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第1話:キミの店が、誰かに見つかるまで | キミと僕と心の利益率

    ※小説タイトル「キミと僕と心の利益率」の1話目。マーケティング概念と創作を合わせて、恋愛小説エンタメとしてストーリーで読める形式にしました。通常の恋愛小説として読んで頂いても楽しめるように工夫しました。

    マーケティング理解促進のための実験的作品ですので読み方GuideをPDFで参照して頂けるようにしました。→ https://nich-idea.com/kimikoiguide

    第4話公開:今度は「キミ」から見た世界です。
    1〜3話で楠瀬が推定していた彼女の気持ちは、本当はどうだったのか。キミの気持ちも名前も明らかになります。

    あらすじ 小説タイトル 「キミと僕と心の利益率」1:キミの店が誰かに見つかるまで

    売れない店を抱える彼女と、売れなくなったマーケターの僕。
    閉店後の店で酒を飲み、くだらない話をして、ときには朝近くまで彼女の店をどうしたらいいのか一緒に考えた。

    やがて、僕たちが作った広告から一人目の客が来た。
    二人、三人と増え、いつしか彼女の店は予約を断るほどになっていく。

    僕が望んでいたはずの景色だった。
    マーケティングの成功。店舗集客の成功。

    なのに。

    2話目も公開しています



    第一章 キミは、自分で何かできる人になりたかった

    「私、自分で何かできる人になりたいんだよね」

    キミがそう言ったのは、まだ店を始める前だった。

    その頃の僕は、その言葉がどれほどキミにとって切実なものだったのか、たぶん分かっていなかった。

    「いいじゃん。やれば」

    ずいぶん簡単に答えた気がする。

    キミは昔から、ときどき自分のことを何もできない人間みたいに話した。

    「私なんてさ」

    という言葉をよく使った。

    僕は、その言い方があまり好きではなかった。

    本当に何もできない人間なら、自分には何ができるのだろうなんて、そんなに悩まないような気がしていたからだ。

    キミが欲しかったのは、たぶん店そのものではなかった。

    誰かに与えられた役割ではなく、自分で決めて、自分で責任を負って、自分の力でお金を稼いだと言える何かが欲しかったのだと思う。

    失敗したっていいし、怖くてもいい。

    それでも、自分で選んだ人生が一つくらい欲しい。

    そんなことをキミは話した。

    そして、本当に店を始めた。

    小さなカフェだった。

    大通りから少し外れた場所にあり、知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうな店だった。

    目の前まで行けば何のお店かは分かるけれども、注視していない限りは風景の中に溶け込んでしまうような、そんな店だった。

    雰囲気はすごく良かった。

    出来上がったばかりの店を見せてくれたときのキミは楽しそうだった。

    カップを選び、家具を選び、棚の位置を考え、壁の色を決めた。

    「ここ、もう少し照明暗くしようかな」

    「こっちの方が写真にはきれいだと思うよ」

    「また仕事みたいなこと言ってる」

    「職業病なんだろうね」

    キミは笑った。

    僕の名前は楠瀬一という。

    僕がマーケティングの仕事をしていることを、キミは昔から知っていた。

    文章を書いて、広告コピーを書いて、ストーリーを作り、必要な写真やイラストなどの素材を作り、WEBサイトを作る。

    そして、商品や店をどうやって人に知ってもらい、どうやって選んでもらうかを考える。

    でも、結局のところすごく分かりづらい仕事でね。

    「楠瀬さんって、結局何屋なの?」

    と聞かれたことがある。

    「何でも屋」

    「一番信用できないやつじゃん」

    そんなことを言って笑っていた。

    店を始めたキミを見ても、僕は仕事として口を出そうとは思わなかった。

    キミの店だったからだ。

    キミが作りたいものを作ればいいと思っていた。

    何より、その頃の僕たちはまだ、長く知っている者同士というだけだった。

    少なくとも僕は、そう思っていた。


    第二章 楠瀬さんだったら、いいよ

    開店してしばらくしてから、僕は何度か客として店へ行った。

    僕は仕事を終えるのが遅かったから、いつも時間はぎりぎりだった。

    閉店時間まであと三十分。

    十五分。

    ひどいときには、もう片付けを始めている時間に扉を開けた。

    ある夜もそうだった。

    キミはカウンターの中で食器を片付けていた。

    「あ、ごめん。もう閉める?」

    「うん。閉めようと思ってた」

    「じゃあ帰るよ」

    そう言って僕が扉へ戻ろうとすると、

    「いいよ」

    とキミが言った。

    振り返った。

    「楠瀬さんだったら、いいよ。でも、閉まりそうな前に連絡してくれたら開けておくから」

    その言葉が、妙に嬉しかった。

    もちろん、その頃の僕は、自分が特別扱いされているなんて思っていなかった。

    閉店しようとしている人を引き止めているのだから、ごめんねとも思った。

    これを当然のことにしてはいけないとも思った。

    親しき中にも礼儀ありというやつだ。

    それでも、自分の名前を呼んでくれる人がいて、僕が来たことを嫌がらずに笑ってくれる人がいる。

    そのことは、その頃の僕には思っていた以上に安心できることだった。

    仕事をしても反応がない。

    何かを作っても誰にも届かない。

    そんな日が続いていると、自分だけが世界から少しずつ消えていくような気分になることがある。

    でも、ここへ来ればキミが僕の名前を呼んだ。

    僕が来れば、そこに僕を認識してくれる人がいた。

    それだけで、まだ僕は誰かとつながっているような気がした。

    僕はまた椅子に座った。

    店に客はもういなかった。

    看板が中へしまわれ、入口の札がCLOSEに変わった。

    外から見れば、一日を終えた店だった。

    それでも僕だけが残っていた。

    最初の頃は、コーヒーを飲んだ。

    たまに何か食べた。

    店が始まったばかりで売上も大したことがないのを知っていたから、僕はなるべく高いものを頼むようにしていた。

    でも、一人で食べられる量なんてたいしたことはない。

    ある夜、僕が何となく、

    「ワインでもあれば売上貢献に飲むんだけどな」

    と言った。

    キミは、

    「うち、カフェなんだけど」

    と笑った。

    「知ってる」

    それだけの話だった。

    ところが次に行ったとき、棚にワインが一本置かれていた。

    「あれ、酒なんて置き始めたの?」

    「飾り」

    「へえ」

    僕はそれ以上聞かなかった。

    前に僕が言ったから用意したのだろうとは思った。

    でも、それを「僕のため」と考えるほど僕は単純でもなかった。

    店をやっているのだから、客が頼みそうなものを置くのは普通だ。

    僕は比較的単価の高い客でもあったし、閉店後まで相手をしてもらうのだから、そのくらいは手間賃のようなものかもしれないと思った。

    それでも、お金を支払えば何でも特別になるわけではないことも、僕はよく知っていた。

    だから、まんざらでもなかった。

    その日の閉店後、キミはそのワインを出してきた。

    「飲む?」

    「飾りじゃなかったの?」

    「飾りだけど、飲めるよ」

    妙な理屈だった。

    一本頼んだ。

    「12800円だよ」

    と言って笑った。

    そして、キミはグラスを二つ出した。

    「何で二つ?」

    「一人で一本飲むの?」

    「そのつもりだけど」

    「やめなよ。というか私が付き合ってあげる」

    そう言って、自分のグラスにも少し注いだ。

    僕は少し戸惑った。

    一緒に飲むということは、キミはこのあともしばらく僕とここにいるつもりなのだろうか。

    まだ僕と会話をしてくれるつもりなのだろうか。

    そんなことを考えた。

    別に大したことではない。

    酒を一杯、一緒に飲むだけだ。

    それでも僕は、もう少しここにいていいのだと思うと内心では嬉しかった。

    そして、それ以上にほっとしていた。

    自宅へ帰れば、また一人になる。

    パソコンを開いて、数字を見て、何が悪いのか分からないままページを直して、また反応がないことを確認する。

    そんな時間に戻るまで、少しだけ猶予ができたような気がした。

    そのときの僕は、まだそれを恋愛とは思っていなかった。

    ただ、キミと話している時間が好きだった。

    それからだった。

    僕が、

    「ウイスキーも好きだけど」

    と言えば、しばらくして棚に小さなボトルが増えた。

    コーヒーにリキュールを入れることがあると言えば、それも増えた。

    カフェなのに、いつの間にかカウンターの後ろには何本か酒が並ぶようになった。

    昼間に来る客から見れば、雰囲気づくりのためのインテリアに見えただろう。

    実際、キミもそういう顔をして置いていた。

    けれど僕は、何となく気づいていた。

    あれは、ほとんど僕の酒だった。

    メニューにはない。

    値段も決まっていない。

    キミの言い値だった。

    僕が来た夜にだけ、キミが棚から取る。

    「また増えてるじゃん」

    ある夜、棚を見ながら言った。

    「飾りだよ」

    「カフェにウイスキーか」

    「おしゃれじゃん」

    「本当に?」

    「しつこいなあ」

    キミは笑った。

    僕も笑った。

    そのときの僕はまだ、これを恋愛的な特別扱いだなんて思っていなかった。

    客商売なら、よく来る客の好みくらい覚える。

    単価の高い客なら、なおさらだ。

    でも、それでもよかった。

    少なくとも、僕のために何かが一つ増えた。

    僕の言ったことを覚えていてくれた人がいた。

    それだけで、心の奥がほんの少し暖かくなった。


    第三章 客ではなくなっていった夜

    閉店間際に行くことが増えた。

    キミは、

    「またぎりぎり」

    と呆れた顔をした。

    それでも、

    「もう閉めるけど、どうする?」

    と聞いた。

    僕が、

    「帰ろうか?」

    と言うと、

    「帰るの?」

    と言った。

    だから残った。

    いつしか、閉店後の店で二人で飲むことが当たり前になった。

    僕は少し高いワインを頼んだ。

    キミの売上になればいいと思っていた。

    若い頃から客商売を見てきた僕は、長く付き合っている客や、よく金を使う客が少し特別に扱われることくらい知っていた。

    だから、それをそのまま恋愛だとは思わなかった。

    僕自身、喋ってくれる人がいることにすごく安心していた。

    やってもやっても売れない。

    自分でやっている広告が当たらないマーケターは、少しずつ心が腐っていく。

    数字を見れば、自分が否定されているような気がする。

    記事を書いても何も起きない。

    サービスを作っても問い合わせは来ない。

    自分だけが、一人で世界の外側にいるような気持ちになる。

    お金の不安も強くなっていた。

    それに、僕は恋愛だと思うほど、そんなに純粋でもなかった。

    店をやっていれば、客に居心地よく過ごしてもらう必要がある。

    名前を覚えるし、好みも覚える。

    ときには融通を利かせることもある。

    「自分だけは少し特別なのかもしれない」

    そう思わせることだって、商売の中にはある。

    僕は、それを知っていた。

    だから自分から特別だと思い込むつもりはなかった。

    でも、お金を払っているからといって、誰かが自分と長い時間を過ごしてくれることが当然になるわけでもない。

    そんなことも分かっていた。

    それでも、メニューにはないコーヒーを出された夜は少し嬉しかった。

    一口飲むと、甘い香りがした。

    「これ何?」

    「コーヒー」

    「それは分かるよ」

    「ちょっとリキュール入れた」

    「メニューにないよね」

    「ないよ」

    「じゃあ何これ」

    キミは少し考えて、

    「楠瀬さん用」

    と言った。

    「そんな適当なメニューある?」

    「おいしいでしょ」

    僕は笑った。

    その頃にはもう、自分を客だと思わなくなっていた。

    でも、友達とも違う。

    もちろん恋人でもない。

    僕たちが何なのかと聞かれたら、答えられなかった。

    ただ、キミが確かに特別に見えていた。

    営業を終えた店で二人だけになっている時間は、昼間のこの店とは違う場所だった。

    そこでは僕は、売れないマーケターであることを少しだけ忘れられた。

    名前を呼ばれる。

    くだらない話をする。

    酒を飲む。

    キミが笑う。

    自宅に帰れば、また無能感や虚無が待っている。

    だから僕は、その場所が好きだった。


    第四章 店主になったキミと売上不振

    最初の頃、キミは店の話を楽しそうにしていた。

    「今日、一人しか来なかった」

    「平日?」

    「うん」

    「最初はそんなものじゃない?」

    「慰めはいらない」

    「慰めじゃないよ」

    「じゃあ何」

    「事実」

    「もっと嫌だ」

    そんなことを言って、まだ笑っていた。

    でも、一か月、二か月と過ぎるうちに、その笑い方が少しずつ変わった。

    Instagramを更新した。

    写真を載せた。

    キャンペーンも考えた。

    営業時間も変えた。

    料金も悩んだ。

    Googleの口コミを何度も見ていた。

    それでも思ったように人は来なかった。

    さらに、店が少しずつ形になってくると、今度は人を雇うようになった。

    キミは一人の女性から、店主になった。

    そして、そのことが思っていた以上にキミを疲れさせた。

    「スタッフって難しいね」

    ある夜、キミが言った。

    「人間だからね」

    「そういうことじゃなくて」

    「じゃあ何」

    「一個変になると、全部変になるじゃん」

    誰かと誰かの関係がこじれる。

    店主として注意すると強く聞こえる。

    何も言わなければ、何も考えていないと言われる。

    誰か一人に気を遣えば、別の誰かが面白くない。

    キミは自分の店なのに、自分の言葉を選ぶようになった。

    「疲れるね」

    僕が言うと、

    「楠瀬さんは、よくずっとやってきたね」

    と言った。

    その頃から、キミは僕の仕事のことを以前より聞くようになった。

    「本当はさ」

    ある夜、キミが言った。

    「こういうとき、楠瀬さんに頼むんでしょ?」

    「何を?」

    「集客とか、マーケティングとか」

    「ああ、そうね」

    「それ仕事でしょ?」

    「仕事だね。のらマーケターだからあまり依頼されないけどね」

    「しかも、楠瀬さんの料金表見たら高いもんね」

    僕は笑った。

    「知ってる。高すぎるのかな」

    それで話は終わった。

    僕から仕事を売り込むことはしなかった。

    一つには、本当に安くなかったからだ。

    そして、もう一つ。

    僕は、この関係を仕事にしたくなかった。

    見積書を出せば、僕はマーケターになり、キミはクライアントになる。

    打ち合わせをして、納品をして、請求書を出す。

    それはたぶん正しい。

    でも、閉店後に二人で飲む理由は少しずつなくなる。

    僕は、それが嫌だったのだと思う。

    僕は長い間、何かを差し出すことで人との関係を整えてきた。

    仕事をする。

    金を払う。

    相手の時間には対価を出す。

    迷惑にならないようにする。

    そういうやり方は分かりやすかったし、僕なりにスマートだと思っていた。

    でも、この店での時間だけは、できれば値段をつけたくなかった。

    あと、もう一つ理由があった。

    最近の僕が書く広告文も、ストーリーも、LPも、僕は一生懸命やっているつもりだったけれども当たっていなかった。

    僕は、人の店を救えると言い切れるほど、自分を信じられなくなっていた。

    もう、僕が僕を信じられていなかったんだ。


    第五章 つまり僕も事業として終わりかけていた

    キミのことばかり気にしていられるほど、僕にも余裕はなかった。

    僕自身の事業も悪くなっていた。

    少し若い頃、僕は商売でうまくいった。

    友人三人から始めた会社で、僕は知らぬ間にマーケティング担当になった。

    自分でも驚くような数字が出た。

    だからどこかで、僕は何とかできる人間なのだと思っていた。

    マーケティングを仕事にしている。

    売り方を考えるのが仕事なのだから、自分が売れなくなることなんてないと、心のどこかでは思っていたのかもしれない。

    複数パターンの切り口を用意して、それを出して、SEOをかけて、コンテンツを面で対応させるようにすれば、少なくとも獲得できると思っていた。

    でも、そんな都合のいい話はなかった。

    何を作っても、大きく当たらなくなった。

    記事を書いた。

    サービスを作った。

    広告を出した。

    写真を変えた。

    ページを直した。

    タイトルを変えた。

    また数字を見た。

    それでも売れない。

    問い合わせが来ない。

    売上が落ちる。

    貯金も減った。

    マーケティングを仕事にしている人間が、自分自身のマーケティングに失敗していた。

    それが、たまらなく格好悪かった。

    価値があると言われても、キャッシュがなければ事業は死ぬ。

    どれだけ良いものを作ったつもりでも、反応がなければ市場では何も起こらない。

    僕はそれを知りすぎていた。

    だから、「あなたには価値がある」みたいな言葉を聞いても、どこかできれいごとのように思えてしまうことがあった。

    反応がない。

    売れない。

    誰も来ない。

    それが続くと、自分がここに存在していないような気さえした。

    夜中までパソコンを見ていると、文字も数字も全部同じものに見えてくる日があった。

    そういうときはベランダへ出た。

    夜の街を眺めながら、

    「もう終わりなのかな。この部屋も、もう終わりかな。カメラも売らないといけないのかな」

    と一人で言った。

    何度も言った。

    それでも朝になれば、またパソコンを開いた。

    ほかにやることがなかった。

    そんな僕にとって、キミの店は少し不思議な場所だった。

    自分の仕事のことを忘れられた。

    ある夜、店でもパソコンを開いている僕を見て、

    「また仕事してる」

    とキミが言った。

    「仕事だから」

    「ずっと仕事じゃん」

    「そうしないと終わるから」

    「何が?」

    「いろいろ」

    僕は笑った。

    キミは、それ以上聞かなかった。

    ある日は、

    「ご飯食べた?」

    と聞いた。

    「食べてない」

    「また?」

    「忘れてた」

    「ねえ馬鹿なの?」

    そう言って、店に残っていたものを適当に出してくれた。

    客には出さないようなものだった。

    それが妙においしかった。

    僕は精神的なストレスが強くなると、腹が減らなくなる。

    食べなくても平気になるわけではない。

    空腹という感覚そのものが、頭の中から抜け落ちる。

    その日も、食事をしていないこと自体を何とも思っていなかった。

    パソコンに向かって、数字を見て、文章を直して、また数字を見る。

    売れない。

    問い合わせもない。

    貯金だけが減っていく。

    虚無とか、孤独とか、恐怖とか、そんなものを全部考えないようにしながら手だけを動かしていたら、食事をしたかどうかなんてどうでもよくなっていた。

    でも、キミに言われて何かを口に入れた瞬間、それまで感じていなかった疲労が急に身体へ戻ってきた。

    肩も重かった。

    目の奥も痛かった。

    ずっと力を入れていたことに、力を抜いてから気づいた。

    僕はそのとき、自分がずいぶん疲れていたことを知った。


    第六章 ヴーヴ・イエローの夜

    その夜、僕が店へ行くと、キミは最初から少し機嫌がよかった。

    「遅い」

    「閉店前だろ」

    「今日はもう誰も来ないと思ってたから閉めようとしてた」

    「じゃあ帰るよ」

    「そういうこと言ってないじゃん」

    いつもの席に座った。

    「今日は何飲む?」

    「何でもいい」

    「一番困る答え」

    「じゃあ酒」

    「うちカフェなんだけど」

    「最近説得力ないよ、それ」

    僕は棚を見た。

    いつの間にか、結構な数のボトルが並んでいた。

    ワインも、ウイスキーも、リキュールもある。

    昼間には雰囲気のいいカフェの飾りとして収まっている。

    でも僕が来ると、そのうちのどれかがテーブルへ移動する。

    キミは棚を眺め、一本のボトルを取った。

    「今日はこれにする?」

    黄色いラベルだった。

    「ヴーヴ?」

    「うん」

    「こんなのまで置き始めたの?」

    「飾り」

    「高級な飾りだな」

    「おしゃれでしょ」

    「本当に?」

    キミは少し笑った。

    「そういうことにしとけば?」

    僕は、それ以上聞けなかった。

    僕もヴーヴは好きだ。

    女性が広めた最高のメゾン。

    マーケターとしてあやかりたいものだ。

    キミはヴーヴ・クリコのイエローラベルを開けた。

    小さな音がして、泡がグラスの中を上っていった。

    もちろん、グラスは二つだった。

    「乾杯」

    「何に?」

    「知らない」

    「理由ないの?」

    「なくていいじゃん」

    グラスを合わせた。

    キミはいつもより速く飲んだ。

    二杯目を飲み終える頃には、頬が赤くなっていた。

    「ちょっと速くない?」

    「いいの」

    「明日も店だろ」

    「店主だから多少二日酔いでも怒られない」

    「客には怒られるよ」

    「そのとき考える」

    しばらくして、スタッフの話になった。

    「最近さ」

    「うん」

    「店にいるの嫌なときあるんだよね」

    僕はキミを見た。

    「自分の店なのに?」

    「うん」

    キミはグラスの脚を指で回していた。

    「スタッフとうまくいかなくなってさ。最初はそんなつもりじゃなかったんだけど、何か一個こじれると、全部変になるじゃん」

    「あるね」

    「こっちが何か言うと、店主だから強く聞こえるし。黙ってたら、今度は何も言ってくれないって言われるし」

    「経営者ってそんなものだよ」

    「嫌な仕事だね」

    「今さら?」

    「今さら」

    キミは笑った。

    でも、疲れた笑い方だった。

    少し沈黙してから、キミが言った。

    「自分で会社やったり、店やったりしてる友達なんて、私いないんだよ」

    「そうなの?」

    「いない」

    また飲んだ。

    「だからさ、言えないこといっぱいあるんだ」

    僕は黙っていた。

    「スタッフのこととか、売上のこととか、怖いとか、辞めたいとか。普通の友達に言ったって困るじゃん」

    「答えようがないこともあるかもね」

    「別に答えてほしいわけじゃないんだけどさ」

    「うん」

    「でも、分かってほしいじゃん」

    その言葉だけ、少し小さかった。

    「楠瀬さんだったら分かるでしょ」

    「多少は」

    「多少じゃないよ」

    「何で」

    「だって楠瀬さん、ずっと頑張ってたんでしょ。会社大きくしたんでしょ。今は二つ目の会社でしょ」

    不意にそう言われ、僕は返事に困った。

    「何、その急な評価。でも、一つ目は仲間割れもしたし、売上もダメになった。だから潰れた。で、今のマーケティング専門の会社をひとりでやっているんだよ」

    「すごいことじゃない」

    キミは僕を見た。

    「私は努力なんてしてこなかった人間だから、何も分からないんだよ」

    その言い方に、胸の奥が少し軋んだ。

    「そんなことないでしょ」

    「何が?」

    「自分は何もしてこなかったってやつ」

    「だって本当だもん」

    「本当に何もしてこなかった人が店なんか始めないよ」

    キミは黙った。

    「人雇って、給料払って、売上気にして、お客様のこと考えて、夜になっても店のこと考えてるんだろ。それを努力してないって言うなら、努力って何なんだよ」

    「楠瀬さん、酔ってないのに熱いね」

    「いや、キミが……」

    キミは笑った。

    でも、しばらくしてまた静かになった。

    「でもね」

    「うん」

    「最近、自分の店舗なのに、自分の居場所じゃないみたいなんだよ」

    今度は僕も、すぐには何も言えなかった。

    「私が作った店なのにさ。スタッフがいるとずっと気を使ってる。店主だからちゃんとしなくちゃとか、変なこと言っちゃ駄目とか、誰かだけ特別にしちゃ駄目とか」

    グラスを置いた。

    「もっと自由にできると思ってたんだよ。自分のお店なんだから。でも全然そうじゃなかった」

    「そうだね」

    「私がお金出して、私がリスク負って作った場所なのにさ。スタッフに気を使ってると、たまに誰の店なんだろって思う」

    僕は黙って聞いていた。

    「一人になったらなったで、今日も売上これだけかって思うし」

    「うん」

    「何のために作ったんだろって思う」

    僕は聞いた。

    「自分の場所が欲しかったんじゃなかった?」

    「そう」

    キミは小さく笑った。

    「そうなんだよ」

    それから僕を見た。

    酔った目だった。

    「でもね」

    少し間があった。

    「楠瀬さんが来てくれると、あたしの場所なんだって思うんだ。こんなふうに店舗を私物化できるのはオーナーの私の特権でしょ」

    僕は一瞬、どうしてだろうと思った。

    僕がいることで、なぜキミが自分の場所だと思えるのか。

    でも、たぶん少しだけ分かった。

    僕はここを、自分の場所のようには扱わなかった。

    どれだけ閉店後に酒を飲んでも、どれだけ親しくなっても、ここがキミの店だということは忘れなかった。

    勝手に何かを決めることもなかったし、僕がこの場所を所有しているような顔をしたこともなかった。

    キミが作った店で、キミが頑張っている。

    僕はそれを見ていた。

    もしかすると、それがキミには必要だったのかもしれない。

    「キミにそう言って貰えてうれしいよ。ありがとう。確かにオーナーの特権だね」

    「そう。いつも嬉しいんだ。ほっとするんだ」

    と言ってから、キミは何かに気づいたようだった。

    僕も、あっ、と思った。

    「もしかして酔ってる?」

    「酔ってるよ」

    とキミは言った。

    「結構酔ってるね」

    と僕も少し気まずい声で言った。

    「だから言えるんじゃん」

    キミは笑った。

    「本当は、こんなこと言っちゃ駄目なんだけどね」

    「何で?」

    「だって楠瀬さん、お客さんでもあるし」

    「僕、もうあんまり客のつもりないけど」

    「知ってる」

    「知ってるんだ」

    キミはカウンターの後ろを見た。

    「あのさ」

    「うん」

    「普通のお客さんのために、酒なんて置かないよ」

    僕も棚を見た。

    ワイン。

    ウイスキー。

    リキュール。

    そして、いま目の前にある黄色いラベルのシャンパン。

    「わざわざ用意してくれたんだ」

    「今さら?」

    胸が少し鳴った。

    自分でも分かっていたはずなのに、キミ自身から言われると意味が変わった。

    僕はそれまで、単価の高い客だからだと思おうとしていた。

    閉店後まで相手をしてもらう手間賃のようなものだとも思っていた。

    自分から「僕は特別なんだ」なんて、思い上がるつもりはなかった。

    でも、キミが自分で「普通のお客さんのためには置かない」と言った。

    それは僕にとって、思っていたより嬉しかった。

    「じゃあ、あれ全部?」

    「全部じゃない」

    「ほとんど?」

    「う~ん。まあ単価も高いから」

    何かをごまかすかのように、キミは残りを飲んだ。

    「ほら、もうやめなよ」

    「まだあるじゃん」

    「また今度飲めばいい」

    キミは少し考え、それから妙に真剣な顔をした。

    「じゃあ今度は、クリュッグにケーキ持ってきて」

    「何で僕がケーキまで持ってくるんだよ」

    「いいじゃない」

    「何のお祝い?」

    「分かんない」

    「意味ないじゃん」

    キミは笑った。

    「何かのお祝いにすればいいじゃん」

    「例えば?」

    「じゃあ、私が今日まで店辞めなかったお祝い」

    その言葉だけは、僕は笑えなかった。

    「それなら買ってくるよ」

    「本当?」

    「ケーキはね」

    「クリュッグは?」

    「……」

    キミは目を細めた。

    二人で笑った。

    それからキミは、普段なら言わないことを次々に話した。

    店を始めて怖かったこと。

    売上がない日に、自分自身を否定されたような気持ちになったこと。

    スタッフに嫌われているのではないかと思って眠れなかった夜。

    誰にも言わずに泣いたこと。

    「楠瀬さん来ると、安心するんだよ」

    と、また言った。

    僕は今度は笑わなかった。

    どうしてだろうとは思った。

    愛想かもしれない。

    リップサービスかもしれない。

    少なくとも面倒な客だとは思われていないらしい、くらいには考えた。

    自分がそこそこの単価を使う客だからかもしれないという考えもあった。

    僕は自分から「キミにとって特別な人になりたい」なんて、まだ意識していなかった。

    ただ、僕もキミといると安心した。

    だから、同じように思ってもらえているのなら嬉しかった。

    少なくとも、嫌われてはいないらしい。

    その程度のことが、その頃の僕にはとても嬉しかった。

    しばらくして、キミは僕をじっと見た。

    「ねえ、楠瀬さん」

    「何」

    「前いったじゃん。キミが世界で一番好きだよって」

    思わず笑った。

    「急に何」

    「もう、二人でいればいいじゃん。一緒なら沈んだってかまわない」

    「完全に酔ってるな」

    「酔ってるよ」

    「明日には忘れてる」

    「忘れないよ」

    キミは僕の顔を見た。

    その言葉は、酔った勢いだけではなかったのだと思う。

    店がもう駄目かもしれない。

    何をしてもうまくいかない。

    そんな不安の中で、キミは少し自暴自棄になっていたのだろう。

    誰かと一緒にいたいと思ったときに、キミの頭に僕が浮かんだ。

    僕たちは恋人ではない。

    付き合ってもいない。

    それでも、長い時間を知っていた。

    僕はキミの店に酒を置かせてもらい、閉店後まで残り、キミは僕にだけ弱音を吐いた。

    僕たちの間には、名前のつかない時間が堆積していた。

    「あなたの顔、私嫌いじゃないし。ちょっと、よもや好き」

    「それは、ありがとう。嬉しいな」

    「よく見たら案外、端正な顔してるし」

    「よく見ないと駄目なの?」

    「あと優しいし」

    「それもう顔じゃないじゃん」

    キミは笑った。

    僕も笑った。

    その場では、それで終わった。

    でも、店を出て一人になってからも、その言葉だけがずっと頭の中を回っていた。

    好き。

    僕は以前、もっと格好いい顔に生まれていたら人生が違ったのかな、なんてキミに話したことがあった。

    僕だってアイドルみたいな格好いい顔になりたかったよ、と笑いながら。

    そのときキミは、

    「一般的に見たら、楠瀬さんは顔が整ってる方だと思うよ」

    と言った。

    あのときは客観的な評価として聞けた。

    でも、今日は違った。

    キミは、自分の言葉として好きと言った。

    僕は昔から、それほど自分に自信があったわけではない。

    だから仕事をした。

    稼げるようになろうとした。

    人より何かを知っている人間になろうとした。

    相手を困らせない振る舞いを覚え、できるだけ格好悪くならないようにしてきた。

    僕は、自分が何かを差し出せる人間になれば、誰かに好かれる理由くらいは作れると思っていたのかもしれない。

    仕事。

    お金。

    知識。

    経験。

    スマートさ。

    そういうものを後天的に一つずつ身につけていった。

    何かを差し出せば、いつか誰か一人くらいは僕を好きになってくれる場所へ近づけると思っていた。

    でも、その仕事さえ、いま失いかけていた。

    自分で自分を認められなくなっているときに、キミが僕を好きだと言った。

    だから、その言葉は思っていたよりずっと重かった。

    もちろん、酔っていた。

    そんなことは分かっている。

    男が勝手に女性の言葉を好意のシグナルだと思い込み、あとから「そんな意味じゃない」と言われることなんて、僕は嫌というほど知っていた。

    女性を相手にする仕事も多かった。

    冗談を本気にしないでほしい、なんて話だって聞いてきた。

    だから、

    「昨日のあれ、本気?」

    なんて聞けるわけがなかった。

    本当にシグナルなら、男側が踏み込まなければいけないことも分かっている。

    でも、僕の場合は勘違いする側なのではないかと思ってしまう。

    そして、そんなことを確認して相手を困らせる男にもなりたくなかった。

    できればスマートでいたかった。

    それでも言葉は消えなかった。

    好き。

    気の迷いだったのかもしれない。

    酒のせいだったのかもしれない。

    分かっている。

    それでも、もしかするとあれは、僕が何を持っているかではなく、僕自身に向けられた言葉だったのではないか。

    そう思うと、どうしてもキミのことを考えてしまった。

    仕事をしていても、キミが頭のどこかにいた。

    自宅へ帰ってもいた。

    眠ろうとしてもいた。

    脳内のメモリーの一角を、ずっとキミが使っているようだった。

    現実から逃げたかったのだと思う。

    仕事は危ない。

    お金も減る。

    何をしても反応がない。

    そんな緊張の中にずっといると、キミのことを考えている時間だけは現実から少し離れられた。

    そして同時に、ただ好きなキミのそばにいたかった。

    逃げたいからキミのところへ行きたい。

    好きだからキミのそばにいたい。

    キミに好きと言われたことが嬉しくて、またその場所へ戻りたい。

    その全部が僕の中ですっかり混ざっていて、もうきれいに分けることはできなかった。

    理屈ならいくらでも作れた。

    つり橋効果みたいなものかもしれない。

    強いストレスの中で、安心できる相手に感情が向いただけなのかもしれない。

    承認が欲しかっただけなのかもしれない。

    でも、そんなふうに説明できたところで、キミのことを考えなくなるわけではなかった。

    二人でいればいいじゃん。

    酔っぱらいの言葉だった。

    ふざけていたのかもしれない。

    翌日には覚えていないかもしれない。

    僕には、そんなこと全部分かっていた。

    分かっていたのに、その言葉だけが頭から消えなかった。

    そして僕は、認めざるを得なくなった。

    僕はキミが好きだった。


    第七章 もう、何をやってもダメなんだよ

    それからしばらくして、キミが言った。

    「もう、何をやってもダメなんだよ」

    その日は酔っていなかった。

    笑ってもいなかった。

    「伝わらないんだ。何をやってもダメなんだよ」

    僕は黙っていた。

    キミはスマートフォンを伏せた。

    予約はほとんど入っていなかった。

    「Instagramもやったし、写真も変えたし、色々やったよ。でも何も変わらない」

    僕は言った。

    「見せて」

    「何を?」

    「全部」

    「全部?」

    「Instagramも、チラシも、Googleも。店の外も見る」

    キミが僕を見た。

    「仕事じゃん」

    「仕事だね」

    「払えないよ」

    僕は笑った。

    「知ってる」

    「じゃあ何でやるの」

    好きだから。

    本当はそう言えばよかった。

    でも、まだ言えなかった。

    それに、その頃の僕は、好きという言葉を使った瞬間に何かが壊れそうな気がしていた。

    僕はキミの邪魔になりたくなかった。

    キミの店に入り込み、キミの人生の意思決定まで奪うような人間にはなりたくなかった。

    だから、

    「暇だから」

    と言った。

    「嘘つけ」

    久しぶりにキミが笑った。

    そこから、僕たちは店を一緒に見直し始めた。


    第八章 僕たちのマーケティング

    最初に店の外へ出た。

    僕は道路の反対側まで歩いた。

    「何してるの?」

    キミが入口から言った。

    「見てる」

    「何を?」

    「店」

    「そこにあるじゃん」

    「知らない人から見て、何の店か分かる?」

    キミも道路を渡ってきた。

    二人で並んで、キミの店を見た。

    「……分からないかも」

    「だよね」

    「でも、この看板結構好きなんだけど」

    「キミが好きかどうかと、伝わるかどうかは別」

    「そういう言い方嫌い」

    「僕も仕事してるときの僕、そんな好きじゃない」

    二人で笑った。

    別の日にはチラシを広げた。

    「誰に来てほしい?」

    「女の人」

    「広い」

    「疲れてる女の人」

    「広い」

    「じゃあどうすればいいの」

    「キミが一番助けたい人を一人だけ考えて」

    キミは黙った。

    しばらくして、

    「昔の私みたいな人かな」

    と言った。

    「どういう人?」

    「何かしなくちゃって思ってるけど、何すればいいか分からなくて。ずっと疲れてる人」

    僕はそれを書いた。

    「これだよ」

    「何が?」

    「キミが店をやってる理由」

    それから文章を書き直した。

    僕が書けば、キミが消す。

    キミが書けば、僕が直す。

    「これ嫌」

    「何で?」

    「私、こんなこと言わない」

    「じゃあどう言う?」

    「こう」

    「それだと伝わりにくい」

    「でも私じゃない文章は嫌」

    僕は少し考えた。

    「じゃあ、伝わるキミにしよう」

    「何それ」

    また笑った。

    写真も撮った。

    店がきれいに見える時間を探した。

    テーブルを動かした。

    余計なものを片付けた。

    「私も写るの?」

    「写った方がいい」

    「嫌だな」

    「誰がやってる店か分かった方が安心するから」

    「写真屋みたいなこと言う」

    「それも仕事だから」

    何枚か撮った。

    キミは写真を見るたび、

    「これ嫌」

    と言った。

    「いいじゃん」

    「顔が嫌」

    「いつもこんな顔だよ。大丈夫だよ。プロだから補正するから」

    「もっと嫌なこと言った……」

    僕の肩を叩いた。

    それすら嬉しかった。

    僕はもう、キミと一緒に何かをしている時間そのものが好きになっていた。

    夜になると、閉店したカフェで二人でチラシを作った。

    昼間には飾りになっている酒を一本出した。

    キミがコーヒーを淹れる。

    僕が少しブランデーを入れる。

    「また酒入れてる」

    「今日はもう仕事終わり」

    「さっきまで仕事みたいなことしてたじゃん」

    「これは遊び」

    「じゃあタダでいいんだ」

    「高いよ、僕」

    「意味分かんない」

    そんなことを言いながら、夜中まで広告を作った。

    「文字大きすぎない?」

    「これくらい必要」

    「ダサい」

    「読まれない格好いいチラシよりいい」

    「私は格好よくて売れるのがいい」

    「難しいこと簡単に言うな」

    「それが仕事でしょ」

    「そうだけどさ」

    成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。

    僕たちはどちらも崖の近くにいた。

    キミの店には客がいない。

    僕の会社には金がない。

    まあ、キミはそれをあまり知らないけれども。

    それなのに、二人で何かを作っている時間だけは妙に楽しかった。

    胸の奥がずっとひりついていた。

    商売が失敗するかもしれない緊張と、たぶんこれは恋なのだろうという久しぶりの痛みが混ざっていた。

    仕事のことを考えれば心臓が速くなる。

    キミが隣にいても心臓が速くなる。

    どちらのせいなのか、自分でも分からない。

    ただ、現実から逃げたい気持ちも、キミのそばにいたい気持ちも、全部同じ方向へ僕を引っ張っていた。

    そして、その先にはいつもキミがいた。


    第九章 最初の一人

    昼過ぎにスマートフォンが鳴った。

    キミからだった。

    「来た!」

    それだけだった。

    意味が分からず、

    「何が?」

    と返した。

    すぐに電話がかかってきた。

    「チラシ!」

    声が弾んでいた。

    「チラシ見たって人が来た!」

    僕は思わず立ち上がった。

    「どこから?」

    「近所」

    「何歳くらい?」

    「三十代かな」

    「何て言ってた?」

    「前から店は知ってたけど、何の店かよく分からなかったって」

    僕は笑った。

    「ほら」

    「その言い方むかつく」

    でもキミも笑っていた。

    たった一人だった。

    大した売上ではなかった。

    それでも、自分の仕事で大きな金額が動いたときより嬉しかった。

    僕が売れたわけではない。

    僕の会社の売上になったわけでもない。

    それなのに、キミの声が弾んでいるだけで、僕まで救われたような気がした。

    一人が二人になった。

    二人が三人になった。

    もちろん全部うまくいったわけではない。

    反応のないチラシもあった。

    キャンペーンをやっても動かなかったこともあった。

    想定と違う人が来ることもあった。

    「何で今回は駄目だったんだろ」

    「分からない」

    「マーケターなのに?」

    「マーケターだからって全部はわからないんだよ」

    「そういうものなの?」

    「うん。正しい型はあるけど、当たるか当たらないかは実は結構不明瞭なんだよ。再現性とかネットで言っている人たちは、まあ、デタラメかな」

    そして、また直した。

    配る場所を変え、言葉を変えた。

    次には写真を変えた。

    来店した人に、何を見て来たのかを聞いた。

    だんだん、地域の特色に当たるようになってきた。

    二人で考えた。

    また試した。

    やがてお客が増えた。

    一度来た人がまた来た。

    口コミも少しずつ増えていった。

    予約が重なるようになった。

    ある日、キミが言った。

    「今日さ、予約断ったんだよ」

    「何で?」

    「いっぱいだったから」

    一瞬、意味が分からなかった。

    「満席?」

    「うん」

    キミは笑った。

    僕も笑った。

    「やったじゃん」

    「やった」

    その顔を見ながら、本当に嬉しかった。

    ああ、よかったと思った。

    僕は、この景色が見たかったはずだった。


    第十章 秘密だったキミが誰かに見つかっていく

    繁盛してほしくなかったわけじゃない。

    そんなことは一度も思わなかった。

    自分には何もできないと言っていたキミが、それでも自分で何かをしたくて始めた店だった。

    だから、うまくいってほしかった。

    売上が立たなければ店舗なんて潰れる。

    それだけだ。

    だから集客の施策をして、お客様を増やしていく。

    キミが、

    「始めてよかった」

    と思えるところまで行ってほしかった。

    僕は本当にそう願っていた。

    毎日、キミと閉店したカフェで行った作業は、僕にとって大切な時間だった。

    疲れたけれども、楽しかった。

    一人の世界に放り出されたような気分でいた僕にとって、キミといられる時間は、冷たい夜の中に一つだけ灯っている明かりのようだった。

    でも、集客が機能するということが何を意味するのか、僕は途中で思い知った。

    僕は、やきもちを焼いてしまった。

    キミが多くの人に知られていくことに。

    自分がこんな気持ちになるなんて、予想していなかった。

    ただの仕事じゃないかと思った。

    キミの仕事が人に知られる。

    店舗に人が来る。

    良いことじゃないか。

    でも、一人に知られる。

    十人に知られる。

    百人に知られる。

    その中から誰かが来る。

    キミと話す。

    キミを知る。

    また来たいと思う。

    キミ自身を好きになる人だって出てくるかもしれない。

    当然だった。

    だってキミは、美人だった。

    僕が好きだからそう思うだけではない。

    誰から見てもきれいな人だった。

    話せば愛想もいい。

    お酒を飲めばよく笑う。

    少し危なっかしいのに、人に頼るのは嫌がる。

    僕が好きになった人を、誰かが好きにならない理由なんてなかった。

    そして客商売だ。

    キミが笑うのは仕事だ。

    名前を覚えるのも仕事だ。

    「また来てくださいね」と言うのも仕事だ。

    客に少し特別だと思ってもらう施策だってするだろう。

    それが客商売というものなのだから。

    そんなことは、僕が誰よりよく分かっていた。

    でも、胸の辺りに嫌な緊張が広がった。

    誰かに取られるのではないか。

    最初はそういう感情なのかと思った。

    けれど、少し違った。

    その客がどうということではなかった。

    仕事であることも分かっている。

    キミには僕の知らない時間がある。

    僕の知らない人と話す。

    僕の知らない顔で笑う。

    当たり前のことだった。

    それなのに、その世界に僕がいないというだけで、胸の奥が軋んだ。

    僕はキミの全部を所有したいわけではなかった。

    そんなことができないのも分かっている。

    それでも、僕が知らないキミがどこかにいるという当たり前のことが、どうしようもなく寂しかった。

    そして僕は、自分でももっと格好の悪い本音に気づいていた。

    本当は、

    「もうどこにも行かなくていいじゃないか」

    と言いたかった。

    「いかないで」

    と手を引きたかった。

    ドラマみたいに、

    「もうこの日常から少し逃げちゃおうぜ」

    と言ってしまいたかった。

    僕は昔、本当にそんなことをしたことがある。

    相手の了承を取って、一週間くらい二人で日常から消えたこともあった。

    仕事も何もかも少し置いて、ホテルを取って、好きな場所へ行く。

    なぜあんなことができたのか。

    簡単だった。

    お金があったからだ。

    仕事もうまくいっていた。

    明日をどうにかできるという感覚があった。

    だから、大言壮語みたいなことも言えた。

    でも今の僕には、それがなかった。

    仕事がうまくいっていない男が、

    「全部置いて僕と来いよ」

    なんて言えるか。

    僕には言えなかった。

    お金があればできたはずのことができない。

    それが僕をえぐった。

    別に、男が全部金を出さなければいけないなんて思ってはいない。

    共働きの夫婦なんていくらでもいる。

    金だけが人間の価値ではない。

    そんなことくらい分かっている。

    でも、問題はキミが僕をどう評価するかではなかった。

    僕が僕を価値のない人間だと思っていた。

    僕が何かを作っても何の反応もない。

    売れない。

    市場の中に、自分なんていないような気がする。

    そんな自分が、好きな人の手を取ろうとすると、昔の自分との差まで見えてしまう。

    僕は、こんなにも落ちたのか。

    そう思ってしまう。

    それでも、そんなことはとるに足らないことだと自分に言い聞かせた。

    これは仕事であって、人間の営みであって、皆がそれぞれ自立しなければならないからやっているのだ。

    分かっている。

    よく理解している。

    そして、気にするほどのことではない。

    何度もそう思った。

    分かっている。

    それが仕事だということくらい。

    キミが僕にしてくれたことだって、どこまでが本当の特別だったのか、僕には分からない。

    閉店後まで店を開けてくれたこと。

    二つのグラスを出してくれたこと。

    僕のために少しずつ酒を増やしたこと。

    「楠瀬さんが来ると、あたしの場所なんだって思う」

    と言ったこと。

    酔って、

    「二人でいればいいじゃん。一緒なら沈んだってかまわない」

    と言ったこと。

    「好き」

    と言ったこと。

    全部、僕にとっては本当だった。

    でも、本当に僕へ向けられた承認だったのだろうか。

    酒の勢いだったのかもしれない。

    リップサービスかもしれない。

    ときには、そんな気まぐれも人間にはある。

    特に、男女関係には。

    だから怖かった。

    一度、自分へ向けられたものだと思った好意が、次の瞬間には消えてしまうのではないか。

    僕はキミに置いていかれているのではないか。

    そんな気持ちになった。


    第十一章 僕は、キミの店に行けなくなった

    以前なら、閉店間際に行けば二人だった。

    ところが、客が増えるとそうではなくなった。

    店の前まで行く。

    中を見る。

    誰かがいる。

    「今日は忙しそうだな」

    そう言って帰った。

    別の日にも誰かがいた。

    また帰った。

    ある夜、ガラス越しにキミが男の客と話しているのが見えた。

    楽しそうに笑っていた。

    僕が欲しかった景色だった。

    誰もいなかった店に客がいる。

    キミが笑っている。

    店が生きている。

    マーケターとして見れば、成功だった。

    その男がどうこうという話でもなかった。

    客だ。

    キミは仕事をしている。

    そんなことは分かっている。

    それでも、僕は扉を開けられなかった。

    僕の知らないキミが、そこにいた。

    僕の知らない話をして、僕の知らない時間の中で笑っていた。

    そして、その世界に僕はいなかった。

    当たり前だった。

    キミにはキミの人生がある。

    僕がいない時間なんていくらでもある。

    僕が知らない場所で誰かと笑うことだって当然ある。

    それなのに、胸の奥を何かでえぐられたように痛かった。

    そのまま通り過ぎた。

    情けなかった。

    キミと人を集めた。

    キミと文章を考えた。

    キミと写真を撮った。

    キミと広告を作った。

    まだキミを知らない人へ、キミを届けた。

    そして本当に誰かに見つけられ始めたら、今度は僕が怖くなった。

    キミを取られるというよりも、もっと格好の悪い感情だった。

    僕だけが特別だと思っていた時間が、もしかすると僕だけのものではないのかもしれない。

    僕が知らないキミの世界に、自分の席がないのかもしれない。

    そのことを知るのが怖かった。

    だから店へ行く回数が減った。

    キミから、

    「最近来ないじゃん」

    と連絡が来た。

    「仕事忙しくて」

    と返した。

    嘘ではなかった。

    僕自身の仕事は相変わらず苦しかった。

    やっても、やっても上がらない。

    でも本当はキミのことばかり考えていた。

    苦しくて、広告を作っていても吐き気がした。

    熱病にうなされたかのように、キミのことばかりだった。

    会いたかった。

    ただ、キミに会いたかった。

    でも、会いに行けば自分の気持ちと向き合わなければならない。

    また、何でもないふりをして我慢しなければならない。

    自分が何をしているのか、分からなくなる。

    会わない方がいい。

    仕事をしなくてはいけない。

    今は恋愛なんてしている場合ではない。

    全部、正しそうだった。

    でも、

    好きなら会いに行けばいい。

    キミだって来てほしいと言っている。

    人間なんだから、好きな人に会うくらいいいじゃないか。

    それも正しそうだった。

    僕は理屈を作ることだけは得意だった。

    だから余計に分からなくなった。

    会う理由にも、会わない理由にも、いくらでも正しそうな理屈をつけられた。

    でも、胸はずっと軋んでいた。

    その間に、キミの店の数字は上がっていった。

    僕の数字は戻らない。

    自分を救えないマーケターが、好きな女の店だけは少しずつ救っていた。

    皮肉だった。

    それでも僕は、店の数字を見た。

    Googleの口コミを見た。

    Instagramを見た。

    広告が動いているか確認した。

    会いには行かないくせに、数字だけは見ていた。

    我ながら面倒な男だった。


    第十二章 今日も来ないの?

    ある夜、仕事を終えてスマートフォンを見ると、キミからメッセージが来ていた。

    「今日も来ないの?」

    僕はしばらく画面を見た。

    今日も。

    その二文字が妙に残った。

    一日だけではなかったらしい。

    僕が来ない夜を、キミは何度か数えていた。

    それを知ったら、本当はすぐに会いに行きたかった。

    ただキミに会いたかった。

    それだけなら簡単なはずだった。

    でも、店へ行けばまた自分の気持ちと向き合わなくてはいけない。

    キミを見て、嬉しくなって、また勝手に苦しくなる。

    客がいれば、何でもない顔をして座っていなくてはいけない。

    そしてまた、

    僕は何をしているんだろう。

    と思うのだろう。

    「忙しい」

    と打った。

    でも送らなかった。

    消した。

    代わりに、

    「もう閉店でしょ」

    と送った。

    すぐに返事が来た。

    「楠瀬さんだったら、開けてあげるけど」

    僕は動けなくなった。

    最初の頃と同じ言葉だった。

    店へ行った。

    本当に閉まっていた。

    キミが中から鍵を開けた。

    「遅い」

    「ごめん」

    「来ると思わなかった」

    「じゃあ帰る」

    「面倒くさいなあ」

    キミは笑った。

    店は以前と少し変わっていた。

    予約を書き込んだ予定表があった。

    使い終わったカップが積まれていた。

    僕たちが作ったチラシは残り少なくなっていた。

    そして棚には、相変わらず酒が並んでいた。

    「まだ置いてるんだ」

    僕が言うと、

    「飾りだから」

    「もうその設定無理あるよ」

    キミは笑った。

    しばらくして、キミが言った。

    「最近さ、店は結構忙しいんだよ」

    「よかったじゃん」

    「うん」

    「何。その顔」

    「別に」

    キミは少しグラスをいじっていた。

    「あたし、頑張ったんだよ」

    「知ってるよ」

    「楠瀬さんなら、よかったねって言ってくれると思ってた」

    「言ってるじゃん」

    「そうだけど」

    少し黙った。

    「店閉めるじゃん」

    「うん」

    「電気消して、鍵かけて、一人で帰るじゃん」

    「うん」

    「前より売上あるし、予約もあるし、普通なら満足するじゃん」

    僕はキミを見た。

    「でも、何か足りないんだよね」

    「何が?」

    キミは少し考えた。

    「分かんない。でも、楠瀬さんが来ないからかな」

    何も言えなかった。

    「前はさ、営業終わったら楠瀬さんがふらっと来るじゃん」

    「うん」

    「来てくれてるっていうより……」

    キミは少し言葉を探した。

    「帰ってきてくれてるみたいだったんだと思う」

    胸の奥が静かに鳴った。

    「変だよね。私の店なのに」

    僕は笑えなかった。

    「でも、来てくれるとほっとするんだよ」

    キミはそう言った。

    「一人じゃないって思うから」

    店がうまくいっても、一人であることは消えないのだろう。

    スタッフが増えても、客が増えても、経営者として最後に何かを背負うのはキミ一人だった。

    僕も同じだった。

    人と仕事をしても、パソコンの前に座って数字を見るときは一人だった。

    だから僕たちは、互いを救える人ではなくても、一人である時間を少しだけ終わらせることはできたのかもしれない。

    それからキミは一本のワインを出した。

    少し高いやつだった。

    「あ、それ」

    「今日は私が出す」

    「何で?」

    「売上上がったから」

    少し得意そうだった。

    嬉しかった。

    ありがとうと思った。

    キミが自分で作った売上から酒を出してくれる。

    それは本来なら、ただ喜べばいいことだった。

    なのに、

    僕が出せないと思われたのかな。

    そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。

    胸が少し軋んだ。

    我ながら嫌になった。

    キミはただ好意で言ってくれているだけなのかもしれない。

    以前は僕が少し高い酒を頼んでいたから、今度は自分が返したいと思っただけなのかもしれない。

    それすら、そのまま受け取れなかった。

    心が硬くなっていた。

    何でも自分の失敗と結びつけてしまうくらいには、僕は疲れていた。

    そしてキミを見ながら思った。

    この人は、本当は僕がいなくても、いつかうまくいったのかもしれない。

    キミは少しずつ前へ進んでいる。

    僕は何をやっても変わらない。

    僕はいったい、何をしているんだろう。

    「誰のおかげでしょう」

    僕が言うと、

    「私」

    と即答した。

    思わず笑った。

    その答えでよかったのだと思う。

    「そこは僕じゃないの?」

    「じゃあ半分」

    「何が?」

    「私と楠瀬さん」

    二つのグラスにワインを注いだ。

    昔とは少しだけ逆になった。


    第十三章 好きだからだよ

    しばらく飲んでから、キミが聞いた。

    「何で来なくなったの?」

    「忙しかったから」

    「嘘」

    「忙しいのは本当」

    「それだけじゃないでしょ」

    僕はグラスを見た。

    黙っていれば、まだ戻れる気がした。

    くだらない話をして帰ればいい。

    でも、もうずっと逃げていた。

    「客、増えたじゃん」

    「うん」

    「よかったと思ってるよ」

    「うん」

    「本当に」

    「分かってる」

    「でもさ」

    言葉が止まった。

    キミは待っていた。

    「僕が行く必要、なくなったなと思って」

    キミの顔が少し曇った。

    「何それ」

    「そのまま」

    「私が店の相談してたから来てたの?」

    「違うよ」

    「じゃあ何で」

    僕は笑った。

    逃げるような笑いだった。

    「分かんないの?」

    キミは黙った。

    僕は、そこで初めて言った。

    「好きだからだよ」

    店の中が妙に静かになった。

    外を走る車の音がした。

    言ってしまった。

    キミは何も言わなかった。

    少しだけ、困らせたかもしれないと思った。

    でも僕は、キミの邪魔にならないようにしてきただろ、と心の中で思った。

    客と話すなと言ったこともない。

    店をやめろと言ったこともない。

    僕だけを見ろなんて言ったこともない。

    自分の我がままを通そうとしたわけではなかった。

    むしろ迷惑にならないように離れた。

    キミの世界を狭くしないように、自分から店へ行かなくなった。

    だから、これだけは分かってほしかった。

    僕の「好き」は、キミを縛るための言葉ではない。

    ただ、好きになってしまったというだけだった。

    「ごめん」

    キミが僕を見た。

    「でも、好きだよ。キミが」

    自分の気持ちをなかったことにするつもりはなかった。

    「キミの店がうまくいくのは嬉しい。本当に繁盛してほしい。それは嘘じゃない」

    キミは何も言わなかった。

    「でも客が増えるってどういうことか、僕は分かってるんだよ。それが仕事だから。キミを知る人が増える。話す人が増える。キミのことを好きになる人だって出てくる」

    自分で話しながら、ずいぶん子供っぽいことを言っていると思った。

    「それで怖くなった」

    続けた。

    「前は僕が行けば二人だった。閉店後に酒飲んで、くだらない話して、チラシ作って」

    キミは僕を見ていた。

    「でも、もしかしたら僕が勝手に特別だと思ってただけなのかなって思ったら、見ていられなくなった」

    少し言葉を探した。

    「男の客がどうとか、そういうことだけじゃないんだよ」

    「うん」

    「僕の知らないキミがそこにいて、その世界に僕はいない。そんなの当たり前だって分かってるのに、胸が痛くなるんだよ」

    キミは黙って聞いていた。

    「本当は、どこにも行かなくていいじゃないかって思う。いかないでって言いたい。でも、そんなの勝手だろ」

    しばらく沈黙したあと、キミは言った。

    「わたしだって女なんだから。そんな見ず知らずの異性なんて入れられないよ。楠瀬さんだからでしょ」

    キミは僕のグラスにワインを足した。

    胸のどこかが少し緩んだ。

    「私ね」

    「うん」

    「店がうまくいったら、楠瀬さんが来なくなると思ってなかった」

    「僕も思ってなかった。というか僕自身がこんなことで他人に嫉妬しているのだから笑っちゃうよ。ごめん」

    「じゃあ来ればいいじゃん」

    「そんな簡単じゃないよ」

    「何で?」

    僕はキミを見た。

    「好きだから。やきもちやくから」

    キミは少し笑った。

    「便利だね、それ」

    「何が?」

    「何でも好きだからで説明できる」

    少しおもしろかった。

    久しぶりに、二人で笑った。

    笑えたことで、少しだけ息ができるようになった。

    しばらくして、キミが言った。

    「私、店始める前、本当に何もできないと思ってたんだよ」

    「知ってる」

    「今はちょっと違う」

    「うん」

    「自分でできること、増えたんだよ」

    「それでいいんだよ」

    「楠瀬さんが教えてくれたからでしょ」

    「僕が全部やったわけじゃないよ」

    「そうだけど」

    キミはグラスを見た。

    「だからって、楠瀬さんが必要なくなったわけじゃないよ」

    僕は顔を上げた。

    キミは僕を見ていなかった。

    その言葉を、どう受け取ればいいのか分からなかった。

    僕はこれまで、何かを差し出せば、人の好意に近づけると思っていた。

    ハードに仕事をする。

    稼ぐ。

    少し成功する。

    知識を身につける。

    相手を困らせないようなスマートさを覚える。

    僕が後天的に身につけてきたものは、たぶん全部、たった一人でいいから、自分をただ好きだと言ってくれる人に近づくためのものでもあった。

    でも、何かを差し出せば差し出すほど、そこには理由ができた。

    仕事ができるから。

    金を出すから。

    役に立つから。

    楽しい時間を作るから。

    そういう理由を一つずつ積み上げていって、僕は「ただ好き」という場所へ近づいているつもりだった。

    でも、本当は近づけていなかったのかもしれない。

    今の僕には、以前ほど差し出せるものがない。

    仕事も危ない。

    金も減っている。

    自分で自分の価値を認められない。

    そんな僕にキミは、

    「必要なくなったわけじゃない」

    と言った。

    だからこそ、その言葉は重かった。

    マーケティングの文章なら、いくらでも考えられる。

    商品を売る言葉なら、夜中まで考えられる。

    でも、自分のことになると何も出てこない。

    僕は、ただワインを飲んだ。


    終章 キミの店が、誰かに見つかるまで

    帰ろうと思って立ち上がった。

    時計を見ると、ずいぶん遅い時間だった。

    「じゃあ、そろそろ帰るよ」

    「うん」

    キミはグラスを片付け始めた。

    僕は上着を着た。

    扉へ向かった。

    そのときだった。

    「はじめちゃん」

    足が止まった。

    自分が呼ばれたことに、一瞬気づかなかった。

    振り返った。

    胸が大きく跳ねたというより、ずっと張りつめていた何かが少しだけ緩んだ。

    ああ。

    もう少しだけ、安心していいのかもしれない。

    そんなことを思った。

    キミは少なくとも今、僕に手を伸ばしてくれた。

    「今、名前で呼んだ?」

    キミは少し照れたように笑った。

    「うるさいな」

    「初めてじゃない?」

    「知らない」

    「いや、初めてだよ」

    「そういうの覚えてるの、気持ち悪い」

    「ひどいな」

    キミは少し笑った。

    僕はずっと、キミから差し出されたものを疑っていた。

    客だからかもしれない。

    単価が高いからかもしれない。

    愛想かもしれない。

    酔っていただけかもしれない。

    勘違いしたら格好悪い。

    相手を困らせるくらいなら、受け取らない方がいい。

    そんなふうに、何度も理由をつけた。

    でも今、キミは少なくとも僕に向かって少しだけ手を伸ばしてくれたような気がした。

    恋人になったわけではない。

    何かが確定したわけでもない。

    それでも今度くらいは、疑うより先に受け取ってみようと思った。

    キミが差し出してくれたのなら、今度は僕が受け取ろう。

    そしてキミは言った。

    「また来てよ」

    それだけだった。

    好きだとは言わなかった。

    付き合おうとも言わなかった。

    僕たちが何なのかも、結局決まらなかった。

    でも、その言葉で十分な気がした。

    僕はずっと、マーケティングとは何かを誰かに伝える仕事だと思っていた。

    知られていないものを知らせる。

    価値を言葉にする。

    人と商品を出会わせる。

    人と店を出会わせる。

    そういう仕事だと思っていた。

    でもキミの店を手伝って、少し違うことを知った。

    誰かに見つけてもらうということは、その人の世界を広げることだった。

    世界が広がれば、人と出会う。

    知らなかったものを見る。

    昨日までできなかったことが、できるようになる。

    そして、ときには、それまでそばにいた人との距離まで変わる。

    それは少し怖い。

    好きな人なら、なおさら怖い。

    でも。

    もし、あの頃に戻れたとしても。

    客のいない店で、

    「もう、何をやってもダメなんだよ。伝わらないんだ。何をやってもダメなんだよ」

    とうつむいているキミの前に、もう一度座れたとしても。

    僕はきっと同じことをする。

    チラシを広げる。

    道路の向こう側まで歩いて看板を見る。

    写真を撮る。

    言葉を直す。

    誰に来てほしいのかを一緒に考える。

    反応がなければ、またやり直す。

    コーヒーにブランデーを落とす。

    キミが、

    「それダサい」

    と言う。

    僕が、

    「じゃあキミが考えてよ」

    と言う。

    そんなことを言いながら、夜中まで二人で悩む。

    そして、まだキミを知らない人に、キミがここにいることを知らせる。

    怖くても、そうする。

    だって僕は、誰にも見つからないままキミが諦めてしまうことより、誰かに見つけられて、僕の知らない世界まで歩いていけるようになることの方を、やっぱり選びたい。

    キミはもう、

    「私には何もできない」

    と言っていた頃のキミではない。

    自分で店を開ける。

    人を雇う。

    客を迎える。

    売上を作る。

    失敗したら考えて、また試す。

    たぶん僕がいなくても、キミはいろいろなことができる。

    それでいい。

    それがいい。

    僕が本当に欲しかったのは、キミを何もできない人のまま僕のそばに置いておくことではなかった。

    僕が何かを与え続けなければ成立しない関係でもなかった。

    たった一人でいい。

    僕を、ただ好きだと言ってくれるキミとの時間が欲しかった。

    それだけだった。

    だから、キミが自分の世界を広げていくことと、僕との時間がなくなることは、本当は同じ意味ではないはずだ。

    少なくとも今度は、そう信じてみようと思う。

    それでも、ときどきは。

    一日の営業が終わって、最後の客を見送り、看板を中へしまって、街からキミの店の灯りが一つ消えたあとで。

    昼間にはただの飾りに見える棚から、本当は僕のために買った酒を一本取って。

    「はじめちゃんだったら、いいよ」

    と言って、僕のためにだけ、もう一度その店の灯りをつけてくれたら嬉しい。

    今度は僕も、約束したケーキくらいは忘れずに持っていこうと思う。

    ヴーヴ・イエローは、たぶんもうキミが冷やしている。

    僕が欲しかった特別というものは、最初から、それくらいのものだったのだと思う。


    2話目

    楠瀬も相当にヤバい。キミとの関係、マーケティングとかお金とか価値とかこじれた思考。価値と感情について、エモーショナルライティングと言われる人間の感情をストーリーで感じて下さい。

    キミと楠瀬はどうなるのでしょうか?こじれた楠瀬をキミは嫌いになるだろうか?


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