
『TOKURYU』1
第1話:流動する悪
あらすじ
令和の日本を侵食する匿名流動型犯罪グループ、通称「トクリュウ」。SNSの闇バイトで集まった顔も知らぬ若者たちが、今夜も凶悪な強盗事件を引き起こす。
だが、その犯罪組織を裏からハッキングし、行動経済学を用いて鮮やかに嵌める一人の青年・蓮(れん)がいた。彼は奪われた大金を、元自衛隊特殊作戦群のコンシェルジュ・葵(あおい)と共に、被害者である老人の元へ秘密裏に還流させる「トクリュウ狩り」を続けていた。
持たざる二人の命を賭けた復讐劇。しかし彼らはまだ知らなかった。高齢者特区という巨大な聖域そのものが、国家規模の恐るべき実験場(ハニーポット)として、ある男の設計図通りに動かされていることを――。
激しい雨がコンクリートを叩きつける、深夜2時。
世田谷区の閑静な高級住宅街に、ライトを消した黒いワンボックスカーが息を潜めていた。
バールが、ガラスを噛み砕く。
湿った夜気を切り裂いて、耳障りな破砕音が響いた。
「おい、急げ。防犯アラームが鳴るまで、あと20秒だ」
車内の暗闇から、低く抑えられた声が響く。声の主は、スマートフォンの画面に表示された『テレグラム』のチャットだけを見つめていた。発言者の名前は【指示役・プロメテウス】。
窓枠に残ったガラス破片を乱暴に払いのけ、邸宅へと這い入っていく男は、使い古された黒いマスクをつけた20代前半の若者だった。
SNSの「#闇バイト #即日即金」という言葉に釣られ、数日前に身分証を自撮りごと握られてここに立たされている。互いの本名すら知らない。
「おい! 早くしろ、手が震えてんぞ!」
「うるせえ! 分かってんだよ!」
イヤホン越しに届く命令に従い、ライトの光が和室の畳を不気味に照らし出す。
怯える老人の悲鳴。バールが振り下ろされる鈍い音――。
これが、令和の日本を侵食する、匿名・流動型犯罪グループ――通称『トクリュウ』の日常だった。
数キロ離れた、築40年の狭いアパートの一室。
無数の液晶モニターの光だけが、一人の青年の顔を青白く浮かび上がらせていた。
青年――蓮(れん)は、キーボードに指を添えたまま、画面に表示されている世田谷区のマップを凝視していた。
そこには、今まさに現場から逃走し始めたあの黒いワンボックスカーのGPSが、リアルタイムで動いている。蓮が裏で仕込んだ追跡アプリの座標だ。
画面の端に、ちいさな折り目のついた写真が一枚、テープで貼り付けてある。
10代の蓮が、見知らぬ男たちと肩を組んで笑っている、古い集合写真だ。
その顔の上に、蓮自身の手で、黒いマジックで大きくバツが引かれていた。
「人間は、得をする喜びより、損をする恐怖のほうが2倍強く動く。行動経済学の基本だ」
蓮は感情のない声で、ぽつりと呟いた。
「防犯アラームが鳴り、警察が動く。パニックになった強盗は、最短で、かつ信号の少ないルートを直感的に選ぶ。心理の動線は、最初からこの画面の中に描かれてるんだよ」
蓮の指が、エンターキーを静かに叩いた。
逃走経路にある交差点を、ハッキングによって強制的に「赤信号の壁」へと書き換えていく。
焦ったワンボックスカーが、蓮の意図通り、人気のない高架下のバイパスへと逃げ込んでいく。
雨で視界が最悪な直線道路。突如としてフロントガラスの向こうに現れたのは、道路工事用の「進入禁止」の赤いコーンだった。
「うわああああっ!?」
激しい急ブレーキの音。そして、激突。
車は白煙を上げて停止した。速度は計算通り、エアバッグで意識を失う程度に死守されている。
静まり返る高架下。
ビニール傘を差し、黒いフードを深く被った蓮が、大破した車の助手席のドアを開けた。
若者の足元に転がっている、泥と雨に汚れたボストンバッグ。そこから覗く、ぎっしりと詰まった旧札の束――1億円。
蓮はそのバッグを掴みあげながら、昏倒した若者の顔を一瞥した。
マスクの下から覗く、自分と大して変わらない年齢の、まだ幼さの残る横顔。
蓮の目が、一瞬だけ揺れた。すぐに、元の無表情に戻る。
使い捨てのスマートフォンを取り出し、匿名アカウントから警視庁の指令室へと現場の座標だけを転送すると、蓮は再び雨の闇へと溶けるように消えた。
翌朝。
政府が鳴り物入りで設立した【東京湾岸・高齢者保護特区】にそびえ立つ、地上50階建ての高級シニア向けタワーマンション『グランドエイジ湾岸』。
「いつもありがとうね、葵ちゃん。あなたがいるから安心だわ」
「滅相もございません。宮崎様、いつでもお声がけくださいね」
ガラス張りの広大なロビー。
コンシェルジュの制服に身を包んだ葵(あおい)は、柔らかい笑みを浮かべて老婦人を見送った。
「宮崎様、どうかお気をつけて」
葵の視線が、老婦人の背中をエレベーターの扉が閉まるまで、静かに追い続けた。その目には、業務的な愛想とは別の、もっと個人的な何かが宿っていた。
——守れなかった、あの夜の続きを、ここで取り戻すように。
ロビーから人の気配が消えた瞬間、葵の瞳から一切の温度が消え失せた。
すっと背筋を伸ばした彼女の体幹は、無駄な肉が一切ない、元陸上自衛隊・特殊作戦群のそれだった。
そこへ、だらしなくフードを被った蓮が歩み寄ってくる。
蓮は無言で、昨日奪ったばかりの1億円が入ったリュックを、フロントカウンターの奥へ無造作に置いた。
「被害者に返済しといてくれ」
蓮がボソッと言うと、葵は何も聞かずに小さく頷き、手元のノートPCを叩き始めた。画面の向こうで、昨夜の被害者である老人の口座へ、資金が静かに還流していく。
蓮はポケットに手を突っ込んだまま、窓の外に目をやった。
敷地内の公園では、白いポロシャツを着た老人たちが、和気藹々とゲートボールに興じている。
「あーあ、惜しい! 大曽根さん、もうちょっと右だよ」
「ハハハ、手が震えちゃってダメだねぇ」
大曽根と呼ばれた老人が構え直す。マレット(木槌)を振り抜いた瞬間、老人の右腕の袖口から、弾が貫通した跡のような酷いケロイドが覗く。老人は笑顔のまま、マレットの木柄をトントン、トントンと、独特の3拍子のリズムで地面に打ち付けた。
「ネズミ(トクリュウ)どもが、この特区に集まり始めてる」
蓮は、葵のPC画面に表示された、タワマンの周囲を徘徊する不審なセダンの動線を見つめた。
葵はフロントの引き出しから1本の特殊警棒を取り出し、制服の奥へと滑り込ませた。カチャリ、と重い金属音が響く。
「この城のじいちゃんばあちゃんたちは、私が守る。……毟れるだけ毟り取りましょう、トクリュウから」
持たざる二人の、命を賭けた「トクリュウ狩り」の幕が、静かに上がった。
――だが。
この時、蓮も葵も、もちろんトクリュウ自身すらも、まだ気づいていなかった。
この「高齢者特区」という巨大な聖域そのものが、ある『一人の男』によって仕組まれた、国家規模の実験場(ハニーポット)であることに――。
そしてその男は、今夜も眼下に広がる東京の夜景を見下ろしながら、この国の「正しい未来」のための設計図を、淡々と書き換え続けていた。
(第1話・完)
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