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潤愛 第一章 「藤色」

    こちらの作品は #創作大賞2026 #恋愛小説部門 への応募作品となります。文字数は75000字(文庫本で230ページほど)ありますので、ゆったりと読んでいただければと思います。

    あらすじ(141文字)
    私は、人のことが好きになることなんて、わからなかった。今まで知らないまま生きてきたし、それでもどこか幸せになりたい、そんな気持ちを抱いていた。そして、知らないまま、きっとこの先も、生きていくのだと思っていた。きっと彼も、そんな過去を抱いたまま、私と時間を過ごしてくれていた気がする。

    第一章 藤色ふじいろ

    第二章 茜あかね

    第三章 瑠璃るり

    第四章 紫水しすい




    ふう、と彼が寒そうにして、ベランダから帰ってくる。ベランダにいる時に空を見上げている彼は、なんだか違う世界に行ってしまっているみたいで、少し寂しい。

    私は、彼が煙草を吸う姿を、ぼんやりとベランダから眺めるのが好き。彼が煙草を吸っているときに、何を考えているのか、どんなことを感じているのか、わからないなりに想像することが好き。

    不意に、彼が眼差しを空から部屋に移して、ん?と顔で言ってくるところが、好き。

    「そろそろ、終電ちゃうんか。」

    彼はいつも0時の近くになると、これで終わり、というようにそう言って、私のことを帰す。

    付き合ってから今日で一年ぐらいが経った。手を出されることはなかった。でも、それが私たちの中で大切なことだから。

    「今、ここにいたいの。」

    そっか、んならそうすればいい、と今日は言って、彼は携帯でラジオを流す。

    カーテンを閉めて、すごく小さな音量で、流す。この賃貸、壁が薄いんや、と彼は言って。小さな小さな音量のラジオを、掬うように摘み取るように、彼とぼんやりしながら聞くことが、私は好き。

    目を瞑ると、彼がどこかへ行ってしまいそうだから、私はじっと彼のことを見つめて、少し離れて本を読んだり、絵を描いたりする。そうしていると、いつの間にか二時ぐらいになって、シングルベッドでしんと眠る。最初に私が寝てしまうことが多くて、だいたい目が覚めたら彼がすぐ隣にいる。

    彼は決して、私のことを抱くことはなかった。それでもなぜか、愛されていることを疑うことはなかった。


    高校三年生の秋、私は初めて人に抱かれた。当時一緒にいた、彼氏でもない人間だった。

    もう顔も覚えていないのに、その時に触れた肌の感触だけが脳にこべりついている。

    私にとって体を重ねることは、愛されている証拠だった。貪るように私の体を求める男の姿を見ると、変に冷静になりながらも、そこにいていい、という感じがして、安心した。その瞬間だけは、私は何もかも忘れることができた。

    両親は、私が中学二年生の時に、離婚した。選択肢なんて与えられないまま、親権は母に渡され、母、妹、私の三人の暮らしがその時から始まった。
    父といることが心地よかった私は、本当は父と暮らしたい、なんて言えなかった。

    離婚してから、少しおかしくなってしまった母は、家事もせず、洗濯もせず、私が学校から帰ってきても、何も言わずに台所でタバコを吸っているだけだった。私は、そのタバコが、嫌いだった。

    両親の離婚から一年が経ち、中学三年生ながらに、気を遣うという心の感覚を覚えてしまった。

    母の機嫌を損ねないように、邪魔にならないように、ずっと、ずっと、小さなアパートの一室の隅の、淀んだ室内の空気の中で透明でいることに努めた。

    母は、一切口を開かずに、台所で一日中、窓の外を見ながら、座っているだけだった。私は妹と、自分たちの部屋で過ごした。

    母と顔を合わせるのは、朝学校に行く時と、帰ってきた後。ご飯は渡されたお金で買ったコンビニのなんか。洗濯だけはしないといけないから、妹の分まで三日に一回やった。

    怯えるでもなく、悲しむのでもなく、私にとってはだんだんとその生活が当たり前になり、心の底に沈殿していった。当時の私を救ってくれたのは、絵だった。

    絵を描くことだけは、無くしてはいけない、と、この頃から思っていた。自分の部屋で、妹が寝た後に、窓を開けて黒く静まった空を網戸越しに見つめながら、コンビニで買ったボールペンと、罫線が入っていない無地のノートに、線を書く。

    この時間だけは、誰にも邪魔されたくない。

    部屋のドアの向こうで、母が寝ているのに、入ってきてこれを取られてしまうのではないかと、怯えながら、それでも心と頭に積もっている痛みを、毎日そこに吐き出していた。

    周りの世界を遮断して絵に向かうと、この時だけは孤独になれる気がした。
    大学入学とともに、ばっさりと逃げるように家を出た。早く解放されたい、そして、願わくば誰かに愛されたい、そんな気持ちで、家を出た。


    「歩、今日は誰と寝んの~?」

    大学の食堂で、口いっぱいにカツカレーを頬張りながら、瑞季は当たり前のように聞いてきた。

    三限が空いている水曜日は、こうして瑞季と昼ごはんを食べている。瑞季とは、どっかの新歓の飲み会で出会った。

    新入生は500円でしゃぶしゃぶやら焼肉やら、食べ放題で飲み放題のそれに、参加できた新歓という風潮。やっすい肉でも、500円なら美味かった。

    父からの仕送りがあるとはいえ、金の余裕はない私は、貪るように新歓のイベントに顔を出していた。

    広告研究会、チアリーディング、テニス、ゴルフ、映画サークル、ファッション系も行った。全部、つまらなかった。自分がすごいと誇示してくる人、何かに取り憑かれたかのように、自分のサークルに引き摺り込もうとする、サークルの先輩っぽい人たち。

    誰がなんなのか、正確にはわからないけれど、その人たちが口をパクパクさせながら、必死に話していたことだけは覚えている。ほぼ何も聞いていなかったから、みんな魚みたいだと思った。

    「あんた、ハイエナじゃん。」

    急に話しかけられて、へ?と言う声が出た。

    あれは、高田馬場から少し歩いたところにある、しゃぶ葉からの帰り道。その時に話しかけてきたのが、瑞季みずきだった。

    帰路についている集団から、私は離れて歩いていた。後ろにはもう誰もいないと思っていたから、急に胸を刺されたみたいな感覚になった。少し話すと、どうやら瑞季も、新歓イベントを貪るように利用しており、いつも見るから、と言う理由で私に話しかけたらしい。

    「うちらって、幸せになるべきじゃん?」

    そう私に言って、飲み直さない?と誘われて、戸山公園で飲んだ。

    瑞季はすらっとしていて背が高くて、飄々としていた。私も背が高い方だから、コンビニで年齢確認をされることはなかった。

    瑞季はハイボール、私は缶ビールを買った。瑞季は飲み慣れている感じだったけれど、なぜか嫌悪感は抱かなかった。そして、徐に取り出したタバコ。タバコ、と心の中でつぶやた。

    「あ、タバコ、無理な人?」

    じっと見ていたらしい。私はいや別に、と言って、缶ビールを開けた。母親のことがあったから、タバコが苦手だった。新歓でも、タバコを吸う動物たちを見ては、睨んで心の中で殺した。でも不思議と瑞季がタバコを吸っているのは、可憐に見えた。

    「うちらはさ、あれなんだよ、あれ。」

    なんだっけな、と瑞季が言っているのを、私はぼんやりと見て、久しぶりに人の暖かさを感じた気がした。

    「そう、ハイエナ。」

    ふう、と、灰色の煙を吐き出して、私のことを見て、瑞季は笑った。馬鹿にされている感じはなくて、あんたも同じでしょ、という孤独の確かめのようだった。

    「あんた、抱かれたことある?」

    あ、男にね、と、瑞季は灰を落としながら笑って付け加える。私は、まあ、と適当な答えを返した。

    瑞季は、乾いた笑い方をする人だった。そして、この夜の中で仲間を探しているように見えた。こんな人でも、孤独が嫌なんだ、と思って、安心した。
    ちょうど昨日の飲み会で出会った男と寝たことを話した。瑞季はヒュ~と言って冷やかしてきて、二人で笑った。

    相手が童貞だった話をしたら、あんた、そういう趣味?と言われ、うん、と返したら、瑞季はまたケラケラと笑って、しばらくその話で盛り上がった。
    私の大学生活で、初めてできた友達が、瑞季だった。


    「今日は、あの童貞くん。」

    まじぃ~?と言って、カツカレーを崩す瑞季に、私は口を横に開いて、まじ~と返した。私にハマったらしいと続けたら、瑞季は今日も乾いた笑いでケラケラと笑った。

    結局どこのサークルにも入らず、昼間は適当に授業を済ませて、夜は居酒屋、深夜はゲーセンでバイトして、夜中の二時ぐらいに毎日どっかの男が迎えにきて、夜を過ごす生活をした。

    私立の学費は、大学に上がるときに父が出してくれることになった。中学生で初めてスマホを持った時に、電話番号を交換していたから、何気なく電話してみたら、明るいノリでお茶しようと言われ、学費は俺が出すよと言ってくれた。

    そういうところが、父の好きなところだった。昔から神妙な顔をせずに、軽やかになんでもこなす人だった。


    小学六年生の時に、父は私を連れて新宿にある喫茶店「タイムス」によく行っていた。

    小学生の私にとって、タバコの煙が漂う喫茶店は、なんだか大人になった気分で、嬉しかった。父はそこで、家では母にとやかく言われて吸えないタバコを、美味しそうに吸っていた。

    「歩、父さんみたいになるなよ~。」

    父は、ニカニカ笑いながら、タイムスに歩いて行く道中で、私の頭を撫でながらそんなことばかりを言っていた。

    父さんはダメだから、父さんはゴミ人間だからさ。大きく笑いながら、楽しそうに自分を卑下する姿は、なんだか可愛かった。

    私は、そんなお父さんが好きだったし、全然、ダメじゃなかった。かっこよかった、大好きだった。

    タイムスは、いつも平日の夕方に行くのが決まりだった。

    小学生の私は、あまり学校に行っていなかった。暇そうに寝ている私の部屋に来て、お腹をこちょこちょして、歩、ちょっと歩こうや、と言われる。私は、その度に胸が高鳴って、ぴょこぴょことついていった。

    父の笑い方が好きだった。タイムスで、最近読んでいる漫画とか、たまに行く学校であった話とかをするのが好きだった。

    父はいつも、スマホも持たずに、タバコと本しか持っていかないから、私の話を聞いてくれた。タバコを咥えて、私とあまり目を合わさないで、斜め前辺りを見て、大きく笑ってくれていた。

    父はある日、母以外の女の人と会っていることを教えてくれた。最近、好きな人ができたんだよねと、小学校の友達みたいに目を輝かせて、私に教えてくれた。母は、好きな人ではないんだ、と思ったが、子供ながらに気を使って、それは言葉にしなかった。

    父は、お母さんには内緒な、とは言わなかった。

    俺はこう言う人間だからさ、歩はそうはなるんじゃないぞと、そればかり言って、大きく笑った。私は父が、そのことを話してくれたことが嬉しかった。浮気しているとか、そんなことなんて、どうでもよかった。父と友達のように恋バナをできるのが、嬉しかった。


    「ねえねえ姉ちゃん。」

    高校三年生の夏。私が新宿の改札前で、待ち合わせしている父を待っていると、声をかけられた。私はスマホをいじっていたから、なんだ、ナンパかと思った。顔を上げると、父だった。

    「久しぶりだな~歩。何も変わっていないな~、こんなに可愛くなっちゃって。」

    久しぶりに会った父は、何も変わっていなかった。ダボっとした服で、髭が生えていて。髪の毛は前よりはちょっと整っていたかな。

    そのまま二人で歩いて、タイムスまで来た。タイムスに着くと、父は昔と何も変わらずに、タバコを吸い始めた。

    何年経っても変わらないでいてくれる、存在。私にとっては大切な存在。ふと、タバコの煙が目に入って、染みた。

    「大学か~、いいじゃん。」

    私が父に、大学に行きたい話をすると、父はあっさりと返事をしてくれた。構えていた自分が馬鹿らしくなるぐらい、変わらない父の笑顔に、安心した。

    「金ならまかしとき、歩たちのためにとっておいてあるもんがあるから、そっから出すわ。」

    お金の話をする前に、父がわかっていたかのように切り出した。

    私が通う予定だったのは、私立の早稲田大学の文学部。私立なんて、と母親に言われたが、私は何も気にせずに必死に勉強して受けた。その時は、なぜかお金の心配をしていなかった。考えれば不思議だが、家を出たいという一心で。

    「え、ほんとに?」

    「おん、ほんとーに。」

    お金の支援は、真剣に話せば少しはしてくれるだろうと思っていたが、それから具体的な話をすると、学費の大部分を支援してくれることになって、驚きを隠せなかった。

    父は自分の口座のほかに私たちが生まれた時に私たち用の口座を作ってくれていたらしく、そこに毎月五万円ずつ、妹と合わせたら十万、積み立てていたらしい。

    その話をしている間、父は笑いながら、俺って偉いよなあ、とか、歩のこと助けられるなんて嬉しいなあとか、そんなことを言っていたことを覚えている。少年みたいな、話し方だった。

    父の中では、ちゃんと私たちの存在が残っていることが、なんだか嬉しかった。

    「歩、結婚する時は教えてくれな。」

    父は、急に真面目な顔になって、私のことを目を見て話し始めた。

    「結婚式はきっと母さんが行くだろうけど、こっそりでもいいから、俺も歩が結婚する姿を見たい。」

    私はタイムスのコーヒーに目を落として、そんなの、まだ分からないよ、とつぶやいた。

    「それに、歩んこと幸せに出来っかどうか、俺が判断もしなきゃいけないしな!」

    えっへん、という感じで、父は胸を張って私に向かって笑って見せた。私はそれを見て、もう、と言ってコーヒーを飲んだ。嬉しさで、泣きそうになりながら。

    その後も、父は最近ハマっているラジオの話をしてくれたり、あの作家の新刊買った?とか、他愛もない話をしたりした。ソプラノリコーダーを買ったんだよね、という父の話に、笑い合った。

    笑ったのなんて、いつぶりだろうと、思った。ふう、とタバコの煙を私の方に向けて吹きかけてきて、やめてよと。そんな他愛もない会話をして、タバコがちょっとだけ、好きになった。


    「何が好きとか、分からないんだよね。」

    私もカツカレーを食べながら、心の中にある黒い塊の一部分を瑞季に見せてみた。瑞季はカツカレーを食べながら、ふうん、と相槌を打つ。

    「そんなん、セックスが気持ちいいかどうかに決まってるでしょ。」

    瑞季はカツカレーのついたスプーンの先を私の方に向けて、ビシッ、という感じで言って見せた。その後にまた、ケラケラと笑った。

    少しどきりとした私の心には、瑞季は気づいていないようだった。

    「ねえ、歩って、初めて付き合ったのいつ?」

    うーん、と少し間を置いてから、高三ぐらいかなあ、と曖昧に言った。

    私は、これまで人と付き合う、ということをしたことがない。体を重ねることはあっても、どうしてもその相手と二人で過ごすことが気持ち悪くて、告白されても断っていた。

    「へえ、意外と遅いね。」

    カツカレーを食べ終えて、スマホをいじりながら私の目を見ないで、瑞季はつぶやいた。新歓の時は、同じぐらい汚れていて、気が合うと思っていたが、瑞季も他の人と同じ、なのかと思った。

    「いまバイト終わった~」

    その日の授業が終わって、居酒屋とゲーセンでのバイトを済ませ、童貞君にラインをした。童貞君は、確か芝崎、という名前だった気がする。今からいくわ、と続けて私は、ラインを入れた。

    芝崎の家は、中井にある。下落合にあるゲーセンから、とぼとぼと歩いて行った。深夜二時ごろの空気は、私とは正反対のように澄んでいて、気持ち悪かった。視力が悪いから、月ははっきりと見えない。

    芝崎の家に着くと、芝崎はパスタを作って待っていた。童貞だったくせにそういう気が使えるところがなんだかおかしくて、私は笑った。芝崎は、恥ずかしそうにしていた。

    居酒屋バイトで賄いは出たものの、ちょうどお腹が空いていたので、パスタはむしゃむしゃ食べた。

    「疲れた?」

    芝崎は私がパスタを食べる姿をベッドの上から見ながら、聞いてくる。無駄に優しい笑顔がなんだかくすぐったくて、私は芝崎の方を見なかった。
    私はその夜に、芝崎に告白された。体を重ねた後、体から始まった関係のくせに。

    無駄にロマンチックに演出された告白の文言は、もう覚えていない。心が動いていない証拠なんだなと思う。

    「歩ちゃんは、本当に人を好きになる気はあるの?」

    芝崎の告白を断った後に、食い下がって、少しムキになって言われた言葉。ああ、こいつはモテないなあ、と思いながら、なぜか心の奥がきゅうと苦しくなる感覚があった。

    昔から、人のことを好きになることがなんなのか分からなかった。心惹かれるとか、そういうことを学ぶ時期に両親の離婚で、感情が持っていかれていたからか、私は「恋」というものを知らないまま、育った。

    高校生になって、体を重ねれば何かがわかるかもしれないと思っていたが、ただ渇いた何かが数時間満たされるだけで、次の日は何も変わらなかった。
    愛されたい、と心では思っているのに、いざ迫られると、逃げてしまう。私のことを愛せる人間なんていない、私の痛みなんてわかる人なんていない、そう心で叫んで、全てを無にしてきた。

    しばらく黙っていると、芝崎が「ごめん」とつぶやいて、ベッドに腰掛けた。さっきまでは、フローリングの上に敷いてあった絨毯の上にいた。

    「また、会えるかな?」

    告白をしてきた男たちは、決まってこの台詞を言う。芝崎も例外にならずに、最後にこの言葉を言ってきた。そして、体が目当てなんだなと言うことに、さーっと心の温度が下がっていく。

    彼女じゃないなら、せめてセフレにでもしないと、自分が告白したプライドが傷つくのだろう。滑稽だなと思って、私は少し微笑みを作って、うん、と嘘のつぶやきをした。それ以降、芝崎に会うことはなかった。

    *

    私が彼に出会ったのも、新宿のタイムスだった。

    社会人になって、職場が中野になってから、家もその辺に住むことになって、大学と何も変わらない感覚で、タイムスに通った。自分は吸わないタバコに、塗れながら。

    父には大学を卒業したことを報告して、これからは一人で生きていくことを伝えた。その時はなぜか突っぱねてしまうような言い方になってしまった。一人で生活していくことが不安で、気を張っていたのかもしれない。

    父は電話越しで、なんかあったら言えよ~とぼんやりと言った。父の声を聞いて、また少しだけ、安心したことを覚えている。

    こうして私は社会人になった。

    そして、社会人になった頃、彼に出会った。

    窓際ではない、店内の真ん中あたりで、斜め上を向きながらタバコを吸っている姿が、父に似ていて、つい見入ってしまった。彼は、スーツが似合っていなかった。

    大学は、意外とあっさりと卒業した。あれだけ喋っていた瑞季とも、大学二年生になって、連絡を取らなくなった。

    男とは、数えきれないぐらい体を重ねた。でも、何も感じなかった。大学の授業、居酒屋、ゲーセン、男の家。この繰り返しで、大学生活は終わった。変に器用な作り笑いができたので、就活には困らなかった。中野にある小さな広告代理店に就職した。

    平日の昼間のタイムスには、「普通」とは少し離れた人が集まる。彼もそうなのだろうかと思いながら、背もたれに背中を預けて眺めていたら、目が合った。

    木曜日の午後三時。私の仕事が午前で終わり、昼をすませてタイムスに行く。いつもスーツ姿の彼も、その時間に必ずいた。

    ある日、いつも通りタイムスに行く道で、彼を見かけた。

    少し猫背のその姿と、スーツ、何もセットしていないマッシュの髪型。すぐにわかった。私は気づかれないように、歩く速さをゆっくりにして、距離をとって観察した。

    彼が、タイムスの前の小さな花壇の前に立ち止まった。すると、鞄からカメラを取り出して、ダイヤルのようなものを回して、シャッターを切った。彼は撮り終えると、鞄にカメラをしまって店内に入っていった。

    後を追ってその花壇に歩み寄ると、彼がレンズを向けていたのは、私が先日、タイムスで描いた花だった。

    私はいつも、小さな色鉛筆と、A7サイズのスケッチブックを持ち歩いている。その花を簡単に描いたことを思い出す。彼も、写真とか絵とか、好きなのだろうか。急に気になりながらも、いつも通り、店に入った。

    その日はいつもよりも店内は混んでいた。いつもは野放しに好きな席に座らせてくれるのに、店員さんがやってきて席に案内された。席は、彼の隣の席だった。

    私はあっ、とか言わないようにして、何食わぬ顔でいつも通り座った。
    人が多い日は、よりタバコの匂いが濃く脳内に焼き付いて、少しくらくらする。いつも通り、本とスケッチブックと色鉛筆を出して、背もたれに寄りかかって、ふうと一息ついた。今日の午前中は、仕事が忙しかった。

    今日は何もかも忘れたいと思っていた。私もタバコ吸ってみようかな、なんて父に話したら、父はなんていうのだろうか。

    「あ、」

    隣に座っていた彼が、つぶやいた声がして、少し驚いて彼の顔を見ると、彼は私のスケッチブックに目を向けていた。

    スケッチブックはこの前書いた花のページのままになっていた。その花は、さっき彼が写真を撮っていた花。

    「これ、タイムスの前の?」

    そう言うと、彼はやっと私の顔を見た。彼の目は近くで見ると茶色の部分が大きくて、なんだか吸い込まれてしまいそうだった。

    「そう。」

    敬語を使わなければいけないところだったが、私は自然と言葉が出てきた。
    彼との間には、まだ短い時間だが、今まで関係があったかのような空気が流れている気がした。それは彼が醸し出している、ゆるさのおかげなのか、なんなのかは、その時はわからなかった。

    「やっぱり、さっき僕も、これで撮りました。」

    そう言うと彼は鞄からカメラを取り出して、私に見せた。

    よく見ると、デジタルカメラではなくて、フィルムカメラだ。この時代にフィルムカメラなんて、と思いそうになるところを堪えた。

    「それは偶然。」

    私は、親密になりすぎないように、つぶやくように返事をした。

    なぜか彼の言葉と視線には、眠気のようなものを促す何かがある。私の脳内には、溶ける感覚が生まれていた。それが恋なのかなんなのかはわからないが、悪い気はしなかった。

    「色鉛筆、なんですね。」

    スケッチブックの後ろに隠れて少しだけ見えている色鉛筆を見つめながら、彼は言った。

    絵を描いていることではなくて、私が使っている画材のことが気になるのか、と心の中で思った。

    「ちょっとした合間に描くだけなので。」

    そう言いながら、私が手でちょいちょいと、絵を描く動作をして見せると、彼も真似して手を動かした。

    その姿が、スーツ姿と相まってなんだかおかしくて、笑った。

    「そっちこそ、フィルムカメラなんだね。」

    私は彼のカメラを見て言った。彼は不思議そうにカメラを手に包んだ。

    「変か?」

    彼は、少し不思議そうな顔をしてそう言った。

    彼が敬語をやめた時、私は胸がドキッとした。ギュッと、体の距離は変わっていないが、彼の目が私の奥に近づいてくる気がした。

    「いや別に。珍しいなあって思って。」

    私は、手をぐーっと前に伸ばして伸びをしながら言った。

    彼は、そうなんや~、と言ってタバコに手を伸ばした。関西人なのか、エセ関西弁なのかわからない彼の言葉。フィルムカメラが珍しいかなんていうのは本当はどうでもよくて、彼が話す言葉や仕草に、なんだか胸が苦しくなっていた。

    「いつも、いるよね。」

    言わないほうが良かったかな、と私は言った後に思ったが、言わずにはいられなかった。

    私は父に似た彼を見つけてから、彼のことが気になってしょうがなかったから。

    「いつもって、この時間だけやけど。」

    彼の言葉で、私の存在には気づいていないのだということが分かった。内心ちょっと期待していた自分が恥ずかしい。

    「私も、いつもこの時間に来てる。午前中の仕事が終わって、それでタイムスに来る。そしたら、店の中にいる人の顔、覚えちゃって。」

    私は、怪しまれないように早口で説明した。すると、あ~、と彼が納得したように言った。タバコの灰を落として、もう一度口元にタバコを戻して、吸って。

    なんだか、父の姿を見ているみたいだった。

    「ほんなら、あのおっちゃん、わかるか?」

    彼はそう言うと、タバコの先を遠くの奥の席に座っているおじさんの方に向けた。

    「あのおっちゃん、ごっついアラビア語の専門書、いっつも読んでるん。変な人~思うて、トイレ行くときにいつもあそこに座っとるから、嫌でも目に入るん。」

    彼の言葉を聞いて、私は目を凝らしてそのおじさんを見た。普段はトイレなんか行かないで店を出るから、気が付かなかった。

    そして、私が彼のことしか見ていないことがバレていないか、心配だった。

    「アラビア語やで、ア、ラ、ビ、ア、ご。象形文字みたいなもんや。」

    彼が、アラビア語をゆっくり大きく口を開けて言うものだから、思わず吹き出した。彼もそれを見て、少し笑った。笑った姿も父に似ているんだな、と私は思った。

    「アラビア語、意外と使ってる人多いの、知ってる?」

    私はなけなしの知識で、ちょっと話を広げてみた。彼は笑った顔から急に真剣な顔になる。

    「え、それほんま?じゃああのおっちゃん、もしかして究極のビジネスマンやったりして……。」

    私はそれを聞いて、また笑った。一流、ではなくて究極なんだ、と心の中で思って、彼の中の少年を見つけた気がした。

    「ごめん、うそ。と言うか知らない、そんなこと。」

    私の他愛もない発言を聞いて、彼は、なんやねん、と言ってきた。彼の表情は、明るい笑顔だった。

    私もそれに釣られて笑った。また、久しぶりに笑った。

    静かな店内に響いている私たちの声。普段は恥ずかしいと思うのに、その時はなぜか、子供に戻った感覚になった。

    *

    振り返れば、色々なことがあった人生だった。大学生の潤じゅんはいつも通り、大学の近くのカフェにいた。

    「何か、ご注文されますか?」

    潤がぼやっとカフェで座っていたら、店員さんが話しかけてきた。そういえば何も頼まずに座ってしまったことに気づいて、立ち上がる。何を考えていたかすら、忘れてしまった。

    「カフェラテ、甘めで。」

    潤はメニュー表を少しみて、あまり考えないでいつも通り甘めの飲み物を探して頼んだ。

    大学も、流れるままに続いていくような日々で、あまり楽しいと感じていない。一日の中で授業があって、バイトして、帰って。潤の家はかなり裕福だからか、バイトは週に二回ぐらいで抑えている。かといって、何をしているわけでもない。

    「お待たせしました。」

    北欧風な絵柄が施されたマグカップが運ばれてきた。薄いベージュ色の膜が張った温かそうな水面を見て、潤はほっと、落ち着く。一口啜って、しっかり甘いことを確認した。

    自分だけが、こんなに酷い目に遭うのだろうかと、潤は人生で何回思ったのだろうか。

    潤は元々、生まれつき末梢神経系の難病を抱えていて、手先足先の感覚がない。筋肉には問題がないので、周りから見たら障害を抱えていることはわからない。流れる人の中に、潤が抱えていることを知る人なんて、いない。


    「同じ夢やな。」

    大学で知り合った、関西から上京してきた葉は、潤の家でそう言った。


    「おまん、夢とかあるん?」

    大学の六限が終わった帰りに、葉は潤の家に来ていた。ハイボールに口をつけて、缶を持ったまま葉は潤に問うた。

    「夢かあ、なんだろうな。」

    同じくハイボールを飲んでいる潤は、ぼんやりと天井を見つめながら呟いた。

    言わなければいけないことなんてないのに、こういう時に咄嗟に夢が出てこない。でもそれがいいことだということも、潤はわかっている。

    夢という言葉を聞いて、自分ではない何かが一人歩きしている気がして、気持ちが悪かった。わからないまま、少し黙ってしまった。

    「夢、ない感じか。」

    葉はハイボールをぐいっと飲んで、そう言った後に、同じ夢やな、と言った。

    今の季節は二月の冬の真っ只中で、窓から伝わってくる空気が冷たい。

    「夢がない、っていう夢、同じ夢や。」

    葉は静かに笑いながら、そう言った。俺らってちっぽけだよな、なんて呟きながら、葉も、何もない天井を仰ぎ見ていた。

    「夢がない、というかわからない、というか。なんだろうな、自分が未来も生きている感じがしないというか。」

    思うままに出した言葉に、わかる、としみじみ葉は返してくれた。そういうすんなりと出てきた言葉が言える関係性が、なんだか心地いいなと感じた。
    潤には、見せない涙が山ほどあった。決して、涙を外に見せないように生きてきた。何かに縋ってしまったら、何かが渇いてしまう気がして。でも、幸せになりたい気持ちは、人一倍あった。

    「明日も大学かあ。」

    葉はベッドフレームのサイドに背中を預けて、ぐったりとした感じで言った。潤も足を伸ばして、枯れたイヤホンを見つめる。

    誰もいないベッドを見つめて、潤はいろいろなことを思い出していた。

    高校一年生の頃、初めて好きな人と付き合うことができた。そのまま何ヶ月か経った時に、相手から誘われて、体を重ねた。

    でも、潤は何も感じなかった。感じられなかった。

    生まれつきの末梢神経の病気のせいだとは、すぐにはわからなかった。その人と体を重ねても、幸せを感じることはできなかった。

    初めての誰かとのベッドの上で、潤は細い声で、ごめん、と言った。その後の記憶には、思い出したくないからか、永遠に靄がかかっている。確か、その夜が終わった後ぐらいの日に、その好きな人からは別れを告げられた。

    潤は、葉がぼんやりと本を読み始めたので、ベランダに出てタバコを手に取った。季節柄もあって、外の空気は冷えていたが、夜風にあたりたかった。葉は、何も言わなかった。空を見上げると、真っ黒の中に星がぽつぽつと輝いていた。

    *

    「僕はロックスターになるんだ!」

    小学生の頃の潤は、無邪気そのものだった。母親は、いつも夢を語る潤を笑顔で見つめていた。

    「ロックスター、良いわねえ。」

    台所でタバコを吸っていた母親は、リビングで勉強しながらペン回しをしている潤の声を聞いて、幸せを感じていた。

    潤の家庭は基本的には放任主義で、潤がやりたいと言ったことは基本的にやらせてくれた。ドラム教室、スイミングスクール、塾。いろいろな習い事をしていて、潤の幼少期の感性は順調に育っていた。

    飽きないでいろいろなことをやっていたおかげか、文化的な面では潤は様々な得意分野を見つけた。絵画に音楽、習字など、体をそこまで動かさないものはなんでもできた。

    中学に上がり、思春期になると、自分の病気が顕著に学校生活に影響し始めて、いじめられた。生まれつきの神経系の病気は、足の障害をもたらしていた。

    歩き方が他の人と違うこと、走ると必ずビリになる体育。潤はだんだんと心を閉ざしていった。

    みかねた母親は、潤に一台のフィルムカメラを渡した。カメラなら歩くことの訓練にもなるし、習い事をする姿を見ていても丁寧な所作が目立っていた潤にはぴったりなのではないかと考えたからだ。十五歳の誕生日に、潤はそれをもらった。

    「これ、どうやって使うの?」

    いじめの影響であまり学校に行っていなかった潤は、カメラに興味を示した。母親はもともと高校生から写真を趣味でやっていて、その時も家族を撮り続けていた。

    「これは全自動のカメラだから、ここの電源をオンにして、この窓を覗いてシャッターっていうこのボタンを押せば撮れるわよ。」

    潤はなんとなくフィルムカメラの窓のところを覗いてみた。世界が区切られているその景色は、一つのものに焦点が当たっていて、いつもみている眼下の風景とは違うものを感じて、潤の心は静かに高揚した。

    カメラを母に向けると、母は恥ずかしそうに笑った。潤は、初めてのシャッターを切った。

    「いい音だね。」

    ガシャコン、とシャッターを押すと鳴り響くその音に、潤は静かに嬉しくなった。

    「写真はね、外の世界を写すの。あなたが感じられない外の感覚を、きっと写真は教えてくれるわ。」

    ふうん、と潤は何気なくその言葉を流しながら、フィルムカメラを一生懸命いじっていた。

    母は、潤が内側の世界だけにこもってしまうのではないかと心配して、このカメラを渡すことに、その時の少し前から決めていた。

    感覚神経が鈍い分、心で感じる事が多いのではないかと、母は考えていた。心で感じるものが多いと、何かと心の負担が大きいから、そういう時にカメラに逃げて欲しいと、母は思っていた。

    *

    彼は、カメラのダイヤルをまたいじってから、机の上のコーヒーにカメラを向けて、シャッターを切った。不思議そうに私は見つめた。なんでコーヒーなんか撮るのだろう。多分、いつもは撮っていないのに。

    「ほら、記念ってやつや。その……。」

    彼は、私が不思議そうにしている顔が分かったらしく、説明をし始めた。

    「あ、私は歩あゆみ、です。」

    彼が言葉に詰まっていることを見かねて、自分の名前を言った。なんとなく自分の名前は隠しておきたい人間なのに、すんなりと明かしてしまう自分に驚く。

    「僕は、潤、です。」

    うん、と私は頷いた。頬が熱くなっていることを感じた。でもまだ、私の中では彼のことと、潤という名前は結びついていなかった。

    「光らないんだね、フラッシュ。」

    私がそう言うと、ん?と彼は不思議そうに自分のカメラを見た。

    室内でカメラのシャッターを切っている人は、皆ピカピカフラッシュを光らせていた印象があったから、何気なく私は聞いてみた。

    「ああ、これはフラッシュついてないんや。ただレンズが明るいから、こんなに暗いところでも、写るんよ。」

    彼の言葉を聞いて、なるほど~、と言いながら彼のカメラに少し顔を近づける。

    よく見ると金属でできていて、私が知っている自動のやつじゃなくて、多分これは自分で設定して撮るやつだ、と思った。

    「カメラ、いつからやってるの?」

    聞いていいことかはわからなかったが、なんとなく気になったから、私は流れるままに言葉を出した。

    変な気を使わないほうが、彼にとってはいいのかもしれないと思ったからだ。

    「中学んときに、おかんからもらって、それから。そんときのカメラは壊れて、これは二台目。大学の時から使っとる。」

    へぇ~、と私はまたカメラの方に目を向けた。なんだか、そのカメラは生きているみたいだった。彼の匂いがするというか、金属の擦れているところに、彼の愛着を感じた。シャープな見た目も、彼に合っている気がした。

    「そっちは。」

    えっ、と私は顔を上げた。彼は、ぼんやりとした目で、私のスケッチブックを見ていた。

    「ああ、私も中学の時から。部屋の窓辺で、引きこもりながら、描き始めた。」

    ふうん、と彼は変わらずにスケッチブックを見ながら言った。

    「ちぃっと、見ていいか?」

    それ、と彼はスケッチブックを指さして言った。うん、いいよ、と私は返事をして、スケッチブックを手に取って渡した。

    自分の絵を見られることなんて、滅多にない、というか人生で初めてかも、と思った。それなのに、すんなりと見せる事ができている自分に、少しだけ驚いた。

    彼はパラパラと、それでも一枚一枚じっくりと、スケッチブックの絵を見つめる。

    二人の間に流れるゆっくりとした時間。私は、こう言う時間を久しく味わっていなかったのだな、と感じた。

    彼の目線がスケッチブックに落ちている間、私は彼のことをずっと見ていた。前髪が、彼の目元を隠す。もっと見ていたい。

    「いい絵やん。」

    ふと彼が顔を上げたので、私はビクッとなった。その姿を見て、ん?と彼は不思議そうな顔をした。

    「ありがと。」

    私が小声で言った後に、彼の手からスケッチブックを取った。取られていくスケッチブックを眺めていて、彼は少し寂しそうだった。

    「そっちも、写真、見せてよ。」

    スケッチブックをカバンにしまいながら、私は少し口を尖らして、いたずらに言ってみた。

    「ああ、今持ってないねん、プリントして仕舞ってるもんがあるから、今度持ってくるわ。」

    その言葉を聞いて、心の中で温かいものが生まれる感覚があった。そうだ、この人とはここにくればまた会えるんだ。

    今度、という言葉に、私は静かに嬉しくなって、また頬の辺りが熱くなった。胸も少し、苦しい気がする。

    「なん?」

    えっ、と私は彼を見た。私の中で、色々な感情が出てきて、どうやら体が固まっていたらしい。

    「あ、いや、別に。じゃあ、今度、見せてね。」

    私がそう言うと、おん、と彼は呟いて、またタバコに火をつけた。

    *

    「なあ、潤、これから、朝に潤の家、きてもいいか?」

    葉は本から顔を上げて、少し申し訳なさそうに言った。それを聞いて、潤は少し驚いた。

    「なんで?別にいいけど。」

    潤は、一限がある日でも七時には起きていたから、時に問題はないな、と反射的に思った。でも、葉がそう言っている理由が気になった。

    「いや、深い意味はないんだけど、ほら、そこから見える空、いい感じやん。うちのアパート、目の前が雑居ビルで、どうしても空気が悪くて。」

    ベランダでタバコを吸い終えて、ゆっくりしている潤に、葉は近づいて網戸越しに空を指差した。

    確かに潤の部屋は、空が大きく開けている。なんで朝に来たいのかはわからなかったが、理由を聞くのも野暮な気がした。

    「そういう理由か。まあいいよ。一限に出る時は九時に家出るから、まあ七時とかに来てくれれば、うちにはいるよ。」

    葉は目を開いて、少し細めた。きっと早起きに慣れていないのだろう。

    「七時かあ、まあ頑張るかあ。」

    「朝日が見たいなら、六時くらいにくるといいよ。ここの朝の光は、グラデーションがオレンジなんだ。夕方はピンク。めっちゃ綺麗だぞ。」

    潤はそういうと、にっと葉に笑って見せた。潤の言葉を聞いて、葉は夜の真っ暗な空を見上げて、そっと笑った。

    「そうだ、曜日決めようや。潤も毎日来られたら嫌だろ。俺も毎日その時間に起きるのはきついし、四月からの時間割、二日ぐらい一限合わせようや。」

    大学は三月に入ると、春休みになる。ちょうど二月中旬の今は、次のクールで何を取るか悩む時期だったから、潤は葉の言葉を聞いて、ちょうどいいと思った。

    「まあ、たしかに毎日来られても嫌だな。一限の科目なら、人気も無さそうだし通りそうだな。先生もぼやぼやしてるから、単位もくれそう。」

    そう言うと潤は、二本目のタバコを吸い始めた。

    嫌なものは嫌をはっきり言えるところ、そして嫌だろうなということもなんとなくお互いがわかっていることに、潤は葉との関係性で心地よさを感じている。潤の言葉に、たしかにと嬉しそうに葉は言った。

    結局、四月の科目選択の時に、月曜日と水曜日の一限を、二人で取った。
    潤は文学部で、葉は商学部だから、キャンパスが少し離れているが、同じ駅だから、そのことはあまり関係がなかった。

    ついでに、土曜日は四限に授業を取って、夕方に二人で夕焼けを見る約束までした。潤も葉も、お互いあまり友達がいないのと、バイトもそんなに忙しくなかったから、合うところが多かった。


    「おお、ちゃんと来たな。」

    インターホンが鳴って、出た。四月になって、授業が始まる月曜日の朝、七時ぐらいに葉は潤の家に来た。葉は、あったりめー、と言って、のそのそと潤の家に入った。

    「ほい。」

    そう言って、葉はコンビニの袋を手渡してきた。潤は、訝しげにそれを受け取った。

    「おにぎりと、バナナ。」

    葉は、少し照れくさそうに言った。潤は袋の中身を見つめて、また葉を見た。

    「ありがとう。おにぎりにバナナ。なんだかウケるな。」

    潤がそう言って笑うと、葉は靴を脱いで、ほっとしたようにリュックをリビングのカーペットに下ろした。

    「朝、って感じだろ。まあ、潤には必要ないかもしれないなと思ったから、俺の分の方が多めに買ってきた。」

    袋の中をよく見ると、おにぎりが三つと、バナナが二本入っている。きっと、おにぎりを葉が二つ食べるのだろう、と思った。バナナは、二人で二本か、と潤は思って、少しだけ微笑んだ。

    「今日は、朝日は見逃しちまったか。」

    葉が窓の方へ這いつくばっていって、空を見上げて言った。

    「ああ、朝日を見るなら六時ぐらいに来ないとだな。まあ、その時間に俺も起きることはあまりないけど。」

    そう言って、潤は、四つん這いで空を見上げている葉を横切って、窓辺に出た。潤も起きたばかりだったので、窓辺に置かれた椅子に座って、今日一本目のタバコを吸い始めた。

    「おにぎり、どれんする?」

    葉は自分が買ってきた袋から、おにぎりを取り出して、潤のリビングにある低いテーブルに並べた。

    たらこ、昆布、いくら。潤はベランダから網戸越しに目を凝らして、うーんと悩んだ。

    「いくら。」

    潤の言葉を聞いて、くっそ~、と葉が悔しそうに言った。それを見て、潤は笑った。きっと、いくらが少し高いから食べたかった、という理由だろう。

    「んじゃあ、俺はたらこと昆布。」

    そういうと、葉はひょいとたらこのおにぎりを拾って、フィルムを剥いて食べ始めた。

    もぐもぐ、もぐもぐ、と食べる葉を潤は見つめながら、二人の間に平和な時間が流れる。

    「そういや潤、最近カメラは触っとらんの?」

    ベランダでタバコを長く吸っている潤に、葉は何気なく聞いた。潤は遠くの空を見つめながら、ふうと息を吐く。

    「あ~、カメラ、辞めたんや。もういじっとらん。」

    潤は言葉の後に、少しため息のようなものをついたが、そっか、と葉は流してくれた。

    こういうのは何か理由があるものだと葉は想像しているのか、興味のないふりをして、おにぎりを食べている。

    「ほいなら、朝焼けは、目ん中のフィルムに焼き付けるこっちゃな。」

    葉は網戸越しにこちらを向いて、にかっと笑った。こういう些細なところで、明るく振る舞ってくれるのも、潤が葉と一緒にいる理由になっている。
    今はもう一年が過ぎたが、葉と出会ったのは去年の四月だった。お互いが入学するタイミングで、どっかのサークルの新歓の後で、出会った。

    *

    「え~、佐伯くん、もうインターン決まってるの~?良いなあ、すごいなあ。」

    潤の訪れた新歓飲み会の卓では、一年生が集められていた。潤と佐伯という男、そして女子が二人だった。潤は、文学サークルの新歓飲み会にに来ていた。

    女子の一人が、佐伯の話すインターンに興味を示して、あからさまに女の目になっているのを、潤は心の中で睨みながら話を静かに聞いていた。

    卓にはオレンジジュースしかなく、酒もない場所で、潤はこの時間をどう過ごすか、なんてことを考えていた。

    どう時間を過ごすかなんて、どうでも良いのに、そんなくだらないことを考えるほど、同じ卓の人間に興味が湧かなかった。

    「大手は大学で何をやってきたか、勝負だからね。今のうちからプログラミングの案件をやりまくっていれば、多分どこでも入れるんじゃないかな。」
    佐伯は意気揚々とそう話す。話している姿は、自信に満ち溢れていて、そういう意味では幸せなのか、と心の中で潤は思った。

    「そうだよねえ、今から考えないと、ついていけないよね~。」

    もう一人の女子が、卓のしゃぶしゃぶの肉をつまみながらつぶやく。潤もなんとなく頷きながら、水菜をポン酢にたっぷりとつけて頬張った。こういう時でも、飯はうまいから助かるな、と潤は思った。

    「ね、荒牧くんは?何かやっていることある?なんのサークルに入るの?」
    潤は話を向けられ、少し嫌な表情をしたが、卓の人たちは何も気にせずに、潤の顔すら見ていなかった。

    「俺は、そういうの苦手だから、大学生活はバイトしたりして、適当に過ごすよ。」

    潤の言葉に、へえ~、と興味がなさそうに女子二人が答える。潤はうまく棘の無いように答えたつもりだったが、この大学に入って、適当に過ごすなんて、彼女らからしたらあり得ないのだろう。

    そのあとは、佐伯の独壇場で、潤はほぼ空気だった。とりあえず腹を満たすために肉だけ食べながら、一時間ぐらいぼんやりと過ごした。

    「お~、潤。」

    しゃぶ葉での飲み会が終わって、潤はあまりにも寂しさとやるせなさが残ったからか、たまに行っている新宿のバーに来ていた。

    ここに来ると、酒の匂いとタバコの匂いに塗れながら、何を話すわけでもない人たちの中に無心でいられるから、潤は気に入っていた。

    「渋谷さん、こんばんは。」

    バーの名前は『KARU』という名前で、そこにいるマスターは渋谷という名前だった。渋谷は、何を装うわけでもなく、未成年の潤を嫌な顔ひとつせずに迎えてくれる。酒もタバコも必要な潤にとっては、月に一度の楽しみだった。金額が高いから、いつもハイボールと安いマルゲリータを頼んだ。

    機嫌が悪いといつもここに来て、潤はぼんやりと渋谷がカクテルなどを作るところを見つめている。

    「なんだか、今日も浮かない顔をしているな。」

    渋谷は、潤を見るなりいつも心配の眼差しではなくて、子供を弄ぶ大人のような顔をする。いたずらっ子に乗っかるような、そんな大人の顔をする。だから潤も、ここでは思い切り子供でいることができた。

    「大学のつまらない飲み会の帰りです。なんか、自分何やってんだろうって。」

    潤がそう言うと、渋谷は野太い大きな声で笑った。

    「まだそんなことやってんのか、いいからここでバイトでもしろよ。」

    渋谷の言葉に潤は、嫌です、と即答すると、また渋谷は笑いながら、他の客のカクテルを作った。『KARU』の客は、二十二時ぐらいのこの時間は静かな客が多いから、渋谷は潤にたくさん話しかけてくれる。

    深夜帯になると、新宿で飲み疲れた人たちが来るから、渋谷はいつも、潤のことを日付が回る前には帰す。

    潤の家は下落合にあるので、『KARU』で潤が飲み終わると、いつもそこから高田馬場を通って国道沿いをとぼとぼと歩いて帰っていた。『KARU』は、新宿御苑からほど近い路地にある。

    「潤は、素直なんだから、いい女の子でも見つけて、ひっそりと暮らせばいいのになあ。」

    渋谷は、目の前のシンクを拭きながら、ぼんやりとそう言った。渋谷の言葉を、潤は頭の中で反芻し、たしかになあ、と呟いて、背もたれに仰け反りながら、大きく伸びをした。

    「そんなことできたら、俺もう働かないっすよ。」

    潤は少し不安を頭に抱えながら、ぼんやりと目の前のハイボールを見つめてつぶやいた。さっきまでインターンがどうのこうのという話を隣で聞いていた人間だとは思えないな、と潤は自分で思った。

    「でも、なんだかんだで一回は働くんだろうなあ、なんて思ってるよ俺は。」

    渋谷は見透かしたように、ピクルスを切りながら優しく微笑んでそう言った。潤はそれを聞いて、何も言わずにハイボールを啜った。

    今までの恋愛のことは、渋谷には洗いざらい、潤は話してしまった。いや、話してしまったというよりは、話したほうがなんだか心の距離が近くなれる気がしたからなのだろう。セックスで何も感じないことを話した時は、それは男としての人生を損してる、と笑われた。そんな言葉でも、潤は笑い返せるほど、渋谷は優しい雰囲気を纏っていた。

    潤は一時間ほど『KARU』でのんびりして、とぼとぼと帰路についた。
    高田馬場あたりに差し掛かると、相変わらずロータリーで馬鹿騒ぎをしている連中たちがわんさかいた。

    潤は、なんも考えてないんだろうな、と軽蔑しながら、ロータリーの前の信号を渡った。

    「すんません、ちょっと助けてもらえませんか?」

    信号を渡り切ったところのビルの下で、一人の大学生と見られる男に話しかけられた。男はしゃがんでいて、泥酔している女性を介抱しているように見えた。

    潤は怪訝な表情をしてその男を見つめたが、男の必死な顔に、思わず少し同情してしまった。

    ああ、とその男の言葉に、潤はぼんやりと答える。泥酔している女はもう意識がないのか、全身の力が抜けていて、服もはだけている。時間は日付が変わるぐらいだったから、きっとどうしようもないのだろう、と潤は思った。

    「そこのコンビニで、水を買ってきて欲しいです。お金は後で返すので、僕はここを離れられなくて、頼れる人もいなくて。」

    男は必死に順にそう伝えた。その目があまりにも辛そうで暗かったから、潤は、わかりました、と言って近くのセブンへ駆け込んだ。

    ふとコンビニへの信号で信号待ちをしていると、夜の空気が胸の中に満たされた。相変わらずロータリーはうるさいが、ここは少し離れているからか、意外と綺麗な空気が流れている。

    潤はコンビニで、水と酔い止めを買った。戻る時は駆け足ではなくて、のんびりと夜を味わいながら歩いた。男の空気感が、なんだか自分と似ている気がするというか、優しさもありつつどこか濁っている感じがあって、潤はその男に余裕、みたいなものを感じていた。

    「これ、良かったら酔い止めも。」

    潤が水と酔い止めの袋を手渡すと、酔い潰れた女は袋を見るなりそれを取り上げてそこに吐いた。それを潤と男は見ながら、目を合わせて苦笑いした。
    水を飲ませて、その水で酔い止めも飲ませて、十分ぐらい三人で座っていたら、酔い潰れていた女はすくっと立ち上がり、どこかへ歩いて行ってしまった。

    潤は男を見て、大丈夫ですかね、とつぶやいたが、男は、ああなったらもう大丈夫です、女なんて、そんなもんですから、と言った。潤は、その男の言葉に、なんだか哀愁のような寂しさと諦めを感じて、不思議と心地が良かった。

    「それよりも、こんな時間だから、終電がもうないことがやばいです。」

    男は俯きながら言った。男は不思議と酔っておらず、意識ははっきりしていた。少しアルコールの匂いはするが、そこまでではない。

    潤は、不思議と家に呼んでもいいな、と思った。さらには、家に呼んで色々と話したいな、とまで思った。

    「もし良かったら、うち、来ますか?下落合なので、ちょっと歩きますが。」

    潤がそう言うと、男は潤んだ目を浮かべて潤のことを見つめてきて、こくりと頷いた。なんだか、子犬みたいで可愛いな、と潤は思った。

    それから、さっき潤が入ったコンビニでパピコを買って、二人で分けながら、深夜の夜道を歩いた。

    「そういえば、学生ですか?」

    男は見た目は少し大人びていて、可愛げがありながらも独特な落ち着きがあったから、もしかしたら社会人かもしれない、と潤は思って、聞いた。

    「全然学生です。早稲田の商学部の一年生で、柴木しばき葉ようと言います。葉っぱで、葉、です。」

    あっけなく名乗る男は、少し照れくさそうにそう言った。その横顔は、おろした前髪が靡いていて、美しさを潤は感じた。

    「ああ、僕も早稲田の一年です。僕は文学部で、名前は、荒牧あらまき潤、です。潤う、で潤、です。」

    潤がそう言うと、葉は同じ一文字や~、と嬉しそうに言った。何気なく敬語が抜けた関西弁が唐突に潤の耳に入ってきて、少し驚いたが、潤もそうだね、と笑った。

    「大変やよ、新歓飲み会なのに、さっきの人はばかすか飲んで、んで先輩たちは酔い潰れるあの人を置いてロータリーに行ったん。まじサイテーやな思いながら、二人だけ残されて、あれ。」

    標準語と関西弁が混ざっている葉の言葉の節々に、きっと東京の大学に馴染むために頑張っている様子が垣間見える。

    「そりゃ大変だったなあ。あの人、急に立ち上がって歩いていたけど、なんか女ってああいうところ、あるよな。」

    潤がそう言うと、せや、と葉は一言言いながら、頬を膨らませた。潤はその様子を見ながら、笑った。高田馬場から少し離れた道には、二人だけしか歩いていないからか、街灯の明かりがぼんやりと強く光っているように感じる。

    「そういや、なんかサークルは入るん?」

    そう言いながら葉は、潤から少し遠くを歩いて、とっ、とっ、と子供が遊ぶように道にあるブロックを飛び移っていた。

    潤はうーん、と考えながら、真っ直ぐと歩いている。

    「まあ、この様子だと入らないかなあ。新歓飲み会も全部つまらんかったし。」

    潤が少し下を俯いてそう言うと、だよなあ、と葉は相槌を打った。

    「あんなん見せられて、入るやつの方が変わっとる。」

    あんなん、というのはきっと、さっきの酔い潰れた女のこともそうだが、潤は新歓飲み会のことも言っている気がした。

    「でも、優しいな。あんな酔い潰れた女の人のこと、介抱するなんて。」
    潤が少し葉の方を向きながらそう言うと、そうなあ、とのんびりと葉は返事をした。

    「母さんが、夜職やってたから、ああいうのには慣れとる。深夜に帰ってきて、俺んこと呼んで、もうむりーゆうて抱きつかれる。そんな高校生活やったから、変に耐性がついてもうたわ。」

    葉は自然な口調でそう話した。きっと何回も色々なところで話しているのだろうと、潤は思った。そっか、と潤は呟いて、二人はそのまま何気なく歩いた。

    「ちょっと、セブン、もう一回寄ろうや。」

    潤の家が近づいてきて、国道に差し掛かったぐらいで、目線にセブンの看板が見えた。潤は葉の言葉に頷いた。

    葉は飲み会終わりだから、なんかカップ麺とか食べたいな、と言いながら、さっき買ったパピコの容器をゴミ箱にひょいと捨てて、セブンの自動ドアをくぐった。

    潤もちょうどタバコが買いたいなと思っていたから、嫌な顔をせずに乗った。カップ麺も食べたいなと思って、葉に便乗してカレー味を手に取った。葉はシーフードを買った。結局、潤は遠慮してしまってタバコは買わなかった。

    「この時間でも、働いている人がいるのは、なんだか素敵なことやな。当たり前にしちゃいかんなあ。」

    葉はコンビニを出て、ぼんやりと空を眺めながら言った。コンビニで、ちょっとゆっくり外の空気でも吸おうや、と言って、二人でアイスも買った。

    甘いもんはいつもはそんな食えへんけど、パピコならまだいける、と言って、葉の奢りで今日二つ目のパピコを買った。ぱちっと葉が割って、潤に渡してくれた。

    「深夜帯のバイトって、大変そうだよなあ。」

    潤は、タバコを吸う前にパピコを吸いながらそう呟いた。今日の昼間は晴れていたからか、街灯が少ない国道沿いは空が広々としていて、明るい星がちらほらと見えた。

    「でも、夜の仕事は、意外と幸せそうやったよ。母さんを見て思ったことやけど、生活のリズムが社会と合わない人にとっては、一種の救いにもなるらしいで。」

    葉もパピコを吸いながら、ぼんやりとした声でそう言った。潤は、葉が言っていることがすぐには理解できずに、葉の顔を見て首を傾げた。

    「まあ、あれや、軽いノリの人が多いから、昼間の活気が苦手な人にとっては、のんびりと働けるらしい。うちの母さんもバーで働いてたから、あまり忙しくはない言うてたな。」

    そうかあ、と潤はガードレールに手をついて、パピコを吸いながら言った。夜の時間が心地というのは、自分も例外ではないなと思って、潤はなんだか安心した。そして、この時間に誰かが隣にいてくれることは、ありがたいというか、嬉しいことだなと思った。

    程なくして、パピコを食べ終わり、二人はまた歩き出した。潤が、もうちょっと、と言って家の方向を指差すと、葉は楽しみやな、と笑ってくれた。今日が初対面だとは思えないほど、気が許せる感覚があって、潤は嬉しかった。

    潤は今まで、友達という友達ができたことがなかった。常に人のことを疑うようになったのは、小学校の頃にいじめにあったことが原因だった。登校すると机がなかったり、ロッカーに落書きをされていたり、クラスの全員から無視されたり、そういういじめの経験をしたから、潤は人のことを好きになるということがわからなかった。

    いじめは中学の半ばぐらいで落ち着いてきたが、小さい頃の心の傷は、意外と大人になっても忘れることはできないまま、沈殿していた。だからこそ、もしかしたら葉とは友達になれるかもしれない、と淡い期待を久しぶりに抱いた。

    程なくして、潤の住んでいる賃貸マンションについた。縦長のその建物は、オートロックが一応ついていて、管理人室もあり、都内の大学生が住むにしては充実していた。潤の部屋は8.5畳の1Kだった。

    「なんや、えらい綺麗やな。」

    潤が、ここ、と自分の家を指差すと、葉は建物を見上げて呟いた。潤はこういう時に、なんて返したらいいかわからず、なにも言わないまま賃貸の入り口を進んで、オートロックを開けた。

    エレベーターの中で、無言の時間が続いて、急に潤は緊張してきた。初対面ということを忘れていたから、二人だけの密室になって、空気が張り詰めた気がした。

    家に着くやいなや、葉は靴を脱ぎ散らかして、フローリングに寝転んで、ふあー、と声をあげた。その様子を見て、こういう時間がなんだか嬉しくて、エレベーターの中での不安は溶けていき、潤は少しにやけた。潤は丁寧に靴を揃えて、部屋の中に入った。

    「やー、疲れたわ。」

    ぐでんと寝転びながら、リュックを背負ったままの葉がぼやいた。潤は何か飲み物を出したほうがいいかなと思い、冷蔵庫を開けたが、あいにくなにも用意はなかった。

    「ごめん、なんもないわ、水道水でいい?」

    全然ええでーありがとー、と葉はうつ伏せに肘を立てながらスマホをいじってそう言った。

    「飲み会も、えらいしんどいなあ。」

    葉はスマホを置いて仰向けになり、天井を見上げてそう言った。潤は水道水をテーブルの上に置いて、フローリングの上に敷いてある二畳ほどのラグの上に座った。葉はまだ寝転んでいる。

    「しんどい、しんどすぎる。サークル入らないと、テストとかやばいって聞いたから新歓行ったけど、あれは無理だわ。」

    潤がそういうと、葉はテストのことなんか気にしてるん?、とけらけら笑いながら言った。狭い部屋の中、深夜に笑い声が響いて、潤はなんだか安心した。

    「なんか、高校の頃はもっと華やかな大学生活を想像してたよなあ。ま、まだ四月やけど。」

    葉は潤が持ってきた水を一気に飲みながらそう言った。潤はそうだなあ、とぼんやりとつぶやいて、棚からタバコを取り出して窓の方へ行った。

    「あれ、吸うんや。」

    葉はにやにやしながら言った。おん、と潤は返事をして、ベランダにおいてある椅子に腰掛けた。ガラス窓は閉めずに、網戸のまま、潤はタバコに火をつけた。

    「タバコって、どんな味なん?」

    葉はベッドフレームに背中を預けて、足を伸ばしてラグに足を伸ばしながら、ぼんやりと潤に聞いた。潤はうーん、と深夜の真っ黒な空を見ながら考えた。

    「寂しさを忘れられる味。」

    潤はまっすぐと空を見ながら言った。それを聞いた葉は、なんやそれ、と言って笑った。潤も自分が言ったことがあまりにも小っ恥ずかしくて、笑った。それでも、潤は、タバコをそういう理由で吸っているのかもしれない、と思った。

    「寂しさなんつーのは、心ん中にあったほうが、楽やろ。」

    葉が潤の方を見てそう言うと、潤は不思議そうな顔をして、網戸越しに葉のことを見た。

    「何でもかんでも、忘れようとすることは、なんやかんやで、それこそ寂しいなんて思う。まあ、今日の泥酔女のことは今すぐにでも忘れたいけどな。」

    そう言うと、葉は自分の手元を見つめながら、ふっと笑った。潤はそれを聞いて、葉にも今まで生きてきた人生が当たり前にあるんだよな、と思った。それでも、口に出して聞こうとはしなかった。

    二人はなにも言わないまま、自分たちの心にある何かを思い詰めて、深夜の部屋で佇んでいた。曖昧なことは曖昧なままでいい、そんなことを、教えてくれる夜だった。









     
     
    わんこと都内でのんびり暮らす28歳

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