
第5話:本人というペルソナ―自己無定義の主体と外部反応による自己推定 | キミと僕と心の利益率
※小説タイトル「キミと僕と心の利益率」の5話目。これは連作です。前回の記事は下記です。ストーリーとして公開しています。
マーケティング理解促進のための実験的作品ですので読み方GuideをPDFで参照して頂けるようにしました。→ https://nich-idea.com/kimikoiguide
前回の話は下記。
全話一覧は下記
あらすじ
恋人になれば、
もう少し
楽になるものだと思っていた。
けれども楠瀬一は、
恋人となった「キミ」と
幸福な時間を過ごすほど、
別れたあとの
欠乏に苦しむようになる。
会いたい。
もっと一緒にいたい。
嫉妬もする。
それでも一は、
自分は恋愛で我を
失うような
人間ではないと考え、
その感情を
「自分らしくないもの」
として押し込めていた。
そんなある日、
マーケティングの仕事で
顧客のペルソナを考えていた一は、
自分自身についても
同じことを
していたのではないかと気づく。
仕事が売れたから、
仕事のできる人間。
必要とされたから、
価値のある人間。
恋愛で取り乱さなかったから、
冷静でいられる人間。
外から返ってきた
反応を材料に、
「楠瀬一とはこういう人間だ」と
推定していただけなのではないか。
そしてそれは、
実際の顧客に
触れないまま、
頭の中で作った
ペルソナを本人だと思い込む
マーケティングと同じだった。
人間は、
他者も自分自身も、
観測できる
言葉や行動から推定する。
けれども、
推定された
人物像は本人ではない。
キミとの関係、
過去の恋愛、
喪失の記憶を辿りながら
一は、自分が「冷静な人間」
という自己像に
合わない感情を、
ずっとノイズとして
捨ててきたことに
気づいていく。
これは恋愛の物語で
あると同時に、
ペルソナ、
一次情報、
認知、
そして「自分とは何か」を
めぐる物語。
最後に一が
辿り着くのは、
新しい
自己定義ではない。
「僕がそう思ってるから、
僕はキミが好きなんだよ」
外から返ってくる
反応によって
自分を決めるのではなく、
自分の中に生まれた感情を、
まず自分のものとして
受け取ることだった。
なぜ「自分」をペルソナにしてはいけないのか
第一章 幸福の後遺症
恋人になれば、
もう少し楽になるものだと
思っていた。
僕はキミが好きで、
キミも僕を好きだと言ったのだから、
これまでのように
閉店後も店を開けてくれる
理由を考えたり
僕のために
置かれているように見えるお酒にも、
もしかしたら僕とは
関係のない
別の理由があるのかもしれないと
余計な説明を
探したりしなくていい。
キミが僕の隣に座るなら、
隣にいたいからなのだと
思っていいし、
僕が手を伸ばしたときに
キミが
その手を握り返すなら、
その温度にまで
疑いを差し込む必要はなくなった。
僕たちは付き合っている。
その言葉を
自分の中で使うことには、
まだ少しだけ慣れなかった。
けれども、
悪い違和感ではなかった。
むしろ、
何度か心の中で
反芻したくなるような響きだった。
キミは僕の恋人で、
僕はキミの恋人になった。
それだけのことが、
ずいぶん
長い遠回りの先にあった。
だから僕は、
もっと安心するのだと思っていた。
実際、
一緒にいる時間は
以前より楽になった。
閉店後の店で
向かい合って
座る必要もなくなり、
キミはときどき
僕の隣へ椅子を
寄せるようになったし、
僕の肩にもたれながら
今日来た
客の話をすることもあった。
スタッフが
備品をどこかへしまって
見つからなくなった話や、
いつも同じ時間に来る客が
今日は来なかったという話や、
帰りにコンビニへ
寄るかどうかという、
誰が聞いても
どうでもいい話を、
僕たちはずいぶん
長くしていた。
僕は
そういう時間が好きだった。
何か面白いことを
言わなければ
ならないわけでもなく、
キミの役に
立たなければならない
わけでもなく、
売上を上げる方法を
考える必要もないまま、
ただそこにいる。
ときどき会話が途切れても、
以前のように
気まずくはならなかった。
キミがスマートフォンを
眺めていれば
僕も仕事のメールを確認し、
しばらくしてキミが
何かを思い出したように
話しかければ、
僕はその続きを聞いた。
そうして何時間か過ごしていると、
自分の身体の
どこに力が入っていたのかも
分からないまま、
肩や背中が
少しずつ緩んでいった。
僕はたぶん、
ああいう感覚を
幸福と
呼ぶのだと思う。
派手ではなくていい。
胸が高鳴り
続ける必要もない。
隣にいる人の体温が、
触れていないときにも
なんとなく
分かるくらいの距離で、
今日一日を終えられる。
それで十分だった。
少なくとも、
その店を出るまでは
そう思っていた。
「着いたら連絡してね」
キミにそう言われて車に乗り、
家へ帰る。
玄関の灯りを点けて、
靴を脱ぎ、
上着を椅子へ
掛けるころには、
店を出てからまだ
一時間も経っていない。
それなのに、
もうキミの
顔が頭に
浮かんでくる。
自分でも
意味が分からなかった。
さっきまで
何時間も見ていた。
話したいことだって
特にない。
今日一日に起きたことなら、
ほとんど話してしまった。
それでも、
キミはいま何をしている
のだろうと思った。
まだ
店を片付けている
のかもしれないし、
もう家へ帰って
風呂に入っている
のかもしれない。
ベッドに横になりながら
スマートフォンを
見ているのか、
それとも腹が減って
何か食べているのかと
考えているうちに、
僕は自分のスマートフォンを
手に取っていた。
「何してる?」
そこまで打って、
しばらく画面を見た。
そして消した。
何をしているのか
聞いてどうするのだと
思ったからだ。
返事が来れば、
また話したくなる。
話し始めれば、
今度は声を
聞きたくなるかもしれない。
電話をすれば、
顔が見たくなるかもしれない。
そうしていけば終わらない。
僕はパソコンを開いて、
途中だった
仕事を始めようとした。
けれども画面の中の文章は
目に入るだけで、
意味として頭へ残らなかった。
胸の中央が少し
狭くなったような感覚が
続いていて、
大きく息を吸ってみても、
空気が身体の
一番奥まで入ってこない。
苦しいというほどではない。
それでも、
何かが足りていない
という感覚だけが
消えなかった。
もっと。もっと。もっと。
満たしたい。
さっきまで
満たされていたはずなのに、
家へ帰っただけで不足している。
それが僕には
奇妙だった。
なまじ幸福らしきものを
きちんと食べてしまったから、
身体がその味を
覚えてしまったのかもしれない。
もう少しだけ
顔を見たいと思う。
もう少しだけ
声を聞いていたいと思う。
何か特別なことを
したいわけではなく、
さっきまでしていたように、
どうでもいい話を
だらだら続けたい。
その「もう少し」が
どこまで続くのかと
考えてみると、
たぶん終わりなどなかった。
もっと。
もっと。
もう少しだけ。
その繰り返しが
止まらないだろう。
あと一時間
一緒にいれば
満足するわけでもないだろう。
朝まで一緒にいたところで
翌日は翌日で
また会いたくなるのだろう。
満たせば
終わる・・・欲求ではなく、
満たしたことで
初めてその存在を
知ってしまった欲求だった。
僕はその夜、
ずいぶん遅くまで
仕事にならなかった。
今、すぐにこの欲求を
満たせないという
自分が当時に
情けないとも思った。
全て「お金」のせいだ。とも。
結果が出せない
マーケティング能力が
恨めしかった。
翌朝になれば
多少は薄くなっていたけれど。
しかしながら、
完全に消えたわけではなく、
キミから「おはよう」と短い
メッセージが来た瞬間、
身体のどこかが
勝手に緩むのを感じた。
安堵した。
そして、
また身体に力が戻ってきた
そんな感じがした。
が・・・このままで
大丈夫なのだろうか?
第二章 欠乏は満たされたあとに始まる
それから僕は、
無意識のうちに
キミと過ごす時間を
調節するようになった。
キミに会うと
すぐにシンドクなるからだ
以前なら
閉店後までいるはずの日に、
「今日は仕事が残ってるから」と
少し早く帰り、
翌日も会えそうなら、
あえて
一日空けることもあった。
仕事があるのは
本当だった。
会社のことを考えれば、
恋人ができたからといって
生活の全部をそこへ
持っていく
わけにもいかないし、
キミには
キミの生活があり、
僕には
僕の生活がある。
恋人同士だから
毎日会うべきだという
決まりもない。
そう考えれば、
僕がやっていることは
ずいぶんまともに見えた。
実際、
僕自身も
そう思っていた。
ただ、
ひとつだけ
説明しにくいことがあった。
会う予定が
決まった日の
夕方になると、
少しだけ億劫になることがあった。
キミに
会いたくないわけではない。
その感覚は、
会えばすぐに消える。
店の扉を開けて
キミの顔を見た瞬間には、
来てよかったと思うし、
何時間か一緒にいれば、
帰りたくないとさえ思う。
だったら、
どうして会う前に
億劫になるのだろう。
しばらく僕は、
それを仕事の
疲れだと思っていた。
人に会うこと自体が
面倒な日もあるし、
会社の資金や
仕事のことが
頭から離れない日には、
恋愛どころではないと
感じることもある。
そういう
説明をつけておけば、
特に不自然ではなかった。
けれども、
ある日、
車を運転しながら、
僕は自分でも認めたくない
答えに気がついた。
会ったあとが
つらいからだった。
圧倒的な喪失感。
キミと長く過ごせば、
その時間そのものは
幸福だった。
しかし、
幸福になればなるほど、
別れたあとに
生まれる欠乏も大きくなった。
満たされる前なら、
それがない状態を
普通だと思っていられる。
けれども一度
その温度を知ってしまうと、
それがない時間は単なる日常ではなく、
不足しているに変わってしまう。
だから僕は、
幸福の摂取量
そのものを
減らそうとしていた。
少ししか飲まなければ、
酔いも浅くて済む。
そういう程度の、
ずいぶん幼稚な
自己防衛だった。
僕は自分でも少し呆れた。
そこまで好きなら
会えばいいだけではないか、
と思う一方で、
会えば
またもっと
欲しくなることも分かっていた。
キミは何をしているのだろう。
僕のいないところで
誰と話しているのだろう。
今日は男の客が
来たのだろうか。
僕が知らない顔で
笑っているのだろうか。
そんなことまで
考え始める自分は、
僕がこれまで
自分だと思ってきた
人物像から
ずいぶん離れていた。
恋愛経験が
極端に
少なかったわけではない。
誰かを好きになったことも、
一緒に過ごしたことも、
離れれば
寂しいと
思ったこともある。
それでも、
恋愛が一日の中心に座り込み、
仕事をしていても
そこから意識を
引き剥がせなくなる
ようなことは、
少なくとも
僕の記憶には
ほとんどなかった。
だから僕は、
自分をそういう男ではないと
思っていた。
誰かを好きになっても、
その人のすべてを
欲しがるわけではない。
恋人には恋人の生活があり
自分には自分の
生活があることを
受け入れられる。
嫉妬したからといって、
それをそのまま
相手へ押しつけるようなこともしない。
恋愛によって
仕事まで崩してしまうほど
子どもでもない。
それが僕だった。
ところが、
キミについては、
その「僕」が
あまり役に立たなかった。
顔が見たいと思う。
もっと
一緒にいたいと思う。
帰りたくないと思う。
男の客と
楽しそうに話している
姿を見れば、
店なのだから
当然だと思いながらも
胸の奥がざらつく。
電話したいと思っても、
用事もないのに
迷惑だろうと携帯を伏せる。
そういう感情が出てくるたびに、
僕は一つずつ理由をつけて
押し戻していた。
今は付き合い始めだから
気持ちが高揚しているだけで、
そのうち落ち着く。
仕事が不安定なのだから、
恋愛ばかりを
考えている場合ではない。
相手には
相手の自由があり、
それを尊重するのが
大人というものだ。
どれも
間違ってはいない。
だから僕は、
それらの説明によって、
自分の中で
何が起きているのかを
ずいぶん長く
見ないで済んだ。
僕は静かな
人間なのだと
思っていた。
違った。
静かなのではなく、
内側で鳴っている音が
外へ漏れないようにすることに
慣れていただけだった。
第三章 推定された僕
そのことに気がついたのは、
恋愛について
考えているときではなかった。
仕事をしているときだった。
店舗集客についての
記事を書いていた僕は
途中で指が止まり、
画面の中で
点滅している
カーソルをしばらく
眺めていた。
SNSを続けても
新規客が増えない。
広告を出しても
成果につながらない。
何をすればいいのか
分からない。
そんな人に向けて
書いているつもりだった。
僕はその人物が
何に悩み、
何を怖がり、
どんな言葉なら
自分のことだと
思うのかを考えていた。
いつものことだった。
マーケティングをしていれば、
相手を想像する。
どんな人なのか、
何を求めているのか、
どんな状態なら
行動するのかを推定する。
僕はその作業を
何年もやってきた。
それなのに、
その夜はなぜか、
画面の向こうにいるはずの
顧客ではなく、
自分自身のことが気になった。
僕は恋愛で我を
失わない人間だと思っていた。
いや
そう思いたかった。
そう思っていたかった。
では、
どうして僕は
そう、
思っていたのだろう。
そう、
思いたかったのだろう。
しばらく考えると、
理由はずいぶん単純だった。
これまでの恋愛で、
そう振る舞えていたからだった。
僕は仕事のできる人間だと思っていた。
それも、
仕事が売れたからだった。
作ったクリエイティブから
確かに人が商品・サービスを
購入したからだ
僕は役に立つ
人間なのだと思っていた。
それは誰かが僕に相談して、
「助かった」と
言ってくれたからだった。
自分には価値が
あると思えた時期には、
僕の仕事にお金を払う人がいて、
僕を必要とする人がいた。
女性から
好意を向けられれば、
自分には人から好かれるだけの
何かがあるのだろうと思った。
考えていくうちに、
胸の奥とは別のところが
少し冷えていくような
感覚がした。
僕は自分について、
何かを決めてきたのではない。
外から返ってきた
反応を見ながら、
そこから自分を
推定していただけだった。
売れたのだから、
仕事のできる
人間なのだろう。
必要とされたのだから、
役に立つ人間なのだろう。
好かれたのだから、
好かれるだけの
何かがあるのだろう。
これまで恋愛で
取り乱さなかったのだから、
僕は恋愛に飲み込まれない
人間なのだろう。
その「だろう」を、
いつの間にか僕は
「僕」にしていた。
マーケティングで作る
ペルソナと同じだった。
外に現れた言葉や行動や反応から、
直接見ることのできない
人物像を作り、
その像を本人の代わりに置く。
ペルソナは本人ではない。
そんなことは、
キミとのことで
嫌というほど
分かったはずだった。
僕はキミが閉店後も
店を開けてくれる理由を推定し
酒を置いている理由を推定し、
来ないのかと
聞かれる理由まで推定して、
そのたびにずいぶん外した。
本人が何を考えているかなんて、
本人にしか分からない。
そう思ったはずだった。
それなのに僕は、
自分自身についても
同じことをしていた。
僕が本人だと思っていた楠瀬一も、
外部反応から作られた
人物像なのかもしれない。
仕事ができる楠瀬一。
人の役に立つ楠瀬一。
女性との距離を扱える楠瀬一。
恋愛で我を失わない楠瀬一。
一人でいても平気な楠瀬一。
どれも嘘ではない。
けれども、
それらを選び出して「これが僕だ」と
思っていた根拠は、
いつだって外から返ってきた
反応だった。
そのとき、
頭の中に妙に
はっきりした言葉が浮かんだ。
僕は僕を定義したことがない。
自分自身についてすら、
僕は推定していた。
そして、
そのことに気がついた瞬間、
ここ数年、
僕がどれだけコンテンツを書いても、
広告を作っても、
昔ほど当たらなくなっていた理由まで、
少しずつ同じ場所へつながり始めた。
第四章 本人不在のマーケティング
以前の僕の周りには、今よりずっと人がいた。
顧客と話す機会があり
取引先から相談を受け
広告を出せば数字が動き、
提案したものが
気に入られれば
仕事になったし、
逆にどれだけ自信を持って
出したものでも、
相手が欲しくなければ
驚くほど簡単に無視された。
当時の僕は、
それを特別なことだとは
思っていなかった。
マーケティングとは
そういう仕事なのだから、
こちらが何かを出せば
相手から何らかの反応が
返ってきて、
その反応を見ながら
次を考えるのは当然だった。
自分では良いと思った広告でも
反応が悪ければ変えたし、
こちらが重要だと思って説明したことに
相手が興味を示さず、
何気なく付け加えた一言に
食いついたなら、
そちらに
何かがあるのだろうと考えた。
自分の頭の中だけで
顧客を理解していたわけではなく、
現実の人間とぶつかりながら、
自分の仮説を何度も
壊してもらっていた。
今になって考えれば、
その環境そのものが
僕の能力の
一部だったのだと思う。
ところが、
仕事が減って人との
接点も少なくなっていくと、
僕は一人で考える時間ばかりが
増えていった。
だからといって、
何もしていなかったわけではない。
むしろ、
以前よりずっと考えていた。
検索される言葉を調べ、
競合のページを読み、
広告の訴求を考え、
店舗経営者が
抱えているであろう不満や
不安を想像しながら
文章を作っていたのだから
自分ではかなり真面目に
マーケティングを
しているつもりだった。
反応がなければ、
なぜ反応がないのかも考えた。
この言葉では
自分事にならなかったのかもしれない。
価格を出す位置が
悪かったのかもしれない。
そもそも、
この悩みを持つ人は
検索ではなく
SNSを見るのかもしれない。
そうやって
一つずつ仮説を立て直しては、
また次を作った。
それでも
反応がなければ、
さらに考えた。
考えることならできた。
むしろ、
考えれば考えるほど、
自分が何か
前へ進んでいるような
感覚さえあった。
けれども、
よく考えてみれば、
その循環の中には
途中から本人がいなかった。
最初に
「こういう人なのではないか」と
考えたのは僕で、
その人が反応しなかった
理由を説明したのも僕であり、
その説明から
次の顧客像を作り直したのも
僕だった。
新しい一次情報が
入っていないのに、
推定だけが更新されている。
最近よく使っている
AIのことを思い出した。
AIが生成した情報を
またAIが材料として取り込み、
その結果を
さらに次の生成に使っていけば、
文章の形だけは
整っていくかもしれない。
けれども、
元になった現実との
接点が薄くなっていけば、
どれだけ流暢になったところで、
それが現実に
近づいている
保証はどこにもない。
むしろ最初に
少しだけ入っていた誤差が、
何度も生成を重ねるうちに、
それらしい説明をまとって
固定されていくことだってある。
僕も同じだった。
僕が推定した
顧客を材料に、
僕が文章を作り、
その文章に反応がなかった
理由を僕が推定し、
その推定をまた
次の顧客理解に使っている。
考えるたびに
情報が増えたような
気になっていたけれど、
実際には僕の中を
何周もしていただけだった。
そしてさらに厄介なのは
その推定をしている僕自身まで、
自分で定義したものではなかったことだった。
僕が外部反応から推定した
僕によって、
僕が推定した
顧客を理解しようとしている。
そんなものが
何周も回れば、
どこまでが現実で、
どこからが僕の
推定なのか分からなくなる。
だから昔より文章が
上手くなっているのに
売れないということも
起こるのだろう。
写真も撮れるようになり、
Webも以前より
作れるようになり、
SEOも広告もAIも
使えるようになっているのに、
それらを統合する中心にいる
僕自身が
現実との接続を失っていたら、
能力が増えたことと
当たることは別の話になる。
僕は長いあいだ、
もっと精密に考えれば
当たるのだと思っていた。
もしかすると
逆だったのかもしれない。
考える前に、
もう一度、
人に触れなければならなかった。
画面の中に作った顧客ではなく、
こちらの予想など平気で裏切る、
本当に存在している人間に。
第五章 一次情報としてのキミ
数日後、
僕はキミの店で仕事をしていた。
閉店にはまだ少し早く、
カウンターの向こうでは
キミが翌日の準備をしながら、
ときどき僕の方を見ていた。
僕は店舗集客について
書いていた記事を
修正していたのだけれど、
しばらくすると
キミがこちらへ来て、
僕の肩越しに画面を覗き込んだ。
「何書いてるの?」
「店舗やってる人向けの記事」
「見ていい?」
「別にいいけど」
キミは僕の隣に座ると、
スクロールしながら
思ったより真面目に読んでいた。
僕は横顔を見ながら、
途中で飽きるだろうと思っていた。
ところが、
しばらくするとキミの指が止まった。
「この人、誰?」
「誰って?」
「ここに書いてある人」
僕は画面を見た。
SNSを続けているのに
集客につながらず、
広告を出しても
効果が分からないまま
費用だけが増え、
何を改善すればいいのか
分からなくなっている
店舗経営者について
書いた部分だった。
「集客に困ってる店舗経営者だよ」
「それは読めば分かるけど、
この人、本当にそう言ったの?」
質問の意味を理解するまで、
少し時間がかかった。
「誰か一人が言ったわけじゃないよ。
そういう人は多いだろうって話」
「多いって、
はじめちゃんが
思ってるってこと?」
「まあ、
そうだけど」
キミはもう一度画面へ目を戻したあと、
少し首を傾げた。
「私、お店がダメだったとき、
こんなこと考えてなかったな」
「じゃあ何考えてたの?」
僕が聞くと、
キミはしばらく天井の方を見てから、
あまり迷わず答えた。
「分かんない、
だったと思う」
「何が?」
「何もかも。
何やればいいか分かんないし、
やってることが
合ってるかも分かんないし、
でも何かやらないと
もっとダメになりそうだし、
それでずっと疲れてた」
ずいぶん雑な答えだった。
けれども
その雑さの方が
僕の文章よりずっと
生々しかった。
実際に困っている人間が、
自分の状況を
マーケティング用語で
きれいに分類してくれるとは限らない。
「SNSを運用しているものの
新規顧客獲得につながらず、
広告投資の費用対効果にも
不安を感じています」などと
頭の中で整理できているなら、
その人はすでに
問題のかなりの部分を
意識できている。
本当に困っているときには
何が問題なのかさえ
分からないことがある。
ただ苦しい。
何かがおかしい。
このままではまずい。
それなのに、
どこから触ればいいのか
分からない。
本人が持っている
一次情報というものは、
僕が想像していたより
ずっと未整理で、
その代わりに、
こちらが後から
作った説明にはない
温度を持っていた。
「はじめちゃんって、
いっぱい考えられるじゃん」
僕が黙っていると、
キミが言った。
「それが仕事だからね」
「うん。でも、
いっぱい考えられるから、
いっぱい違う答えも作れるんだね」
「それ、褒めてる?」
「途中までは」
思わず笑ってしまった。
キミも笑った。
たぶん、
その一言で
全部解決するわけではない。
僕が数年間うまくいかなかった理由を、
キミ一人の意見だけで
説明することだって、
同じ間違いになる。
それでも、
僕の頭の中だけを何周しても
出てこなかった言葉が、
キミと数分話しただけで出てきた。
その事実は無視できなかった。
本人は、
僕が作ったペルソナほど
きれいではない。
本人は矛盾するし、
言葉を間違えるし、
自分でも自分のことを
よく分かっていない。
だから本人なのであって、
その不完全さを削って
理解しやすく整えた瞬間に、
もう別のものになっているのかもしれない。
僕は画面を閉じる前に、
さっきの文章を
もう一度読んだ。
そこには確かに
顧客らしき人がいた。
でも、
その人が息をしている
感じがしなかった。
第六章 推定の外にいる人
その日の閉店後、
僕はいつものように店に残った。
キミは照明を
少し落としてから
僕の隣へ座り、
昼間の続きをするでもなく、
グラスを手にしながら
ぼんやりしていた。
しばらく何も話さずにいると、
キミが急に言った。
「はじめちゃん最近、
帰るの早くない?」
僕は一瞬だけ考えてから、
「仕事があるから」と答えた。
嘘ではなかった。
やらなければならないことは
いくらでもあったし、
会社の状況を考えれば、
夜遅くまで恋人の店で
酒を飲んでいる方が
どうかしていると
言われても仕方がない。
けれども、
キミは納得していない顔をしていた。
「前から仕事あったじゃん」
「そりゃあるよ」
「付き合ったら、もうちょっと会うのかと思ってた」
僕はグラスの中を見た。
「会ってるだろ」
「会ってるけど、そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
キミはすぐには答えなかった。
何かを言うかどうか迷っているようで、
視線だけが一度僕から外れた。
「なんか、
私ばっかり好きみたい」
その言葉を聞いた瞬間、
腹の底に
熱いものが落ちた気がした。
僕には、
あまりに実態と
かけ離れて聞こえた。
けれども、
キミから見える僕だけを
材料にすれば、
そう推定しても
不思議ではなかった。
付き合ったところで
会う頻度は劇的に増えず、
僕から「会いたい」
と言うこともほとんどなく、
何日か会えなくても
平気そうな顔をしている。
店に男の客がいても
何も言わず、
キミが仕事で
誰かと楽しそうに話していても、
僕はそれを邪魔しない。
外に出ている
情報だけを見れば、
僕はずいぶん
余裕のある恋人に
見えたのかもしれない。
でも、
その人物像は
僕が内側で
経験しているものとは
まるで違っていた。
長く一緒にいた夜には
帰ってから
何時間も胸の奥が落ち着かず、
また顔が見たいと思っている。
用事もないのに
電話をしたくなるし、
今日誰と話したのか
気になることもある。
男の客と笑っているのを見れば
面白くないのに、
それを口にしたら
キミの仕事を邪魔することになると
思って黙っている。
僕は
そういうものを
一つずつ外へ
出さないようにしてきた。
なのに、
その結果として
作られた僕を見て、
キミは「私ばっかり好きみたい」
と言った。
昼間、ペルソナについて
考えたばかりだった。
外に出た反応から
人物を推定すれば、
本人とは違う像ができる。
僕はキミについて
それをやった。
そして今度は、
キミが僕について
同じことをしている。
違うと言えば
済むはずだった。
けれども、
その一言だけでは、
僕の中で
押し込めてきたものの
量に対して
あまりにも軽すぎる気がした。
「そんなことないよ」
とは言えなかった。
言ってしまえば、
また僕が僕を隠したまま
話を終わらせることになる。
第七章 優しさに偽装した恐怖
「僕だって、
どれだけ我慢してると
思ってるんだよ」
自分の口から出た
言葉なのに、
少し遅れて
意味が耳に入ってきた。
キミも驚いたようで、
何も言わずに僕を見ていた。
僕はもともと、
あまり喧嘩をする方ではない。
腹が立っても、
その場で
言わなくていいことまで
口にして関係を悪くするくらいなら
一度自分の中へ持ち帰った方がいい
と思ってきたし、
実際それで困ることも少なかった。
だから、
あんな言葉が出たこと自体が
僕には珍しかった。
「何を我慢してるの?」
キミが聞いた。
僕はすぐに
答えられなかった。
答えれば、
これまで
見せないようにしてきたものを
自分から見せることになる。
けれども、
ここで「何でもない」と言ったら
僕はまた同じことを
繰り返すのだろうと思った。
「会いたいって言うのも」
口にしてみると、
思っていたより
恥ずかしかった。
「別れたあと、
もう一回顔見たいって思っても、
さっきまで会ってただろって
自分に言ってるし、
電話したいと思っても、
用事ないなら
やめとけって思ってる」
キミは黙って聞いていた。
「店に男の客がいるのも
仕事だって分かってるよ。
キミが楽しそうに喋ってても、
それに僕が口出すことじゃないって
分かってる。でも、分かってるのと
嫌じゃないのは別なんだよ」
そこまで言うと、
胸の奥に溜まっていたものが
少し動いた。
長いあいだ
閉め切っていた部屋の窓を
少しだけ
開けたような感覚だった。
「もっと一緒にいたいと
思うことだってあるし、
帰りたくない夜もあるし、
今日何してるんだろうって
ずっと考えてるときだってある。
でも、そんなこと
全部言われたらキミだって嫌だろ」
「なんで?」
「なんでって、重いだろ」
僕がそう答えると、
キミは少し
悲しそうな顔をした。
責められると
思っていた
僕には、
その表情の方が
つらかった。
「はじめちゃん、それ、
もう優しさじゃないよ」
その言葉を聞いた瞬間、
以前にも同じようなことを
言われたときの感覚が、
腹の奥から戻ってきた。
あのときも
腹が立った。
僕は本当に
一生懸命だったからだ。
相手を縛りたくないと
思うことも、
自分の不安を
相手に背負わせたくないと
思うことも、
僕なりの優しさだった。
今だって、
そのつもりだった。
「じゃあ何なんだよ」
声が少し強くなった。
キミはすぐには答えず、
僕の顔をしばらく見た。
「怖がってるんじゃないの?」
反射的に否定しそうになった。
でも、
キミはそこで続けなかった。
少し考えてから、
静かに言った。
「何が怖いのかは、
私には分かんないけど」
その言い方が、
かえって僕を黙らせた。
キミは僕の答えを
代わりに作らなかった。
「それは、
はじめちゃんが見ないと
分かんないでしょ」
僕は何も返せなかった。
怖い。
もしそうなのだとして、
僕はいったい何を
怖がっているのだろう。
キミに嫌われることなのか。
別れることなのか。
他の誰かを
好きになることなのか。
どれも嫌だった。
けれども、
そのどれを思い浮かべても、
胸の奥にある
あの締め付けと
少し違うような気がした。
その答えを
頭で探そうとすると、
なぜか余計に遠ざかっていった。
第八章 身体が先に覚えている
その夜、
僕はすぐには
帰れなかった。
キミと話し合って
何かが
解決したわけではなく、
自分が何を
怖がっているのかも
分からないままだったけれど、
あのまま店を出て
一人になれば、
また頭の中だけで
答えを
作り始めるような気がした。
僕はそれをしたくなかった。
閉店後の店には、
冷蔵庫の低い音と、
外を走る車の音が
ときどき入り込んできた。
さっきまで
少し強い言葉を
交わしていたせいか、
キミもすぐには
僕の隣へ来なかった。
僕も何を言えばいいのか
分からなかったので、
グラスの中に残ったお酒を
少しずつ飲みながら、
意味もなくカウンターの
木目を眺めていた。
しばらくすると、
キミが椅子を一つ
僕の方へ寄せた。
何も言わずに座り、
そのまま
少しずつ距離を縮めて、
僕の肩へ頭を預けた。
それだけだった。
それだけなのに、
肩に触れた
重さを感じた瞬間、
それまで胸の内側に
張っていたものが
ゆっくり緩んでいった。
キミの髪が頬に触れ、
近くで呼吸しているのが分かった。
人間というものは
不思議なもので、
言葉では
何も解決していなくても
触れられるところに
相手がいるだけで、
身体の方が先に
安心することがあるらしい。
僕は
そのまま
キミの手を取った。
手のひらには温度があり、
指を軽く握れば、
キミも同じくらいの力で
握り返した。
まだここにいる。
そのことが、
妙に嬉しかった。
そして、
その嬉しさを感じた直後だった。
胸の奥が急に
狭くなった。
さっきまでの
喧嘩とは違う。
もっと古い場所から
何かを引っ張られたような
感覚だった。
心臓が一度強く打ち、
そのあと呼吸が
少し浅くなる。
キミはまだ隣にいる。
僕の肩に頭を乗せ、
手まで握っている。
何も失っていない。
それなのに身体だけが、
すでに何かを失ったあとのように
反応していた。
「どうしたの?」
キミが顔を上げた。
「いや」
そう答えながら、
自分でも
何が起きたのか分からなかった。
ただ、
その瞬間に、
ずっと昔の声が聞こえた。
本当に耳から
聞こえたわけではない。
けれども、
あまりにもはっきりしていた。
「だって、
どこかにいなくなっちゃう
かもしれないから」
その言葉と一緒に、
昔付き合っていた
彼女との出来事が
思い浮かんだ。
僕より一つ年下で、
少し派手で、
笑うと急に
幼く見えた
女の子だった。
僕はしばらく、
キミの手を握ったまま
動けなかった。
怖いという感情を
頭で探していたときには
何も出てこなかったのに、
キミの体温に触れた途端、
身体の方が勝手に答えの
一部を引き上げてきた。
たぶん感情というものは、
いつも本人が理解できる
順番で現れてくれるわけではない。
頭では忘れたつもりに
なっていても、
身体だけが
覚えていることがある。
第九章 幸福と喪失のあいだ
昔の彼女。
高校生の頃の彼女。
僕はその
女の子に
ずいぶん夢中になった。
最初に好きだと
言ったのは彼女だった。
僕は当時から
女性とまったく
縁がなかったわけではないけれど、
あれほど一直線に
好意を向けられた経験は、
それまであまりなかったと思う。
彼女は一緒にいたがった。
少しでも長く隣にいたがり、
別れ際になると、
それまで普通に笑っていたのに
急に寂しそうな
顔を見せることがあった。
僕には、
その表情がよく効いた。
自分が必要とされていること
が分かりやすかったからだ。
僕が
そばにいれば
彼女は笑い、
少し距離を取ろうとすると
不安そうになる。
それを見ていると、
自分の存在そのものが
彼女の感情を
動かしているような気がして、
まだ自分というものを
うまく説明できなかった
年齢の僕には、
その反応があまりにも
甘く脳神経を溶かしていく
そんな気がした。
彼女は身体的な
親密さについても、
僕がそれまで付き合った
女の子たちより
ずっと強く
求めるところがあった。
ただ、
彼女にとって
それは単に
欲望の強さだけで
はなかったのだと思う。
近くにいること
そのものが、
僕の気持ちを
確かめる手段になっていた。
だから僕が疲れていて、
彼女が期待するほど
応えられない夜があると、
彼女は急に静かになった。
さっきまで笑っていたのに、
目の中から
光だけが消えたような顔をして、
「私のこと嫌いになった?」
と聞いた。
冗談のように
笑おうとしているのに、
その声には
笑いきれないものが混ざっていた。
「私じゃ飽きちゃった?」
そんなふうに言われると、
僕は途端に苦しくなった。
違う。
嫌いになったわけではない。
飽きてもいない。
僕はここにいる。
そう分からせたくなる。
彼女の不安そうな
顔を見ていると、
何かを
証明しなければならないような
気持ちになり、
彼女がようやく
安心して
僕のそばへ戻ってくると、
その表情を見た
僕の方まで救われた。
たぶん、
あのころから僕は、
相手の反応によって
自分を確認していたのだと思う。
彼女が安心して
表情を緩めると、
自分がこの子に
必要とされていることを
強く感じ、
その感覚に
満たされるほど、
次にまた彼女が不安そうな
顔を見せたときには、
前よりもっと深く
その不安へ
応えようとしてしまった。
その関係は
どちらかが悪い
というものではなかった。
彼女も
一生懸命だったし、
僕も一生懸命だった。
ただ、
若かった僕たちは、
自分たちの間で
起きていることを
言葉にして
理解するより先に、
二人だけの
近さによって
埋めようとしていた。
夜が深くなるほど、
外の世界は遠くなった。
カーテンの向こうで
車の音がしても、
僕たちとは関係のない
場所を走っているように
聞こえたし、
朝が近づいて
窓の色が変わり
始めると、もう少しだけ
夜が続けばいいと思った。
彼女の髪や肌から
漂う匂いも、
部屋に残った
お酒の匂いも、
眠気で少し
掠れた声も、
そのころの僕には
全部が同じ夜の一部だった。
若さというものには、
ときどき時間そのものを
無視できるような傲慢さがある。
明日のことなど考えなくても、
この瞬間だけで
何とかなるような気がする。
僕も彼女も、
その感覚へかなり
深く沈んでいた。
けれども、
どれだけ近くにいても、
彼女の中には
僕の知らない場所が残っていた。
そして、
その場所に
誰がいるのかを知ったとき、
僕は初めて、
彼女がどうしてあれほど
僕の存在を確かめたがるのかを理解した。
第十章 死者のいる恋愛
彼女には、
僕より前に
ずっと好きだった男がいた。
最初にその話を聞いたとき、
僕は昔の恋愛話なのだと思った。
誰にだって
過去はある。
僕だって、
付き合う前の相手の
すべてを知っているわけではない。
ところが、
その男とは別れたわけではなかった。
ある日、
「ちょっと行ってくるね」
と言ってバイクで出た。
それが最後だった。
彼女は最初、
いつものように
遊びに行っているだけだと
思っていたらしい。
夜になっても帰らなくても、
どこかで友達と
騒いでいるのだと思った。
けれども、
その男は帰ってこなかった。
事故だった。
その話をする彼女の顔を、
僕は今でも覚えている。
泣いていたわけではない。
むしろ、
あまりにも普通の顔をしていた。
その普通さの方が、
僕には怖かった。
もう何度も
思い出してきた話だからなのか、
それとも泣くという段階を
とっくに通り越してしまったからなのか、
当時の僕には分からなかった。
ただ、
彼女が以前言った、
「どこかにいなくなっちゃう
かもしれないから」
という言葉の意味だけは、
その瞬間に変わった。
僕はてっきり、
他の女の子を好きになるとか、
いつか飽きられるとか、
そういう恋愛の中にある
普通の不安を
話しているのだと思っていた。
違った。
彼女は、
本当に人がいなくなることを
知っていた。
さっきまで
存在していた人間が、
その続きを
突然失うことを知っていた。
だから彼女は、
僕がそこにいることを
何度も確かめたのだと思う。
近くにいることや
触れれば
温度が返ってくることや、
そこに呼吸があることによって、
「今日はまだ、この人はここにいる」と
確かめたかったのかもしれない。
僕はそのことを知ってから、
彼女を前より
もっと好きになった。
それが
正しかったのかは
分からない。
ただ、若かった僕には、
彼女の悲しみまで含めて
自分が受け止めればいいと思えた。
自分がそばにいることで、
その痛みを少しずつ
薄くできるのではないかと
本気で考えた。
亡くなった
男の代わりに
なりたいわけではなかった。
彼女の中から、
その人を消してほしいとも
思わなかった。
ただ、
その記憶に触れても
彼女が苦しくなくなるくらいには、
僕が彼女を
幸福にできればいいと思った。
けれども、
思えば思うほど、
僕には届かない
場所があることも
分かってきた。
彼女は
僕を好きだった。
それは
疑っていなかった。
僕といるときに笑ったし、
僕を求めてもいた。
それでも彼女の中には、
もう誰も触ることのできない人がいた。
僕がどれだけ近づいても、
そこだけには入れなかった。
亡くなったヤツには
敵わない。
若かった僕は、
ときどきそう思った。
勝ち負けの話ではない
ことくらい分かっていた。
それでも、
目の前の彼女へ
どれだけ手を伸ばしても、
その心のどこかには
自分の手が
絶対に届かない
場所があるという事実は、
僕にはずいぶん苦しかった。
そして厄介なことに、
その苦しさまで、
次第に僕たちの関係の
一部になっていった。
第十一章 届かないほど、近くなる
僕は彼女の悲しみを溶かしたかった。
当時の僕は、
たぶん本気で
そんなことができると
思っていた。
もっとそばにいれば、
もっと安心させられれば、
もっと好きだということを
伝え続ければ、
いつか彼女の中にある痛みも、
自分が触れられるくらい
柔らかくなるのではないかと
思っていた。
けれども、
人の過去というものは、
誰かが愛したからといって
消えてくれるものではない。
むしろ彼女へ
近づけば近づくほど、
僕は彼女の中に残っている
死者の輪郭まで
知るようになった。
何気ない瞬間に
彼女の表情が
変わることがあった。
僕と一緒に笑っていたはずなのに、
何かを思い出したように
急に遠いところを見る。
その視線の先には
僕はいない。
そういう瞬間を見るたびに、
胸の奥が少し冷えた。
それでも
離れようとは思わなかった。
逆だった。
届かないと思うほど、
もっと近づきたくなった。
彼女が不安になれば
安心させたくなり、
僕を求めればできる限り応えようとした。
そうして
二人だけの時間へ沈んでいけば、
彼女の中にある死者の気配も、
その夜だけは
少し遠くなるような気がした。
少なくとも
僕にはそう見えた。
そして、
それによって
彼女の表情が緩むと、
僕は自分が
彼女を救えているような
気持ちになった。
たぶん、
そこで僕も
少しずつ溺れていった。
彼女に必要とされ、
その必要へ応えられる
自分でいることが、
いつしか彼女を
安心させるためだけではなく、
僕自身が
ここにいていいのだと
感じるためのものにもなっていた。
その感覚は、
若い僕にとって
あまりにも魅力的だった。
僕は彼女を愛していた。
同時に、
彼女の中で
必要とされる自分まで
愛し始めていたのだと思う。
だから二人の時間には、
いつも少し危うい甘さがあった。
近づけば
安心するのに、
近づくほど
届かない場所まで
見えてしまう。
それが苦しいから、
さらに近づこうとする。
若かった僕には、
その矛盾を
示す言葉がなかった。
ただ、
夜が深くなり、
部屋の外から
世界の気配が薄れていくほど、
二人だけで
このまま沈んでしまってもいいような
気持ちになることがあった。
朝が来なければいい。
明日のことなど
考えなくていい。
彼女がいなくならず
僕もどこにも行かず、
世界が二人の外側で
止まってしまえばいい。
そういう願いが、
当時の僕にはひどく甘美だった。
今から思えば、
ずいぶん退廃的だったと思う。
けれども、
あのころの僕にとっては、
それも間違いなく恋だった。
そして、
その恋の中では、
好きになることと、
求められることと、
誰かを失うことへの恐怖が、
きれいに分かれてはいなかった。
全部が同じ夜の中にあった。
第十二章 喪失は身体に残る
彼女の話を聞いたとき、
僕があれほど深く引き込まれた理由は、
たぶん彼女だけにあったわけではない。
僕には
六つ上の姉がいた。
僕が小学五年生のころに
亡くなった。
自殺だった。
大人になった僕は、
そのことを毎日思い出して
生きているわけではない。
何十年も経っている。
僕はそのあとも普通に学校へ行き、
仕事をし、
恋愛をし、
笑い、
酒を飲み、お金を稼いで
会社まで作った。
だから、
自分の中では
ずいぶん昔に終わった
出来事だと思っていた。
少なくとも、
今の僕を説明するために、
いつまでも
姉の死を持ち出す
必要はないと思っていた。
実際、
それは間違っていないのだと思う。
僕は壊れているわけではない。
姉が死んだ瞬間から
時間が止まり、
そのまま
生きてきたわけでもない。
人間はもっと複雑で、
悲しいことがあっても、
そのあとで笑うし、
好きな人もできるし、
腹も減る。
傷があったからといって、
その人間のすべてが
傷になるわけではない。
それでも、
身体は少し
別なのかもしれなかった。
昨日までいた人が、
今日からいない。
名前を呼んでも返事がない。
もう次がない。
その経験を、
僕の身体は一度知っている。
だから若いころの彼女から、
好きだった男が
ある日突然帰ってこなくなった
という話を聞いたとき、
僕はただ
同情しただけでは
なかったのかもしれない。
僕自身の中に、
言葉にしていない
同じ形の穴があった。
彼女の悲しみに
触れながら、
僕は自分の中に沈んでいたものまで
触っていたのかもしれない。
そして
何十年も経った今、
キミの手を握っただけで
胸が締め付けられ、
何の脈絡もなく
昔の言葉が戻ってきた。
僕の頭は忘れたつもりになれても、
身体は、人が消えるということを
忘れていなかった。
第十三章 一緒なら沈んだってかまわない
姉のことを
思い出したからといって、
何かの答えが
突然手に入ったわけではなかった。
若いころ
彼女のことも、
あのころの
僕たちが過ごした夜のことも、
今さら振り返ったところで、
すべてを一つの原因へ
まとめられるほど
人間は単純ではないのだと思う。
ただ、
キミの手を握ったまま
昔の声を思い出したことで、
これまで別々の記憶として
置いていたものの間に、
初めて一本の細い線が見えた。
僕は人が
いなくなることを知っていた。
そのあとで、
人がいなくなることを
恐れている
女の子を好きになった。
彼女が僕を求めるたびに、
それへ応えることによって
彼女を安心させようとしながら、
彼女が安心した
表情を見ることで、
今度は僕自身が
必要とされていることを
確かめていた。
それがいつしか、
恋愛と、
身体の近さと、
喪失への恐怖と、
必要とされる幸福を、
僕の中で
完全には
切り離せないものに
していたのかもしれない。
そう考えたとき、
ずっと前にキミが言った言葉が戻ってきた。
「もう、二人でいればいいじゃん。
一緒なら沈んだってかまわない」
あの夜、
店もキミも、
そして僕の仕事も、
何もかもがうまくいっていなかった。
ヴーヴ・イエローを
二人で飲みながら、
キミはたぶん、
普段なら言わないようなことまで
口にした。
僕はあの言葉を
お酒のせいにしようとしたし、
キミもあとになれば
酔っていたからだと
言える余地を
どこかに残していた。
それなのに、
僕はどうしても
忘れられなかった。
いま思えば、
言葉の意味を
理解したからではなかったのだと思う。
僕の身体が、
あの響きを先に知っていた。
好きな人と
二人だけで、
外側の世界から
切り離されて
いくような甘さを、
知っていた。
明日のことなど考えず、
朝が来なければいい
と思いながら、
相手がすぐ
そばにいるという
事実だけを
何度も確かめるような
夜も知っていた。
それが幸福であるほど、
その人がいなくなったときのことまで
同時に想像できてしまう
怖さも知っていた。
だからキミの言った
「一緒なら沈んだってかまわない」は、
僕にとって
ただロマンチックなだけの
言葉ではなかった。
甘かった。
そして、
ひどく怖かった。
それでも惹かれた。
あのころの僕が知っていた
退廃的な甘さと、
今ここにいる
キミへの感情は
まったく同じものではない。
キミは昔の彼女ではないし、
僕ももうあのころの僕ではない。
それでも、
似た匂いのするものに
身体が先に反応することはあるらしい。
人間は、
過去をそのまま
繰り返すわけではない。
けれども、
過去に覚えた感覚を使って、
いま目の前にあるものを
理解しようとすることはある。
それは、
マーケティングで
過去のデータから
次の顧客を推定するのと、
少し似ていた。
過去にこうだったから、
次もこうだろう。
以前この反応があったから、
今回も同じだろう。
でも、
そこには
いつも一つ問題がある。
目の前にいる人は、
過去の誰かではない。
キミはキミだった。
そして僕は、
過去の記憶を使って
キミを理解しようとしながら、
また一人のペルソナを
作ろうとしていたのかもしれなかった。
第十四章 消えてしまうということ
「はじめちゃん」
気がつくと、
キミが僕の顔を見ていた。
「何考えてたの?」
僕は少し迷った。
いつもの僕なら、
昔のことを思い出していたとは
言わなかったかもしれない。
過去の恋愛や、
姉の死まで持ち出せば、
話が重くなりすぎるような気がするし、
何より、
それを説明したところで
キミに何をしてほしいわけでもなかった。
それでも、
さっきキミから
「それは、はじめちゃんが見ないと
分かんないでしょ」と
言われたばかりだった。
自分で見つけたものを、
また自分の中へ戻してしまえば、
何も変わらない。
「昔のこと思い出してた」
僕がそう言うと、
キミは何も急かさず、
まだ僕の手を握ったまま待っていた。
僕は若いころに
付き合っていた
女の子のことを話した。
彼女が僕をひどく求めたことも、
僕が思うように
応えられないと不安そうな
顔をしたことも、
その理由の奥に、
バイク事故で亡くなった
人がいたことも話した。
それから、
姉のことも話した。
キミは途中で何度か
僕の顔を見たけれども、
僕が話し終わるまで
ほとんど口を挟まなかった。
「だから怖いの?」
しばらくして、
キミが聞いた。
僕は少し考えた。
「分かんない」
嘘ではなかった。
「これが原因ですって
言えるほど簡単じゃないと思う。
でも、キミに会ったあと、
あんなに苦しくなる理由を
考えてたら、さっき急に思い出した」
「私に会ったあと?」
「足りなくなるんだよ」
言ってから
少し恥ずかしくなった。
キミは目を丸くした。
「何が?」
「キミが」
キミの口元が少し動いた。
笑うのを
我慢しているように見えたので、
僕は少し腹が立った。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
「笑ってるじゃん」
「だって、はじめちゃん
そんなこと思ってたの?」
「だから
言わなかったんだよ」
キミは今度こそ笑った。
でも、その笑い方は
僕を馬鹿にしているものではなかった。
むしろ、
少し嬉しそうだった。
「会ったばっかりなのに?」
「そうなんだよ」
僕自身、
そのことが
おかしいと思っていた。
「何時間も一緒にいて、
家帰ったらまた顔見たくなるし、
何してるんだろうって考えるし、
電話したくなる。
でも、それを毎回やってたら
自分でもおかしいだろって思うから、
仕事してる」
キミはしばらく
黙っていたあと、
小さな声で言った。
「だから最近、
すぐ帰ってたの?」
「たぶん」
そこまで言ってから、
僕は少し違うと思った。
「いや、たぶんだけじゃないな。
会ったあとがつらいから、
会いすぎないようにしてたんだと思う」
キミは呆れたような顔をした。
「何それ」
「僕もそう思うよ」
「好きすぎるから
会わないってこと?」
「言い方が嫌だな」
「でもそうじゃん」
僕は否定できなかった。
キミは少し笑ったあと、
また真面目な顔へ戻った。
「でも、いなくなるって、
私がどこか行っちゃうってこと?」
僕は
そこで言葉に詰まった。
別れることを
想像したことはある。
他の男を
好きになる可能性だって、
ないとは言えない。
それだけでも
十分嫌だった。
でも、
胸の奥で反応しているものは、
それより少し違っていた。
「前に言っただろ」
「何を?」
「僕がキミを信じて、
それでキミがいなくなったら、
僕はどうすればいいんだよって」
キミはしばらく
思い出すような顔をしてから、
静かに頷いた。
「あのとき、
自分でも何言ってるのか
よく分かってなかった」
「今は分かる?」
「少しだけ」
僕はキミの手を見た。
そこにある。
握れば温かい。
でも、
それが永遠に
そこにある保証は
どこにもない。
「別れるとか、
他の男を好きになるとか、
それももちろん嫌だよ。
でも、たぶん僕が一番怖いのは、
それだけじゃない」
僕はそこで
一度息を吸った。
「キミが消えるのが
怖いんだと思う」
キミは何も言わなかった。
「手を伸ばしても
届かなくなることが怖い。
会いたいと思っても、
もう会えないところに
行ってしまうことが
怖いんだと思う」
口にしてみると
ずいぶん
大げさなことを
言っているようにも聞こえた。
キミはいま
健康に僕の隣へ座っている。
明日の予定だってある。
それなのに、
そんな未来を恐れている自分を、
僕は少し滑稽だと思った。
ただ、
身体は笑ってくれなかった。
胸の奥がまたゆっくり締まった。
「だから、
好きになるのが嫌なの?」
キミが聞いた。
「嫌じゃない」
それだけはすぐに
答えられた。
「好きなのは嫌じゃない。
でも、大切になればなるほど、
失うものが大きくなるだろ」
キミは少し考えたあと、
僕の手を握り直した。
「それでも、
もう好きなんでしょ」
その言い方が
あまりにも
当たり前だったので、
僕は返事に困った。
たしかに、
もう遅かった。
第十五章 僕は静かな人間ではない
自分は感情的な
人間ではないと思っていた。
何か嫌なことがあっても、
その場で感情をぶつけるより、
一度自分の中で
整理してから
話した方がいいと
思ってきたし、
嫉妬や不安を
そのまま相手へ渡すことを、
僕はあまり
格好いいとは思わなかった。
だから、
会いたくても毎回は言わず、
嫉妬しても黙り、
帰りたくない夜にも
仕事を理由に立ち上がった。
それを僕は、
大人としての節度や、
相手への
優しさなのだと思っていた。
たしかに、
その部分はあったのだと思う。
僕はキミの仕事を
邪魔したくなかったし、
僕の不安を理由に
キミの世界を狭くしたくもなかった。
でも、
それだけではなかった。
自分の中にある感情を
全部認めてしまえば、
自分がどれほど
キミを必要としているのかまで
認めなければならなくなる。
僕が見ないようにしていたのは、
キミの自由を守るためだけではなく、
自分自身を守るためでもあった。
僕は静かな
人間だったのではない。
静かなふりをすることに
慣れていただけだった。
内側では、
僕が思っていたより
ずっと騒がしかった。
キミが店にいれば
会いに行きたいと思い、
会えば帰りたくないと思い、
帰ればまた会いたくなる。
キミが誰かに笑えば、
僕以外にもそういう
顔をするのだと思って
面白くなくなり、
それでも店なの
だから当然だと
自分をなだめる。
好きだと言いたいのに、
何度も言えば
価値が薄くなるような
気がして黙り、
もっと僕を見てほしいと思う
自分が現れれば、
それは相手を
束縛する感情だと奥へ押し戻す。
僕はそれらを、
僕ではないことにしていた。
冷静で、
合理的で、
女性との距離を
分かっていて、
一人でも平気な楠瀬一という
人物像に合わない感情は、
ノイズのように扱っていた。
でも、
そのノイズだと
思っていたものの方が、
むしろ一次情報
だったのかもしれない。
マーケティングで
顧客を理解するとき、
都合のいいデータだけを拾って、
仮説に合わない
反応をノイズとして捨てれば、
当然ながら現実から離れていく。
僕は自分自身について、
それをやっていた。
過去の行動や
周囲の評価から作った
「楠瀬一」というペルソナに
合うものだけを採用し、
そこから外れる
感情を無視していた。
その結果、
僕自身が
本人不在になっていた。
そう考えると、
恋愛と仕事が別々の
問題には思えなくなった。
仕事では、
本人のいない
顧客像を作り続けた。
恋愛では、
本人のいない
自分像を守り続けた。
どちらにも共通していたのは、
現実よりも
推定の方を
信じたことだった。
そして現実というものは、
たいてい推定より
不格好だった。
僕は思っていたより
嫉妬深い。
思っていたより
寂しがりで、
思っていたより人を欲しがる。
好きな相手と
一緒にいるだけで
幸福になり、
その幸福がなくなると
胸まで苦しくなる程度には、
人間らしく面倒だった。
それを格好悪いと
思って隠した結果、
キミには
「私ばっかり好きみたい」
と思わせた。
僕が優しさだと思っていたものが、
相手には
愛情の少なさとして伝わっていた。
伝えたものではなく、
伝わったものが
相手にとっての情報になる。
それは仕事で
何度も考えてきたことだった。
なのに僕は、
自分の恋愛ではまる
でできていなかった。
第十六章 外部反応のない僕
僕はずっと、
人から返ってくる
反応によって
自分を理解してきた。
売れれば
仕事のできる人間になり、
売れなくなれば
自分の価値まで分からなくなった。
誰かに
必要とされれば安心し、
必要とされなくなれば、
自分がそこにいる
理由を探した。
若いころの彼女が
僕を求めれば、
自分は彼女を安心させられる
存在なのだと思ったし、
キミが店を開けてくれれば、
僕はここにいてもいい人間
なのかもしれないと思った。
それは
悪いことばかりではない。
人は自分一人だけで
自分を知ることなどできないし、
他者の反応によって
初めて気づく自分も確かにいる。
ただ、
それだけでは
足りなかった。
外から反応が
返ってこなければ、
自分が消えてしまうような構造では、
誰かが離れるたびに
僕の輪郭まで薄くなる。
仕事が減り、
人との接点が減った数年間、
僕が自分を見失っていた理由も、
そこにあったのかもしれない。
外部反応が減ったから、
自分を推定するための
材料までなくなった。
そこで僕は、
さらに考えた。
もっとコンテンツを作り、
もっと分析し、
もっと精密に顧客を
想像すれば、
再び反応が返ってくると思った。
けれども、
その推定をしている
僕自身がどこにもいなかった。
僕は僕を定義したことがない。
その言葉が、
もう一度戻ってきた。
では、
自分を定義するとは
何なのだろう。
僕はマーケターですとか
僕は写真を撮りますとか。
文章を書きます。
広告も作れます。
そんな職能を
並べることではないと思った。
優しい人間ですとか、
冷静な人間ですとか、
自分に都合のいい形容詞を
貼り付けることでもない。
たぶん、
自分の中で起きていることを、
外からどう評価されるかより先に、
自分自身のものとして
引き受けることなのだと思う。
僕はいまキミと
一緒にいたい。
それをキミが
喜ぶかどうかは、
そのあとにある。
僕はキミに会いたい。
その感情が重いか
軽いかを決める前に、
まずそれが僕の中に
存在している。
僕はキミが好きだ。
それを言ったことでキミが僕を選んでくれるかどうかとは別に、僕がそう思っている。
考えてみれば、
ずいぶん簡単なことだった。
それなのに僕は、
その簡単なことに
外部からの証明を
要求し続けていた。
第十七章 僕がキミと、ここにいたいと思っていること
店の時計を見ると、
ずいぶん遅い時間になっていた。
「はじめちゃん、
明日仕事あるんでしょ」
キミが言った。
「あるよ」
「帰る?」
いつもなら、
その問いに対して
仕事の予定を考え、
明日の起床時間を考え、
ここから家までの
時間を計算して、
帰る理由を
いくつも並べていたと思う。
そのどれも間違いではない。
今日だって、
本当なら帰った方がいい。
それでも、
僕は自分がいま
何を望んでいるのかを先に見てみた。
帰りたくなかった。
もう少しキミの隣にいたかった。
明日になれば
また会える可能性があるとか、
恋人なのだから次があるとか、
そういう未来の保証ではなく、
今ここにいたいと思っていた。
「今日は帰りたくない」
僕が言うと、キミは少し驚いた顔をした。
「珍しいね」
「僕もそう思う」
「仕事は?」
「あるって」
「じゃあ帰った方がいいじゃん」
「そうなんだけど」
僕は笑った。
「今日は僕がここにいたい」
キミはしばらく
僕を見たあと、
何も言わずに
少し身体を横へずらし、
自分の隣に
僕が座れる場所を作った。
僕はそこに座った。
たったそれだけのことだった。
誰かに褒められるような決断でもなく、
人生を変えるほどの選択でもない。
ただ僕が、
自分の欲求を
自分のものとして扱った。
それだけだった。
でも、僕にはそれが少し
新しかった。
終章 僕がそう思っている
しばらくして、
キミが僕の肩に頭を乗せた。
「はじめちゃん」
「何?」
「私のこと、
そんなに好きだったんだね」
少し嬉しそうに言うので、
僕は腹が立った。
「調子に乗るなよ」
「だって、会ったあと
苦しくなるくらいなんでしょ」
「言わなきゃよかった」
「私は嬉しいけど」
「キミはね」
僕がそう言うと
キミは笑った。
以前の僕なら、
その笑った顔を見て
安心したのだと思う。
僕が好きだと言った。
キミが喜んだ。
だからこの感情は正しい。
そうやって、また外から
返ってきた反応によって
自分を確定しようとした
のかもしれない。
でも、その夜は少し違った。
キミが笑わなくても、
たぶん僕は同じことを思っていた。
「好きだよ」
僕が言うと、
キミは顔を上げた。
「知ってる」
その返事を聞いて、
僕は少し考えた。
「違うんだよ」
「何が?」
「キミが僕を好きだからじゃない」
キミは黙った。
「キミが会いたいって
言ってくれるからでもないし、
店を開けてくれるからでもない。
僕が何かしたら
喜んでくれるからでもない」
自分で言いながら
それはずいぶん
当たり前のことだと思った。
でも、僕には
その当たり前が必要だった。
「僕がそう思ってるから、
僕はキミが好きなんだよ」
キミはしばらく
僕を見ていた。
それから、
また僕の肩に頭を戻した。
外から何も返ってこなくても
存在するものが、
自分の中にもあるらしい。
僕が何者なのかは、
まだよく分からない。
自分を一つの言葉で
定義できるとも思わないし、
そんな必要があるのかも分からない。
それでも、自分の中に出てきたものを、
外の反応によって許可される前に、
自分のものとして
受け取ることならできる。
僕はキミが好きだった。
その感情を持っている
僕も僕だった。
閉店後の店には僕たち以外、
誰もいなかった。
外から見れば、
もう営業を終えた
暗い店だったと思う。
それでも店の奥では、
まだ灯りが点いていた。
僕はその灯りの下で
キミの体温を感じながら、
今日はもう少し
ここにいたいと思った。
今度は、
その理由を
どこにも探さなかった。
前回の話は下記。
全話一覧は下記
この小説を書いた人|齋藤寿修(さいとうひさのり)お問合せ

合同会社De poulet代表。Nich ideaを運営し、マーケティング調査、地域集客、SEO、コピーライティング、写真撮影、デザイン、Web制作などを、事業と市場をつなぐために一貫して行っています。
「キミと僕と心の利益率」のように、世界感を作って、プロモーションなどに繋げていく方法は案外とどこに依頼すれば良いか分かりません。
着想もいくらAIがあっても、AIが着想を出してくれるわけでもありません。あなた自身の世界感、カフェ店舗などの着想、ストーリーライティング、など世界観から構築までご相談を承っております。
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