山鬼
この記事には複数の問題があります。 |

山鬼(さんき)は、中国神話・文学に登場する山岳精霊(山の神)の総称。狭義には『楚辞』九歌の詩篇に描かれた神的な存在を指すが、広義には民間伝承における山の妖怪や精霊を包含する。その解釈は時代・地域によって変遷し、楚文化の自然神から道教の山神体系に組み込まれた存在まで多様な側面を持つ。[1]同篇は楚の民間で行われていた山神祭祀の歌詞を屈原が整理・創作したものとされ、巫山神女(ふざんしんにょ)の原型とも考えられている。山鬼という名称は「山の鬼(もの)」の意であるが、単なる幽霊ではなく、山中に宿る神性を持つ存在として描かれている。[2]
九歌における山鬼
[編集]全編は女性の口調で語られ、恋人を待ちわびる山中の女神の心情を描く。以下に特徴的な場面を挙げる。[3]
- 容姿:蔓草の薜荔(へいれい)と女蘿(じょら)を衣服とし、赤豹(せきひょう)に乗り、文狸(ぶんり)を従える。
- 心情:「怨公子兮怅忘归(公子を怨みて怅として帰るを忘る)」など、待つ者の孤独と苦悩が抒情的に表現されている。
- 結末:雷鳴・暴雨・木を鳴らす風という情景描写のなか、「思公子兮徒离忧(公子を思ふも徒に憂ひを離る)」と詠い、詩を閉じる。[4]
- 屈原『楚辞』九歌第十一編に登場する女性的な山の神
- 赤豹に乗り、自然と人間の情愛を象徴する描写(「乗赤豹兮従文狸」)
- 後世の注釈書における解釈対立:王逸「山精説」 vs 朱熹「巫山神女説」[5]
この詩は、待ち人に会えぬまま自然の猛威のなかに取り残されるヒロインの姿を通して、失恋と孤独という人間的な情感を神の世界に投影したものとして評価されている。
山鬼の正体をめぐる解釈
[編集]山鬼の正体については古来さまざまな説があり、その変遷は中国の神観念や文学解釈の歴史を反映している。[6]
山精・男性説(宋代以前)
[編集]『国語』や『荘子』の記述に基づき、山鬼は「木石之怪(木や石に宿るもの)」すなわち夔(き)や魍魎(もうりょう)のような男性の山の精霊(山精)であるとされた。宋代の洪興祖(こうこうそ)も『楚辞補注』においてこれを支持している。[7]
巫山神女・女神説(清代以降)
[編集]清代の顧成天(こせいてん)が『九歌解』において「山鬼」を楚の巫山に住む女神・瑶姬(ようき)(炎帝の娘とされる)であると断定して以来、この説が有力となった。この巫山神女瑶姬は、のちに宋玉(『高唐賦』『神女賦』)や郦道元(『水経注』)によってさらに物語化され、「旦為朝雲、暮為行雨(朝には雲となり、夕べには雨をなす)」という神通力を持つ存在として描かれるようになった。現代の郭沫若(かくまつじゃく)もこの説を支持した。[8]
なお、上記のほかにも、屈原自身の投影とする説や、純粋な祭祀歌にすぎないとする見解が存在する。
『史記』にみえる始皇帝と山鬼の伝承
[編集]『史記・秦始皇本紀』には山鬼にまつわる次のようなエピソードが記されている。[9]
秦始皇三十六年(紀元前211年)の秋、関東から帰る使者が華陰の道で白い馬に乗った怪しい人物に出会った。その人物は使者に玉璧(ぎょくへき)を渡し、「これを鎬池君(こうちくん)に届けてほしい。そして伝えてほしい──『今年、祖龍(そりょう)死す』と」と言い残して忽然と消えた。
不審に思った使者が秦の始皇帝にこの璧を奉呈すると、始皇はしばらく黙考したのち、「山鬼固不過知一歳事也(山鬼は所詮一年先のことを知るに過ぎぬ)」 と述べた。しかし御府(宮廷の宝物庫)で調査したところ、この璧こそ二十八年前に始皇自らが江中に沈めたものと判明する。[10]
この「山鬼」の予言は翌三十七年、始皇帝の沙丘(さきゅう)における急死とその後の秦の滅亡によって、結果的に現実のものとなった。[11]
美術・芸術における山鬼
[編集]中国絵画において山鬼は古くから描かれている。元の張渥(ちょうあく)は半裸の野性的な女性として描いたが、清の羅聘(らへい)の『山鬼図』では薜荔を纏い虎を従えた上品な貴婦人として描かれており、時代によるイメージ変遷がうかがえる。[12]
神話的変遷
[編集]先秦 - 漢代
[編集]魏晋 - 唐代
[編集]宋元以降
[編集]民俗学的考察
[編集]現代文化における再解釈
[編集]脚注
[編集]- ↑ 中国哲学書電子化計画『楚辞』巻第二「九歌」第九「山鬼」
- ↑ 小南一郎『楚辞』岩波文庫、2021年(『九歌』の日本語訳と解説を収録)
- ↑ 小南一郎『楚辞』岩波文庫、2021年
- ↑ 中国哲学書電子化計画『楚辞』巻第二「九歌」第九「山鬼」
- ↑ 白井順「『楚辞』「九歌」論 付篇──神と巫と」『東方学』第64輯、1982年
- ↑ 竹治貞夫『楚辞研究』(『楚辞』の総合的研究)、創文社、1978年
- ↑ 藤野岩友『巫系文学論』(『楚辞』を巫術の観点から分析)、東京大学出版会、1965年
- ↑ 石川三佐男「『九歌』『山鬼』篇の巫儀的構造」秋田大学教育学部研究報告、第40号、1989年
- ↑ 吉田賢抗「『史記』秦始皇本紀の研究」『東洋学報』第42巻第3号、東洋文庫、1959年
- ↑ 『史記』秦始皇本紀、『論衡』紀妖篇 秦始皇三十六年の山鬼献璧事件の原典
- ↑ Sturgeon, Donald. “史記 : 本紀 : 秦始皇本紀 - 中國哲學書電子化計劃” (中国語). ctext.org. 2026年5月25日閲覧。
- ↑ 張渥『九歌図』、羅聘『山鬼図』 山鬼の図像的表現の変遷
- ↑ 不明. 山海経 (戦国時代 - 漢代)
- ↑ 劉安. 淮南子 (前2世紀)
- ↑ 司馬遷. “封禅書”. 史記 (前1世紀)
- ↑ 干宝. “巻十二”. 捜神記 (4世紀)
- ↑ 葛洪 (317). “登渉篇”. 抱朴子
- ↑ 仇兆鰲(注) (1693). 杜詩詳註. 中華書局
- ↑ 朱熹 (1195). 楚辞集注
- ↑ 蒲松齢 (1766). “聶小倩”. 聊斎志異
- ↑ 曲六乙 (2010). “中国儺文化研究”. 文化遺産.
- ↑ 小松和彦 (2007). 東アジア妖怪文化論. 勉誠出版
- ↑ 袁珂 (1998). 中国神話伝説大辞典. 上海辞書出版社
- ↑ 田中収「近代水墨画の革新」『美術史論集』2005年。[要文献特定詳細情報]
参考文献
[編集]- 袁珂『中国神話伝説』岩波書店、1996年。[要文献特定詳細情報]
- 小南一郎『楚辞とその注釈者たち』朋友書店、2003年7月。ISBN 4-89281-093-2。
- 李豊楙 (2017). 中国精怪文化研究. 北京大学出版社
- 竹治貞夫『楚辞研究』創文社、1978年
- 藤野岩友『巫系文学論』東京大学出版会、1965年
- 白井順「『楚辞』「九歌」論 付篇──神と巫と」『東方学』第64輯、1982年
- 吉田賢抗「『史記』秦始皇本紀の研究」『東洋学報』第42巻第3号、東洋文庫、1959年
- 川副武胤「楚辞の絵画化について──『九歌図』を中心に」『国語国文』第56巻第8号、1987年
- 中国哲学書電子化計画『史記』秦始皇本紀、『楚辞』