    「うん」
    「普通のお客さんのために、お酒なんて置かないよ」
    楠瀬さんも棚を見た。
    「わざわざ用意してくれたんだ」
    「今さら?」
    本当に今さらだった。分かっていると思っていた。
    ここまでしていれば、普通の客ではないことくらい、とっくに分かっていると思っていた。
    それでも、その先はない。
    私はシャンパンをもう少し喉に流し込んだ。
    頬だけではなく、耳の裏まで熱かった。単純に疲れもあったのかもしれないし、飲み過ぎたのかもしれない。

    そして、優しいから。酔いにまかせて言ってしまえばいい。

    「もう、二人でいればいいじゃん」
    口から出た。言ったあと、ドクン、と心臓が急に速く跳ねた。でも止まらなかった。お酒のせいで心臓は早いだけだきっと。

    「一緒に沈めいいじゃん。一緒なら沈んだってかまわない」
    グラスを持つ手のひらがじんわりと汗ばんでいた。静まり返った店内に、自分の浅い呼吸音だけが響いている気がした。

    ここまで言った。もう十分だと思った。

    翌朝、目が覚めて前の夜を思い出したとき、布団の中で顔を両手で覆った。
    言いすぎた。
    スマホを開いた。
    『昨日のこと覚えてる?』
    と打とうとした。やめた。
    もし、
    『酔ってたね』
    だけで終わったら。そう考えたら、画面をタップする指が凍りついたように動かなくなった。送れなかった。
    それなら聞かない方がいい。

    でも、もう一つ考えた。
    あそこまで言って何もないなら、
    やっぱり私は、私が思っているほど特別ではないのかもしれない。

    第七章 伝わっていると思っていたのは、いつも自分だけだった

    その後、店はいよいよ苦しくなった。
    「もう、何をやってもダメなんだよ」
    私は言った。

    Instagramもやった。
    写真も変えた。
    Googleも触った。
    でも何も変わらない。
    「伝わらないんだ。何をやってもダメなんだよ」

    楠瀬さんはグラスを置き、静かな声で言った。
    「見せて」
    Instagramも。チラシも。Googleも。店の外も。

    私には払えるお金がなかった。
    「仕事じゃん」
    「仕事だね」
    「払えないよ」
    「知ってる」
    「じゃあ何でやるの」
    「暇だから」
    絶対嘘だと思った。でも、強張っていた頬の筋肉が少しだけ緩み、久しぶりに笑えた。

    最初に二人で店の外へ出た。夜の冷たい風が頬を撫でる。道路の反対側から、自分たちの店を見る。
    「知らない人から見て、何の店か分かる?」
    私は自分の店を見た。オレンジ色の照明が漏れるガラス窓。手作りの看板。
    「……分からないかも」
    「だよね」
    「でも、この看板結構好きなんだけど」
    「キミが好きかどうかと、伝わるかどうかは別」
    胸にチクッと刺さる嫌な言い方だと思った。

    でも、その通りだった。

    誰に来てほしいのか聞かれた。
    「女性」
    広すぎる。
    「疲れてる女性」
    まだ広い。

    最後に出てきたのは、
    昔の私みたいな人、だった。
    何かしなくちゃと思っている。でも何をすればいいのか分からない。ずっと疲れている。

    そこまで一人の人を思い浮かべて、初めて言葉の輪郭がはっきりした。
    写真も変わった。チラシも変わった。

    そして本当に、一人来た。
    その人が、
    「前からここにお店があるのは知ってたんです。でも何のお店か分からなくて」と言った。

    私は少し黙った。
    私にはずっと分かっていた。自分の店なのだから、見れば分かると思い込んでいた。

    でも相手には分からなかった。
    私が「これで伝わる」と思っていたものと、
    相手が受け取っていたものは決定的に違った
    。
    仕事なら、そのことを理解できた。

    なのに。
    楠瀬さんにはまだ、
    ここまでしてるんだから分かるでしょう、
    と思っていた。

    第八章 店が売れたら、あなたが帰ってこなくなった

    店は少しずつ忙しくなった。客が増えた。予約が入った。チラシの束も減っていった。

    私がずっと欲しかった景色だった。
    なのに、楠瀬さんが来なくなった。

    いちばん、一緒に喜んで欲しい人。
    一緒にやってくれた。正直、ひとりであんなことでなかった。
    頭は混乱していて。でも、二人で夜店舗内でチラシを作ったりしている時間は人がいてくれる安心感で落ち着いていられた。

    私自身も頑張った。だから、一緒に喜んで欲しかったんだ。喜んでくれると思っていた。褒めてくれると思ったんだ。

    でも、楠瀬さんはお店に来なくなった。

    最初は、仕事が忙しいのだと思った。
    何日か経った。来ない。連絡もないまま。

    閉店時間が近づく。
    カランと入口の鈴が鳴ると、反射的に顔が上がる。
    違う客。また視線を落とし、仕事へ戻る。

    最後の客を見送って、電気を少し落とす。
    冷蔵庫の低いモーター音だけが空間に残る。
    スマホの黒い画面を見る。何もない。
    胸の真ん中を冷たい風が吹き抜けたように冷たくなった。

    昔、父が帰ってこなかった夜に感じた胸のざわつきを感じだ。
    同じだとは思わないけれど、似ていた。楠瀬さんは父ではない。

    いつも間にか、私は楠瀬さんが店に来てくれているのではなく、帰ってきてくれている、そんな気になっていたんだ。

    だから、会いたかった。忙しくて疲れている日。
    そんなときのクローズドした店舗内にいるのは寂しいなんだか虚しい気持ちになる。ただ仕事で疲れているだけなのだろうけれども、なんというか孤独感やらなにやらがこみあげてくるんだ。

    ふと、色々な考えが浮かんくる。

    店が困っていたから来てくれていただけなのかな。
    助ける相手だったから、気にしてくれていたのかな。
    店がうまくいったから、もう私に用がなくなったのかな。

    もう我慢が出来なくて会いたくて

    「最近来ないじゃん」
    と送った。

    「仕事が忙しい」と返ってきた。
    嘘ではないのだろう。
    でも、それだけではない気がした。

    ある夜、
    「今日も来ないの?」
    と送った。


    本当は「会いたい」と打ちたかった
    でも、文字を打とうとして、指が止まった。
    どうしても、その四文字は書けなかった。

    第九章 「来れなかったのは好きだからだよ」――それで、私はどうすればいいの?

    しばらくしたある日、楠瀬さんは、ふらっとやってきた。
    店は以前より忙しくなっていた。
    私はそのことを話した。
    頑張ったことも。
    売上が上がったことも。
    それでも何か足りないことも。
    「分かんない。でも、楠瀬さんが来ないからかな」
    ぽつりと口に出した。

    「前はさ、営業終わったら楠瀬さんがふらっと来るじゃん」
    「うん」
    「来てくれてるっていうより……帰ってきてくれてるみたいだったんだと思う」

    口にしてから、自分でも変な言い方だと思った。私の店なのに。
    でも、本当にそんな感じだった。
    来てくれると張り詰めていた息が吐けた。
    一人じゃないと思えた。

    しばらくして、私は聞いた。
    「何で来なくなったの?」
    「忙しかったから」
    「嘘」
    忙しいのは本当なのだろう。でも、それだけじゃない。
    何度かやり取りして、楠瀬さんがグラスに視線を落とした。
    そして、
    「キミが好きだからだよ」
    と言った。

    指先にキュッと力が入った。

    持っていたグラスをカウンターに置くと、
    思っていたよりカツンと硬い音が響いた。

    乾いた喉を唾液が通り過ぎる。頬がカーッと熱くなるのを感じた。
    やっぱり。
    そうだったんだ。
    私だけが勝手に特別だと思っていたわけではなかった。
    でも、なんで好きなら会いたいはずでしょ?なんで?とも思った

    「……そうなんだ」

    震える声で、それしか出なかった。
    でも、嬉しかった。本当に。
    けど 少し時間が経つと、胸の中に別の黒い問いが残った。
    好きなのは分かった。
    それで、私とどうしたいの?心の中ではそう思った。

    私は聞かなかった。ここまで言ったのだから、
    その先くらいは楠瀬さんから言うと思った。

    それに、もし、
    好きだけど付き合いたいわけじゃない、
    と言われたら、足元から崩れ落ちるほど怖かった。

    人間的に好きとか、よくありがちなあれ・・・

    でも、彼は続けて、どうだったか、恥ずかしそうに説明をしてくれた。
    「でも客が増えるってどういうことか、僕は分かってるんだよ。それが仕事だから。キミを知る人が増える。話す人が増える。キミのことを好きになる人だって出てくる」

    自分で話しながら、ずいぶん子供っぽいことを言っていると思った。

    「それで怖くなった」

    続けた。

    「前は僕が行けば二人だった。閉店後に酒飲んで、くだらない話して、チラシ作って」

    「でも、もしかしたら僕が勝手に特別だと思ってただけなのかなって思ったら、見ていられなくなった」

    少し言葉を探した。

    「男の客がどうとか、そういうことだけじゃないんだよ」

    「うん」

    「僕の知らないキミがそこにいて、その世界に僕はいない。そんなの当たり前だって分かってるのに、胸が痛くなるんだよ」

    そんなこと考えてたんだ。と私は思った。

    「店がうまくいったら、楠瀬さんが来なくなると思ってなかった」

    「僕も思ってなかった。というか僕自身がこんなことで他人に嫉妬しているのだから笑っちゃうよ。ごめん」

    「じゃあ来ればいいじゃん」

    「そんな簡単じゃないよ」

    「何で?」

    「やきもちやくから」

    と、ここまで聞いていて、少なくとも私のことは好きなんだ、良かったと安心はできた。

    帰り際。
    楠瀬さんが扉へ向かった。
    その背中を見たら、急にこのまま帰したくなくなった。

    もう一歩。
    私は、もう一歩、勇気を出しておこうと思った。

    「はじめちゃん」
    下の名前で呼んだ。

    足が止まった。
    振り返った顔を見て、
    今度は私の方が頬が燃えるように恥ずかしくなった。
    私なりの返事だった。

    楠瀬さんから、はじめちゃん。
    そこまで近づいたつもりだった。
    でも、私たちの関係にはまだ名前がつかなかった。

    そう、まだはっきり名前は確定しなかった。

    第十章 「楽しそうじゃない」――私は、あなたの言葉より顔を見ていた

    そこから、はじめちゃんの仕事は、さらに悪くなったいったみたい。
    実際のところを全て見ているわけではないから分からないけれど。

    ある夜、かなりお酒の匂いをさせて、疲れた顔で店の前にいた。
    もう閉店していた。でも私は気づいた。
    「そこにいるでしょ」
    と連絡した。

    歓楽街にいたんだろうなと思ったら聞きたくなってしまった。

    「どこで飲んでたの?」

    「いつもの辺り」

    「女の人がいるところ?」

    「いるところもあるよ」

    「ふうん」
    ちょっと胸の辺りがしくしくする感じがした。

    入ってきたはじめちゃんは、
    「飲もう」
    と笑って言った。
    私はバックバーの酒に手を伸ばさなかった。

    その代わりに、水を出した。
    「今日はお酒出さないよ」
    「何で?」
    「もう飲んでるから」
    「酒いっぱいあるじゃん」
    「今日は出さない」
    「なんで。一緒に飲もう。いつも一緒に飲んでいるじゃない」

    私は、はじめちゃんの顔を見つめた。

    笑っている。でも、目の奥は深く沈んで、全く笑っていない。

    「だって、楽しそうじゃない」
    はじめちゃんが黙った。

    私は昔から、言葉より先に人の顔を見る。
    父が、「大丈夫だ」と言っても、
    アルコールの饐えた匂いがすれば大丈夫ではない。

    母が、「何でもない」と言っても、
    目が赤く腫れていれば何でもないわけがない。

    はじめちゃんが何と言うかより、
    今、この人がどんな顔をしているか。
    そっちの方が私には残酷なほど分かりやすかった。

    多分、良くないんだ。
    色々と。

    はじめちゃんの口が開いた。気まずそうに。

    「あと五か月なんだよね」

    「何が?」

    「お金。僕の会社」

    私が、お店ダメだと思ったとき、すごく怖かったこと、心細かったことが思い出された。

    本当に弱っているんだ。ずっと、そんな中で、私の店舗のことをやってくれていたんだ。

    「……怖い?」

    はじめちゃんは、少し笑って

    「怖くないわけないじゃん」

    第十一章 「私の中に残ってるじゃん」――あなたが自分で捨てようとしている価値

    はじめちゃんは、お金を使わなくなった。
    コーヒー一杯だけ頼んで、
    「今日はこれだけでごめん」
    みたいなことを言う。

    「何が?」

    「今日、全然お金使えなくて」

    なんか、私といるのに、妙に居心地がよくなさそうでひどく疲れた顏をしていた。

    「はじめちゃん」

    「何」

    「はじめちゃん、お金の使い方、ちょっとおかしいよ」

    「今さら?」

    「笑い話じゃない」

    少し困った顏をしていた。

    「でも、それとは別にはじめちゃん少しおかしい」

    「そんなに?」

    「かなり」と私は言った。

    私は意味が分からなかった。
    お酒を買ってくれるから店を開けていたわけではない。
    お金をたくさん使うから会いたかったわけでもない。

    カフェなんだからコーヒーを飲んで帰るなんて普通なんだ。

    はじめちゃんは、店のことを一緒に考えてくれた。
    私が怖いと言ったとき、聞いてくれた。
    スタッフのことでぐちゃぐちゃになった夜も、閉店後まで静かに座っていてくれた。

    そういうものは全部、私の中に確かに残っている。

    紹介や口コミの話をしていたとき、はじめちゃん自身が言った。
    今日お金になっていなくても、信用には価値がある。って。

    でも、この人はいま、全く価値がないと思い込んでいるんだ。
    私も信じてもらえていないんだ。悔しかった。
    何かしてあげられるわけでもないけれども、少なくとも一緒にいたり辛いとか言ってくれたりすればいいじゃない。

    はじめちゃんは、それをずっとしてくれたでしょ。と思った。
    でも、私には、それは言ってくれないんだ。そうなんだ。。。悲しかった。

    「はじめちゃん、お金なくなったら、自分までなくなると思ってるでしょ」

    その言葉は痛かった。

    「そこまでは思ってないよ」

    「思ってるよ」

    「言い切るね」

    「だって最近、ここにも来なくなったじゃん」

    はじめちゃんは何も答えなかった。

    「前に行ってた店にも行かなくなったって言ってたし、人にも会わなくなってるでしょ」

    「お金を使ってしまうからね。今の状態ではね」

    「ほら」

    皆商売だけであったりしているわけじゃないじゃない。
    普通にしていれば良いのに。

    「お金を使わなくても会えばいいじゃん」と私は言った。

    はじめちゃんが口を開いた。

    「僕には何もできないから」と力なくいった。

    私は、自分が見損なわれている気がした。打算的で救いようのない信用もされないような女だと言われている気がした。

    でも、そんなことじゃない。

    はじめちゃんには価値があると私は知ってる。私はそう思っている。

    「私、はじめちゃんに何かしてほしくて会ってると思ってるの?」

    はじめちゃんは答えなかった。

    「私、店の集客してもらったから、はじめちゃんが好きなの?」

    はじめちゃんは、何かを考えるかのようにしている。

    「高いワイン買ってくれるから?」

    「それはないと思う」

    「じゃあ、何でそこだけ、自分の価値だけお金になるの」

    私はありったけの気持ちを話した。
    というより、この人は頭が良いはずなのに、なんでこんなにバカなんだろう?とも思った。

    私の店舗を、いま話しているこの場所を救った、この人に価値がないなんてそんなことない。

    「お金にならないものに価値があるって、はじめちゃんが言ったんでしょ」私は続けて
    「口コミとか、紹介とか、また来たいって思ってもらうこととか。それって今すぐお金にならなくても価値あるんでしょ」と。

    私の中にもちゃんとある。

    「じゃあ、はじめちゃんのも残ってるじゃん」
    「何が」
    「私の中に価値が」
    はじめちゃんは黙った。
    「店のこと一緒に考えてくれたこととか、私が怖いって言ったとき聞いてくれたこととか、スタッフのことでぐちゃぐちゃになったとき閉店後までいてくれたこととか」
    私は聞いた。
    「それ、いくらなの?」
    「値段なんてないよ」
    「でしょ」

    値段がないことと、価値がないことは違う。
    仕事なら分かっているのに。どうして自分のことになると途端に分からなくなるんだろう。
    それが、私には不思議だった。

    はじめちゃんが、納得していないのは分かる。
    でも、私は自分に価値がないんなんて思って、この人がいなくなることが最も怖かった。

    きっと、そういうタイプなんだ。
    優しいから。それが裏目に出て、ちゃんと、ちゃんと言わないと、あなたじゃないとダメだと、言わないと、きっと、どこかに消えてしまう。

    「私、はじめちゃんの代わり探してるわけじゃない」
    はじめちゃんに、会いたいから。いつも、帰ってきて欲しいんだ。
    私が、私のこの時間を失くしたくないんだ。

    分かってよ。本当に。お願いだから。

    第十二章 「私、お客さんじゃない!」――どうして私との関係まで値段にするの?心の利益率

    「私がはじめちゃんに会いたいって思うことに、利益率なんてないでしょ」
    私はそういった。

    利益とか価値とか、そんなことで説明なんてされたくないんだ。

    私は、そんなもので勝手に自信を喪失して私の好きという意味を歪曲されるのも嫌だった。でも、いちばんは、はじめちゃんにいて欲しいんだ。

    はじめちゃんは。
    「いや あるだろ」と。

    頭の中で何かがはじける音がした。
    本当にこんな音するんだと思った。

    そしてはじめちゃんの口から

    「心の利益率」と

    とうとう喧嘩になった。

    「……何それ」

    「一緒にいて楽しいとか、安心するとか、寂しくなくなるとか。そういうのだって、何かを得てるだろ」

    はじめちゃんは、人間関係だって心の利益があるから成立するのだと言ったんだ。安心する。楽しい。認めてもらえる。そういうものが返ってくるから人は会う。

    理屈として正しいのかもしれない。でも、それを私との関係にそのまま持ち込まれた瞬間、胸の奥がカッと熱くなった。

    理屈なんて私には分からないけど、ただ、私の気持ちが打算的でとか、何か感情みたいなものを、思いっきり否定された気がした。

    しかも、その最も伝えたい相手に。
    だから余計に腹が立った。

    お店がうまくいかなかったときと同じだ。
    「何をしても伝わらないんだよ」と悔しかったとき
    それを変えたのは、目の前のこと人だ、はじめちゃんだ。

    私は私の好きな気持ちを否定されている気がした。思いっきり侮辱されている気がした。私が好きだと、価値があると言っている、それを自体を否定されていることに、バカにしないでよ、と心底感じた。

    自分で自分を傷つけて勝手に沈んでいこうとしている、この人のことも、自分だけで沈もうとしているこの人が悲しかったんだ。

    「私、お客さんじゃない!」
    鋭い声が静かな店内に響き渡った。
    「はじめちゃんのこと、買ってるわけじゃない!」
    視界がぐにゃりと歪み、温かい涙が目に浮かんだ。悔しかった。
    「お金がないなら価値がない。役に立てないなら会う意味がない。何かしてもらったら返さなきゃいけない。好きって言われても、それにも理由があって、その理由に見合うもの返さなきゃいけないって」
    「そんなこと……」
    「あるよ!」
    私は呼吸を整えようと言葉を切ったが、肩の震えは止まらなかった。

    「あたしが会いたいって言ってるだけじゃ駄目なの?」
    ここまで言っているのに。どうしてこの人には伝わらないんだろう。
    「今日は何もしてくれなくていいって言ってるのに」
    コーヒーを飲んで。くだらない話をして。帰ればいい。それでいいのに。
    「それでもはじめちゃんは、僕は何を返せばいいんだろうって考えるんでしょ?」

    はじめちゃんは何も言わなかった。
    私は腹が立った。でも、本当はひどく悲しかった。
    私はあなたの商品を評価しているんじゃない。役に立てなくなったら交換する相手でもない。ただ会いたい。それだけなのに。

    「それ、もう優しさじゃないよ」
    「じゃあ何だよ」
    「怖がってるだけじゃん」
    はじめちゃんの表情が硬く変わった。
    「簡単に言うなよ」
    「何が?」
    「キミには分からないよ」
    胸の中を、冷たい刃で撫でられたように冷えた。

    「じゃあさ」

    「何」

    「私も、店が駄目だったとき価値なかったの?」

    なんで、一緒にいたのよ。一緒にやってくれたのよ。

    「お客さんが来なくて、売上なくて、泣いてた頃の私って価値なかった?」

    「そんなこと言ってないだろ」

    「同じことじゃん」

    はじめちゃんは黙っていた。といより、図星を突かれたような、いや、面くらった顏をしていた。

    「私には言ったよね」

    目頭が熱くなって、ボロボロと涙が頬を伝っていった。
    でも、私は言った。はじめちゃんに分かってもらいたかったんだ。
    私が価値を認めるじゃない。って。あなたが言ったことじゃないって。

    「売れないからって、店そのものに価値がないわけじゃないって」

    はじめちゃんは、まだ何も言わない。

    「なのに、自分だけ特別なの?」

    「……」

    「はじめちゃんだけは、売れなかったら価値なくなるの?」

    そんなわけない。私の中に価値は残っているじゃない。あなたが残していたった価値が胸の中にあるじゃない。

    今日、本当は帰らせたくなかった。でも、一緒にいたら、私がおかしくなってしまいそうだった。

    「今日は帰って」

    と、もう一度言った。

    「帰りたくない」と言ったけれども

    でも、もう一度

    「今日は帰って」

    第十三章 何か与える理由がなければ、人に会えなかった人が手ぶらで立っていた

    それから三日間、はじめちゃんは来なかった。
    私から連絡もしなかった。腹が立っていた。あんなことまで言ったのに、まだ分からないなら、もう知らない。そう思った。

    一日目。閉店時間が近づいたとき、一度だけガラスの入口を見た。来ない。
    二日目。スマホを見た。黒い画面のまま、何もない。
    三日目。店を閉めたあと、外の暗がりに人影が見えた。ガラス越しに顔が分かった瞬間、ドクンと心臓が大きく鳴った。
    でも、すぐには笑えなかった。
    鍵を開ける金属音が夜気に響いた。

    「何しに来たの」
    意図的に少し冷たい声を出した。
    何もいらなかったな。良かった。

    はじめちゃんは答えた。
    「何もしに来てない。キミに会いにきた」
    一瞬、喉の奥が詰まって呼吸が止まりそうになった。でも、確かめたかった。

    「本当に?」
    「うん」
    「仕事の相談?」
    「しない」
    「マーケティング?」
    「今日はしない」
    「お酒は?」
    「飲まなくていい」
    「何か持ってきた?」
    「何も」
    「手ぶら?」
    「うん」
    本当に何も持っていなかった。胸の奥をぎゅっと掴まれたように痛くなった。

    やっと。
    お金でもない。仕事でもない。情報でもない。
    何もくれない自分のまま、私に会いに来た。
    私は少しだけ横へよけた。

    「じゃあ入って」
    嬉しかった。でも、まだしこりは残っていた。
    好きなのは分かった。会いたいのも分かった。
    それで、私たちは何なのだろう?

    もう、そろそろ。ちゃんと言って欲しい。
    怖がらないで手を伸ばして欲しい。
    私は一生懸命、言ったよ。はじめちゃんに。
    どうしたい?私と、どうなりたい?

    ねえ、手をちゃんと伸ばしてくれないかな。
    怖がらないでよ。私も怖かったよ。

    第十四章 この子たちは、私の知らない「はじめちゃん」を知っている

    少しずつ、はじめちゃんの仕事が戻り始めたみたい。
    撮影が増えたみたい。特に女の人の撮影が増えた。

    ある夜、
    「今日も仕事だった?」
    と聞いた。
    「うん」
    「撮影?」
    「撮影して、そのあと打ち合わせ」
    「どこ?」
    「錦の方」
    少し間が空いた。
    「女の人?」
    「まあね」
    「ふうん」
    自分でも嫌な言い方だと思った。
    歓楽街で飲んできた夜にも、「女の人がいるところ?」と聞いたことがある。

    ただ嫌だったんだ。

    仕事なのは分かっている。
    はじめちゃんが女性と話すことも、撮影することも、当然仕事だ。

    理屈では分かる。
    でも、体は理屈ほど簡単には納得してくれなかった。

    違う日
    「今日来る?」と聞いても
    納品が終わらないという連絡が続いたことがあった。

    どうせ、食べていないと思ったから
    食事を作って仕事部屋にまで持っていった日のこと。

    はじめちゃんの仕事部屋で撮影した写真を見た。
    綺麗な女の人が何人もいた。
    私は写真の技術なんて分からない。どれも一般的なグラビアとか素人だとこのようには撮影はできないよね、といういかにもプロっぽいキレイな写真が机の上などに置かれていた。

    今もプリンターは動いている。

    私は、はじめちゃんが見ているものとは違うところを見ていた。
    技術がどうとか、キレイに撮れているとか、そんなことじゃない。
    きっと、女が同性として、同性を見ている、それだった。

    この子は仕事用に笑っている。
    この子は少し緊張している。
    この子は、カメラそのものではなく、その向こう側を見ている。

    女の子が目を細めている。
    その直前に、はじめちゃんが何か言ったのかな。
    口元が少し緩んでいる。かわいい、と言われたのかな。

    どんな顏をして、
    どんな会話をして、この写真はこの女の子たちと撮られたものなのだろうか?少し嫌な気分になった。仕事・・・これが・・・仕事なんだ。

    私は写真を見たまま言った。
    「この子たちの目の前には、はじめちゃんがいるんでしょ」
    「そりゃそうだよ。僕が撮ってるんだから」
    「そういう意味じゃない」
    「じゃあどういう意味?」
    「こういう格好して、こういう顔してるときも、はじめちゃんが目の前にいるんでしょ」
    「撮影だからね」
    「分かってるよ」
    本当に分かっていた。でも、嫌だった。

    それよりもっと嫌だったことがある。
    「私、撮ってるはじめちゃん知らないもん」
    この女の人たちは知っている。

    カメラを持って、「もう少しこっち」と指示するはじめちゃん。
    「かわいい」「綺麗」と仕事で言うはじめちゃん。

    私は知らない。
    写真の中の知らない女の人たちの方が、
    私の知らないはじめちゃんを知っている。
    私が知らない、はじめちゃんを知っている。
    なんだかすごく理不尽で不公平な気がした。

    胸の奥にざらざらした感覚が消えなかった。

    同性だから、分かるんだよ。
    同性の汚さも。私はきっと嫉妬しているんだ。
    いや、私が好きになったんだ。他の女の子が好きにならない理由はない。

    はじめちゃんの人当たりは良い方だと思うから。
    これだけの人数の中に、誰かが、異性なのであればカメラマンに興味を持ったっておかしくはないんだ。

    第十五章 この子も、「はじめちゃん」って呼ぶんだ

    そのとき、はじめちゃんのパソコン画面に通知が出た。
    『はじめちゃん今日ありがとー♡ めっちゃ盛れてる! またお願いするね』
    目に入った。私は画面を見たまま、
    「この子も、はじめちゃんって呼ぶんだ」

    と言った。

    はじめちゃんにとっては、昔からそう呼ばれていた名前だったらしい。

    キレイな女の人。パソコンの通知の女の人は調度、私が手に取っていた、ワイシャツに下着姿だった写真だ。

    キレイな人。色っぽい。

    この人だけは妙にはじめちゃんに慣れているような、そんな表情でリラックスをして、そして色っぽい感じだった。好意を持っているようにさえ見えた。

    私が「はじめちゃん」と呼ぶまでにどれだけの時間がかかったのだろう。
    楠瀬さん。ずっとそう呼んでいた。

    閉店後、クローズドさせた店舗。
    はじめちゃんが店にこなくなった理由を聞いた夜。
    「好きだから来れなくなった。やきもちやくから」と言った日。
    そこまで来て、ようやく私は、はじめちゃん、と呼んだ。私なりに勇気を出した。少しだけ自分から近づいた。

    それなのに、私の知らない女の人は簡単に同じ名前を呼ぶ。
    胸の奥がきゅっと縮み、息苦しくなった。私があそこまで来るのに、あんなに時間がかかったのに。


    第十六章 「キミ、僕の彼女じゃないじゃん」――だから、そのままにしたのは誰なの?

    私が不服そうな顏をしていたのだろう。きっと、安心をさせようとしてくれたのだろう。

    「仕事だよ」
    はじめちゃんが言った。

    「仕事なのは分かってるよ」
    「だったら何なんだよ」
    「嫌って言ってるだけじゃん」
    はじめちゃんも疲れていたのだと思う。
    でも、そのときの私はそんなところまで考える余裕がなかった。

    そして、
    「キミ、僕の彼女じゃないじゃん」
    と言った。

    その瞬間、本当に体の動きが止まった。指先からスッと温度が抜け落ちていくのがわかった。
    そうだよ。彼女じゃない。そんなことは私が一番知っている。
    「……そうだよ」
    声が微かに震えた。
    「いや、そういう意味じゃなくて」
    「そうだよ。彼女じゃないよ」
    胸の奥が煮え滾るように熱くなった。

    好きだと言ったのは誰なの。
    会いたいと言ったのは誰なの。
    私がいない世界が怖いみたいなことを言ったのは誰なの。
    それなのに、彼女ではない、という事実だけを、
    どうして今あなたが使うの。

    「だって、はじめちゃんが言ってくれなかったんだよ」
    言ってしまった。

    ずっと待っていた。
    私は彼女だと思っていたわけではない。
    名前がついていないことくらい分かっていた。
    だからこそ、いつ言うのだろうと思っていた。
    好きの、その先を。

    私は、ずっと、ずっと、精一杯見せていたつもりだったんだ。
    いま、はじめちゃんが、私に付き合おうと言ってもぜったに断ることなんてないと思えるくらいのこどをしてきたつもりだったから。

    だから、その先。
    好きのその先がはっきり言って欲しかったんだ。
    二人の関係に名前をつけて欲しかったんだ。

    第十七章 好きなのは、もう知ってる――私が聞きたいのは、そのあと~私とどうなりたいの

    「好きって言ったじゃん」
    「聞いたよ」
    「会いたいとも言った」
    「それも聞いた」
    全部聞いている。だから困っていた。

    はじめちゃんの気持ちが分からなかったわけではない。
    むしろ、とっくに分かっていた。
    好きなのも。会いたいのも。私が他の人といると嫌なのも。
    でも、その次がなかった。

    「仕事がうまくいってないから、
    お金が心配だから、ちゃんとしてからって、
    ずっとそうやってそのあとを言わないじゃん」
    声の震えが隠しきれなくなった。涙が堪えきれず頬を落ちた。
    「好きってところまでは言ったのに」
    はじめちゃんは黙っている。
    「好きのあとは?」
    喉が詰まり、胸がひどく苦しかった。
    「ねえ」
    もう一度聞いた。
    「そのあとを聞かせてよ。私とどうなりたいの?どうしたいの?」

    私は、もう一度好きと言ってほしかったわけではない。
    その好きで、私と何になりたいの。
    それを聞きたかった。

    この関係に明確に名前をつけて欲しかった。

    第十八章 未来なんて、私にも分からない

    はじめちゃんは、未来を怖がっていた。
    仕事が戻らなかったら。
    お金がなくなったら。昔みたいな自分に戻れなかったら。
    今はいいと言っている私も、
    いつかいなくなるかもしれない。そう思っていた。

    私は、それを聞きながら少し苦しくなった。
    未来のことなら、私だって怖い。
    父は、「もうしない」と言った。「家族が一番大事」とも言った。
    でも、未来の約束なんて守れないことがある。
    だから私は、絶対にいなくならないなんて言えない。
    そんなこと、私にも分からない。

    「未来なんて、私にも分からないよ。絶対いなくならないって約束なんて、私にもできないし、はじめちゃんにもできないでしょ?」
    「うん」
    「でもさ」
    私は、はじめちゃんを真っ直ぐ見た。
    「今の私は、あなたといたいんだよ」
    それだけは本当だった。
    「未来の私じゃないよ。未来のあなたでもない」
    手の甲で乱暴に涙を拭いた。
    「私は今ここにいるじゃん」
    はじめちゃんは黙った。
    「ちゃんと逃げずに選んでよ」
    喉の奥から絞り出すように言った。
    「手を伸ばしてよ」
    未来の私がどう思うかなんて、今の私には分からない。
    でも、分からない未来を怖がって、
    今ここにいる私までいないことにしないでほしかった。

    第十九章 「私がまたダメになったら、はじめちゃんいなくなるの?」

    はじめちゃんは、それでも、この先どうなるか分からない、と言った。
    仕事も。お金も。全部。

    私は少し考えてから聞いた。
    「私がまたダメになったら、はじめちゃんいなくなるの?」
    「そんなわけないだろ」
    すぐに返ってきた。本当に迷わなかった。

    私は、はじめちゃんを見た。
    「じゃあ同じじゃん。私だっていなくならない」
    何も言わなかった。

    「そういうことでしょ? はじめちゃんが言ってるのって」
    「違うよ」
    「何が違うの?」
    「僕は……」
    「うまくいってない自分じゃ、私と一緒にいられないって言ってるんでしょ」

    私の店が駄目だったとき。
    売上がなかったとき。何をやっても駄目だと私が泣いていたとき。
    はじめちゃんはいた。私には、ちゃんとしてから来い、なんて言わなかった。

    「私にはそんなこと言わなかったじゃん」
    また涙が出た。
    「なのに、なんで自分だけはダメなの?」
    この人は、私には優しい。

    でも、自分には驚くほど厳しい。
    それが、このとき初めて少し分かった。

    でも・・・ただ、それが優しさではなくて、ただ選べないという理由にされている気もした。女の自分勝手もなんか分かっている。

    それに・・・
    はじめちゃん、そんなに状況が悪いとも思えなかったんだ。私には。

    「心配って言うけどさ、お金のこと、はじめちゃんずっと心配してるけど」

    「心配するだろ」

    「それは分かるよ」

    でも、部屋を見渡せば高そうな機材、大きなパソコンが数台、誰がみてもすぐに高価だと分かるカメラ機材、高そうなもの仕事道具がたくさんあった。

    「だって仕事してるじゃん。家もあるし、車もあるし、カメラもいっぱいあるし、パソコンだって何台あるのって感じだし」

    「そういう話じゃない」

    「分かってるよ。でも、最近また仕事も増えてるじゃん」

    私は続けた

    「はじめちゃんが前にどれくらい稼いでたとか、どれくらいお金使えてたとか、私は全部知らないよ」

    「でも、たぶんそこなんでしょ?昔のはじめちゃんと比べてるんでしょ」
    はじめちゃんは何も言わなかった。

    「前ならこれくらい気にしなかった。前ならもっとお金使えた。前なら仕事だってもっと簡単に取れた。そういう昔のはじめちゃんと比べて、今の自分がダメだって思ってるんじゃないの?」

    困ったような表情をしてうつむいて、はじめちゃんは聞いてた。

    「私、昔のはじめちゃんと付き合いたいって言ってるんじゃないよ」

    はじめちゃんは、僕は顔を上げた。

    「今のはじめちゃんに言ってるんだよ」

    「はじめちゃんが今のはじめちゃんを嫌いだからって、私まで、はじめちゃんを嫌いだって勝手に決めないでよ」

    と、私が好きだと思っている、その姿は、はじめちゃんには見えていないし認識もしていないんだ。でも、本人であっても、私の好きなはじめちゃんんを否定されている気がして、それも随分と腹が立った。

    何もなかったら私が、はじめちゃうんを嫌いになる?
    見損なわないで欲しい。バカにしないで欲しい。この気持ちを。


    第二十章 あの夜、私は酔っていた。でも、嘘は言っていない

    随分と、私が喋りつづけていた。

    「うまくいってない自分じゃ、私と一緒にいられないって言ってるんでしょ」

    「それは」

    「私にはそんなこと言わなかったじゃん」

    もう、全部言ってやろうと思った。

    「店がダメだったときも、売上がなかったときも、何をやっても駄目って私が泣いてたときも、はじめちゃんいたじゃん」

    「……覚えてないの?」
    私は聞いた。
    「何を?」
    「あのとき」
    少し恥ずかしくなって目を逸らした。
    店も自分も全部駄目な気がしていた夜。

    「酔ったせいにしてたけど、自暴自棄だったのかもしれないけど……でも、本当だったんだよ」

    声が震えた。

    「私だってさ、一番カッコ悪い私で、精いっぱい言ったじゃん」
    目に涙が溜まった。そして、もう一度言った。
    「もう、二人でいればいいじゃん。一緒なら沈んだってかまわないって」

    あの夜の私は、酔っていた。
    それは本当。
    弱っていた。
    それも本当。

    でも、だから嘘だったわけではない。
    むしろ、普段の私なら言えないことを、お酒の力を借りてようやく言った。

    はじめちゃんは、自分がちゃんとしてから私を選ぼうとしている。
    でも私は、ちゃんとしていない私のまま、あの夜すでにはじめちゃんを選んでいた。

    そこが、ずっと噛み合っていなかった。

    私は涙を拭いた。そして言った。

    「お金のせいにしてるだけじゃん」

    「違う」

    「ズルいよ」

    私は本当にそう思った。

    第二十一章 「一緒に怖がればいいじゃん」――一人で生きることしか知らなかった二人

    「怖いんだよ」
    はじめちゃんが言った。

    その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。
    やっと、本当のことを言ったように感じた。

    そんなの当然だ。私だって怖い。

    「私も怖いよ」

    はじめちゃんの仕事がうまくいって。
    人が増えて。
    女の人も周りに増えて。
    はじめちゃんが昔みたいな世界へ戻っていったら。
    私の店なんて、いつか来なくなるかもしれない。
    そんな未来、誰にも分からない。

    「未来なんて、私にも分からないよ。絶対いなくならないって約束なんて、私にもできないし、はじめちゃんにもできないでしょ?」

    「うん」

    「今の私は、あなたといたいんだよ」

    「ただ、それだけ」

    私はこぼれ続ける涙を拭いて尚も続けた。もう止められなかった。信じて欲しかった。ただ、この人に。見て欲しかった、しっかりと。

    「いま一緒にいたいのは未来の私じゃない。未来のあなたでもない」

    「今の私は今ここにいるじゃん」

    精一杯だった。未来の私がいまのはじめちゃんと話しているのではない。いま目の前の、同じ時間の中にいるはじめちゃんに言っているんだ。そして、私もいまここにいるんだ。

    この気持ちを持って。

    「ちゃんと逃げずに選んでよ」

    胸が苦しくなった。

    「手を伸ばしてよ」

    キミが言う。

    「今ここにいる私の気持ちは、未来の気持ちじゃない。今ここにあるんだよ。信じてよ」

    「いなくなるかもしれないからって、今ここにいる私まで、いないことにしないでよ」

    「私、今ここにいるじゃん。好きって言ってくれたじゃん。私も、はじめちゃんにいてほしいって言ってるじゃん。それじゃ駄目なの?」

    「この先どうなるか分からないから何も始めないって、それやってたら何にも始まらないじゃん」

    「怖いんだよ」
    はじめちゃんが言った。

    「一緒に怖がればいいじゃん」
    と言った。

    はじめちゃんが私を見た。
    その顔を見て、初めて気づいた。

    この人には、
    怖いことを誰かと一緒に持つという発想がなかったのかもしれない。
    でも、それは私も同じだった。

    家のことも一人で処理した。
    高校を辞めるときも誰にも頼らなかった。
    働くのも。
    店を始めるのも。
    全部、自分で決めた。
    私はずっと、
    自分で何かできる人になりたかった。
    でも、自分で立つことと
    全部一人で抱えることは、同じではなかった。

    第二十二章 僕と付き合ってほしい

    少しして、はじめちゃんが私の後ろから腕を回した。
    背中に微かな体温が伝わる。
    強くはなかった。でも、離れたくないことだけは伝わった。
    頬の近くに、はじめちゃんの顔があった。息遣いを感じる。
    「はじめちゃん」
    「うん」

    「仕事がうまくいってないから、お金が心配だから、ちゃんとしてからって、ずっとそうやってそのあとを言わないじゃん」

    「好きってところまでは言ったのに」

    「好きのあとは?」

    もう一度聞いた。今度こそ、逃げないでほしかった。

    「はじめちゃん、前に言ってたじゃん」

    と言った。

    「何を?」

    「パッケージングとか、ラベリングとか」

    「世の中のものって、最初から全部意味が決まってるわけじゃなくて、名前をつけると、それになるんだって」

    また、涙があふれてきた。

    「名前をつけると、それになるんでしょ」

    「じゃあ、私たちは?」

    はじめちゃんの腕に少し力が入った気がした。

    「ねえ。好きのあと、そのあとちゃんと名前をつけよ」

    ここまで言うと、ボロボロと止めどなく涙があふれてとまらなくなった。

    「そうじゃなかったら、私いったい誰なの?」

    長い沈黙あった気がする。
    正直、もう頭の中はグチャグチャだった。
    でも、ただ我慢をしてきたことが涙に溢れただけで、きっとはじめちゃんはいなくならないとも思った。

    涙は溢れるけど、不安はなくなっていた。

    そして、ようやく
    「僕と付き合ってほしい」
    と聞こえた。耳元に。

    胸の奥で、長い間固まっていた氷のようなものが音を立ててほどけた。

    肩の力が完全に抜けた。膝の裏が少し頼りなく震えた。

    自分の手のひらに汗をかいていることに気づいて、服の脇でそっと拭った。

    やっと。

    本当に。

    やっと。

    私は少しだけ笑った。

    「遅いよ」

    最終章 こんなに近くにいたのに、私たちは違うものを見ていた

    恋人という名前をつけてから、つまり
    付き合ってからしばらくして、昔のことを話した。

    「あのさ」
    「何?」
    「最初にお酒置いたの、何だと思ってたの?」
    はじめちゃんは少し考えた。

    「僕、結構お金使ってたから。ただ気を使ってくれたのかな?とか、まあ商売だからなぁ~とか。」
    私はしばらく顔を見た。

    「……本気?」
    「いや、それだけじゃないけど」
    「私、嫌いな男と閉店後に二人でお酒飲まないんだけど」
    「嫌われてないのは分かってたよ」
    「じゃあ何で何も言わなかったの?」
    「嫌われてないのと、恋愛で好きなのは別でしょ」

    私は黙った。なるほど。少し腹は立つ。
    でも、分からなくはない。いま聞けば、そりゃそうだよねと言う理解はできる。

    今度は、はじめちゃんが聞いた。
    「キミは何で一回も店の外に誘わなかったの?」
    「忙しそうだったから」
    「それだけ?」
    「……」
    私はグラスを見た。氷が微かに溶ける音がした。
    「そっちから誘ってほしかった」
    「僕、それがないから。店が好きなだけなのかなって思ってた」
    今度は私が黙った。
    「何それ」
    「いや、本当に」
    「私は、こんなに分かりやすくしてるのにって思ってた」
    「僕だって結構、ちゃんと言ってたつもりだったよ」
    「好きって言っただけじゃん」
    「会いたいとも言ったよ」
    「だから、そのあとがなかったんでしょ」
    少し睨むと、はじめちゃんが笑った。私も少しだけ笑った。

    でも、考えてみれば本当に変だった。
    同じ時間を過ごしていた。
    同じ言葉を聞いた。
    同じ店にいた。
    相手の顔も、癖も、仕事も、かなり知っていた。

    それなのに、私たちは何度も違うものを見ていた。

    私は、女性に慣れているはじめちゃんだから、私の行動の意味くらい分かる、と思っていた。分かってくれると思っていた。

    実際のはじめちゃんは、
    女性に慣れているからこそ、
    親しさを勝手に恋愛だと決めなかった。

    はじめちゃんは、
    私が店の外へ誘わないから、
    店が好きなだけかもしれない、と思っていた。

    私は、忙しい人だから邪魔をしたくない、と思いながら、
    本当は向こうから誘ってほしかった。というより、ここまで親しくなれば誘ってくるのが男なんでしょ?というセオリーを勝手に想像してした。

    でも、良く考えたら、それも変だし自分勝手な気がする。

    私は、はじめちゃんが何でもできる人に見えていたから
    恋愛でも自信がある、と思っていた。

    はじめちゃんは
    自分が好かれる理由がなくなることをずっと怖がっていた。

    はじめちゃんは
    私が店をうまく回せるようになったら
    自分は必要なくなる、と思っていた。
    私は、店がうまくいったから、
    もう自分に会う理由がなくなった、と思っていた。

    二人とも相手を見ていた。
    かなり知っていた。かなり当ててもいた。
    それでも、なぜその人がそうしたのか、というところで何度も外した。
    はじめちゃんは仕事で、人を想像する。
    私も店をやりながら、客やスタッフのことを考える。
    そうやって人を推定・推測しながら生きる。
    それ自体は、たぶん悪いことではない。
    でも、どれだけ細かく想像しても、
    その人の中にある過去まで全部知ることはできない。

    同じ「好き」という言葉でも、受け取る重さは違う。
    同じ「はじめちゃん」という呼び方でも、
    そこまでに積み上げた時間は違う。
    同じ「来ないの?」でも、本当は、会いたい、かもしれない。
    推定は、本人ではない。
    そのことを私たちは、ずいぶん遠回りして知った。

    ある夜。
    店を閉めたあと、カチャリと鍵を閉める音が夜に響いた。
    はじめちゃんが上着を着た。

    「じゃあ帰る」
    昔の私なら、次いつ来る? と聞いたと思う。
    私は少し考えてから、
    「ねえ」
    と呼び止めた。

    はじめちゃんが振り返った。
    「来週さ、私、行きたいところあるんだけど」
    「どこ?」
    「まだ言わない」
    「何それ」
    私は少し笑った。
    それから、胸の奥が少し速く鳴るのを感じながら言った。
    「一緒に行かない?」
    口にした瞬間、心臓の鼓動が大きくなった。
    でも、もう言葉を引っ込めようとは思わなかった。
    はじめちゃんは、
    「いいよ」
    と答えた。
    それだけだった。
    でも、それで十分だった。

    子どもの頃の私は、
    帰ってくるか分からない人を待つことしかできなかった。
    店を始めた頃の私は、
    会いたくても、
    「今日来ないの?」としか言えなかった。

    はじめちゃんを好きになってからも、
    これだけしているんだから分かるでしょう、と思っていた。
    でも、分からないものは分からない。
    私だって、はじめちゃんが何を考えていたのか、ずっと間違えていた。

    だから今度は、自分から言う。
    私はここへ行きたい。
    あなたと一緒に行きたい。
    私は今、こう思っている。
    それくらいなら、もう言える。

    たぶん人は、誰かを想像しながらしか生きられない。
    でも、想像したその人と、本当のその人は、どこか少しずつ違う。
    その違いを埋めるのは、完璧なペルソナでも、完璧な推定も推測でもない。

    怖くても、
    「私はこう思っている」
    と、震える手で一度相手に渡してみることなのだと思う。


    次の第5話は下記

    前回の3話は下記。

    全話一覧は下記

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    合同会社De poulet代表。Nich ideaを運営し、マーケティング調査、地域集客、SEO、コピーライティング、写真撮影、デザイン、Web制作などを、事業と市場をつなぐために一貫して行っています。

    「キミと僕と心の利益率」のように、世界感を作って、プロモーションなどに繋げていく方法は案外とどこに依頼すれば良いか分かりません。
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