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Photo byt_kotomi

「描きたい」気持ちだけが残っている

    若い頃、いちどだけ本気で絵を描こうとした時期があった。はじめて自分のパソコンを持ってしばらく経った時、ペンタブを買って、Photoshopやクリスタみたいなソフトを触り始めた。

    最初は楽しかった。
    レイヤーって便利だな、とか、取り消しが効くって最高だな、とか。ペンの種類を切り替えて線を引くだけで「それっぽいことをしている」気分になれたし、完成しなくても画面の中には可能性が残った。

    でも今は、インターネットが前提の時代だ。描いたらどこかに上げる。誰かの絵が流れてくる。投稿サイトのトップページには、上手い人の絵が当たり前のように並ぶ。速度も精度も桁が違う。毎日描いて、毎日上達して、SNSでは毎日バズっているように見える人たちが無限に出てくる。

    その環境で、自分の絵を投稿した。今思えば大した覚悟でもない。だけど、投稿してみた瞬間に、比較が始まった。反応の数とか、伸び方とか、誰が見てくれたかとか。数字もそうだし、何より「並べた時にどう見えるか」がキツかった。自分の絵が、周りの絵の隣で急に薄くなる。線が弱い、塗りが浅い、構図が幼い。そういう欠点が、他人の絵によって照らされてしまう。

    たぶん本当は、ただ描けばよかった。
    下手でも、遅くても、描き続ければ少しずつ良くなる。それは理屈としては理解している。理解しているのに、手が止まった。

    何が辛かったのかというと、描くこと自体よりも「描いたあとに自分で自分を裁きはじめる」ことだった気がする。描き終えた瞬間に、他人の完成度が頭に浮かぶ。まだ何も終わっていないのに、もう負けている。

    そして心が折れたとき、僕はペンタブを捨てた。
    絵の上達のために買った本や資料も、まとめて捨てた。いま思えば、あれは断捨離というより完全なる撤退だった。もう戻らないための処理。未練が残らないように、戻り道を自分で潰した。

    ああいう捨て方をすると、しばらくは楽になる。目の前から消えるからだ。道具が無ければ描かなくていい。上手い人と比べなくていい。自分の下手さを突きつけられなくて済む。けれど時間が経つと、別のものが残る。描かなかった事実だけが、静かに積もっていく。

    それ以来、僕にとって絵は「描きたい」と「描けない」の間に置かれたままになった。忙しさとか、体力とか、やる気とか、理由はいくらでも作れる。でもたぶん一番大きいのは、あのとき感じた劣等感が、いまだにどこかに残っていることだと思う。道具は捨てたのに、感情だけは捨てきれていない。

    SNSを見ていると、今でもコツコツ描いている人たちがいる。時間がかかっていても、少しずつ確実に上手くなっている人たちがいる。派手にバズっていなくても、淡々と積み上げている。

    そういう人の絵を見たとき、僕の感情は「うまいな」「すごいな」で終わらない。

    「この人は、描き続けてきたんだな」という事実に、静かに圧倒される。そして同時に「羨ましい」と思う。技術よりも、その時間の使い方が。

    「また少しだけ描いてみよう」なんて、安易には言えない。描くことの苦労を知っているからだ。うまくなるまでの苦痛も、報われなさも、比較のしんどさも。楽しいだけの趣味なら、軽く再開できたのかもしれない。けれど自分にとって絵は、楽しさと同じくらい、痛みを伴うものになってしまった。

    しかも今は、状況がさらにややこしい。
    生成AIがあるからだ。

    ツールとしての生成AIは、正直かなり魅力的だと思う。ラフ案を出す、配色の候補を見せる、構図を試す、資料集めを助ける。補助輪として使える範囲は確実にある。描く人の「手」を拡張する方向で使うなら、味方にもなり得る。

    ただ一方で、いわゆる「ポン出し」の絵が、すごいクオリティで一瞬で吐かれる現実もある。努力の過程を飛ばして、それっぽい完成物が目の前に出てくる。しかもそれが、すでに身の回りに大量に溢れている。

    この環境だと、比較は避けづらい。これまでは純粋に「上手い人」と比べて心が折れた。今はそこに、「上手い絵」そのものが低コストで増殖する世界が乗る。人が汗をかいて積み上げてきた技術と、AIが生成した「結果」が、同じ棚に並ぶ。並んでしまう以上、見比べてしまう。

    だから自分は、たぶんもう描くことはない。再開を誓うつもりもない。「また少しだけ」なんて軽い言葉で済む話ではないのだ。絵を描くことは、少しやれば簡単に上手くなる世界じゃない。あれは、時間と気力を削って、ようやく積み上がる。人生の結晶のようなものだと思う。

    それでも、描きたいという気持ちだけはある。

    厄介なのは、絵を描けないことよりも、この気持ちが消えてくれないことだ。描かなければ比較もしないし、傷つくこともない。なのに、何かの拍子にふと思う。「気ままに絵が描けたら良いのに」と。言葉では表現しきれない感覚を、頭の中のイメージを、絵という形で吐き出したい。そんな瞬間が未だにある。

    そして、ここだけははっきりしている。
    生成AIがどれだけ綺麗な絵を一瞬で出せるようになっても、人が描くことの価値は消えない。
    消えないと思いたい、ではなく、決して消えないと直感でわかる。

    人が描く絵には「過程」が染み込む。
    癖が出る。迷いが出る。選びきれなかった悔いが滲む。時間のかかった跡が残る。そこには「その人」がいる。
    結果だけ見れば似た絵は作れても、その人が積み上げてきた背景や歴史までは複製できない。確かにAIの画像生成はすごいけど、僕が求めているのは「これじゃない」のだと思う。

    僕はもう描かない。描こうと思っても描けない。
    それでも、描きたい気持ちだけが残っている。

    その矛盾を抱えたまま、描き続けている人たちを見て、静かに尊敬している。技術の差というより、耐える力の差に。比較の世界で、自分の信念を手放さない力。それはこれからの時代、何よりも強い力になる。

    自分はそこまで強くなれなかった。
    でも、強くなれなかった自分の中にも、まだ消えていない火種がある。いつかまた、その炎が燃ゆる日が訪れる可能性はあるかもしれない。

    人が描く絵には、言葉にできない魅力や価値があるのだ。

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