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Photo bytama3ro

AIが「使えるもの」を出す時代でも、まだ自分の手で作りたいものがある

    以前、少しだけ3Dモデリングを勉強していた時期がある。

    思うように形を作れず、何度もつまずいた。それでも、自分の手で少しずつ立体物を作っていく感覚は楽しかった。

    画面の中に何もなかったところから、輪郭が生まれ、面がつながり、少しずつ「物」になっていく。

    あの感覚は、文章を書くこととも、コードを書くこととも少し違っていた。時間に余裕ができたら、また再開したいと思っていた。

    ただ、ここ数年のAIの進化を見ていると、その気持ちが少し揺らいでしまう。

    「こんなものが作れたらいいな」と思ったものが、プロンプトひとつであっけなく生成されてしまう。しかもそれは、単なるラフやデモ、検討用のたたき台にとどまらない。

    以前なら「AIで作ったもの」と聞けば、どこか不自然だったり、細部が破綻していたり、実用するには人間の手直しが前提だった。あくまでアイデア出しや試作の延長という感覚が強かった。

    だが、最近はその前提も崩れつつある。

    用途によっては、もう普通に使えるレベルのものがパッと出てきてしまう。イラスト、文章、コード、動画、3Dモデル。

    完璧ではないし、商用利用や権利、品質管理の問題は残る。

    それでも、少なくとも素人が見る分には「これで十分では?」と思わせるだけの完成度に届き始めている。

    今回は、Meshy 6に新しく追加された「3D Agent」を試してみました。

    3D Agentは、テキストで指示を入力するだけで対話形式で3Dモデル制作を進められる機能です。… pic.twitter.com/gGh2kB2K4J

    — ModelingHappy (@happy_modeling) June 11, 2026

    これが、かなりキツい。

    ラフやデモなら、まだ受け止め方は違った。
    「AIはあくまで発想を広げる道具であり、最後に仕上げるのは人間だ」と考えられたからだ。

    しかし、最初からかなり完成品に近いものが出てくるなら話は変わる。

    人間が時間をかけて学び、失敗し、希望と絶望を繰り返した末、ようやく到達するはずだった地点に、AIがいきなり立っている。

    しかも、その速度と品質は日々上がっている。

    AIによって、これまで創作に手が届かなかった人が表現できるようになる。頭の中にあるイメージを、ひとまず外に出せるようになる。

    使い方によっては、創作の入口を広げる強力な道具になる。

    それは間違いなくすごいことだ。

    便利であることは分かっている。可能性が広がることも分かっている。自分自身、AIの恩恵を受けている場面は多い。

    実際、画像生成AIが出始めた頃には、自分でもいろいろ試していた。

    MidjourneyやStable Diffusionが話題になり始めた2022~2023年頃には、解説書を読んで触ってみたこともある。

    画像だけでなく、音楽生成AIにも触れてみた。Sunoを試したときも、短いプロンプトからそれらしい曲が出てくることにかなり驚いた。

    歌詞、メロディ、ボーカルまで含めて、数分で「曲っぽいもの」が形になる。これも最初はかなり面白かった。

    その後、ChatGPTのGPT-4oで画像生成やマンガ作成の精度が高まったと話題になったときも、かなり遊んだ。

    3Dモデルの画像からイラストを作ったり、LINEスタンプ風の画像を出したり、吹き出しや文字入れを試したりした。

    雑なプロンプトでもそれっぽいものが出てくる。少し対話すれば、かなり使えそうな画像にも近づいていく。今までなら時間も技術も必要だったものが、短時間で形になる感覚は純粋に面白かった。

    でも、しばらく触っていると「いや、こういうことじゃないんだよな…」と冷静になってしまう。

    便利ではある。楽しくもある。けれど、自分が本当に大事にしたいものや、ちゃんとした形で世に出したいものに使うには、どうしても引っかかりが残った。

    なので今は、画像生成AIはかなり限定的にしか使っていない。ちょっとした遊びや、どうでもいいと言ったら語弊はあるが、そこまで思い入れを乗せないコンテンツで使う程度に留まっている。

    ちゃんとしたものを作りたいときは、やはりその道のプロにお願いしたい。

    これまでの人生で心血を注ぎ、スキルを磨き、自身のブランドや信頼を積み重ねてきたイラストレーターやデザイナー、ミュージシャンがいる。その人たちにしか出せない線や色、音、判断、空気感がある。

    生成AIで近いものが出せるからといって、それを簡単に置き換えたいとは思わない。

    これは、自分が作る側に回るときも同じなのだと思う。

    誰かにとっての「それっぽいもの」ではなく、自分の想いや経験を通したものを作りたい。たとえ時間がかかっても、自分の手で判断し、自分の納得できる形に近づけたい。

    それでも、目の前で高品質な生成物が簡単に出てくるたびに、別の感情も生まれてくる。

    今から時間をかけて学ぶ意味はあるのか?

    手を動かして、失敗して、少しずつ覚えていく。

    その遠回りに、今も価値はあるのか?

    この感覚は、絵に対して抱いてきた気持ちとも重なる。

    若い頃に絵を描こうとしていたものの、SNS上で上手い人たちの作品と比べてしまい、描くこと自体が苦しくなっていった。道具を手放して、戻り道を自分で潰した。

    それでも「描きたい」という気持ちだけは残っている。

    そこに生成AIが加わることで、状況はさらにややこしくなった。

    人が時間をかけて積み上げてきた技術と、AIが一瞬で生成した「それっぽい完成物」が、同じ場所に並んでしまう。

    人が描くことの価値が消えるとは思っていない。そこには過程があり、癖があり、その人自身の人生がにじみ出る。

    それでも目の前に高品質な生成物が大量に流れてくれば、「自分が今から時間をかけて学ぶ意味はあるのか」と考えてしまう。

    今回の3Dモデリングに対する感覚も、それにかなり近い。

    ただ、絵と少し違うのは、3Dモデリングについてはまだ完全に諦めきれていないことだ。

    絵は、自分の中では一度かなり明確に撤退した感覚がある。描きたい気持ちは残っているが、再開するには痛みの記憶が大きすぎる。

    一方で、3Dモデリングはまだそこまで決定的に閉じていない。

    作ってみたいものがある。自分の想像を立体化してみたい気持ちもある。

    3Dモデルには、イラストや文章とはまた違う面白さがあるのだ。

    ゲームやVR空間に置けるだけでなく、アバターとして自分の身体性と同期できる。自分が動けば、キャラクターも動く。視線や表情、身振り手振りまで含めて、画面の向こうにある存在が、自分の延長のように感じられる。

    ただ眺めるだけの創作物ではなく、自分がその中に入り込める。そういう体験を、全て自分の手で作ったモデルでできたら楽しいだろうなと思う。

    だからこそ、余計に悩ましい。

    最初から完全に諦めているなら、AIで生成された3Dモデルを見ても「すごいな」で終われる。自分には関係のない領域として眺められる。

    でも、まだどこかで
    「やりたい」と思っているから、心がざわつく。

    これは、単にAIが怖いという話ではない。

    むしろ、創作をしている人ほど感じやすい痛みなのではないかと思う。

    何かを作れるようになるためには、時間がかかる。最初は思うようにできない。自分の下手さに何度も向き合う。資料を見て、真似して、直して、また崩れて、もう一度やり直す。

    そういう過程を知っている人ほど、AIが出してくる完成物の速さに圧倒される。

    そして同時に、自分の中の熱量が試される。

    本当に作りたいのか?

    評価されなくても作りたいのか?

    お金にならなくても作りたいのか?

    AIのほうが速く、綺麗に作れるとしても、
    それでも自分の手で作りたいのか?

    この問いは、なかなか重い。

    いまは、想像できる範囲のものなら、かなり簡単に形にできてしまう。創作の敷居は下がり、表現は民主化された。

    けれどその一方で、時間をかけなければ辿り着けなかった場所や、試行錯誤がなければ届かなかった表現の重みは薄くなっている。

    AIに効率化を求めることについて考えたときも、似たような引っかかりがあった。

    AIは、人間の考える手間、探す手間、書く手間、作る手間を減らしてくれる。そこに助けられている場面は確実にある。

    だが、手間というものは本当に悪なのだろうか。

    時間をかけて調べたり、失敗しながら試したり、考えあぐねたりするプロセスには、効率では測れない価値がある。

    文章を書くときに、何を伝えるか悩み、言葉を選び、削っては足してを繰り返す時間。その過程こそが、自己表現や発見につながっていたりする。

    うまくいかない苦悩。何度もやり直す時間。目的から逸れた寄り道。そこで見つかる自分の癖や、思ってもみなかった組み合わせ。

    そういうものが、創作の芯を作っていたのではないか。

    AIは、その遠回りを一気にショートカットする。

    便利だ。

    でも、その便利さによって、熱が芽生える余白まで削られてしまうことがある。

    自分が欲しいのは完成物だけなのか?

    頭の中にあるものが、ただ出力されれば満足なのか。

    それとも、不格好でも、自分の手で作ったという感覚が欲しいのか。

    たぶん、まだ後者への未練がある。

    創作は、成果だけを見ればどんどん効率化されていく。

    AIが作り、AIが整え、AIが評価し、AIが拡散されやすい形へ最適化する。

    文章の世界では、いち早く「AIに読まれる」「AIに拾われる」ことを前提にした考え方が出てきている。

    AIに評価されやすい構造、要約されやすい文章、拾われやすい情報設計。たしかに合理的だ。

    だが、そこに寄せすぎると、自分が誰に向けて、何のために書いているのかが見えにくくなる。

    というか、自分が介在する意味が薄れる。

    これは文章だけの話ではない。

    創作全般において、AIに最適化されたものは強い。
    整っている。速い。分かりやすい。量産できる。

    AIを使えば、自分だけでは届かなかった表現に手が届くことがある。

    一方で、その便利さが創作する理由や手を動かす意味を揺さぶってくることもある。

    だからこそ、

    人間が創作に求めているものは
    本当にそれだけなのか?

    という問いが残る。

    途中で迷うこと。
    うまくいかなくて手が止まること。
    昨日より少しだけマシになること。
    自分の癖に気づくこと。
    誰にも評価されなくても、なぜか手元に残しておきたくなること。

    そういう未整理の感情や、非効率な時間の中に、創作の意味はかなり残っている気がする。

    結局、創作には作り手自身の想いや経験が強く出る。

    どんなものを美しいと思うのか。どこに違和感を覚えるのか。何を削り、何を残すのか。そうした判断には、その人自身の信念が必要になる。

    AIは高品質なものを出せる。場合によっては、最初からかなり使えるものを出してくる。

    けれど、それが本当に自分の作りたかったものなのかは、別問題だ。

    なんとなく良いもの。
    見栄えのするもの。
    多くの人に受け入れられそうなもの。

    そこまではAIでも届きやすくなっている。

    けれど、「自分にとってこれでなければならない」と言えるところまで持っていくには、やはり作り手自身の信念が問われる。

    創作者自身の想いや経験を忠実に再現し、実現させるには、最後の判断を担う人間側の軸が要る。

    それは、AI時代でも簡単には代替できない部分だと思う。

    AIと共存できる部分も確実にある。

    3Dモデリングでも、リファレンス集めやアイデア出し、作業手順の確認など、AIに助けてもらえる場面は多いはずだ。全部を自分ひとりで背負う必要はない。

    むしろ、AIを補助輪として使うことで、挫折しにくくなる可能性もある。

    さらに言えば、土台となる知識や経験があることには、やはり一定の意味がある。

    AIがパッと出してきたものを見て、それが本当に良いものなのか判断できるか。どこが不自然なのか、どこを直せばもっと良くなるのか、用途に合わせてどう調整すべきなのか。

    そこには、人間側の知識と経験が必要になる。

    3Dモデルであれば、形としてはそれっぽく見えても、実際に使おうとすると破綻が出ることもあるはずだ。

    ポリゴンの流れ、可動部分の作り、テクスチャ、リギング、データの扱いやすさ。見た目だけでは分からない部分にこそ、作り手の理解が出る。

    AIが生成したものをそのまま受け取るだけなら、誰でも同じ地点に立てる。

    けれど、それを見極め、直し、用途に合わせて磨き込めるかは、その人の土台に左右される。

    そう考えると、AI時代に学ぶ意味が完全になくなったわけではない。

    むしろ、ゼロからすべてを作るためだけではなく、AIが出してきたものを自分の意図に近づけるために、基礎を身につける価値は残っている。

    3Dモデリングを再開したとして、プロのようなモデルを作れるようになるとは思っていない。SNSで注目されるとも限らない。AIが生成したものと比べれば、見劣りすることも多いだろう。

    それでも、自分の手で頂点を動かし、面を貼り、形を整えていく。モデルの配置や構図を考え、シェーダーやライティングを試しながら、自分の見せたい表情に近づけていく。

    そういった時間には、きっと意味がある。

    それは効率のためではない。

    自分の中に残っている「作ってみたい」という火種を、消さないための時間なのだと思う。

    AI時代の創作は、以前よりも残酷だ。

    誰でも作れるようになったからこそ「作れること」自体の価値は揺らいでいる。速さや完成度だけで勝負すれば、人間はAIに追いつけない場面が増えていく。

    それでも、創作を諦めない人はいる。

    上手い人と比べて苦しくなる。
    AIの生成物を見て、心が折れそうになる。
    自分が今さら始める意味を疑ってしまう。

    それでも、手を動かすことをやめない人がいる。
    自分の感覚を信じて、少しずつ形にしようとする人がいる。

    たぶん、そういう人は少なくないと思う。

    自分にとっての3Dモデリングは、いままさにその場所にある。

    完全に諦めたわけではない。
    でも、素直に再開できるほど楽観的でもない。

    AIで簡単に創作物が生成される時代に、あえて時間をかけて学ぶこと。遠回りをすること。下手な自分に向き合うこと。

    それは、以前よりずっと難しい選択になった。

    それでもまだ、やってみたい気持ちが消えていない。

    だからこそ、この葛藤ごと抱えたまま、もう一度創作との距離を測ってみたいと思っている。

    AIが「使えるもの」を出す時代でも、僕にはまだ、自分の手で作ってみたいものがある。


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