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潤愛 第三章 「瑠璃」

    こちらの作品は #創作大賞2026 #恋愛小説部門 への応募作品となります。文字数は75000字(文庫本で230ページほど)ありますので、ゆったりと読んでいただければと思います。

    あらすじ(141文字)
    私は、人のことが好きになることなんて、わからなかった。今まで知らないまま生きてきたし、それでもどこか幸せになりたい、そんな気持ちを抱いていた。そして、知らないまま、きっとこの先も、生きていくのだと思っていた。きっと彼も、そんな過去を抱いたまま、私と時間を過ごしてくれていた気がする。

    第一章 藤色ふじいろ

    第二章 茜あかね

    第三章 瑠璃るり

    第四章 紫水しすい




    私は社会人として初めてのゴールデンウィークを、どう過ごそうか考えていた。

    買い物にも、しばらく行っていない。お金がなかった大学生の時は、何も買えなかったから、給料で何かを買おうかとも思う。インターンという名目で、会社の人と同じように二月から働かされていたから、給料は四月から働いている人よりも早めに入っている。

    頭が重い午前九時ぐらいに、ベッドの上で、うーんうーんと考えていると、スマホから通知が鳴った。美幸からのラインだった。

    「ゴールデンウィーク、何してんの~。暇なら会おうよ。」

    美幸とは、大学三年生の時にゼミが同じで知り合った。あっけらかんとしている雰囲気は、一緒にいると和んで、私も力を入れないで過ごすことができたから、なんだかんだで関係性が続いている。

    美幸のラインに、すぐに「ひまあ~」と返して、私はのっそりと起きた。昨日の洗い物が、シンクに溜まっていることに気づく。ああ、社会人になっても、生活は自堕落なままだなと、私は自分のことを卑下する。なんでもかんでもうまく行っている人のことを見ると、なんだかイライラする。会社の中で意気揚々としている他の社員を想像して急に腹が立ち、その辺にあった枕をベッドに叩きつけ、ふうと一息つく。

    「何してんだろ、私。」

    電気の消えた部屋で、一人でつぶやいた。今日は寝起きが悪い。朝日がもうすでに入ってきていて、部屋の中はぼんやりとした灰色になっていた。はあ、とまたため息をついた。

    「んじゃ、渋谷のニトリ付き合ってよ、私まだ、家具揃ってなくてさ。」

    不器用な時間を過ごしていると、美幸から返事のラインが届いた。スマホの画面に表示される文面を見て、ニトリか、悪くないな、と思った。そう言えば私も、この家に引っ越してきてから、何もこだわりがないまま過ごしてきたから、洒落ているものが何一つない。

    美幸のラインを開いて、おけ~、11時で、と返事をして、スマホを閉じた。

    美幸とはお互いに彼氏がいないから、楽に過ごせる。きっと美幸も、私が暇していることを見越してラインをしてきたのだろう。じゃないと、ゴールデンウィーク真っ只中の日に遊びの誘いのラインなんかをする意味がわからない。

    私はぼんやりと、洗面所に行って歯を磨いた。鏡で見る自分の顔は、いつもよりも浮腫んでいて、ゴールデンウィーク前に会社の付き合いで飲んだ酒が祟っているのかとガックリした。歯磨きをし終わった後に、ぐーっと頬と顎の下をマッサージしてみる。血流が悪いのか、痛い。

    ぼやぼやと準備をしていたら、あっという間に十時を過ぎたので、少し急ぎ目で家を出た。こういうバタバタした生活がゴールデンウィークも続いているのかと思うと、ちょっと嫌になる。

    駅まで行こうと、中野の街に繰り出すと、外はこの時期なのに暑かった。太陽がかんかんと照りつけていて、肌がじりじりと焼けていくのがわかる。日焼け止めを塗り忘れた。じんわりと汗が後ろの首筋に流れているのがわかる。

    私の家はブロードウェイからは少し離れているから、ゴールデンウィークでも人はあまりいなかった。大きな公園のそばを通ると、子連れの家族がたくさんいた。それをみて私は、やっと今日のリズムが戻ってきた気がした。

    広い道を歩いていると、さまざまなものに出会う。道端に咲いている白や黄色の花、どこかの家の花壇には、赤い花も咲いている。たまに蝶が私の目の前をひらひらと横切り、風が吹いているのを感じる。私は中野駅の手前の信号を待っている間に、大きく深呼吸をした。

    どこにもいけない感情が渦巻いている朝に、連れ出してくれる友達がいることはありがたいことだなと、私は空を見て思った。

    ゴールデンウィークの中央線はやはり混んでいて、無造作に押し込められた車内で、必死に吊り革を掴んで時間を過ごした。普段会社には歩いて行っているから、ほとんどタイムスに行く時以外は電車に乗らない。タイムスに行く時も、平日の昼間だから、そんなに電車も混んでいない。久しぶりのぎゅうぎゅう詰めの電車。ああ、と思った。

    新宿で乗り換え、山手線で渋谷へ。山手線も混んでいて、人間の多さに驚く。当たり前だけど、この一人一人に人生があるんだよなあと、通り過ぎる車窓からの景色を見て思っていた。

    ハチ公前はどうせ混んでいるから、と美幸とラインで話して、ニトリの前で現地集合にした。ニトリの前に着いたのは、十一時の十分前ぐらいだった。美幸はまだ着いていないようだったので、ラインでついたあ、と送った。

    スマホをポケットにしまい、ふうと一息ついた。さっきの満員電車と、渋谷駅からニトリまで歩いてくる間に、だいぶ体力を消耗した。ニトリの自動ドアを潜ったら涼しいだろうかと思い、美幸はいなかったが、先に店内に入った。

    そういえばニトリなんて、あまり来たことがない、どころか人生で一回も来たことがなかったなと、私はふと思った。涼しい店内の中は、照明や雑貨が並んでいて、心がふわっと軽くなる。木目調の家具が多い。こういうものが家にあったらいいだろうなあ、と思いながら、ぼんやりと一階を歩いた。

    ゴールデンウィークだからか、家族連れが目立つ。展示されているベッドの上に騒ぎながら登る男の子、それを注意するお母さん、見守るお父さんと娘さん。家族の形はいろいろあるけれど、この人たちにも人生があるんだよなあと、ぼんやりと眺めながら思う。

    ピロン、とポケットでスマホが鳴った音がした。みてみると、美幸からどこ?と返信が来ていた。着いたかな、と思って入ってきた道を折り返して、外に出る。

    むわん、と暑い空気が胸の中に入ってきて、少し不快感を覚えながら、ニトリの前に美幸がいるのを見つけた。

    「よっ。」

    私はスマホをいじっている美幸を見つけ、こっそりと近づき声をかけた。美幸は私を見つけるなり、ぽわっと笑顔になった。美幸も、よっ、と切りがいい声で返事をした。

    「暑いね。」

    美幸が右手でパタパタと顔を仰いでいる。まだ五月なのに、この所作が出てくる日本、大丈夫かと思いながら、ね、早く入ろ、と返事をした。私はさっき先に入っていたことは伝えずに、そそくさと入り口へ向かった。

    入り口に入った時の、冷房の風が胸の中に染み渡る感覚は、何回味わってもいいな、と自動ドアが開いて思った。

    あんまり高いものは買えないから、一階だけでいいかなあ、と美幸が言った。一階は雑貨や小さな家具がたくさんあり、私もそれがいいか、と思って、美幸についていった。

    そういえば、台所で使う蒸籠がほしいんだった、と私は気づいた。最近周りで流行っていて、野菜を入れるだけでお腹いっぱい健康的に食べられると話題だ。私は目当ての品を蒸籠にしようと決めて、美幸についていった。

    美幸とは二〇分ほどでお互い好きなものを見て、入り口でまた待ち合わせをすることになった。こういう距離感でいられるのも、私が美幸と一緒にいられる理由になっているのかもしれない。

    私は台所の用品などが置いてあるコーナーをぼんやりと眺めて、蒸籠を探した。お玉、しゃもじ、菜箸。言われてみたら全部ないなあ、と思って、ぼんやりと自分の生活力のなさに落胆する。

    蒸籠は案外すぐに見つかった。深めの蒸籠と、浅めの蒸籠があった。浅い方がたくさん材料が並べやすそうだったから、そっちにした。一応、二段のものを買った。あとは蒸籠シート、これも必要なんだよな、と思って、十九センチの百枚入りのものも買った。百回も蒸籠、ハマるかなと心配しながら、カゴに入れた。

    少し店内を歩いていると、小さな置物が売っているところに辿り着いた。パンダ、キリン、ゾウ。小さなそれらは、可愛く動物園のように陳列されている。私はうーん、と悩んで、キリンの置物をカゴに入れた。

    思ったよりも蒸籠が大きくて嵩張ってしまったので、そのままレジに行った。多分まだ十五分も経っていないよな、と思いながら、行列のレジに並んだ。

    会計を済ませて入り口に向かうと、美幸はまだいなかった。あと五分ぐらいあるから、スマホでもいじろうと思い、ポケットから取り出す。

    昔から使っているインスタのアカウントのストーリー欄は、旧友の幸せそうな旅の写真で溢れかえっている。なんだか自分が惨めに見えてくるが、この日は天気がいいからか、嫌な気はせずに見ることができた。小学校の頃から繋がっている友達、もう結婚して子供もいるのか、時間が経つのは早いなと思った。

    「なに買った~?」

    ぼんやりとスマホを眺めていると、美幸が帰ってきた。そんなに大きな袋は持っていなく、コンビニ袋サイズのものだ。

    「蒸籠~。なんか最近、流行ってるじゃん?」

    私は袋を両手で開いて、パッケージされているそれを美幸に見せた。美幸はえらっ、と言って、少し驚いていた。

    「美幸は?なんかいいのあった?」

    私が聞くと、美幸はうーん、と自分の袋を見つめた。あまりいいものが見つからなかったのだろうか、と私は思った。

    「あんまりなかったなあ。本当はおしゃれなラグとか、そういうのが欲しかったんだけど、あんまりしっくりくるものがなくて。結局これだけ。配送も覚悟でお金貯めてきたのに、なんだかがっくし。」

    美幸は手元の袋を掲げながら、顔をことんと落とした。私はそっか~、と言いながら、美幸の肩を撫でた。

    「んじゃあ、いつも通り、カフェ行きますか?」

    私がそういうと、美幸の顔は途端に明るくなった。

    私たちが遊ぶときは、だいたい一つの予定を済ませた後に、カフェで一時間から二時間ほど女子会をして解散するのがお決まりだ。今は昼時だから、おしゃれな喫茶店はどこも混んでいるだろうと思い、ニトリの近くのタリーズを目指すことにした。

    「ほんと、五月なのに暑いね。」

    美幸は袋をぶらんぶらんと揺らしながら、だらっと歩いた。私も、マジでそう、と返事をして、流れる汗をそのままに歩いた。特に話すわけでもなく、ただ時間が過ぎていく。空はここぞとばかりに日照りを撒き散らしている。空はこういうとき、なにを考えているのだろう、と私はぼんやりと考えた。きっと人間のことなんて、気にもしていないのだろう。

    渋谷駅から少し離れたところにあったタリーズは、ゴールデンウィークでもあまり混んでいなかった。きっと、暑いからみんな軽井沢とか避暑地に行っているのだろうかと勝手に想像して、少し落ち込む。でも私は、こうして連れ出してくれる友達がいる、うん大丈夫、と自分を鼓舞する。

    タリーズでは、小さな二人掛けの席に座った。私はミルクティーで、美幸はアイスコーヒー。なにも言わずとも、大きなサイズを頼んでいて、話したことが溜まっているのがわかる。

    「会社でさ~、たぶん惚れられてるんだよね。」

    美幸は氷のたくさん入ったコップのアイスコーヒーを勢いよくストローで飲んだ後に、今までずっと言いたかったかのような口調で話し始めた。

    「え~、どんな人なの?」

    美幸は、きっとモテるのだろうなと、私は思っていた。いい感じにサバサバしているけれど、思ったよりも天然で、可愛げもある。背も小さくて、それでいて顔立ちが優しく、男が好きそうな顔をしている。

    「同期。誘われて社外で一回飲みに行ったんだけど、それから。」

    え~、と私は普通の返しをした。なんだかんだで、美幸も普通の人生を歩んでいるのだな、と思った。

    「飲みには行ったんだ。じゃあ、美幸もまんざらじゃないってこと?」

    ミルクティーをゆっくりと飲みながら、なんとなく聞くと、美幸はうーん、と腕を組んで、考え始めた。

    「悪くないの。顔もタイプだし、性格もいいから、それなりなんだけど。ただ、同じ会社っていうのがね。うちの会社、そういう色のある話、あんまり受け入れてくれないところだからさ。」

    そっか~、と私は返事をした。美幸は、大学時代になにをしていたかは聞いていないが、インターンで知り合った時にはもうすでにほとんどの仕事をこなせていた記憶があった。予想はしていたが、大手の商社に就職したと聞いて、なんだか納得が行った。

    だからなのか、自分の収入が多いということもあり、男にお金を求めていない気がした。これは聞いた話ではないが、私の勝手な予想だ。

    「でもなんか、居心地がフィットしないというか、うーん。」

    美幸はストローを咥えたまま、両手を机の上に置いて、つぶやいた。そうか、居心地か~、と私は思って、少し黙ってしまった。過去の恋愛で、付き合ったことのない私は、居心地、という言葉がなんとなく嫌いだった。出会ってきた男の中で、居心地がいい人なんて、いなかったから。

    「まあ、様子見ですね。この年だし、もしかしたら結婚、なんてこともあるだろうから、こだわってはいきたいなと思ってるし、焦る必要もないし。」

    焦るる必要もない、という言葉を聞いて、私は大きく頷いた。

    「歩は?最近はどう?」

    話が私の番に変わり、考える間もなく、潤という男のことが頭に浮かんだ。やっぱり私は、あの人のことが好き、なのだろうかと考えて、少し黙ってしまった。

    「なになに、なんかあった感じ?」

    私は反射的に、いや別に、と言って、ミルクティを飲んだ。いつもは飲むのが遅い私なのに、もう半分くらい飲んでいて、少し驚いた。

    「男って、案外なに考えているか、わかるようでわからないじゃん。最近いいなって思ってる人はいるんだけど、本当にその人一緒にいたいかなんて、わからないし。そもそも、一緒にいられるかなんて、私だけで決めることじゃないし。」

    私は言いながら、心がきゅうと苦しくなるのを感じた。これは、自分が自分に嘘をついている証拠だ、と思った。

    ま、私も焦らないことですね、と言い残して、私は話題を変えた。会社の愚痴や最近のエンタメの話で、小一時間盛り上がり、美幸との時間は終わった。

    美幸とは、帰りたくなるタイミングが同じだから、助かっている。

    美幸は池尻大橋でこの後予定があるらしく、渋谷駅の近くまで歩いてくると、そそくさと地下に行ってしまった。いつも通り、また暇な時に、とお互い言って、バイバイした。

    私はハチ公らへんで一人になり、少し空を見上げた。相変わらず晴れていて、かんかん照り。ゴールデンウィークのハチ公らへんは言わずもがな人でごった返していて、少し離れたフェンスで少し休憩した。このまま帰るのもいいが、なんだかタイムスに行きたい、と思った。私はぼんやりと歩き出して、改札を通った。

    山手線は混んでいたが、なんとか吊り革を掴むことができて、車窓からの景色を眺めることができた。私は、電車では座らないでこうして景色を見ることが好き。なんだか、東京にいるのだけれど、東京から逃げることができている気がして、だんだんと心が落ち着いてくる。

    車両が新宿に着いて止まり、私ははっとして雪崩れるように電車から出た。ぼんやりとエスカレーターを登り、改札を出る。新宿に来ても当たり前だけど暑く、車窓を眺めて世界に溶けていた時間の差に、少し心臓が痛くなった。

    「あれ、歩、さん?」

    改札を出たところで、名前を呼ばれた気がして、振り返る。そこには、なんでいるのかわからない、潤がいた。私は息が止まりそうになり、なにも言えないまま立ち尽くしてしまった。

    「やっぱりそうや。うわ、偶然。僕いま阿佐ヶ谷の喫茶店から来て、タイムス行こうと思って新宿に来ました。もしかして、歩さんも?」

    少しよそよそしさを醸し出して、潤が丁寧に言葉を繋いでいることがわかる。こういう時でも、いきなりタメ口とかは使わないんだな、というところが、なんだかいいなと私は思った。私はなにも言わずに、こくりと頷いた。

    心の中では、なんだか安心感が広がっていて、会えて嬉しい、と思っている自分に気づいた。

    「一緒に、行きますか。」

    潤は少し照れくさそうにしながら、私に声をかける。私がなにも言わないでいると、ああ、ごめんなさい、と付け加えた。私は首を横に振って、その後に、いく、と小声で言った。なんで自分でも、ちょっと小声で縮こまった感じになっているのかわからないが、なんだか今日は、甘えたい気分だった。

    前を歩く潤からは、なんとなくお香の香りがした。タバコの匂いではなくて、お香の香り。そういうところまで、お父さんに似ていて、なんだか心が苦しい。ゴールデンウィークの新宿は、やはり人で溢れていて、私は潤について行くのに必死だった。潤は振り返ることなく、タイムスの交差点まで歩いた。

    「あの花、散っちゃいましたね。枯れちゃったから、植え替えられているんかな。」

    潤が、タイムスの前の花壇の前で立ち止まる。そこは、私が潤に始めて話しかけたきっかけでもある花が植えられていた場所。一ヶ月も経てば、花はその命を入れ替える。それが今は、なんだか心地いいと感じて、私はそっと花壇にしゃがみ込んだ。

    すると、なぜか私の目には涙が溢れてきた。なんでかわからないけれど、止まらない涙に自分でも驚いて、必死で服の袖で涙を拭く。

    潤はそれを見て、そっと自分のリュックからハンカチを取り出して、私に渡してくれた。なにも聞かないまま、潤も花壇の前にしゃがみ込んで、黙ってそこに居てくれた。

    「やっとみつけた居場所でも、なくなってしまう時って、あるやん。でも、俺らは生きていかなきゃいけないから、嫌でも場所を取る。そして、花のように綺麗には散れない。なんだか、滑稽っちゅーか、変、だよな。」

    潤の言葉に私はなにも言わないまま、花壇を見つめて泣いていた。啜り泣く感じではなくて、ただ流れる涙を見守るように、自分がどこにいるかわからないような気持ちになって、泣いた。

    潤はそっと、私の背中を撫でてくれた。胸の奥の奥から、心が芯から温まる気がして、なんだかそれが無くなってしまうかもしれないという想像をしてしまって、潤から受け取ったハンカチを強く握りしめた。

    「泣くことは悪いことじゃない。生きたいっちゅー、気持ちの表れや。歩さんは、すごいよ。」

    まだ会って間もない自分のことを、すごいと言ってくれる。なんだかそれがくすぐったくて、私は可笑しくなって、少し笑った。顔を上げて潤を見ると、潤も優しい顔で微笑んでいた。

    「さ、コーヒー冷めるで。まだ注文もしとらんけど。」

    そう言って潤が一人で笑うと、潤はすくっと立ち上がった。私も自然と、立つことができて、不思議と体が軽くなった気がした。

    潤がタイムスに入って行くのを追って、私もタイムスに入った。今日は二人、ということがなんだか不思議で、心がくすぐったくなる。潤は指でピースをするように店員さんにハンドサインで人数を伝えて、席に案内してもらった。今日は窓際の席で、日差しが木漏れ日のように入り込んでいた。私が奥に、潤が手前に座った。

    「ゴールデンウィーク、なにしてるん?」

    潤が何気なく聞いてくる。さっきまで泣いていた私のことを気にしないかのように、すっと心が切り替わる感じは、心地が良かった。

    「なにもしてない。今日、ニトリ行った。」

    そういうと私は、袋を少し上に掲げてみせた。潤は、え~いいやん、と言って、徐にタバコを取り出した。

    「そういえばね、可愛いの買ったんだよ。」

    私は袋の中から、ニトリで買ったキリンの置物を机の上に置いた。潤はそれをみて、優しく笑って、ええやん、と言った。

    「こんな可愛いのが家におったら、気持ちも変わるやろうなあ。」

    潤はしみじみと、タバコを吸いながらつぶやいた。潤がふうとタバコの煙を吐き出すと、キリンの置物に煙が降りかかる。キリンはきっと、煙たいと思っているのだろうか。ぼんやりと木漏れ日に照らされる煙を見て、私はまた、安心していた。

    「友達と行ったんだけど、渋谷は相変わらずの人混みだったよ。」

    私は潤がタバコを吸う姿を見ながら、なんとなく思ったことを呟いた。

    「渋谷は、俺もあまり好きじゃないな。結局俺も、大学は下落合に住んでたけど、今は阿佐ヶ谷に住んでいるし。落ち着いたところがええ。」

    潤が住んでいるところ、下落合だったんだ、と私は心の中で思って、なんとなく大学時代のことを思い出す。

    下落合のゲーセンで、すれ違ったりしていたのだろうか。いや、潤はきっと、ゲーセンなんか行かない。そうだ、咲田さんとイマミル同盟を組んでいたんだった。その人の今を見る、今を見る。

    「そうだね、私もああいうところは苦手。なんか心が苦しくなる感覚がある。新宿も、やっぱり休みの日はちょっと苦手。」

    私がそう言うと、潤はわかる、と呟いて、煙を吐き出し灰皿に灰を落とした。

    二人で話している姿は、なんだか父と話しているみたいで、少しだけ安心した。父は今なにをしているのだろうか。きっとぼんやりと、相変わらず生きているのだろう。社会人になってから、めっきり親という存在が私の人生から消えてしまったかのように、連絡をとっていない。

    「結局は人間なんて孤独なんだって、昔言われたことがあってん。でも本当にそうなのかなって。二人でいても孤独になることはもちろんあるやろけど、なんか、どこまで行っても孤独なんて、そりゃ考えすぎちゃうかなって、思ってたん。」

    潤が俯きながら話す。なんとなく、潤から寂しそうな空気を感じて、私は少し黙った。私も、ずっとずっと孤独を感じて生きてきた人間だから、孤独じゃない、という言葉には賛同できない。でも、潤が言っていることもわかる。

    「出会ってきた友達が、離れてしまっても、心の何かがゼロになるわけやないし、そこにその人がいた、ってことで支えられているところもある。」

    うん、と私は小さく呟いて頷く。芯のある潤の言葉に、なんだか心の温度が上がっていくのがわかる。

    「昔、一回写真をやめたことがあってん。高校三年生の時、仲のいい子がいたんやけど、冬を皮切りにめっきり。最後に喫茶店で撮った写真を渡すことができんくて、なんで俺、写真やってるんやろ、って思ってしまって。」

    潤が少し俯いて、リュックからカメラを取り出し、それを撫でながら言う。潤はすらすらと自分の考えを口にできて、いいなと思った。

    「まあ、でも大学で出会った友達に、写真は撮った人の心に残るからええんやろ、ってはっきり言われて。それから、なんかもっと肩の力抜いて撮ろ思うてな。」

    少し微笑みを見せる潤に、安心する。潤はこれまで、どんな過去があったのだろうと気になるが、きっと色々な人に会ったのだろう。そんな大切な過去を、わからないままでいたいな、と思った。

    「人から言われた言葉でちゃんと変われるなんて、なんだか素敵だよ。」

    私がそう言うと、潤が少し驚いて、そうか?と私のことを見て言った。私は目線を外さずに、まっすぐにみて、うん、と答える。

    いつの間にか運ばれてきていたアイスコーヒーは、グラスに汗をかいていた。

    「歩さんは、最近なんか好きなこと、ありました?」

    潤の言葉に、私はえっ、と少し口籠った。好きなこと、好きなこと、好きなことってなんだ、楽しいこととか、面白いこととかじゃなくて、好きなことというところに、戸惑う。なんだろう、好きなこと。強いて言えばこの時間、なんて言えたらいいのだけれど、そこまでの関係値ではないし、と考えを巡らせる。

    「僕は、最近阿佐ヶ谷の家から見える夕暮れが好きで。下落合の家も空が開けていてよかったんやけど、阿佐ヶ谷はやっぱり建物もあまり高くないから、すっきりとした空が広がっていて。なんだか詩的になっちゃうん、恥ずいな。」

    そういうと潤はくしゃっと笑った。私が口籠っていることを考えて、自分から言ってくれたのだろうか。優しさで、また涙が出そうになる。なんだろう、と少し窓の外を見て、考える。

    「私は、この前会社の先輩に連れてってもらった居酒屋で食べた、焼きそばが美味しかった。すんごい濃いの。もう、すんごいんだから。」

    好きなもの、と言われて食べ物が浮かぶことがなんだか恥ずかしいが、咲田さんと行った居酒屋の焼きそばは確かに好きだった。思い出すだけで、右の頬あたりが痛くなるほど、美味しかった。

    「えー、焼きそばかあ、いいなあ。濃い焼きそば、あんまりなさそうだから、食べてみたい。濃いのかあ、ええなあ。」

    潤は笑顔を絶やさないで、濃いのかあ、どんなんだろうなあ、と繰り返し言いながら、タバコを吸っている。やはりその姿と口ぶりは父に似ていて、私は心が温かくなる。

    焼きそばなんて、社会人になったら食べないよな、と私はふと思った。小学校の頃とかは、父にお祭りに連れて行ってもらった時に、ねだって買ってもらったことはある。でも、その記憶ぐらいしかないことに気づいて、なんだか少し寂しくなる。

    「そういう居酒屋とか、行く?」

    私が少し顔を覗き込んで何気なく聞いてみると、潤はうーん、と少し考え込んだ。

    「居酒屋は、いかんなあ。大学の時はちょいちょい行ってたけど、最近はもう、あんまり。でも新宿に、お気に入りのバーはあるな。『KARU』っていうところなんだけど、そこにはよく行く、かな。」

    そうなんだ、と私はぼんやりと返事をした。居酒屋に行かないなんて、潤はやっぱり落ち着いている人間なのだろうかと考える。あまり派手さを求めて生きている感じはない。でも、お気に入りのバーを教えてくれるなんて、少しは私のことを信頼してくれているのだろうか。

    「そのバーは、大学から行ってる。渋谷さんっていう、マスターがいて、その人にずっとお世話になっているから、もう今は月に一回ぐらいになっちゃったんだけどね。」

    少し丁寧になると、関西弁が抜けてくるのか、と私は思った。喋る速さがゆっくりになると、東京の人、という空気が潤の周りには漂う。

    「素敵なところ、だね。」

    私がそういうと、そうなんよ~、と言ってまたタバコの煙をふうと吐いた。こうして、何気なく話せる男なんて、今までにいただろうか。潤からはなぜか、性的な欲求みたいなものがあまり感じられない。大学時代に会っていた男とは、なんか違う、そんな不思議な気持ちになった。

    そういう出会ったことのない人に、今で会うことに、何か意味はあるのだろうか、なんらかの運命のいたずらなのだろうか。父から言われたいろいろな言葉が頭の中に浮かんでは消えて、ふわふわとした気持ちになった。私は、窓から差し込む光に照らされた潤のタバコの煙を見つめた。


    *


    「ほいなら、とうとう結婚するんか。」

    社会人1年目の夏、潤は葉と電話をしていた。月に一回ぐらいの近況報告の会のような時間で、葉が急に、俺結婚するかも知らん、と言い出した。

    「まだわからんけど、俺はしたいと思っとる。結局まだ、プロポーズもできてへんけど。」

    葉は山口の職場で出会った、同期の女性と五月前ぐらいから付き合っていて、同棲を始める準備をしているという。慣れない土地で、いい人を見つけ、さらには棲家まで整えようとしている葉のことを想像して、やっぱりちゃんとしてるやつだな、と潤は思った。

    「同棲してから色々と見えてくるやろうな。なんか、葉が結婚って、まあするだろうとはおもっとったけど、いざ本腰って話になると、なんだかウケるな。」

    潤が少し笑いながら言うと、葉も、な、と言って、少し笑っているようだった。

    「大学生の時は、なんか世の中嫌ってた気がするけど、山口に来て何ヶ月か経った頃には、なんや、こんな世界もあるんな~、って思ったさ。」

    なんとなく、葉が大人になってしまった気がして、潤は電話越しで寂しくなった。要は学生時代はかなり遊んでいた印象もあったし、逆に真面目に授業に出ている一面もあった。そういう人間っぽいところは変わっていない気がした。

    「んだな~。」

    潤は寂しい、なんて言葉はもちろん言えずに、そっと言葉を返した。

    「そっちはどうや?」

    潤は自分の近況を聞かれて、少しだけ頭を悩ませた。特に何も変わり映えのない日々。何かハイライト的なことがあるだろうかと振り返るも、何もない。

    「別ん、なんもなくても教えてや。ただ潤が生きてるだけでも、俺は嬉しいんやから。」

    葉が電話越しに、少し照れた感じで呟く。潤はその言葉を聞いて、大切にしてくれている人がいることの幸せを感じた。

    「そうだな。最近は、普通に仕事してるよ。そう言えば、葉とは一緒に行ったことがなかったけど、新宿のタイムスっていう喫茶店に学生時代から通ってるんやけど、そこで出会った不思議な女の子がおるわ。」

    おお~、と葉が少し興味深い感じで言葉を繋いだ。なんやなんや、ええやん、と葉が嬉しそうにする。その様子を感じて、潤はまた少し顔が綻ぶ。

    「タイムスでたまたま俺が花壇の花の写真撮ってたら、その子が同じ花の絵を描いているのを店内で見つけてさ。あ、席はたまたま隣になったのだけど、そこから。なんか、不思議な出会いだよなあ。」

    なるほどなあ、と葉が返事をする。少しにやにやしていることが声色からわかって、潤は少し恥ずかしくなった。

    「ほんなら、好きなんか。」

    葉が唐突に聞いてきたので、いや、と反射的に返事をしてしまった。好き、ではない。なんとなく一緒にいたいだけ、同じ空間にいると和む、そんな感覚だけで、そこに名前はあまり気にしていなかった。

    歩といる時間は、ゴールデンウィークの後も何回か続いた。一緒に居酒屋に行ったり、映画を見たりもした。それでも、お互い付き合うとかそういう話にはならない。次に会う約束もしないでいつも別れるが、なんだかんだで休みの日にはどっちかが連絡して会っていた。

    「なんだろなあ、いつもの俺の恋愛、っていう感じなんだけど、また違うような気もする。」

    電話越しに葉に話しながら、自分の感情を整理する。人に話したのはこれが初めてだから、潤は少しくすぐったい気持ちになる。

    「まあ、俺らの関係もそんな感じだったからな。別に名前とかなかったけど、一緒におったし。」

    そうやな、と潤が返事をする。たしかに葉との時間も、大切な時間だった。潤には、恋愛感情はなけれど、居心地が良かったし、一緒にいることが当たり前になっているのは確かだった。

    「関係性に名前をつけるっちゅーのは、案外残酷なことかもしれんな。」

    葉の言葉を聞きながら、そう言えば朝飯を食べていなかったと潤は思って、部屋の棚に置いてあった六枚切りのパンをトースターに突っ込んで、レバーを引いた。

    「結婚とか付き合うとか、もちろんそれがありゃ安心はするし、ずっと一緒にいなきゃいけない責任みたいなものもあるやろうけど、なんか縛っている感じもあるし、本当の信頼じゃない感じもあるよな。」

    潤は頭の中がだんだんと整理できてきて、少しすっきりとした気持ちで言葉を繋いだ。

    「まあでも、結婚はええぞ。やっぱりな、人は安心せな生きられんねん。言葉を持ってしもうたから、そりゃがんじがらめに言葉で約束しないと、生きていけん。し、結婚したいと思う相手に出会ったら、してもええと俺は思う。せやから、俺もするだろうし。」

    まだわからない未来のことを、葉は楽しそうに話している。六畳一間の潤の部屋が、なんだか寂しく見えてきて、潤はタバコを手に取りベランダに出た。今日は夏日で、空がよく晴れていて、じとっとしている感じもある。あちぃ~、と言いながら、タバコに火をつけた。

    「結婚、かあ。まずは付き合ってから、なんてことも考えるよな。俺の場合はセックスのこともあるし、そこにこだわりがあったら、向こうが可哀想だろうし。」

    性の話はまだ、歩とはしていない、というかできない、と潤は思っていた。傷つけられてきた過去もあるし、情けないと自分のことを卑下した時期もあった。だから、簡単に開けられるところじゃないよな、と思っている。

    「せやなあ、そこはお互いでちゃんと話さんと、わからないとこやろうな。」

    葉は大学生時代に、至って普通の男子の欲求を持っていたから、自分の欲望に悩まされている時期もあった。それでも、自分の中で男と女の間にある壁のようなものは薄い気がする、と潤に打ち明けていた。

    「んまあ、全員が全員、性愛を求めているわけじゃないし、話さんとわからんよな。傷を持たせるぐらいなら、離れた方がいい時もあるやろうし、な。まあ、大体の人間は、セックスが魅力的なんやろうけど。」

    そうやな~、と葉が言うと、なんだかそれもなあ~、とため息をついた。こういう話を何気なくできるところも、なんだかいいなと潤は昔から思っている。

    「なん、まあ、とりあえず踏み入った話をしてみてもええかもしれんな。出会って何ヶ月か経ってるんやし。」

    葉の言葉を聞いて、少し背中を押された気がして、潤は嬉しくなる。今度歩に会った時に、それとなく話してみるのもありだな、と潤は思った。でも、なんかそれも違う気がして、少しもやもやした気持ちが残る。

    「ま、潤のペースでええんやないか。そんな焦ることでもないやろうし。」

    そうだな、と潤はタバコの煙をふうと出しながら、ごたついた声で返事をした。焦ることでもない、本当にそうだと思った。

    葉は、ほなまた、と言って、電話を切った。潤も咄嗟に、うん、また、と言って電話を切った。

    葉も結婚、かあ。と空を見ながらつぶやく。なんと泣く寂しい気持ちもするし、人間の感情は変わっていくものなんだなと、思った。

    今日は月曜日で、会社は夏季休暇で一週間ほど休みだった。なんとなく歩に連絡したくなり、潤はタバコを吸いおえて部屋に戻り、スマホで「いまなにしてるん~?」と歩に連絡した。

    歩からすぐに返事があり、「なんもない、公園行きたい。」とメッセージが届いた。潤は、「じゃ、いくか~。」と返事をした。公園かあ~、と潤は少し頭を悩ませた。

    パッと思いつくのは新宿御苑だが、なんとなく今日は違う気がしていた。池袋に少し開けた芝生のある広場があった気がして、そこを歩に伝えた。歩からはまたすぐに返事が来て、十二時にそこに集まることになった。

    潤は少し焦げたトーストにバターを塗って、さっと食べて、準備を始めた。

    阿佐ヶ谷から池袋は、一度中央線で新宿に出てから、山手線に乗り換えるルートだ。なんかもっといい行き方はないかと潤は少し歯磨きをしながら考えたが、見つからなかった。調べるのもめんどくさいなと思ったので、とりあえずタバコと本をリュックに入れて、家を出た。

    平日の電車は空いている。潤は中央線で新宿まで行くのが好きで、鈍行で行くのがお決まりだ。なんとなく今だけは、心の中を空っぽにしていい気がして、空いている席に腰掛けて、ふうと息を吐く。

    「ついたあ」

    池袋の降り立ったぐらいの時に、歩からラインが飛んできた。歩はいつも待ち合わせ場所に着くのが早い。きっと真面目なのだろうなと思っているが、歩も待っている時間が好きと前に言っていた。潤は「もうすぐ着く。」と返事をして、池袋の出口を出て歩き出した。

    豊島区立南池袋公園。ここはテラス席のある大きなカフェの前に、芝生が広がっている。前に大学生の時に訪れたときは改修中で芝生に入れなかったが、今日はのんびりとしている人たちが多いことが遠目から見てわかった。きっと、入れるのだろう。

    公園の入り口に歩を見つけた。歩と目が合い、二人で安心したように微笑み合う。

    「今日はシャツなんだ。」

    歩が潤の服装を見て、興味深そうにつぶやく。歩は最初に会った頃から、少しおてんばというか天然で、思ったことは全部口にする人であることを、会話の節々に感じていた。潤は、自分とは逆だなと思っていた。

    「そう、暑いし、なんだか芝生に合いそうだなと思ったから。」

    潤は少し照れくさそうにシャツの裾をいじりながら、返事をした。それをみて、歩はふふ、と笑って、アイスコーヒー飲みたい、と言った。潤と歩は二人でカフェに入った。

    店内は天井が広く、木でできた空間が印象的で、快適に過ごせる二階席もある。潤はここにきた時の思い出を振り返って、なんだか懐かしいなと思った。一人で来たことを覚えている。

    一階にはずらりとパンが並んでいて、潤は歩に、何か食べる?、と言ったが、歩は首を横に振った。お腹いっぱいなのかなと思い、潤は自分の分のメロンパンをトレイに乗せて、レジに向かった。二人分のアイスコーヒーも買った。

    「今日の空は、どんな感じ?」

    外に出ると、歩が大きく伸びをして、潤に聞いた。潤は、うーんと悩んだ。

    「なんか、晴れているけど落ち着いている感じがあるかな、雲が多いし、じめっとしている感じもあるけど、嫌な感じもしない。なんだろうな、例えるなら。」

    潤は、何かを喩えるのが好きなことを、歩は知っている。歩はその悩んでいる潤のことをいたずらに見ることが好きだった。

    「ペンギン。」

    歩がそう呟くと、潤は、へ?という顔で歩のことを見た。

    「ペンギン?」

    そう、と歩は返すだけで、その理由は何も教えてくれなかった。潤は歩のそういう不思議なところを、嫌な顔せずに真剣に悩んでいる。歩はその姿をみて、また優しいなと思った。

    芝生の端っこに座ることにして、二人はシートを敷くことなく転がるように座った。ふあ~、と言いながら、歩が寝転ぶ。

    この二ヶ月ぐらいで、歩と潤の距離は少しずつ縮まっていった。一緒に散歩して、カフェに行くこともあるし、タイムスで何も喋らないで過ごす時もある。お互いがお互いを感じて、それで満足したように、二人は別々の家に帰る。

    それを繰り返しているうちに、潤も歩も、少しずつ心を許すようになっていった。潤はより落ち着き、歩は少女のようになった。

    「晴れていても、空はなんだか、青いから寒そうにしてる、だから、ペンギン。」

    歩は仰向けで寝そべり空を見上げながら言った。潤は、近くにあるアイスコーヒーが溢れていないか、心配そうな顔をしている。潤は、そっか、と言って、膝を立てて座りながらつぶやいた。

    「ねえ、寂しそうな顔、しないでよ。」

    歩が突然、泣き出しそうな顔で、それでも明るく、つぶやいた。潤は、えっ、と口ごもり、歩の顔を見た。

    「なんだか潤は、私といる時でも、どこか一人みたいな、そんな顔をしている気がする。ずっと。五月に家に行ったときに話したのに。それがなんだか、私まで寂しくなってくる気がしてさ。」

    二人がいる芝生は、よく水が散布されているのか、青々としていた。少し固い葉をつけている芝生。なんだか潤は、居心地が悪かった。

    「そう、なんかな。」

    潤が言うと、歩はそうだよ、とそっけなく言った。

    「もっと、寄りかかってきていいのに、って思うよ。私たちなんだから、というか、私なんだし。」

    そういうと、歩は空を広く見渡して、伸びをしながら体を起こした。徐に隣にあったアイスコーヒーを拾って、ごくごくと飲み出した。

    「なんか、わからないところが多い。自分が歩んでいる人生が正解なのかもわからないし、このまま愛されないで生きていくなんて、それも寂しいなって思ったら、どうせ自分なんて、って思っているところはある、かも。」

    潤は、そう言いながら、自分の言葉がすらすら出てくることに驚いた。何者でもない自分が、何を語っているんだとも思ったが、なぜか歩には、自分の気持ちを伝えてもいい気がした。

    潤の言葉を聞いた歩は、少し微笑んでいた。

    「私は、潤のこと、愛してる。愛してる?んー、なんだろうな、一緒にいたい、人生を見ていたい、私のことも見ていてほしい、そんな気持ち。」

    歩は少し照れた様子で、明るく言った。その明るさに、潤は心がキュッと締め付けられる感覚があった。それは、嬉しさと切なさと、何かの感情が混ざったような、不思議な気持ちだった。潤は、ありがとう、としかいうことができなかった。

    「なんかさ、」

    潤は、今から自分がいう言葉が怖い、と思いながらも、今なら伝えられる、と思って、言葉を繋ごうとする。

    「俺、セックスが嫌い、なんだよね。前にも言ったかもしれないけど、末梢神経系の病気で、末端の感覚がないから、何も感じなくて。それで、高校の時は傷ついたりもして。」

    歩は、うん、うん、と丁寧に話を聞いている。この話は、なんとなくゴールデンウィークが終わったぐらいの時に歩が潤の家に来た時の、駅からの道中で話したのだけど、特に驚く様子もなく、ただそこにいて、潤のことを受け入れてくれる、そんな空気が纏われている。

    「だから、その、歩とも、体を重ねたいとは思うけれど、それは好きだから、愛があるからであって、自分の性欲からじゃない、というか。だから、その、満足させられないかもしれない、なんて思ったら、ちょっと怖くて。」

    潤は体育座りをしたまま、俯いて言葉を繋いだ。

    潤の言葉を聞いて、歩は急に吹き出して、笑い出した。

    「ねえ、私のことちゃんとわかってないでしょ。そんなことで、私が潤から離れると思う?私の愛、舐めないでほしいわ~。てか、それ前も言ってたじゃん。」

    歩は明るく、潤の話を笑い飛ばしてくれた。その瞬間、潤の中の何かが解けていった気がして、潤は少しだけ涙ぐむ。でも、なんだか歩なら受け入れてくれる気もしていたから、潤も笑うことができた。

    「私ね、大学生のころは、セックスばっかり。もう毎日、毎日。でも、何も感じなかったんだよね。セックスしたからと言って、何かが満たされるわけでもなく、ただ何かが渇いていくだけ、だったよ。」

    歩は少しおどけながら、自分の話を赤裸々に語った。大学生なんて、そんなもんでしょ?、という言葉を添えてくれたから、潤は小さく頷いた。

    「私も、色々考えたよ。本当の、潤いのある恋愛ってなんなんだろう、って。でも、本当は関係性の名前なんていらなくて、それでも何かに縋るようにその人を求めてしまう心。そんなことなんじゃないかなって。」

    歩は少し俯いて、打ち明けるようにそう言った。歩の過去は知らないが、今までの恋愛で様々なことを感じてきたのだろうと、言葉の靡く節々から伝わってくる。潤は、そっか、と言った。そして、今度は潤がでろんと、芝生に寝転んだ。

    「安心できる関係性なんて、こんな突拍子もないところから、やってくるんやな。」

    潤は空を見上げながら、今までの人生を少し振り返った。なんだかんだで、本当に愛されたことなんてなかったから、歩の言葉を静かに心で反芻して、満たされた気持ちになる。

    「まさか、タイムスで偶然出会ったのに、こんな関係性になるなんて、ね。」

    そう、と潤は返事をした。









     
     
    わんこと都内でのんびり暮らす28歳

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