
潤愛 第四章 「紫水」
こちらの作品は #創作大賞2026 #恋愛小説部門 への応募作品となります。文字数は75000字(文庫本で230ページほど)ありますので、ゆったりと読んでいただければと思います。
あらすじ(141文字)
私は、人のことが好きになることなんて、わからなかった。今まで知らないまま生きてきたし、それでもどこか幸せになりたい、そんな気持ちを抱いていた。そして、知らないまま、きっとこの先も、生きていくのだと思っていた。きっと彼も、そんな過去を抱いたまま、私と時間を過ごしてくれていた気がする。
第四章 紫水
潤は、ゴールデンウィークの最後の日の夜に、新宿のバー『KARU』に来ていた。なんとなく、このまま仕事に戻ることが嫌で、そして、渋谷に会いたくて、来た。
「お~、潤。久しぶりだな。」
相変わらず、二十二時ぐらいの店内は静かで、カウンターには渋谷さんがぼんやりと立っていた。特に何も変わっていない店内。大学生の頃にきた、この場所も、ずっとここにあるんだよな、と、潤はドアを開けて少し店内を見ながら思った。
「幾つになっても、この場所はやっぱりいいですね。」
潤はカウンターに腰掛けて、渋谷に話しかけた。何でもかんでも話すわけではないけれど、暗い部屋の中でこうして座り込むと、なんだか夜に溶けることができる気がして、潤は安心する。
「まあ、そういう場所だからな。迷ったり悩んだりしている時に来る人が多いから、自分だけの時間を楽しんでいる人が多い。」
渋谷は、相変わらず繋ぐような言葉を発する。まだ自分は、渋谷のような大人にはなれていないけれど、憧れのようなものはある。
カルーアミルクを頼むと、渋谷は何も聞かずに、ほいよ、と言って作り始めた。
潤は、大きなあくびをした。
「縫っても結っても切れない関係性なんて、きっとないけど、この場所はそういうものをかろうじて、繋いでくれている気がするよ。」
カクテルを作りながら、渋谷はぼんやりとつぶやいた。渋谷から話してくるのは少し珍しいなと潤は思って、そうですね、と潤は返事をした。渋谷は年齢こそ聞いていないが、多分四十代ぐらいな気がする。左手の薬指には指輪があるから、結婚していることも知っている。
じめっとした暑さが、ここまで歩いてくる途中に潤の胸を満たしていたが、ここは少し涼しい。
「社会人になってから、なんだか色々大人になったなって思います。それがなんなのか、何が大人になったのかはわからないけど、心が平穏な気がして。」
潤が何も考えずに言うと、渋谷は、そうか、それはいいな、と言った。
「大人になるなんてことは、いいことばかりじゃないが、まあ、子供の頃よりはいいかもしれないな。」
そう言いながら、渋谷は出来上がったカルーアミルクを机の上に差し出した。
潤は、それを手に取り、少し飲む。ミルクのほんのりと甘い味が、胸の中に入り込んできて、心地が良かった。こういう甘いお酒をまだ飲んでいることは、大人になりきれていない証拠なのか、とふいに思って、潤は少し恥ずかしくなった。
「そういえば、渋谷さんは昔はどんな恋愛をしていたんですか?」
まだ酔っていないうちに、渋谷のことが少し知りたいと思って、潤は何気なく聞いた。
「俺の昔の恋愛か。まあ、散々なものだったよ。」
客が少ないからか、渋谷はカウンターの奥にある席に腰掛けて、タバコを吸い始めた。潤も、大学生の頃はここで吸うことを躊躇っていたが、渋谷が吸うならいいだろうと思い、リュックからタバコの入ったポーチを取り出した。
「昔は、俺も惚れっぽくてさ。付き合っている彼女がいるのに、浮気ばっかりで、ダメ男だった。自分で言うのもなんだけど、まあモテないわけではなかったからさ。んで、散々彼女のことを傷つけて、泣かせたりしたこともあった。」
渋谷は昔の記憶を辿るように、タバコを持った自分の手を見つめながら、小さな声で話し始めた。
「なんとなく、会社員をしていた頃に、新宿の居酒屋で飲んでたんだよ。確か、同僚と二人で、しっぽりと会社の愚痴を言い合っていた気がするな。そこで、隣の席に座ってたのが、今の嫁。そん時は自分もなんだかやさぐれていてな。ブラウス姿で、凛とした表情でいる嫁が、対角線でずっとちらちら見えていてな。多分、一目惚れだったよ。」
渋谷は少し微笑みながら、照れくさそうに言って、自分の左手の薬指の指輪を撫でた。なんだかその姿が、少し子供っぽくて、潤は、やっぱり素敵な人だなと思った。
「素敵な恋愛、ですね。なんだか、それまで色々と別の道を歩んできたところで、ぱったりと出会う人って、いますよね。」
潤がそう言うと、少し渋谷は黙ったままになった。何かを思っているのだろうかと、潤は少し不安になりながら、カルーアミルクを飲んだ。
「ほんと、潤は綺麗なまま、居てくれるから、助かるよ。」
渋谷が、潤の顔を見て、しみじみと言った。時が少し止まってからの言葉だったからか、潤の心にも響くものがあった。なんだか、くすぐったい言葉のような気もした。
「そんな、僕は綺麗なんかじゃ。」
潤はすぐに謙遜し、少し俯いた。今までの自分は、綺麗なんかじゃない。強いて言うならば、人に興味がない、なんか冷めている、とでも言えばいいのだろうか。
口篭っていると、渋谷は言葉を繋いでくれた。
「綺麗っていうのは、何も清廉潔白のことを指す言葉じゃないよ。人のことを、しっかりと見ている、そして、見放すことがない。たとえ向こうから離れることはあっても、潤から離れることはないだろう。いい距離感でいられることは、簡単なことじゃない。俺は、お前のそういうところが、綺麗って言ってるんさ。」
渋谷は、タバコを吸いながらも、間が開かないように、潤の顔を見ながら話した。潤は、何も言えずに、そうなのかな、と心の中で思うだけだった。自分が綺麗だなんて、友達も少ないし、思えない。
「ま、そんな臭いことは置いといて、最近はどうなんさ、社会人生活。ここにくるのも、だいぶひさしぶりだろ。」
渋谷がカウンターの奥の席を立って、台を拭きながら少し微笑んで話す。その綻びに少し安心して、なんだか潤は恥ずかしくなった。渋谷には、いつも甘えてしまう。大学生の頃から、そうだ。
「会社員は、意外と楽しいです。なんか、無関心なままで誰かと何かをするのは、意外といいかもしれないです。東京だからなのかもしれないですけど、みんな自分の人生があって、おまけで仕事しているっていうか。それが案外、自分の心にはいいのかなって。」
カルーアミルクをそろそろ飲み終えそうだったから、潤はハイボールを追加で頼んだ。大学生時代に節約して一杯しか飲んでいなかった頃が懐かしい。
「そうか、それは潤らしいな。線引きがしっかりできる人間は、会社員に向いているし、安定する心もできやすい。無関心であることは、俺は東京では褒め言葉だと思ってる。」
渋谷はハイボールのグラスをかき混ぜながら、少し切そうな顔をして言った。そうですね、と順はつぶやいて、カウンターの机についた水滴を見つめた。自分がこうして、成長していることを実感できるのも、ここにいるおかげなのかな、と思った。
ふいに、歩の顔が浮かんだ。
「あの、」
潤が小さい声で呟くと、渋谷は優しい眼差しを向けて微笑んだ。
「自分のこと、今まで話してこなかったんですけど、なんだか、話してもいいかなって思う人がいるんです。それは、最近出会った人なんですけど、」
潤が言葉を繋いでいるのを、渋谷はカクテルのグラスをかき混ぜながら聴いている。
「なんだか、知らない間に自分の中に怖さ、みたいなものが芽生えていて、それが、今すごく怖くて。その人を失ってしまうのではないかって、怖くて。」
言いながら、潤は自分の目頭が熱くなってくるのを感じる。渋谷は潤のことを見ずに、黙って話して聴いてくれている。
「こんな感情、初めてで、どうしていいかわからなくて。」
潤が言葉を繋ぎ終えると、渋谷は少し顔を上げた。
「言葉なんて、いらないんじゃないか。」
渋谷は、そっとカウンターの台に手をついて、つぶやいた。潤は、その言葉を聞いて、えっ、と小さな声を出した。
「きっと、怖いっていうのは、言わないでもいいってことな気がするよ。それは、潤の運命の中にない。だから、怖いという感情が起こるんだろう。無理して、乗り越える必要なんか、ないんじゃないか。」
潤は、胸の中に滞っているものの重みを、この場所の空気の中でどっしりと感じた。それは、黒くて煌々と囁き続ける、悪魔のようなもの。解くことのできない、何か。
渋谷はきっと、そのことを感じて、言葉を繋いでくれたのだろう。潤は、そうですかね、と少し無理して苦笑いをして、自分の感情を誤魔化した。
それから、潤は話すことがなくなり、追加で頼んだハイボールを半分ぐらい残して、店を出た。自分のために言ってくれた言葉だったのに、なんだかうまく受け入れることができなくて、それでもその優しさが痛く心を安らかにしてくれていることもわかっていたが、潤は今日はこれまでにしよう、と思って、店を出た。
店を出た時に、一通のラインが届いていた。送り主の名前には、柴木葉、と書かれていて、ラインなんて珍しいなと思って開くと、今度の土曜日に東京に行くことになったから、久しぶりに会おうや、ということだった。ゴールデンウィークをずらして、帰省するらしかった。
潤は、バーの前でぼんやりと立ったまま、おけ、と返事をして、スマホをポケットにしまった。そして、なんだか寂しさを感じて、もう一度スマホを取り出して、楽しみにしてる、と付け加えた。
*
咲田さんは、いい感じじゃん~、と言いながら、今日もどんぶらこでハイボールを飲みながら、大きく笑っていた。
ゴールデンウィークが終わり、私はまた普通の会社員生活に戻った。あっけなく終わるその休みに、少し寂しさを感じながらも、五月病というものにならなくてよかった、と安心して、会社に出社していた。
私にとって会社は、一つの居場所でもあり、いや、それは拠り所というわけではなくて、ただ自分の身体を置いておくための場所、と言った方が正しいだろうか。でも、順当に送ることができている社会人生活に少し誇らしく思う自分もいた。
「その人といると安心する自分がいるっていうか、自然体なんです。顔もまあ、かっこいいんですけど、そこまでタイプとかではなくて、でもその人が纏っている雰囲気が好きで。」
咲田さんは、ふう~ん、とニヤニヤしながら、今日も恋焼きそばにがっついている。その少年のような姿に、私もそっと安心して、心の奥を打ち明けることができた。
「なんだか最近、歩の顔が和やかな気がしたんだよね。ゴールデンウイーク明けてからかな、ちょっといい女になったじゃん、って雰囲気で思ってたんだ。」
咲田さんの言葉に、私は少し照れた。いい女、なんて今まで言われたことがなかったし、どこかそういう言い方を軽蔑していた感じがあった。でも、咲田さんに言われると、なんだか心が跳ねるような気持ちになった。私は、そうですか~?、とわざとぶっきらぼうに答えて、濃い焼きそばを頬張った。
「やっぱりね、安心できる存在は誰にでも必要なの、それは異性とか、恋愛関係とか、そういうのじゃなくてもいいから、この人と一緒にいると落ち着く、そんなことが思える人がいると、幸せなのよね。」
咲田さんは、少し寂しそうに言った。ハイボールをぐいっと飲んで、はあ、とため息をつく。そういえば、咲田さんの恋の話はあまり聞いたことがない。
「咲田さんは、今までどんな恋愛、してきたんですか?」
ん?、とぶっきらぼうに返す咲田さんは、少しおどけた顔をして、うーん、と考えだした。
「私は、別に大した恋愛なんてしていないんだ。けど、一個だけ覚えているとしたら、」
そういうと咲田さんは、少し話をもったいぶって、ハイボールのグラスをカランカランとゆすった。私は、唾をごくりと飲んで、話の続きを待った。
「一回だけ、子持ちの男を好きになったことがあるの。それも、大学生の時。だから、ちょうど6年前ぐらいかな。その時は、なんだか必死だったな。」
「必死?」
「そう、必死。その人のことを、ここに留めておかないとってね。」
咲田さんは、胸に指を当てて言った。
「知らない間に、お父さんが大学生の子と不倫してた、なんて言ったら、歩ならどう思う?」
言われて、私はお父さんの顔が思い浮かぶ。お父さんは、お母さんと離婚する前、確かに不倫、していた。
「うちの父は、不倫していたんです。しかも、私が小学生の頃、私にそれを楽しそうに話していました。無邪気な少年みたいに。」
「それ、まじ?」
思ってもいなかったであろう私の返答に、咲田さんが少し引いたような顔で私のことを見つめた。
「まじです。でもお父さん、お母さんと別れた後も、私と妹のことを気にしてくれて、大学の学費まで援助してくれたんです。」
私は、自分の声色が自慢げになっていることに気づいた。自慢する話でもないのに。
「それは偉いじゃん、できる男、なのかわからないけど。」
自分がしたかった話が、あっという間に違う方向に変わって、咲田さんがどんな顔をしているか心配だったが、むしろ私の話の方が聞きたそうな顔をした。
「そうなんです。お父さんは、タバコも吸うし、女遊びもするし、でも子供の私たちのことはしっかりと考えてくれていて、なんだか、いいのか悪いのかわからないですけど、私は好きでした。」
そっか~、と咲田さんは微笑んで、私の顔を可愛げに見つめてくれている。
「結局は、愛の方向性は人によって違うってことなのよね。」
「そうなんですよね、本当に。届いているかどうかも、受け取る側次第っていうか、なんというか。」
「そうそ、ま、結局私は音信不通になって終わったけど。」
でも好きだったな~、と、咲田さんは濃い焼きそばを食べながら言った。ブラウス姿に、どんぶらこのチープな内装。咲田さんも、当たり前だけど生きているんだよな、と私は思った。
「ま、うちら、イマミル同盟だし、今のことしか考えなくていいってことよ。」
乾杯、と言って、咲田さんは私のグラスにコツンと自分のを当てた。確かに、と私は笑って、ぐいっとハイボールを飲んだ。
「んで、どうなんさ、その彼とは。」
「うーん、なんというか、よくわからないんですよね。好きといえば好きだし、そうじゃないといえばそうじゃない。でも、また会いたいと思っている自分もいる。なんか、初めての感情で。」
「そっか~。」
咲田さんは、少し考えた表情になりながら、水を飲んだ。
「でもさ、なんだかんだで、そのぐらいの距離感のほうがいいのかもしれないよね。よく、ドラマチックに好きっていう感情があったほうがいいっていう小説とかあるけど、私はそうは思わないっていうか。歩みたいなそういう感情は、意外と長続きするのかもね。」
そうなんですかねえ、と私は相槌を打った。長続きする、という言葉に、私は少し心がふわりと浮いた気がした。
「ま、長続きすることが全てではないんだけどね。でも、人って長く一緒にいたほうが、熟年夫婦みたいになるっていうかさ。」
うんうん、と私は咲田さんの目を見て頷く。
「離れない、なんていうのは結局は、意地、みたいなところがある気がするんだけど、わかる?」
「わかります、ここまで行ったらもう、行くしかないだろう、みたいな。」
そうそう、と咲田さんが頷く。そうだ、人間関係は、長続きすればするほどいいと思われるが、最後に繋ぎ止めるのは、その人と過ごしてきた時間なんだ、と歩は思った。
そもそも、母と父はそんなに一緒の時間を過ごしていなかった気がする。食事もいつも別々だったし、生活のリズムはお互いあるのかは知らなかったが、私が小学校だった頃は、朝に母が起きて、夕方に父が起きて、という感じだった。
「だから、ちょっとでも居心地がいいなって思った人と、長い時間、細くてもいいから一緒にいることは大事なんだよね。」
咲田さんは、またハイボールをごくりと飲んだ。
「それだからさ、いいんじゃない?その人。告白とかはしなくても、一緒にいたらいいじゃん。浮気なんて、男なんだからするもんでしょ。」
えっ、と、咲田さんの言葉に、私は少し引っかかった。浮気なんて、されたくない。潤は私だけを見ていて欲しい。そんな感情たちが、沸々と顔を出してくる。
「あら、あんた、ほんとに好きなのね。」
咲田さんが、私の反応を見てにやにやとしながら言ってくる。私は何もいえないで、右の耳あたりだけが熱くなるのを感じる。
「なになに~、幸せじゃん。やっぱり最近、艶が出てきたなって思ったのは間違いじゃなかったか~。」
「そんな、言い過ぎです。まだ何も始まってないし。」
「始まってるじゃないの~、恋心はね、相手が生まれた時から始まってんの。あ、これ、占い師から言われたことなんだけどね。」
咲田さんはそう言うと、笑うところだよ、と付け加えて、私のほっぺを机越しに小突いた。私は、へへっ、と顔を赤くして、ハイボールを飲んだ。
「咲田さんの恋愛の話、もう少し聞きたいです。」
咲田さんは、私?と不思議そうな顔をしながらも、なんだか少し嬉しそうな気もした。
「そうねえ、その人は特に仕事をしていなくてさ、孤児園のボランティアに行ったときに出会ったの。ボランティアなんてくだらない、なんでそのときは思ってたんだけどね、なんか色々調べると、私も放って置けなくなっちゃってさ。で、その人もそのボランティアに参加してたの。ほら、そういうところにいる人って、なんか正義感を振り翳している人か、本当に優しい人か、本当に暇な人、じゃない?まあ、その人は優しい人と暇な人の間、みたいな人だったんだけどね。」
私はハイボールに手をつけず、咲田さんの話を静かに聴いている。
「大切なものは、人それぞれなんだよね、って、同じグループワーク?みたいなものをしたときに言われたんだよね。そのときは、その人に家族がいるなんて知らなかったんだけど、私はそういう、何気ないことをさらっと言える人に憧れた、というかな。ウケるでしょ。」
私は首を横に振った。
「どんな色を飾ってもさ、分かるものは分かるじゃない。その人は、というかそのときは夏だったんだけど、普通のシャツにジーパンでさ。でも、子供たちと触れ合うときはいつも笑っていてね。それを横目で見るのが、ちょっと好きだったなあ。あ、孤児園のボランティアは確か、週に三回を二か月やったんだけどね。」
いつのまにか好きになってたな~と、咲田さんはぼんやりと、席から見えるどんぶらこのドアの向こうの路地を見つめた。その視線はなんだか、寂しさというよりは、誇らしさ、のようにと見えた。
「素敵な人、だったんですね。」
私は思うままに、やっと言葉を繋いだ。こういうときに私は、ぶっきらぼうに返事をしたりふざけたりする人が嫌いだから、真っ直ぐと、咲田さんの目を見て。
「うん、素敵だった。本当に素敵だった。」
でもね、と咲田さんは少し俯きながら、話を続ける。
「どんなに思っても、叶わないものはあるんだなって、そのときは思ったな。ほら、その人は妻子持ちだし、家庭がある。そして、私に向けられた優しさはきっと、人として大切にしてくれていたから、なんだと思うんだよね。それは、恋愛ではない何か、だった気がしてさ。そう考えたら、恋愛ってなんなんだろうって、必死になっちゃってさ。」
咲田さんの声色は、だんだんと涙交じりになってきて、少し目元を指で擦った。
私は黙って聞いていることしかできずに、なんとなく過去の恋愛を思い出していた。そんなに大切に思ったことのある人、これまでに居なかった。
「たった一人、でいいんだけどね。そういう人に、私もこれからの人生で、出会いたいな。」
咲田さんは顔をあげて、目一杯笑って見せた。その顔は、強さと優しさ、そしてほんの少しの切なさを感じさせた。
*
ゴールデンウィークが終わった土曜日の朝、いつも通り、大学の時と変わらない感じで、葉が潤の家に来た。でも、大学の頃は下落合の家だったから、少し広くなった阿佐ヶ谷の家の来るのは初めてだ。
「こりゃまた、ええ感じのところやな。」
一通り家の中を見た後に、葉は窓際に行き、空の開き具合を確認した。ほえ~、と言いながら、阿佐ヶ谷から見える空を見上げている。
今日は雨が降っているから、結局喫茶店などには行かずに、潤の家でのんびり過ごそう、ということになった。
「どなん、最近は。」
なんも変わらんよ、と葉の言葉に返すと、そんなわけないやろ、とちょっと寂しそうに葉は言った。
「社会人になって、ゴールデンウィークも終わって、ええ感じの人もいて、ええやんか。」
葉に今の自分を言葉にされて、確かに、と思った。今の自分には、何もかもある。いや、何もかもというわけではないが、幸せを感じる要素はなんでもある。
「まあ、確かにそうか。ある程度は幸せかもな。」
潤はコーンフレークに牛乳を注ぎながら言った。葉がカーペットに座り込んだまま、キッチンを覗いて俺も、と言うから、葉の分の器を取り出して、コーンフレークを作った。
「こっちゃ、ご老人たちの井戸端会議しかねんだわ。まあ、婚約もしたから幸せではあるんやけど、俺の恋愛感情が特殊だから、やっぱり都会の男女が溢れているところに憧れるところは、あるやんな。」
そっか、と潤は返事をして、テーブルに器を二つ並べた。
「でも、結婚したら、浮気なんかせんやろ。」
「せんせん、意地でもせん。でも、それと性欲みたいなもんは、また違うやんか。」
「まあ、確かに、それはわかるけども。」
だろ~、と言いながら、ザクザクと葉はコーンフレークを食べ始めた。お互いのセクシュアリティをなんとなく知っているからこそ、こういう話もなんとなくできる。
「でもなんやろうな、大学の頃みたいな、爆発的なもんは無くなったかもな。体が欲してる、みたいな感覚、あれはないな。」
「こっちは最初からないから、わからんのやけどな。」
そうやったそうやった、とぶっきらぼうに葉は言った。
「やっぱり潤は、心でイくタイプなんだよな。なんか、ロマンあるよな、それ。」
言われて恥ずかしくなり、うるせえ、と言いながらフレークを頬張った。
「でも実際、どんな感覚なん?恋する時とか、電話でええ感じの人がいるゆうてたやん。」
恋っていうか、と潤は反射的に返事をした。
「なんだろうな、その人へは恋心、というよりはもっと柔らかくて暖かくて、もっとぼやけているというか。それでも、いなかったら俺の人生は成り立たない気もする。それが一人いる、ってだけかな。」
ほ~ん、と葉は不思議そうな顔をして、潤の顔を見つめる。
「なんか、ほんとにわからんところで潤は感動しているし、わからんところで悲しんでる気がするわ。」
「確かにそうかもな。変に人の感情とかがわかる気がしてからは、意外と大変かもしれん。」
な~、人って色々やわ、と言いながら、葉はシンクに器を戻した。
「阿佐ヶ谷って何あるん?なんか、喫茶店しかないイメージやけど。」
「まあ、あながち間違ってはいないな。マジで喫茶店しかない。でも、喫茶店はめっちゃあるけどな。」
葉は喫茶店か~、と言って、カーペットに寝転んだ。どうやら、そういう気分でもないらしい。今は朝の十時ぐらいで、空いているところと言ったら喫茶店ぐらいなのだけど。でも、男二人で新宿に繰り出すのもなんか今の気持ちだと乗らないな、と潤は思った。
「新宿に行くのも、なんだかあれやしな。やけど、喫茶店、うーん、まあ、ええか喫茶店でも。コーヒー飲みたいし。高円寺、行かへん?」
「ああ、高円寺いいな。俺も一個知ってるところあるわ。」
そう言いながら、潤は杏花のことを思い出して、少し胸が苦しくなるのを感じた。あの時、連絡が取れなくなった杏花。雪の日を最後にして、会わなくなった杏花。
「ほな、行くか~。」
葉はテーブルに置いてあるスマホをポケットに入れて、持ってきたリュックはカーペットに置きっぱなしのまま、立ち上がった。
二人は、阿佐ヶ谷から高円寺までぼんやりと歩いていくことに決めて、家を出た。雨は少し小降りになっていて、傘をさすほどではなかった。
土曜日の阿佐ヶ谷から高円寺までの高架下の道には、様々な人がいる。華金帰りのカラオケ終わりのサラリーマン、土曜日も働いているであろうビシッとした人、どこで働いているのかわからないスウェット姿の女性、騒ぎながら歩く小学生。色々な人を横目にしながら、二人は淡々と歩いた。
「なんか、東京はええなあ。」
「そうか?どこが?」
葉は細い目で街を眺めながら言った。潤はずっと東京にいるからか、その良さのようなものは分からなかった。
「人がいるって、意外と落ち着くんだよな。自分もこの中のただの一人なんだよな、特別にならなくていいんだよなって、落ち着いて言われている気がして、なんかええ。」
特別にならなくてもいい、確かにそうだと潤は思った。道ゆく人たちのことはすれ違って何秒かで顔も服装も忘れるし、そうやって流れていく景色には、なんとなく安心感があるのも分かる。
「まあ、たしかに。それもそうだな。人それぞれ場所があって、そこからのんびりと顔を出して過ごしている感じはあるな。」
せやねん、と葉は返す。何も分からなかった大学生とは違って、だんだんと世の中の体裁のようなものが分かってくる歳で、人生ってこんなもんかと二人は思っていた。だからこそ、葉は仕事で行った山口で、身を固めてしまうかもしれない。
「あれ、なん?」
ふと歩いているときに、赤い屋根の店を指差して、葉が止まった。ちょうど阿佐ヶ谷から高円寺の中間地点ぐらいだった。なんとなく指さされた方向を潤は眺めた。喫茶なのか雑貨屋なのか分からないが、戸建てのようなその店は、懐かしい気持ちが芽生える雰囲気があった。
「はいる?」
高校生の頃に行った高円寺の喫茶店に行こうとしたが、まあ歩くのも疲れたし、ここでもいいかと潤は思った。葉は、はいるか、と頷いて、二人で足を向けた。
赤い屋根の店は、小さな喫茶店だった。扉の近くに少し雑貨も置いてあり、この前歩が買ってきていたキリンの置物のことを思い出した。ぼんやりと二人でその雑貨を見ていると、中から二十代後半ぐらいの女性が明るくやってきた。
「いらっしゃいませ。」
その女性は、肌が白く髪に艶があり、すごく華やかな空気を纏っていた。葉は思わず背筋が伸びている様子だった。潤も少しうっとりとしてしまい、二人は返事をするのが一拍遅れた。
女性が案内してくれた窓際の席からは、何気ない家が見えるだけだった。ひっそりとした路地の路肩には、どこかの家の花壇が見える。あれはマリーゴールドか。
「アイスコーヒーでええか?」
あ、うん、と潤は反射的に返事をする。気がついたら、女性がテーブルの横に立っていて、注文を聞きにきていた。葉はメニュー表を見ながら、アイスコーヒー二つで、と言った。反射的に見た女性の左手の薬指には、指輪が光っていた。
「なんか、ええ雰囲気やな。」
「そりゃこの辺の老舗って言ったら、そうやろ。」
そうか~、と葉は頬杖をついた。
「アイスコーヒーお待たせしました。」
程なくして、女性がお盆にふたつのグラスとストローを乗せて和かにアイスコーヒーを運んでくる。丁寧にテーブルに乗せられていくのを、何も言わずに少しお辞儀をして見守る。こういうときに、気さくに話すことができる二人ではないから、どちらも黙っていた。
ずーずーと、ストローで飲む葉と、グラスのまま飲む潤。なんだかその姿が妙にシュールで、潤の中で可笑しく感じられた。少し目線をずらしてさっきの女性を見ると、レジの横で静かに本を読んでいた。しっとりとした雰囲気が喫茶店の中に漂っているのは、この女性のおかげだろうか。ふと潤は、タバコが恋しくなる。
「あの、」
潤は女性に目を合わせて声をかけた。女性ははい、と優しく笑い、テーブルに近づいてくる。
「ここって、タバコ吸えますか?」
潤の言葉を聞くと、女性ははい、と答えて、厨房から灰皿を持ってきた。その灰皿には、小さな黒猫の絵が書いてある白いお皿のような灰皿だった。潤はありがとうございます、と言って受け取り、家を出るときにポケットに忍ばせたタバコのボックスを取り出し、そこから一本。火をつけた。
「そういえば、婚約指輪買わんと、まだ先やけど、考えて損はないやろ。夏ぐらいに婚約したいから、そろそろプロポーズせな。まあ、まだ結婚するかはわからんけどな、俺だけ勝手に盛り上がっとる。」
ああ、と潤は静かにタバコを吸いながら返事をした。葉は頭を悩ませている様子はなく、義務感みたいな感じもしない。そのぐらい、葉にとっては結婚というものは小さなものなのだろうか。多分こういう話をすると、結婚指輪がいくらするとか、そういう話に普通の人ならなる感じだが、葉とはお金の話になったことがない。
「プロポーズって、なんていうん?」
言葉?と葉が聞き返す。潤はうん、と返事をして、葉のことを見つめながら煙を吹かした。
「なんやろうなあ、別にどこかに出かけるわけでもないし、普通やよ。多分、家で誕生日とかにちょっとしたサプライズ、って感じでやろかな。」
え~、と潤は少し笑った。葉はそういうロマンチックな感覚はあまりないと思っていたから、なんだか心がくすぐったくて可笑しかった。葉は変か?と笑い返す。
「いや、全然変じゃない。葉らしくてすごくいいと思う。」
やな、と葉は満面の笑みで笑った。きっと、葉はこのまま普通に結婚するのだろうな、と潤は思った。ただでさえ山口にほぼ移住しているのに、結婚までしたら、連絡を取らなくなるのだろうか。
潤には、友達という友達はあまりいなかった。大学時代もサークルに入っていなかったし、授業も一人で淡々と受けていた。飲み会にも行かなかった。好きな時間といえば、散歩と、葉が朝に来て過ごす時間、ぐらいだった。
「なんや、寂しいんか?」
葉が少し笑って聞いてくる。潤は強がって、別に、と目線を窓に向けて返す。
「ま、潤は友達やからな、これからも離れることはないんやないか。」
なんだよ急に、と潤は返事をして笑った。葉と話している時は、お互いそこにいるという感覚を共有するための言葉が多くなり、潤は少し恥ずかしくなる。
葉は、どこへ行ってしまうのだろうか。そして、自分はどこへいくのだろうか。潤は釈然としない自分の居場所を考えて、タバコの火を消した。
*
少し時間は遡って、ゴールデンウィークが終わった時ぐらい、私は潤の家の近くの街に行きたい、と言って、阿佐ヶ谷に来た。潤から、家に来ない?とラインで言われて、少し返事に戸惑ったけど、私は二つ返事でいいよ、と言って、今日を迎えた。
阿佐ヶ谷の駅を出ると、ほんのりと夏の香りがした。まだ太陽は照りつけていて、夏が始まる前の今の季節でも暑かったけれど、この前に美幸と行った渋谷よりも、なんとなく安心する街だなと思った。
潤は、阿佐ヶ谷の駅の改札を抜けたところで待っていてくれて、私を見つけるなり少し微笑んで、おう、と口で言いながら左手をあげた。
「いい街だね。」
そうやな、と潤は言った。これから家に行くのに、潤は普通な感じで、少し安心した。今日、何かが起こるかも知れないけれど、なんとなく、潤は前まで会ってきた人たちとは違う感じがした。
「ここからどのぐらいなの?」
「んー、5分ぐらいやな。」
首元にカメラをぶら下げている潤は、ぼんやりと歩きながら返事をした。私は横顔を見ながら、前を歩く潤の後ろをゆっくりと歩いた。潤は、歩く速さがいつもゆっくり。
沈黙だけが過ぎる道中だったけど、少しだけドキドキする気持ちが私の心の中にはあった。そして、何故か父の姿が思い浮かんだ。小学生の頃、父の後ろを歩きながら新宿の街を歩いた、あの気持ち。私は一人で、こっそりと微笑んだ。
「なんもないけど、ええか?」
潤が急に少し振り返って、私に話しかける。私は全然いいよ、と言って、笑う。
途中に咲いている花々に、潤はゆっくりとカメラを向けて、シャッターを切っていた。潤にはやっぱり、カメラが必要なのだなと思って、少し羨ましくなった。私には何もない、そんなことを思う。
「阿佐ヶ谷、喫茶店もあるんやけど、なんか今日はそんな気分じゃなくて、うちでええかなって思った。」
女子のこと呼ぶなんてあんまり慣れてないねん、と言って、潤は笑った。潤は緊張したり、友達の葉くんと会った後だと、関西弁が混じる。そんな姿が、ちょっと不器用で、でもしっかりとした芯があって、羨ましい、というか素敵だな、と思った。
「へえ、女子のこと、あんまり呼ばないんだ。」
私は、少しふてぶてしく聞いてみた。潤は容姿もいいし、性格も落ち着いているし、きっとモテるだろうから、なんとなくそういうことも多いのかな、と思っていた。
「そやな、あんまり他の人には言ってへんけど、体を重ねることが、そんな好きじゃない。」
えっ、と私は口篭った。私の反応を見て、潤は横目で振り返り、少し照れくさそうに笑った。思わず、なんで?と聞いてしまう。
「あー、もともと生まれつき、神経系の病気持っててな。それで、そういうことをしてもあんまりって感じで。高校の頃に一回経験したっきり、怖くなって、それから。」
私は、これまで出会った数々の男のことを急に思い出した。あの時間の、いつもは平然としている男たちが、貪る様に私の体を求める感覚。
そうなんだ、と私は少し下を向いて返事をした。なんと返していいかわからなかった。
「これ、うちに着く前に言いたかってん。やっと言えて、良かったわ。」
潤は飄々とそう言い、大きく空に向かって伸びをした。潤は、過去のことをあまり話さないから、きっと色々なことがあったのかなと、私は心の中で掬った。
「言ってくれて、ありがとう。」
言葉が勝手に出てきて、私は驚いた。何を聞くわけでもなく、感謝の言葉が出てきた。それも、こんなに自然とセクシュアリティのことを話せるなんて、なんだか可笑しかった。
潤は私の言葉を聞いて、嬉しそうに笑っていた。
「あ、ここ。」
潤は一つの建物を指差して言った。普通のマンション、アパートではないが、なんだか潤に似合っている気がした。
潤がオートロックのドアを鍵で開けて、エレベーターで三階に行く。少しフロアの奥まで歩いて、潤が自分の部屋を開ける。
潤の家に入ると、ふわっと、懐かしい香りがした。人の部屋、最近あまり行っていなかったから、なんだか新鮮な気がして、ちょっとだけ心が躍った。
潤は靴をちゃんと揃えて、部屋の中に入った。まばらに散らばっている部屋の中は、男子の部屋、という感じで安心した。適当に座って、という潤の言葉に、私は少し緊張しながら、鞄をカーペットに置いた。
「コーヒーでええか?ブラックやけど」
潤がキッチンに立って私に話しかけてくる。私は、うん、と言って足を伸ばした。潤の部屋は、特に変わったものはなくて、棚にカメラが5台ほど並んでいた。
「そう言えば、写真見せてよ。」
コーヒー豆をミルで挽いている潤は、ああ、そういえばそんなこと言ったな、と言って、手を止めて棚の引き出しを開けた。そこには、十冊ぐらいだろうか、アルバムが敷き詰められている。
「いつがええかな、まあいつでもええか。」
よく見ると、アルバムの背に日付が書いてある。手渡されたアルバムには、2019 ~ 2021 と書いてあった。私は手渡されたアルバムを捲った。
「これ、いつの?」
「高校生やな」
潤はテーブルにマグカップを二つ置いて、カーペットに座った。なんだか恥ずかしそうにしているのは、自分の写真を見られているからだろうか。
ページを捲ると、潤の実家の中であろう写真、桜の写真、道端に咲いている花、空。自然な色味をしているその写真たちからは優しさが感じられて、潤はずっと変わっていないんだな、と思った。
ふと、女性が写っている写真が目に入った。赤いセーターを着ている、綺麗な女の子。喫茶店だろうか、赤い店内の中で、窓の外を見て少し微笑んでいるように見える。
「ああ、それ。」
潤は写真をのぞいて、少し切ない顔をした。私はアルバムから顔を上げて、潤の顔を見つめた。
「高校の頃、思っていた人。でも、その日を最後に連絡も取れなくなってな。今でも、その写真は大切にしてる。」
そうなんだ、と私は返事をした。連絡が取れなくなった、という言葉を聞いて、なんだか潤がここからいなくなってしまうのではないかと思って、私の心は少し不安になった。
「簡単にいかないよな、人間関係って。鼻で笑ってはいさようなら、なんてできなくて、それ以来、写真がしばらく撮れなくなったんや。」
「そっか。」
私はその女の子の写真を見つめながら、少し黙った。それは、不思議と嫉妬とかではなくて、少しずつ優しい気持ちが芽生えてくる。
「私は、いなくならないよ。」
えっ、と潤が少し驚いたような顔をする。私も自分から自然と出た言葉にもどかしくなって、コーヒーに手をつけた。
「私はいなくなったりしない。潤のそばに居られない時もあるかもしれないけど、いなくなったりなんか、しないよ。」
潤は、ありがとう、と言って、私のことをしばらく見つめた。潤の中には、どんな過去があるかは分からなかったけれど、少しでも心の奥をほどきたい、と思った。
「そりゃ、安心や。」
ぶっきらぼうに、潤が返事をする。さて、と言ってベランダに出て、タバコを吸い始めた。潤は、不思議と目を瞑ってタバコを吸っていた。軽い気持ちでさっきの言葉を言ったわけではなかったけど、すっと過ぎる時間に、私は安心した。そして、自分が言った言葉を、自分の中で反芻した。
いなくならない。私はこれまで、たくさんの人と出会い、そして別れた。その関係は進むわけではなくて、その場限りのものばかりだった。でも、潤との時間は、ずっとずっと続いてほしい、そんなことを思っていた、ずっと。
「なあ、歩。」
ベランダから、タバコの煙をふうと吹かしながら、潤が私の名前を呼んだ。
「なに?」
「また、うち来てや。ほら、ここ、空が綺麗やろ。」
*
「もしもし、お父さん?」
「うん、歩だけど、今時間ある?」
「いや、たいしたことじゃないんだけどね。」
「素敵な人と出会ったよ。お父さんみたいな人。」
「結婚とかじゃないよ、ただ、一緒にいて、なんだか落ち着く感じ。」
「ちょっと、気が早いって。」
「わかんないよ、そんなこと。」
「でも、好きなんだなって、思う人だよ。」
潤愛
終