
AIに効率化を求める人間のつまらなさ
AIに何を求めるか。
その問いに、多くの人は「効率化」と答える。
時間の節約、業務の自動化、最適なルートやスケジュールの提案。それは確かに便利だし、実際にAIはそれを得意としている。
だが、いつの間にか「効率化」だけを期待するようになった人間の姿には、どこか味気なさやつまらなさを感じてしまう。
AIは便利だ。
議事録の自動まとめや要約、翻訳。プログラムのコードを書いたり、画像、動画、音楽制作に至るまで。人間の考える手間、探す手間、書く手間、作る手間。あらゆる「手間」を減らしてくれる。
しかしながら、ふと疑問に思う。
「手間」とは本当に悪なのだろうか?
時間をかけて調べたり、失敗しながら試したり、考えあぐねたりするプロセスには、効率では測れない価値があったはずだ。
たとえば文章を書くとき、何を伝えるか悩んで、言葉を選び抜いて、削っては足してを繰り返す時間。その過程こそが、自己表現であり、発見であり、創造だったりする。
効率化は、創造の代わりにはならない。
AIに「こんなブログ記事を書いて」と頼めば、数秒で文章は出てくる。たしかに「それっぽい」内容で、体裁も整っている。
とはいえ、自分が感じた温度、自分だけの言い回し、自分にしか書けない行間の揺らぎは、そこに存在しない。
「早く終わらせること」が目的になった瞬間、書くことは単なる作業になる。
効率化そのものを否定したいわけではない。雑務が減れば、本当にやりたいことに時間を使えるようにもなる。
だが「余白」や「手間」をすべてそぎ落とすと、人間の営みそのものが、どこかつまらなくなってしまう気がする。
効率の良さばかりを追い求めると、会話も、遊びも、学びも、どこか「目的のための手段」になってしまう。
それでは息が詰まる。
人間が人間らしくあるためには、遠回りしたり、無駄話をしたり、目的のない試行錯誤をしたりする時間が、どうしても必要なのだと思う。
AIにできることは日々増えている。
だからこそ、僕たち人間が何を「わざわざ」やるのかが、ますます重要になってきている。
料理を効率よく作ることもできるけど、誰かと一緒に時間をかけて作るごはんは、やっぱり格別だ。失敗しても笑い合える。そんな瞬間が楽しかったりする。
数分で生成される文章では味わえない、体温のある言葉が、今もどこかで綴られている。
その「無駄」の中にこそ、僕たちの人間らしさが宿っているのではないか。