
Worldline Saturation 〜過去の自分を殺す、因果からの報復〜3/3
あらすじ
過去の自分を殺すことに失敗した現代の星治は逆に撲殺されるが、その瞬間、数世界線分の絶望の記憶が過去の星治の脳へ逆流。世界線は救われたが、情報量に耐えかねた星治の精神は完全に崩壊し幼児退行した。翌朝、変わり果てた夫を奏は泣きながら抱きしめ、葉の絵には消えかけていた人々が戻っていた。それから七年。精神が戻らないまま毎日クレヨンで数式を描き続ける星治を、奏は支え続ける。しかし娘の葉がその「お絵かき」を設計図として読み解き、キューブを再現してしまう。青い光が再び灯った瞬間、星治は七年ぶりに絶叫した。因果の円環は、閉じた。
第7章:自分殺し
「誰だ……ッ!? お前、どこから入ってきた……!?」
乱雑な仕事机の前で、過去の星治が椅子をガタンと激しく蹴立てて立ち上がった。その手には、四隅に展開し、この世のものとは思えないほど美しい青い光のフィールドを放つキューブが、誇らしげに握られている。
現代の星治は、時空跳躍の激しい反動にボロボロになった身体を床に這わせ、荒い息を吐きながら、過去の自分をじっと見つめた。
そこにいる過去の自分の瞳には、神の領域に達したという圧倒的な全能感と、突如として暗闇から現れた謎の侵入者への、純粋な恐怖が混ざり合っている。自分の、今は遠い、あの感覚だ。
現代の星治は、自分の姿が過去の自分の目にどう映っているかを正確に理解していた。衣服は焦げ付き、顔の輪郭や皮膚の表面が、粗いデジタルモザイクとなって激しくバグり、ブレ続けているのだ。
「そのマシンを……壊せ……ッ! 今すぐフィールドを閉じろ……!」
現代の星治が、掠れた声を絞り出して叫ぶ。だが過去の星治は、ひどく混乱した表情で、目の前の男をまじまじと凝視していた。
モザイク状に歪んだ顔。自分と同じ輪郭、同じ目の形。焦げたシャツの下に見える、自分と同じ形の傷だらけの左手。
「お前……まさか」
過去の星治の声が、微かに揺れた。冗談ではないかと、笑い飛ばそうとした。だが笑えなかった。目の前の存在の眼球の奥に宿る光が、まるで鏡の中の自分を見ているかのように、なまなましく、知っている色をしていたからだ。
「俺、なのか……? お前が、俺の……未来、なのか……?」
「……ああ」
現代の星治は、床に手をついて、必死に呼吸を整えながら答えた。
「頼む。そのマシンを、今すぐ壊してくれ。でなければ、奏が、葉が――」
「黙れ!」
過去の星治の目が、一瞬の迷いを振り切るように、狂気に塗り替えられた。
「嘘だ! 俺を騙して、俺の研究を、俺の未来を奪おうとしてるんだろう! 徳永みたいに、また俺の手柄を横取りしようとしているんだろう!」
全能感の絶頂から引きずり下ろされる恐怖が、合理的な思考を焼き切っていた。机の上に転がっていた重い金属製のスパナを掴むと、狂気的な目をして躍りかかってくる。
「やめろ、星治――ッ!!」
ドカッ、と鈍い肉体の衝突音が狭い四畳半に響き、二人の身体は乱雑な床の上へともつれ合った。激しい衝撃で、机の上の書類が雪のように舞い散り、工場から命がけでくすねてきた超伝導チップや多層基盤が、容赦なく床にばら撒かれ、バキバキと踏み砕かれていく。
現代の星治は、必死に床を這い、過去の自分を力ずくで組み伏せた。その首元に両手をかけ、親指を喉仏の奥へと深く押し込んでいく。
過去の自分を殺せば、自分が今見てきたあの絶望の未来はすべて消滅する。自分という存在の記述が消える恐怖よりも、奏と葉が世界の容量不足で消し去られることの方が、今の星治にとっては遥かに恐ろしかった。
「が、はっ……離、せ……っ!」
床に押し付けられた過去の星治は、顔をどす黒い赤色に染め上げながら、生存本能のままに床の上を必死に手探りした。同じ頭脳、同じ肉体、同じ思考回路。過去の自分が次にどこへ手を伸ばすかなど、現代の星治には100%読めていた。
「お前の……そのくだらない、醜いプライドのせいで……っ!」
首を絞める現代の星治の両腕に、さらに狂気的な力がこもる。だが、肉体の衰弱は現代の星治の方が遥かに深刻だった。時空跳躍の負荷で、指先の感覚が急速に麻痺していく。
その一瞬の隙を突き、過去の星治の指先が、四隅に展開したまま床に転がっていた「自身のキューブ」に触れた。
過去の星治の頭の中で、何かが弾けた。
目の前のモザイクだらけの男は、確かに自分だ。だが同時に、この男は自分の研究を、自分の未来を壊しに来た敵だ。それが今の星治に、唯一確実に分かることだった。
「来るなァァァッ!!」
過去の星治は、生存本能が命じるままに掴み取ったチタン製のキューブを、上から覆いかぶさる男の頭部めがけて、全腕の力を込めて振り下ろした。
ゴッ。
肉と骨が硬質な金属と衝突する、凄まじい鈍音が響いた。
現代の星治の動きが、ピタリと止まる。視界が一瞬にして真っ赤に染まり、脳を直接割られたような衝撃が走った。
バチバチと、衝突の衝撃でキューブの内側の超伝導素子が狂ったように火花を散らす。過去の星治は完全にパニックに陥っていた。目の前の男を殺さなければ、自分の未来が奪われる。その恐怖一念だけで、男を突き飛ばし、手にしたキューブをその頭へと、何度も、何度も、狂ったように振り下ろした。
ゴッ、ガシャ、ゴカッ!!
「俺の邪魔をするな! 俺の未来を守るんだ! 俺は、天才なんだァァァッ!!」
ガシャァァン!!!
最後の、ひときわ重く鈍い破壊音が響き渡った瞬間、キューブの四隅のチタンフレームがベキベキにひしゃげ、完全に沈黙した。同時に、接続を維持していた青い光のフィールドが、ガラスが粉々に砕け散るかのような不気味な破裂音を立てて消失し、部屋の空間が猛烈な歪みを起こしてぐにゃりと波打った。
どさりと、現代の星治の身体が床に倒れ込み、二度と動かなくなった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」
過去の星治は、完全に歪んだ鉄くずと化したキューブを床に放り出し、激しく肩を揺らして息を荒げた。自分の顔やシャツに、べっとりと温かい返り血が飛び散っている。
「やった……。殺したぞ。俺は……俺の輝かしい未来を、自分の手で守り抜いたんだ……」
勝った。これで自分の才能を世界に証明できる。そう確信し、歪んだ笑みを浮かべた、まさにその次の瞬間だった。
ピキィィィィン――。
脳の最奥を、数万ボルトの超高電圧電流で直接灼かれるような、経験したことのない凄まじい激痛が突き抜けた。
「あ、が……っ!? あああああああああーーーッ!!!」
星治は両手で頭を抱え、床の上をのたうち回った。
死んだ男――現代の星治が肉体に宿していた「数世界線分のすべての記憶」が、キューブの破壊による因果のショートによって、脳内へ直接アップデートされるように、一気に逆流してきたのだ。
同窓会での、あの悪気のない100%の善意に満ちた「優しい地獄」。
徳永教授の、あの吐き気のする温和な赦しの笑み。
宝くじをすり替え、株を操作し、何度も何度も過去へ手を伸ばした夜の、あの全能感。
そして、玄関横の空っぽのコンクリートの床。赤い長靴があった場所。最初からそこには何もなかったかのような、あの空白。
チリとなって目の前で崩れ落ちていった、さらに未来の自分の血の叫び――。
「うあ、あ、頭が、割れる! やめろ、やめてくれぇぇぇ!!」
数年分、数世界の「絶望の情報量」が一瞬にして脳内に流れ込み、星治のニューロンを、精神の器を、文字通りパツパツに飽和させていく。脳の限界容量を超えた情報密度の暴力が、彼の精神の構造を内側から完膚なきまでに破壊していった。
激しい脳内の濁流がようやく収まったとき、床に倒れた星治は、涙と鼻水にまみれながら、幼児のようにガタガタと全身を激しく震わせていた。
目の前には、自分が殴り殺した「男の死体」がある。
因果の展開が完全に止まったことで、男の顔にかかっていたデジタルのモザイクが、スーッと静かに解けていく。
そこに転がっていたのは。
たった今、脳内に流れ込んできた記憶の通り、数日間の地獄を生き延び、自分たちの家族を救うためにすべてを捨てて戻ってきた――自分自身の死体だった。
「あ……あ……」
喉の奥から、言葉にならない掠れた声が漏れる。
タイムマシンは完全に壊れた。これ以上の世界線飽和は免れ、世界は元の安全率を取り戻して救われたのだ。
だが、その引き換えに。
すべてを知ってしまった過去の星治の瞳からは、かつての輝かしい知性も、世界への復讐心も、完全に消え失せていた。ただ、血のついた自分の両手を見つめ、幼児のようにガタガタと震えることしかできなかった。
世界のバグは消えた。しかし、一人の天才の脳は、未来の情報量に耐えかねて、完全に崩壊していた。
(第7章・終)
第8章:静かな地獄
朝の光が、古びた木造アパートの窓から静かに差し込んでいた。
部屋の中には、激しい殺し合いの痕跡も、床に飛び散ったはずの鮮血も、何一つ残っていなかった。世界線が「正常な過去」へと収束し、矛盾が修正された結果、未来から来た男の死体は、因果律の帳尻合わせによって黒いチリとなって完全に消滅したのだ。
ただ、部屋の真ん中に、一人の男がぽつんと座り込んでいた。
「あー、うー……。これ、きれい。おほしさま、いっぱい……」
星治は床にペタンと座り、口元からよだれを垂らしながら、スケッチブックに一本の赤いクレヨンを猛烈な勢いで走らせていた。
かつて世界を書き換える数理モデルを瞬時に弾き出していたその明晰な頭脳は、数世界線分の絶望と未来の情報量を一気に流し込まれたことで、完全に破綻し、幼児のように退行してしまっていた。
だが、彼がニコニコと無邪気に笑いながら描いているものは、決して子供の落書きなどではなかった。赤いクレヨンが畳を削るようにして描き出しているのは、無数の、精緻極まりない幾何学的な模様の羅列。もしここに、最先端の理論物理学者たちがいたならば、恐怖で泡を吹いて卒倒しただろう。星治がヨダレを垂らしながら描き殴っているのは、時空の因果を記述する、人類の到達し得ないレベルの「完璧に美しい数理モデルの構造体」そのものだったのだから。
天才の脳は、精神の器がどれほど壊れようとも、指先から世界の真理を吐き出す呪いからだけは、逃れられずにいたのだ。
パチ、と寝室の扉が開いた。目をこすりながら出てきた奏は、床に座り込んで意味不明な言葉を呟きながら、狂ったように数式の模様を描き続けている夫の姿を見て、息を呑んだ。
「星治……くん? どうしたの……?」
奏は駆け寄って星治の前にひざまずいた。星治の瞳には、かつてあったギラギラとしたプライドも、冷徹な知性も、何一つ残っていない。ただ、妻の顔を見て、叱られるのを恐れる幼児のように、びくっと身体を小さく震わせるだけだった。
タイムマシンのことも、星治が世界を救うために自分自身を殺したことも、奏は何も知らない。ただ、夫が過酷な工場労働と、夜遅くまでの狂気的な勉強のストレスで、突然心を病んでしまったのだと、そう解釈するしかなかった。
変わり果てた夫を前にして、奏の目から大粒の涙が溢れ落ちた。
だが、彼女は星治を責めることも、絶望に叫ぶこともしなかった。
「……ごめんね。私、星治くんがそんなに苦しんでるの、気づけなくて」
奏は、ガタガタと震える星治の身体を、その細い腕で、壊れ物を扱うようにそっと、けれど力強く抱きしめた。星治が握りしめていたクレヨンが、ぽろりと床に転がる。
「もういいよ。もう、難しいお勉強も、工場の仕事も、何もしなくていいから。……本当にお疲れ様、星治くん。これからは、私に全部任せて。だから、少し休んで……」
奏の身体から、懐かしい、あの温かいもやしの匂いがした。
星治は奏の胸に顔を埋めたまま、「あ、う……ママ……」と幼子のような声を漏らした。
独りよがりな傲慢さで「家族を救う」と誓い、破滅した男が、すべてを失い、完全に壊れて抜け殻になることで、ようやく本当に欲しかった「奏の無条件の愛」に辿り着いた。それは、静かで、残酷なほどに優しい地獄だった。
その時、寝室からパジャマ姿の葉が元気に飛び出してきた。
「ママ、パパ! おはよー! お絵かき、新しくしたよ!」
葉が満面の笑みで掲げた画用紙を見て、抱き合っていた奏と星治の動きが止まった。昨日まで、粗い四角いモザイクのようになっていたパパの顔は、綺麗で、丸い、いつもの優しいお父さんの顔に戻っていた。
それだけではない。パパとママ、そして葉の横に、昨日までは世界の容量不足で消えかけていた「たくさんの近所の人たち」や「隣の部屋の双子の男の子たち」が、手をつないで楽しそうに笑っている姿が、色鮮やかに描き足されていた。
「葉、これ……みんなで遊んでる絵?」
奏が涙を拭いながら尋ねると、葉は嬉しそうに飛び跳ねた。
「うん! だってね、お外、急にみんながいっぱい戻ってきたんだもん! 賑やかになって、葉、すっごく嬉しい!」
世界線飽和の嵐は、完全に去った。世界の容量は正常に戻り、消えかけていた命のデータは、無事にこの世界へと再起動されたのだ。
窓の外からは、昨日までの異常気象が嘘のような、どこまでも突き抜けるような青空と、登校する子供たちの賑やかな笑い声が響いていた。
世界は、救われた。一人の天才の精神の破滅と引き換えに、美しく、どこまでも残酷に、世界は今日も回り続ける。
(第8章・終)
最終話:世界線飽和(Saturation)
あれから、七年の歳月が流れた。
あの日、完全に世界の因果律が修復されて以降、真夏に霙が降るような異常気象は二度と起こらず、世界の容量不足によって人間が記号のように消え去っていく不気味なバグも、完全にこの宇宙から消失した。世界は何事もなかったかのように、平穏で、退屈で、そしてどこまでも正常な日常を刻み続けている。
西日が傾く木造アパートの一室には、今も変わらない静かな時間が流れていた。
「あー、うー。これ、きれーね。おほしさま、いっぱい、キラキラ」
小学校高学年ほどにまで、健やかに成長した娘の葉の学習机の横で、星治は無邪気な声を上げながら、ボロボロのノートに何本ものクレヨンを激しく走らせていた。
星治の精神は、あの運命の夜に世界の情報量を脳内へ逆流させてから、幼児退行したまま一度も戻っていない。言葉もおぼつかなく、一人では着替えも食事もできない。だが、彼はこの七年間、毎日、それこそ狂ったように一日中欠かすことなく、ノートにクレヨンで「お星さまのお絵かき」を続けていた。
それは、一見するとただのカラフルな丸や四角が複雑に組み合わさった、子供の描く美しい幾何学的な模様の羅列にしか見えなかった。だが、もしここに、かつて星治の成果を盗んだあの徳永教授がいたならば、恐怖と己の無知への絶望で泡を吹いて卒倒しただろう。
星治がニコニコとよだれを垂らしながらクレヨンで描き続けていたのは、かつて彼の脳内に流し込まれた数世界線分のすべての記憶――時空の構造を、因果のルートを完璧に記述する、人類の科学が数百年かけても到達し得ないレベルの「完璧に美しい数理モデルの構造体」そのものだった。
天才の脳は、どれほど内側から破壊されようとも、その呪われた指先から、世界の真理を吐き出し続けることだけはやめられなかったのだ。
ガラガラ、と建て付けの悪いアパートのドアが開く音が響いた。
「ただいま。葉、星治くん、お利口にしてた?」
パート用のエプロンをつけた奏が、安い食材の詰まった買い物袋を両手に抱えて帰ってきた。彼女の目元や口元には、この七年間の苦労を物語る深い疲労の皺が滲んでいたが、夫と娘の姿が視界に入った瞬間、すぐにすべてを包み込むような聖母の微笑みが浮かんだ。
「あ、ママ! おかえりなさい!」
葉が嬉しそうに椅子から立ち上がる。
星治の精神が崩壊したあの日から、奏は文句一つ言わず、必死にパートをいくつも掛け持ちして、家族三人の生計を支えてきた。相変わらず今日の食卓にも、もやしと安い豚肉の炒め物が並ぶ予定だし、食器はあの頃と変わらない100円ショップの黄色いプラスチック皿のままだ。
だが、星治がかつて独りよがりなプライドと憎悪のせいで見落としていた「本物の幸せと愛」が、この狭く貧しい四畳半の部屋には、確かに満ち溢れていた。
「ママ、ママ! おかえり!」
星治はクレヨンを放り出し、奏の細い身体に抱きついて、幼子のように無邪気にはしゃいでいる。奏はその夫の頭を、愛おしそうに何度も撫でた。
「葉、今日もパパとお留守番してくれてありがとうね。もうすぐご飯にするからね」
「うん! あ、でもねママ、ご飯の前に、パパにどうしても見せたいものがあるの」
葉はそう言うと、自分の学習机の引き出しの奥から、壊れ物を扱うように大切に「あるもの」を取り出した。
「パパが毎日毎日、一生懸命描いてるお星さまのノートね。葉、パパが寝たあとにずっと読んでたの。そしたらね、なんだかパズルの解き方が分かっちゃった気がして……。だから、学校の工作の時間と、放課後に秋葉原のジャンク通りに通って、パパのノートの通りに組み立ててみたんだ!」
葉が両手で包み込むようにして、ローテーブルの真ん中へと静かに置いたのは。
秋葉原のゴミ捨て場から拾ってきたような汚れた電子基板の破片、工場の廃棄物からくすねてきたようなチタン合金の端材。それらを、素人には到底不可能な、精密極まりない職人技の手際で繋ぎ合わせた――。
手のひらサイズの、鈍い銀色に光る、あの完璧な立方体(キューブ)だった。
「……え?」
キッチンの前で、奏の手が完全に止まった。その、あまりにも見覚えのある形状。あの地獄のような日々が始まる直前に夫が机の上で弄り回していたものと全く同じ形に、奏の背筋を言い知れぬ既視感と不気味な悪寒が駆け抜ける。
だが、誰よりも、部屋の誰よりも激しく反応したのは、星治だった。
「あ……あう、あ、あ……」
机の上のキューブを見つめた瞬間、星治の幼児のようだった濁った瞳に、一瞬にして「かつての天才の知性」と「あの地獄の記憶」が、濁流のようなフラッシュバックとなって脳髄を直撃した。
カチャ、カチャカチャ、カチャリ。
葉が触れてもいないのに、ただの鉄屑の塊だったはずのキューブの四隅のフレームが、精密な高級時計の仕掛けのように、幾何学的に外側へとスライドを始めたのだ。
「これね、こうやってバラバラに動くんだよ。かっこいいでしょ、パパ?」
葉は、星治の血を完全に引いていた。いや、父親が幼児退行しながら残した「クレヨンの数式」という名の最高の設計図を完璧に読み解き、再現してみせた彼女の脳は、すでにあの若き日の、全盛期の星治すらも遥かに超越していた。
パツン――。
四隅に展開したチタンフレームの間に、空間をカミソリで切り取るような、美しく、そしてどこまでも悍ましい「青い光のフィールド」が形成された。
その冷たい光が、家族三人の顔を、色褪せた四畳半の部屋を、不気味に照らし出した。キューブの底面で、赤と青のインジケーターが、まるで産声を上げるようにチカチカと明滅を始める。
世界線飽和(Saturation)の悪魔は、死んでなどいなかった。
父親が命と引き換えに壊した禁忌の扉を、因果の悪魔は今度は、その最愛の娘の肉体と才能を使って、再び裏口からこじ開けたのだ。因果の蛇が、今度こそ完全に、自らの尾を飲み込んで円を閉じた。
フィールドの向こう側の空間が、水面のようにぐにゃりと歪み始める。
それを見た星治は、顔中から大量の冷や汗を噴き出させ、ガタガタと全身を狂ったように震わせながら、喉が引き裂けんばかりの、この七年間で一度も発したことのない、凄絶な絶望の悲鳴を上げた。
「だめだ――っ!!! だめだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」
精神を病んでから一度もまともな言葉を発さなかった夫の、あまりにも生々しい知性と恐怖を取り戻した絶叫が、青く染まった部屋の中に、虚しく、どこまでも虚しく響き渡った。
――そして、青い光は、静かに広がり続ける。
『Worldline Saturation』・完
4〜6章
もし良ければ別ジャンルも
花鳥風月には、まだ春が来ない
TOKURYU
Tales of Ai's