
潤愛 第二章 「茜」
こちらの作品は #創作大賞2026#恋愛小説部門 への応募作品となります。文字数は75000字(文庫本で230ページほど)ありますので、ゆったりと読んでいただければと思います
あらすじ(141文字)
私は、人のことが好きになることなんて、わからなかった。今まで知らないまま生きてきたし、それでもどこか幸せになりたい、そんな気持ちを抱いていた。そして、知らないまま、きっとこの先も、生きていくのだと思っていた。きっと彼も、そんな過去を抱いたまま、私と時間を過ごしてくれていた気がする。
第二章 茜
「白浜、今日までの締切のサンライズのやつ、17時までに終わらせろよ~。」
私の隣のデスクの一つ上の先輩、安藤がパソコンの画面を見たままで、私に話しかけてくる。私は、わかりました、と小声で呟いて、今進行中の案件の広告主、サンライズからのメールの返信がないかを確認する。
この会社に来てから、もうすぐで一ヶ月が経とうとしている。大学生の頃は、あんなに適当に過ごしていたのに、こうして社会に溶け込んでいる自分を見ると、なんだか笑えてくる。普通にOLやってるじゃん、と心の中で自分に言う。父に言ったら、なんて言葉を返してくれるだろうか。
「私なんか、なにもできない人間です。」
とある日、私の先輩の女性の咲田さんに、喫煙所で悩みを打ち明けたことがあった。私はタバコを吸わないけれど、ここの会社の人はほとんどが喫煙者で、咲田さんもそれに漏れない人だった。
でも、なんだか咲田さんがタバコを吸っていると、安心する自分がいた。
咲田さんは、私の言葉を聞いて、ふうん、と一言言って、喫煙所から見える空を見上げて、何かを考えている様子だった。
「なんにもできないっていう言葉はさ、何かをしたい人間からじゃないと出てこない言葉だよ。」
視線を空から私に移した咲田さんは、少し微笑みながらそう言った。
「なんにもしたくない人間は、なんにもできていない自分のことにも気づいていない。でも、それが案外幸せだったりするから、歩ちゃんは、そういう意味では不幸かも、ね。」
タバコをふかしながら言われた咲田さんの言葉に、少しだけ納得して、そうですよね、と笑って返した。業務中だったから、その言葉の本当の意味が理解できていなかったのかもしれない。
「咲田さんは、何かしたいことはあるんですか?」
私は喫煙所で、手持ち無沙汰になりながら聞いた。喫煙所、と言っても会社が入っているビルの一階にある駐車場。
咲田さんは、私の言葉にうーん、と考えながら、足元の石をころころと転がしていた。
「なんだろう、あんまりないかも。朝起きて、外の空を見て雲が色んな形しているなあ、とか、夜空の月を見て、しんみりしたりとか、そういう時間が、幸せかな。」
咲田さんは、タバコの煙を吐き出しながら、少し目を柔らかくして、微笑みながらそう言った。この会社には、私は咲田さんぐらいしか、仲のいい人はおらず、こういう咲田さんの何気ないところが、好きだった。
「素敵ですね。」
私がそう言うと、そうかなあ、普通だよ、と咲田さんは空を見上げながら言った。
「ねえ、今日、飲み行かない?うんと濃い焼きそばが美味しい居酒屋があるの。」
タバコを吸い終えて、吸い殻を捨てた咲田さんは、私のことを見てそう言った。うんと濃い焼きそば、と聞いて、私は唾をごくりと飲みこんだ。
私は、ぜひいきたいです!、と言って、くしゃくしゃになりながら笑った。
その日の仕事を終えて、咲田さんが私のデスクに来て、よし、行くぞ、と言って私のことを連れ出した。なんだか、地獄から救ってくれる救世主のような口ぶりに、心がシャキッと明るくなった。
会社は恵比寿にあり、居酒屋は駅から少し離れた飲屋街のようなところにあるらしい。私は、咲田さんにひょこひょこと付いて行った。この時間の恵比寿は、仕事終わりのサラリーマンでごった返していて、私は咲田さんについて行くのに必死だった。
七分ほど歩いて、大通りから一本外れた路地にその店はあった。咲田さんが、ここここ、と言って指を指して、私はふう、と一息ついた。
看板は、中心がチープなプラスチック、フレームはアルミのような感じだった。そこには『どんぶらこ』と書いてあった。
咲田さんは慣れた感じで、ガラスのいかにも大衆居酒屋、というようなドアを開けて、二名で、と駆け寄ってきた店員に言った。店内は奥が長くて横幅が狭い。東京の居酒屋、という感じだった。
カウンター席に案内されて、咲田さんはジャケットを脱いで後ろのハンガーにかけた。私はブラウスだったから、脱がないでそのまま席に座った。
「まあ、なんでも頼みなよ。」
そう言う咲田さんは、仕事の時とは少し違う雰囲気を醸し出していた。なんというか、可憐、弛緩。私は色々な言葉を思い浮かべてみるが、なかなかしっくりこなかった。
「じゃあ、ハイボールで。」
私がそう言うと、咲田さんは笑顔で、私も、と言った。咲田さんが店員を呼び、ハイボール二つと、目玉焼き焼きそばを二つ、と言った。その焼きそばがさっき言ってたやつなのかな、と私は思った。
「太麺で、マジで味濃いからね。明日絶対顔、浮腫むよ。」
咲田さんは、けらけらと笑いながら言った。まあ、浮腫んでも仕事だから関係ないけどね~、と言って、咲田さんは水をごくごくと飲んだ。
「なんだか、咲田さん、会社と違って好きです。」
私は咲田さんの和やかな雰囲気に頭がぼーっとなり、気がついたら告白みたいになっていた。それを聞いた咲田さんは、あっはは、と甲高い声で笑った。
「会社では、鬼上司なんて言われてるからね。ま、歩ちゃんはあんまり仕事で被らないからわからないかもだけど、仕事以外ではこんな感じだよ。」
そういうと咲田さんは、少し俯いて、自分の膝を見つめた。鬼上司と言われていることを気にしているのだろうか、と私は少し思った。
店員さんが、ハイボール二つでーす、と言ってグラスを運んできた。ジョッキは意外にも大きく、水滴が滲んでいてキンキンに冷えていそうだった。
「んじゃ、わたしたちのミライに、乾杯ということで。」
咲田さんは、自分で言った言葉が可笑しかったらしく、笑いながらジョッキを私の手元に近づけた。私は笑って、乾杯、と咲田さんの目を見て言った。
「にしても歩って、なんかいろんな人を見てきてそうだよね。目が違うっていうか、会社でもうまくやっているし。」
褒めているのか貶しているのかわからない咲田さんの言葉に、私は苦笑いを挟んだ。確かに色々な人には会ってきた。大学生活で、嫌というほど男のことは理解しているつもりだ。
「そんなことないですよ。学生生活で、ちょっと色々あったので、それが変なふうに生活に滲み出ているのかな、なんて思ってます。」
私は男と寝まくっていた、なんてことはとても言い出せずに、なんとなく濁した。咲田さんはハイボールを飲みながら、ふうん、と言って流してくれたから、少し安心した。
「それでも、わからないなりにこうして話せていることって、なんだか不思議だよね。」
咲田さんは、ハイボールをちびちびと飲みながら言った。私は言葉の意味がわからず、少し首を傾げる。
「ほら、人はそれぞれの人生があるでしょう。でも、私たちが出会っているのなんて、たった今でしかなくて、でもその人にはその人の歩んできた過去がある。それを知らないまま話せるなんて、なんだか、なんだかねえ。」
そう言いながら、咲田さんはカウンターの反対側の席に座っている人たちを見つめた。その目線は、誰だかわからないその人たちにも、きっと人生がある、なんてことを思っているような気がした。
私は咲田さんの言葉に、色々なことを思い出した。私は今まで、人間関係なんて、滑稽で脆いもので、すぐに壊れてしまうものだと思っていた。もしかしたら、今も思っているかもしれない。「たった今でしかない」という言葉は、私はきっと、咲田さんとは違う意味で捉えている。もっと軽くて、冷たいもの。
「でも、わからないことはわからないんだから、その人の今を好きになるしかない、と私は思ってる。」
私がぼんやりと反対側の席の人たちを見ていると、咲田さんは言葉を続けた。
「私は、その人の過去を見るのが、なんだか怖いです。」
咲田さんの言葉を聞いていると、なんだか心が透明になってくるみたいで、ぽろぽろと言葉が溢れ出した。咲田さんは、私の目を見て、そっか、と一言言った。
「自分以外の過去なんて、いいのよ。過去は過去。思い出すことはできるかもしれないけれど、それを手のひらに乗せて、はいどうぞ、って他人に見せることはできない。でも、今目の前にいる人のことは、目を見れば色々なことを感じられる気がする。」
咲田さんは、私の言葉を否定するわけでもなく、私が言ったことを溶かすように話してくれた。今まで、過去のことを聞かれることが多かった。なんでもかんでも、何をやってきたのか、どんなことを知ってきたのか、そんなことばかり、だった。
「ねえ、こういうのさ、『イマミル同盟』なんてどう?」
咲田さんは、小さく笑いながら、照れくさそうに、でも楽しそうに言った。
「同盟?イマミル?」
私は今まで話していた咲田さんから変わった雰囲気に、少し戸惑いながら言葉を返した。
「そう、今を見る、今のことしか話さない、そういう同盟。名前ダサいかな。」
咲田さんはそう言うと、ハイボールをぐいっと飲んで、ぷはー、とCMの広告みたいに言った。私は、そういうことですか、と返して、笑った。なんだか重い話だったのに、急に空気が軽くなった気がして、私も手付かずだったハイボールを飲んだ。
「いいですね、イマミル。ラクスルみたい。」
私が思いつきで話すと、たしかに、と咲田さんは笑った。
二人でほんわかと話していると、店員さんが、こんもりとした焼きそばが乗った銀色の平皿を二つ両手に持ってやってきた。二つとも、上に目玉焼きが乗っている。焼きすぎているのか、目玉焼きの淵には焦げ目がついていた。
はい、焼きそばふたつね~、と店員さんは言って、私と咲田さんの間からテーブルにそれを置いた。二人でわ~、と言って、顔を合わせて笑った。
「これはやばそうですね。」
ありえないほど濃いソースの色をしている焼きそばを見て、私は割り箸を割りながら言った。
「これは、やばいやつです。」
咲田さんも、割り箸を割りながら言った。なんだか、二人で敬語で話していることが可笑しくて、それでいて今までずっと一緒にいた友達みたいな感覚になって、私の心の中は美味しそうな焼きそばの匂いと咲田さんから寄せられた優しい何かに包まれて、幸せそうだった。
*
社会人になって初めてのゴールデンウィーク。大学生活と私生活の面では、何も変わらない日々を送っていた潤は、家の近くにある、喫煙ができる喫茶店でぼーっとしていた。
普通なら、旅行やバカンス、友達と遊んだりすると思うが、潤はそもそもそういう類のことは嫌いなので、ゴールデンウィークのほとんどを家で過ごしていた。
喫茶店の四角い格子で仕切られた朱色の窓からは、何が見えるわけでもなく、ただ大通りを過ぎる車が走っているだけだ。恋人がいるわけでもない、かと言って、今の生活が不安でも不満でもない。でもなんだか、満たされない感覚が潤の頭の中にはあった。
喫茶店で運ばれてきたコーヒーを飲もうとしたら、並々まで淹れられていたからか、手に取った揺れで少しコーヒーがズボンにこぼれた。ああ、と潤は思って、少し服の袖でそれをなんとなく拭いた。
やっぱりここは、安心できる場所だと、潤はその時に思った。
潤は社会人になって、下落合から阿佐ヶ谷に引っ越した。職場は新宿だったが、少し離れたところ、それでも文化的で落ち着いた街がいいと思い、阿佐ヶ谷の家に決めた。
阿佐ヶ谷の街は好きだった。
街全体にゆっくりとした雰囲気が流れていて、潤が過ごした早稲田の大学の周りと比べたら、潤の心に合っている気がした。
喫茶店の面する大通り、と言っても、二車線の普通の道路。それを大通りと呼んでいいのかわからないが、路地、というわけでもないから、潤はそう呼んでいた。潤はコーヒーをちびちびと飲みながら、タバコを蒸してぼんやりと外を眺めている。会社でも、気が抜けているといじられるほど、あまり気合を入れて働いていない潤は、こういう場所が好きだった。
会計を済ませた客が出ていって、潤は店で一人になった。その客に、お姉さんが、早いね、と言って笑顔で朱色の扉を開けて見送る。潤はそれをぼんやりと眺めて、いいなあ、と思った。
早いもので、大学を卒業してからあっという間にゴールデンウィークになった。早い、というのは時間というよりは、潤が感じていた心の中の感覚だった。どこか遠くへ行ってしまったような、そんな寂しさのようなものを覚えていた。
葉は入った会社の配属先が山口県になり、大学の卒業式が終わった後に引っ越した。それでも、月に一回ぐらいは電話しような、とお互いで言って別れた。四月はお互いが初めての環境で忙しかったからか、電話はできていなかった。
ふと窓の外の花壇に目をやると、黄色の紋白蝶がひらひらと舞いながら飛んでいるのを見つけた。こういう時、潤はすぐにカメラを出して撮ろうとしていた時期があった。
高校三年生の冬。潤には親しい女友達がいた。高校一年生の時に初めてできた彼女とは、性的なことを理由に別れた。それもあって、その女友達と付き合う、という選択をすることはなかった。だから、関係性は友達のままで終わったが、潤にとっては、かけがえのない存在だった。
「ねえ、潤はさ、何が好きなの?」
高校三年生の十二月、放課後の誰もいない教室で、杏花は机にだらんと腕を伸ばしながら、なんとなく潤に聞いた。
「何が好きって、なに。」
潤はだるそうに、それでも何気なく話せる杏花との時間が好きで、隣に座っている杏花の顔を見て返事をした。教室の窓は開け放されていて、夕方の時間帯の秋の気持ちのいい風が入ってきている。
「何が好きっていうのは、なんでもいいんだよ。私はただ、潤が好きなものがもっと知りたいだけ。」
杏花はあっさりとそう答えた。曖昧な言葉を並べる子だった。高校生なのに、ロングの髪を靡かせて、大人な雰囲気のある子だった。
「そうだなあ、最近はビリヤードとか。」
潤がそういうと、ビリヤード?と不思議そうな顔をして、杏花が顔を覗き込んでくる。そう、と潤は返して、至って普通の顔をして教室の黒板を見つめながら背もたれに大きくもたれかかり、スマホをいじっている。
「いいね、ビリヤード。なんか、名前面白いよね。ビリ、ヤード。なんか、動物みたいな名前。」
杏花に言われて、潤は確かに、と思った。言われてみたら動物っぽい名前で、潤の顔は少し綻んだ。
「今度、連れて行ってよ、ビリヤード。」
杏花は窓の外を見ながら、ぼんやりと言った。それを聞いて潤は、うん、と返事をしたが、潤の心の中には、杏花の家族のことが浮かんでいた。
杏花の両親は、門限や色沙汰にかなり厳しく、潤と杏花が仲がいいことは、家族に言っていないらしい。厳しい、というのは、優しさからくる厳しさではなくて、両親の鬱憤を晴らすような、そういう厳しさが垣間見えて、潤は少し心配していた。休みの日に出かける時も、十六時ぐらいには解散、という感じだった。
潤はそれまでの恋愛で、あまり性に関する興味がなかったから、夜の時間に会わないのはよかったのだが、なんだか二人の心の距離が、最初はうまく縮まらない気がしていて、もどかしかった。
潤はそういう、心とか内面とかの感覚にすごく敏感だった。杏花の些細な変化にはいつでも気づいていたし、記憶力も良かった。
「潤は、大学早稲田だっけ。」
杏花は、少し俯きながら言葉をこぼした。うん、と潤は頷いて、二人の間に小さな沈黙が芽吹く。
「大学生になったら、潤は変わっちゃうのかな。」
杏花がふと、潤の顔を見てそう呟いた。潤はすぐには言葉を返せず、そうだなあ、と窓の外を見ながら言う。
「変わっちゃう、かもしれない、なあ。」
潤と杏花は、実は高校が違う。というか正確には、杏花は高校に所属しているが、高校にはほとんど行っていない。夕方になると潤の高校に来て、潤との時間を過ごす。それが、杏花の楽しみだった。
「こういう時、どこにも行かないで、なんて言えたらいいのかな。」
杏花はどこにも向けられない感情を、自分の中に押し込んで、そっと言葉を出したまま、俯いた。
私服の杏花は、教室にいると違和感しかなかったが、白いワンピースを着ているその姿はなんだか柔らかい光の中に現れた妖精のようだった。
「そんなことはない、気がする。」
潤は合う言葉を探しきれなかった自分になんだか寂しさを感じた。それは、杏花に対する愛の表れなのか、なんなのかはその時はわからなかった。
杏花と出会ったのは、高校二年生の時、潤の高校の文化祭だった。
「なんか、文化祭って嫌い。」
潤が高校の二階の建物と建物が橋渡しされている場所の軽いベンチに座っていると、杏花はたんぽぽの綿毛のようにひらりと現れた。潤は不思議と驚かずに、隣に腰を下ろす杏花をそっと見た。
「わかる。」
潤はベンチから見える校舎の外の木々を見つめながら、ぼんやりと杏花の跡を追うようにつぶやいた。
「人が多いと、みんなが生きてることを実感するから、なんだか自分も一生懸命に生きないといけない気がして、嫌い。」
嫌い、と繰り返す杏花に、潤は嫌悪感を抱かなかった。そこには、凛とした芯のある生き方がある気がして、潤は安心した。
なんできたの?、と言いそうになるのをやめて、潤はまた杏花を見つめて、呼吸をした。
初めて見る杏花は、無地のベージュの麻の生地のワンピースに茶色の小さな鞄を肩から下げていた。黒髪で長さは胸の下ぐらい。鼻筋が通っていて、肌は白いが血色がある。潤は、思わず見惚れてしまう。
「じゃあ、なんできたかって、思ってる?」
潤の心を見透かしたように、杏花が潤をまっすぐと見て言った。潤は頷いて、杏花の耳元で光っているイヤリングにふと気がついた。
「私、高校に行ってないの。正確には入学はしているんだけど、不登校。うちの親、結構うるさくて、少しでも高校の空気を吸った方がいいって言って、無理やり行かされたの。」
杏花は、ベンチに両手をついてもたれかかり少し上を見上げながら、話し出した。潤は初めて出会った不思議で可憐な存在に、少し心惹かれていた。
「ねえ、私って変かな。何かに溶け込まないと、この世界はいけないのかな。」
ガラス越しの木々が揺れているのを見ながら、遠くを見つめて杏花は言った。
「溶け込む、必要はないと思う。でも生きていかないといけないから、人間はどこかには居ないといけない。酷だよね。」
潤は自分の内側の感覚に目を向けながら、少し俯いていった。人には人の居場所があることを、潤はこれまでの人生で知っている。そして、その居場所は永遠にそこにあるわけではなく、脆く儚いものであることも。
「吹いたら消えちゃう、キャンドルみたい。」
杏花は少し笑いながらそう言った。キャンドルは、揺れ動く火の中で確かに居場所を作っているが、それが消えてしまったら、何もなくなってしまう。
「キャンドル、かあ。」
潤は色々なことを思い出して、心が浮いた感覚になるのがわかった。それは決して好奇心や優しさではなく、杏花の言葉ひとつひとつを噛み締めるように、心にこの景色を残しておきたい、と思っている気持ちだった。
「私がここにいる、そしてあなたもここにいる。でも、何分後かにはここには存在していなくて、このベンチだけが残る。なんだか、本当に淡い存在。」
杏花はそう言いながら、何もないベンチの隣の空間を見つめた。
きっと杏花は、家の中で色々なことを考えているのだなと、潤は柔らかく思った。そして、それは純白で何にも侵されていない、白いキャンドルのように。
高校生活で、人と一緒にいることが当たり前になっていた潤は、いつの間にか何かに溶けていたのかもしれない、と思った。
今みたいな、何気ない時間。潤は噛み締めるように、それでも手元にカメラがなかったから、心の中で杏花の姿と、今自分が見ている外の風景を写し取った。
「ねえ、また、会えるかな。私は安藤杏花。」
杏花は今度は潤の顔をしっかりと見て言った。意思がしっかりとあり、その凛とした姿に風を感じて、潤は小さく、うん、と頷いた。
杏花とのやりとりはメールだった。今どきラインがメインなのに、ラインはなんだか軽くて嫌い、と言って杏花はメールアドレスを潤に教えて、それから何度か連絡を取り合い、映画に行くことになった。
アニメがいい、と杏花が言うので、潤の学校が休みの土曜日に街の近くの映画館に行った。さまざまな映画がやっているにも関わらず、なんでアニメなのかと聞くと、杏花はいいから、と言ってチケット売り場に静かに並んだ。
映画館は、潤にとっては憩いの場所だった。静かで暗い、物語に没頭できるそれは、潤の体の中の感覚をしっかりと感じ取ることができる気がした。
お互い、映画を見ている時は何も喋らず、お互いの顔も見ずに、静かにキャラメルのポップコーンを分け合いながら過ごした。アニメの映画を見ている時の杏花の空気は、明るく、なんだか子どものようなものだった。潤は普段あまり見ない映画に没頭し、気づいたら映画は終わっていた。
上映が終わり、館内がパッと明るくなる。まばらに人が立ち上がる。杏花は、うー、と言って大きく両手を前に出し伸びをし、潤の顔を見てきらきらと笑った。
きっと潤は、その時に杏花のことを、好きになったのだと思う。
「よく、笑うんだね。」
潤は映画館を出たところの赤い絨毯の通路で、ふとつぶやいた。杏花はそれを聞いて、不思議そうに潤のことを見つめた。まばらに出てきている人たちは皆、映画を見終わって満足そうな顔をして、歩いている。
「アニメは、なんだか笑えるの。人間ドラマは苦手。現実世界を見せられて、私じゃなくなっちゃうみたいで。」
杏花は歩きながら、文化祭の時とは少し違う空気を纏いながら言った。文化祭の時は、潤は杏花のことを不思議な存在として見ていたが、なんだか、心の中で自分が杏花のことを求めている気がした。
ねえ、ちょっとタリーズ行こうよ、と杏花が言ったので、映画館が入っているアリオの三階にあるそこへ二人で歩いた。
昼時の、しかも土曜日のタリーズは混んでいた。二人でテイクアウトして、アリオのそばにある広場のベンチにでも座ろうと話した。混んでいるところで杏花と話したくないな、と潤は思っていたから、ちょうどよかった。潤はホットコーヒーを、杏花は甘いココアを頼んだ。サイズはどちらもレギュラーサイズ。
文化祭の近日だったから、季節は秋だった。十月の昼の空は、まだ晴れているけれど、澄んだ空気が流れていた。アリオから出るところの自動ドアが開くと、晴れやかな香りが潤の鼻をくすぐった。前を歩いている杏花の髪が靡いて、心が揺れた。
広場には、薄く芝生が広がっていて、中心には子供が遊べる小さな噴水があった。噴水、と言っても大人の腰の高さぐらいまでしか上がらないもので、ちょろちょろしていて、可愛いなと潤は思った。
広場の片隅に置かれていた小さなベンチに二人は腰掛けた。杏花はココアを一口飲んで、ふう、と一息ついた。
「楽しかったね、なんだか暗闇ってやっぱりいいなって思った。」
二人でタリーズを出てから、無言が続いていたので、杏花の声を久しぶりに聞いた気がして、少し新鮮さを潤は感じた。杏花の声は、少し高いけれど可愛らしい声をしていて、甲高さはなく、それでいてしっかりと耳に届く。
潤は小声でわかる、と言いながら、噴水で遊んでいる子供達をぼんやりと眺めながらコーヒーを飲んだ。
「いつまでもあるものはないけど、なんだか映画を見ていると、この時間が永遠に続くんじゃないかって錯覚するの。暗闇で、このまま物語の世界に溶けていっちゃうみたいに。」
杏花は、映画を見終わった後からずっとほんのりと暖かい空気を纏っていた。それは夕焼けのような橙色の空気で、潤の心をそっと和ませてくれていた。
ほんとうにそうだったらいいのにね、と潤が言うと、杏花はそうだね、と下を俯きながら返事をした。
「これからどうなっちゃうんだろう、って時々不安になる。私はこのまま大人になれるのかなって、不安になる。でも、今日みたいなアニメを見ていると、ただそれだけでいいんだなって、気付かせてくれる。ただ可愛いって言って、笑って。」
なんだか、昼間にする話じゃないよね、と杏花が言葉を言い終わると空を見上げながら言ったので、潤は首を横に振った。
「きっと、時間なんて関係ないんだと思う。深夜でも働いている人もいるし、この一生をほとんど寝ている人だっている。きっと、自分にしかわからない、体や心の感覚があるんだと思う。」
潤は、自分がこれまで生きてきた過去を思い出しながら、杏花にそう言った。
*
葉は今日もいつも通り、朝に潤の家に来た。今日は夏の日の水曜日。時間は七時半。一限までは、あと一時間半ぐらいの時間がある。
潤と葉は、ごく普通に大学二年生に馴染んでいて、大学に通うことはもはや空気をすうぐらいな感覚だった。潤は葉が来てくれることが、日常の些細な支えになっているなと、葉が朝に来るようになってから、思っていた。
「今日は天気がええなあ。」
潤がいつも座っているベランダの席に腰掛けながら、葉は大きく伸びをして言った。
夏だから、と葉は毎回アイスを買ってきてくれていた。いつもパピコで、それを二人で分ける。ほんのりと苦味のある甘い味は、朝にぴったりだった。
「夏だから、晴れている日のこの時間は、やっぱり暑いな。」
潤はTシャツの首元を持って、ぱたぱたと風を胸に送りながら、パピコを咥えてそう言った。せやなあ、と葉ものんびりと同じような感じでのんびりとしている。
「あっこん公園、人あんまりいいへんな。」
葉はベランダから顔を出して、外を覗きながら言った。そういえば住んでいるところの目の前に公園があったな、とじゅんは思い出した。
「意識してなかったから、気づかなかったわ。行く?」
潤は食べ終わったパピコをテーブルの上に置きながら言った。潤は、朝はあまり外に出ないから、せっかくなら出てもいいなと思った。
「行くか、暇やし。」
葉はそう言うと、網戸をずずっと開けて中に戻った。携帯だけを持って、ほな、と言ってすたすたと玄関の方に行った。潤はとりあえず家の鍵だけを持って、ついて行った。
葉は慣れたように潤の住んでいる下落合のマンションの階段を降りて、裏口から出て公園へ向かった。大通りの反対側、ひっそりとしたところにその公園はあり、ビルに囲まれているがどれも背が低かったため、空が広く大きく見えた。
「こりゃ、秘密基地やな。」
葉はそういうと、小さな一つのベンチに腰掛けた。公園の中には、鉄棒と滑り台があるだけで、砂場はなかった。子供達もあまりきていない感じがした。潤は眠い目を擦りながら、葉の隣に座った。
「いいな、ここ。朝だからってのもそうだけど、夕方も綺麗そうだな。」
潤はベンチに両手をついて、空を見上げながら言った。二人は空を見上げながら、お互い何も喋らずにぼーっとした。
「なーんや、ぱっとしない日々を過ごしていたけど、それもええなあって、潤の家に朝、来始めてから思うたわ。」
葉はそう言うと、潤の顔を見て明るく笑った。潤は何も言わずに、葉の顔を見ながら、少し微笑み返した。
「大学二年になって、他のやつらは就活やらなんやらで、全然おもろない。でも潤は、タバコふーって吸って、なんだか安心するんや。」
葉は、少し下を俯きながらそう言った。そっか、と潤は返事をして、空を見た。
「俺が女やったら良かったんにって、何回も思った。潤を見てると、なんかよーわからんけど、心んどっかが締め付けられる気がして、なんか苦しいねん。」
葉は胸の奥にある想いを打ち明けるようにそう言った。葉は少し恥ずかしがりながら、あーあ、と言ってベンチに両手をついて、潤と同じように空を見上げた。
「性別なんて、なかったらいいのにって本当に思うよ、俺も。」
潤も少し下を俯いて、そう言った。葉の言葉は、性的な意味ではなく、人として、そしてもっと深い意味での好きということなのだと、潤は分かった。
葉は潤の言葉を聞いて、せやなあ、と空を見上げて大きく伸びをした。
「んま、おっぱいはずっと揉みたいけどな。」
葉はにかっと笑ってそう言った。確かに、と潤は返事をした。こういう明るいところに、潤は何回も助けられているなと思って、なんだか葉と一緒に居られることが嬉しくなった。
「おっぱいって、なんであんなロマンがあるんだろうな。」
潤が真面目な顔でそう言うので、葉はちょっと引いた感じでそんなに好きなん?、と順に返した。性的な話はしていたが、潤のそういう話はあまり聞いたことがなかったからか、葉は少しびっくりしていた。
「セックスは何にも感じないけど、おっぱいだけはずっと揉んでいたいって思う。なんでなんだろうなあ、そこだけは男に生まれて良かったなって思うよ。」
潤は空を見上げながら、さまざまな思い出を振り返って言った。葉にはこういうことを恥ずかしげもなく言えるのだなと気づいて、また嬉しくなる。
ふうん、と葉は誰もいない滑り台を見つめながら返事をした。
「なあ、知っとる?なんかの調査で、世界でほとんどの国の国民が、一番気持ちがいいことでセックスをあげてるんに、日本だけが、美味しいご飯を食べること、って言ってるんやって。」
え~、と潤はそれを聞いて少し大きな声で驚いた返事をした。標準語が混ざりつつある葉の言葉は、なんだか葉の人間性が出ている気がして、聞いていて飽きない。
「なんそれ、めっちゃ素敵やん。なんか日本人っていいなやっぱ。」
潤は軽い感じでそう言った。セックスが嫌いな潤は、こうして人と過ごす時間が好きだったから、この話を聞いてなんだかいいなと思った。嘘か本当かは、葉のことだからわからないけれど、なんだか心が温かくなった。
「せやろ、なんかうまいもん食いたいから、今度の土曜日、授業終わったら、どんぴしゃり行こや。」
どんぴしゃり、というのは早稲田大学生が通い詰める、とことん味が濃くて分厚い豚肉が乗っている丼屋である。ここのタレは醤油が効いていて、すごく美味しい。葉の言葉を聞いただけでも、潤はお腹が空いてくる。
「いいね、ちょうど味が濃いもん食べたいと思ってたわ。」
潤は笑って返事をして、そろそろいくか~、と言って立ち上がった。二人はその後、いつも通り一限に行った。
その週の土曜日になり、葉と潤は、大学の本キャンパスの入り口で待ち合わせをしていた。土曜日の大学は授業に出る人が少ないからか、まばらに人が歩いているだけで、先に着いていた潤はすぐに、キャンパスからぼんやりと歩いてくる葉を見つけることができ、軽く手を挙げた。
「うぃっす~。」
葉はなんだか疲れていそうだった。土曜日の授業だからか、手荷物は少なかったが、ダルダルのTシャツにデニムを履いている。まあそれはいつも通りなのだが、なんだか纏っている空気が切ないというか、ちょっと暗い感じがした。Tシャツにはよくわからないロックバンドのロゴのようなものが描かれている。
「おすおす、行くか~、どんぴしゃ。」
潤はそんなに疲れていなかったので、普通に返事をした。言葉では言えない感覚が分かるまでになって来たのかと、潤は自分の中で少し嬉しくなった。今日の空からの太陽はなかなかに暴力的で、ぴーかん、と言っても過言ではない気がした。潤は自分の心の中でぴーかん、という言葉が出てくることに少し驚いて、心の中で笑った。
「振られたわ~。」
葉は歩き出すなり、沈んだ顔でそう言った。潤はえっ、と言葉を発して、そのまま歩いていたが気持ちは追いついていなかった。言ってる本人の葉も、まだ気持ちが整理できていない顔をしている。
「もうわからんわ、女の心は。」
葉は両手を頭の後ろで組んで、あー、と空を見上げながら言った。
葉には、高校時代から付き合っている彼女がいることを、潤はこれまでの朝の時間で聞いていた。なんとなく付き合っているだけで、そんなに愛を感じていないんや、といつも言っていたから、結婚、というところまではいかないのだろうなと思っていた。そして、ついに別れが来たか、とじゅんは思った。
「最後は電話で。しかも今日の昼や。そんな寂しいことあるか?なんだかもっと、心繋がってる思うてたんに。」
葉は自分の感情を吐露するたびに、泣きそうになっていた。潤はそれをみて、いつも飄々としている葉がこんなにも人間的であるのだなと思って、なんだかちょっと新鮮な気持ちになった。吐露してくれたことが、嬉しかったのかもしれない。
潤は、ま、うまい飯でも食べに行こうや、と言って、どんぴしゃりまで歩いた。
どんぴしゃりに着くと、元気のいい店員さんがカウンターに案内してくれた。その前に二人で豚丼の食券を買って、それをその店員さんに渡して、カウンターに座った。運ばれて来た水は水滴が溢れるほど汗をかいていて、なんだか夏だなあと、潤は思った。
「忘れたいことばっかりや、人生。」
葉はそう言うと、その水をぐいぐいと喉に押し込んだ。まるで全部流し込もうとしているように、潤は見えた。潤は静かに、そうやな、と言った。葉と一緒にいるからか、関西弁も移ってきたことを感じた。
「あいつな、浮気もなんもしてへんかってん。せやけど、もう俺とは一緒にいられん、て。なんでって聞いたら、それはあんたが考えれば、って電話切られた。なんか、人の縁ってそんなもんなんかって、ちょっと電話切った後に怒りそうになったわ。」
葉は目に涙を少し浮かべながら、しみじみと言った。それでも、いつもの葉の暖かい空気は変わっておらず、悲しんでいるのに前を向いているようにも見えた。
そっか、と潤は返す。恋人、という存在が心の中でしっくりきていない潤は、葉の気持ちを心から理解することは難しかった。
「まあ、人のご縁なんて、そんなもんなんだよな。切った方、切られた方、怒る方が野暮なんてこと、わかっとるんやけどな。」
葉はテーブルを見つめながらそう言った。葉の過去をそこまで知らない潤は、寂しそうな葉の目をまじまじと見ることは、できなかった。
*
高校三年生の冬、潤と杏花は、二人で雪の中の道を歩いていた。土曜日で学校はないけれど、潤と杏花は家が近かったから、十一時ぐらいの昼に集まっていた。今日は高円寺の街を二人で歩いていた。
二月になって、潤はもう大学への進学が決まっていて、杏花は知り合いの紡績工場で、刺繍を学ぶことに決まっていた。
お互いこれからのことは何も言わないまま、付き合うとかの言葉も交わさないまま、ただ時間が流れていった。
潤はその日は雪が降っているからと、カメラを持ち出して歩いていた。ハンドストラップに一眼レフを巻き付けて、ぶらぶらと手で揺らしながら、二人で傘も差さないでぼんやりと歩いていた。
「ねえ、カメラ、いつから始めたの?」
杏花はしんしんと降る雪を眺めながら、ふとつぶやいた。
今日の杏花はどこか寂しそうで、なんだか潤は心なしか、縋るようにカメラのハンドストラップを握っていた。
「俺が中学んとき、母親がくれた。それから。」
ふうん、と杏花は遠くを見つめながら返事をした。雪の道とは言っても、積もるほどの雪ではなく、東京のたまに降る雪、という感じで、小さな粒がぽつぽつと、それでも視界が雪で少し埋まるほどだった。
そういえば、杏花の写真を撮っていない、と潤は気づいて、今日のどこかで杏花のことを写したい、と思った。
「なんか、好きなことがあるっていいね。」
杏花は寂しそうにそう言った。杏花が人を羨んだりすることは今までなかった。いつでも、一人で自分の場所で、小さく咲いている、可憐な花だった。潤との時間を過ごしている中でも、それは変わらなかった。
「まあ、趣味だけどね。きっと普通に大学に行って、普通に就職する。それは変わらない気がする。」
潤がそういうと、杏花は歩きながら少し俯いて、寂しそうな顔をした。そのあと、空を見上げて止まって、降る雪を眺めていた。
二人がどうなるのか、そんなことは潤と杏花の間には関係なくて、今という時を過ごしている幸せを感じよう、とお互いで話していた。それでも、大学になったら杏花と会うことができなくなってしまうのではないかと、潤は思っていた。
「私は、好きなことがないから、なんだか羨ましい。」
杏花には、趣味という趣味がない。潤と過ごしている時も、自分が好きなことを話すことはあまりなかった。過去のことを話すことも。
その代わりに杏花は、その時に感じている感覚や風景、一緒に見ているもののことを話すことが多かった。
「杏花は、今を見つめているから、なんだか俺はそれが羨ましいよ。」
杏花は、雪が似合っていた。今日は濃い茶色のダッフルコートを着ていた。その下には赤いセーターを着ていて、パンツは淡い緑色のものを履いていた。子供っぽさもあるけれど、杏花がこの格好をすると、なんだか大人に見える。潤は、杏花がだんだんと離れていってしまっている感覚を覚えて、雪の中で少し寂しくなった。
「私は、ただ寂しいだけだよ。過去なんて、思い出したくないから、好きなことを作ったらそれに縋っちゃう気がして、怖いだけ。だから、今ちゃんと見えているものに目を向けているだけ。」
杏花はそういうと、少しすっきりとした顔で、ぐーっと空に向かって伸びをした。潤は何も言わないまま、地面を見ながらとぼとぼと歩いていた。
ふと、高円寺の街を歩いていると、茶色い看板の喫茶店を見つけた。喫茶店の前で杏花が止まったので、潤が入る?、と聞くと、杏花がこくりと頷いた。二人で喫茶店に入った。
土曜日にも関わらず、喫茶店は空いていた。レンガ調の店内は、よく清掃されていて、砂糖の瓶や壁にかかっている絵が和やかな雰囲気を纏っていて、なんだか素敵だなと、潤は思った。
「あらあら、傘も差さないで、どうしたの。」
五十代ぐらいのおばちゃんが、二人が入るなりカウンターから心配そうな顔をして出てきた。潤と杏花は苦笑いしながら、入り口の絨毯マットのところで服についた雪を落とす。絨毯マットには、薔薇の絵が施されていた。
濡れるのが好きなんです、特に雪の日は、と杏花は笑顔でおばちゃんに言った。おばちゃんは、あらまあ、と言って、二人が座った席に水を運んだ。杏花はこういう時に、人当たりのいい対応ができる人だった。
杏花がコーヒーでいい?というので、潤は頷いた。杏花がホットコーヒー二つ、とそのおばちゃんにいう。
「結構、喫茶店くるの?」
杏花の慣れた様子に、少し驚いた潤は不思議そうな顔をして聞いた。杏花はまあねえ、と言って、メニュー表を手に取ってぼんやりと眺めている。
「高校行かないで、よく近くの喫茶店で一人で本読んでたりしたから。」
杏花はそういうと、いたずらに笑った。杏花の笑顔なんて、あまり見たことがなかった潤は、少し嬉しくなった。喫茶店の窓から見える雪は、相変わらずしんしんと降っていて、それでもさっき体で感じていたからか、さらさらであることがわかる。赤基調で落ち着いた雰囲気の喫茶店と雪が合っているなと、潤は思って、徐にカメラを窓に向けて、ピントを合わせてシャッターを切った。
「外だと濡れちゃうもんね。」
潤がカメラを構えている姿を見て、杏花は頬杖をついてそう言った。顔は真面目な顔をしていて、潤が写真を撮る姿をまじまじと見ている。潤は、そうなんだよね、と優しく返して、でもカメラは雪なら意外と壊れないから、と付け加える。そうなんだ、と杏花は言って、何気なく窓の外を見た。
杏花の横顔は、ボブで艶やかな髪が耳元にかかっていて、鼻筋の通った綺麗な横顔だった。ダッフルコートを背もたれにかけて、赤いセーターになった杏花は、なんだか可愛かった。セーターには、クリスマスのようなギザギザの刺繍が施されていた。
杏花の写真を撮りたい、と潤は思って、目測でピントを合わせて、その横顔を撮った。ファインダーを覗きたかったが、杏花の自然な表情が撮りたいと思い、覗かずに撮った。杏花は潤がカメラを向けていることに気づいていたが、窓の外を見つめ続けていた。
程なくして、おばちゃんがホットコーヒーを二つお盆に乗せて運んできた。お盆は銀色の昔ながらのお盆という感じで、コーヒーの入ったマグカップは小さく、人差し指と親指でひょいと持てるサイズだった。
杏花はまだ熱々のマグカップを持たずに鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いでいる。
「どんな匂い?」
潤が興味深そうな顔をして聞いた。あまり普段はこういうことを聞かないが、なんだか今日は聴きたい気持ちになって、聞いた。
杏花はうーん、と言いながらじっくりとコーヒーの匂いを嗅いでいる。
「雪が降っていたからかもしれないけど、なんだか澄んだ匂いがする。しんとしているけれど、なんだか心に染みてくるような苦い匂い。好きだな。」
杏花は目を瞑りながら、味わうようにそう言って、マグカップをつまんで一口コーヒーを飲んだ。うん、美味しい、と言って、順に向かって笑いかけた。
それに釣られて、潤もコーヒーを一口。純喫茶ならではの、苦味とコクがある深煎りのコーヒー。雪で冷え切った体に染み渡った。
澄んだ匂い、という杏花の言葉通り、なんだかすっと心がやらわいで行くような、そんな気がした。
「なんか可笑しいね。文化祭でたまたま会っただけなのに、こんなところまで来ちゃったね。」
杏花は思い返すように、寂しさを交えながら呟いた。杏花とは出会って四ヶ月ぐらいが経とうとしているが、なんだかずっと昔から一緒にいたような、そんな感覚になる。潤は一人で、心地の良さを感じていた。時間は心なしか、ゆっくりと過ぎている気がする。
「たしかに、なんだか不思議な感じはあるね。お互い、今存在が必要だったのかもね。」
潤も優しく微笑みながら、コーヒーを啜ってそう言った。お互いの存在が必要、潤は自分で言った言葉を、心の中で反芻していた。
「ねえ、あんバタートーストも頼んでいい?お腹空いちゃって。」
杏花が自分のお腹にそっと手を当てて、少し目を細めて弱々しく言った。潤は少し笑って、うん、俺も食べようかな、と返事をした。
「おばちゃん、あんバタートースト、二つください~。」
少し大きめな声で、杏花がカウンターの奥にいるおばちゃんに声をかける。何かの荷解きをしていたおばちゃんは、背中を向けながらは~い、と返事をした。
注文が終わると、コーヒーを飲んで体が温まってきたからか、それとも店内の暖房が効いているからか、杏花の頬がほんのりと赤くなっていた。なんだか、儚げで可愛いな、と潤は思った。
「最近さ、赤いヘアクリップを無くしちゃって。」
杏花は少し俯いて、寂しそうに言った。杏花が赤いヘアクリップをしているところなんて、みたことがないと潤は思った。そして、赤が好きなんだなと、その言葉で気づいた。
「赤いヘアクリップ?」
潤は不思議そうな顔をして、返事をした。
「そう、小学校で仲が良かった友達からもらったの。少し格好は悪いんだけど、なんだか捨てられなくて、鞄の中にいつも入れていたんだけど、無くしちゃって。」
杏花は窓の外の雪を見ている。鞄に入れているから、普段は気が付かなかったのかと、潤は思った。
「そっか。小学校からの友達。」
潤はどう返していいか分からず、そっと言葉を反芻した。赤いヘアクリップ、なんで今つぶやいたのだろうと、杏花の言葉を振り返る。杏花は、そう、と言って右手で頬杖をついて、ほっと息を吐いた。
「小学校の頃はね、学校に行けてた。友達もいた。でも、友達とは遊べなかったの。こぼれ出た涙は、自分の部屋のベッドに染み込んで、なんだか、なんで生きているんだろうって思って、中学から学校に行かなくなった。私のことを大切にしてくれる人なんて、いないって思ったから。でも、赤いヘアクリップをくれた友達は、一回だけ、中学になった時に家に来てくれた。」
杏花は頬杖をついたまま、窓辺に溜まる少しの雪を見つめて話す。潤は息を呑んで、静かにその話を聞いている。あんバタートーストは、まだ運ばれてこない。
「なんでも良かったのかもしれない。だから私、あの文化祭で潤に話しかけた。分からない、潤だから、じゃなくて、そこにいたから、だったのかもしれない。」
杏花はいつも、どこか遠くへ行ってしまいそうな、灰色の空のような空気を纏う時がある。それは、その時の潤にはまだ理解ができない、深い深い何かがあるような気がした。潤は何も言わないまま、杏花の目をまっすぐと見ていた。
空気をすっと広げるように、あんバタートーストの匂いがして、ふと気がつくとおばちゃんがお待ちどうさま~、と言いながらこちらに歩いてきていた。杏花は表情をころりと変えて、ありがとうございます~、と言った。
「おいしそ~。」
杏花は可愛げに目を輝かせて、あんバタートーストを眺めた。あんこはつぶあんで、きっと熱々なのだろうなと想像ができるとろけ方をしている。バターはトーストに染みるほど溶けていて、あんこの下にとろんと横たわっている。耳が厚いトーストは、白いお皿に乗っていて、なんだかくつろいでいるみたいだった。
「ほんとに美味しそうだな。」
潤も思わずその柔らかでこってりとした見た目に唾を飲み込み、つぶやいた。
杏花は迷うことなく大きく口を開けて、そのあんバタートーストに抱きつく。食べ物は胃の中に入ったら戻ってこないのに、なんだか杏花はそれを永遠にするかのように、目を瞑りながら味わった。
「あんバターなんて、ひさひぶりにたへた。こんなにおいひいんらね。」
杏花はもぐもぐと口いっぱいにあんバタートーストを入れて、笑顔で話す。さっきとはまたまとっている空気が変わっている。潤は少し安心して、自分も食べ始めた。
「ねえ、潤はこれから、どうしたい?」
杏花が表情を変えないまま、軽い口調で聞いてきた。それは、今後の未来のことなのか、この後の時間のことなのか、順には分からず、すぐに返事をすることはできなかった。
「一番近い星にでも、一緒に行けたらいいのにな。」
杏花はあんバタートーストを両手で持ったまま、雪の降る外を見つめてつぶやいた。星なんて、出ていない時間だった。