
『TOKURYU』2
第2話:鉄壁の聖域
あらすじ
初夏の熱気が包む高齢者保護特区。高級タワマン「グランドエイジ湾岸」の周囲で、トクリュウの下見部隊である不審な軽トラックが目撃される。彼らの狙いは、老人のスマート家電をハッキングし、生活動線を炙り出すことだった。
蓮(れん)は行動経済学の心理バグを利用し、偽の警告チャットで彼らを同士討ちさせ敗走させる。一方、ロビーに侵入した本物の半グレに対し、葵(あおい)は元自衛隊の圧倒的な威圧感で音もなく追い詰めていく。
持たざる二人の「トクリュウ狩り」が本格化する中、世田谷の事件と特区の異変に気づいたベテラン刑事・鬼塚が動き出す。警察の猟犬が、静かに蓮たちの影を追い始めていた――。
午後2時。
【東京湾岸・高齢者保護特区】を、初夏のじっとりとした湿気が包んでいた。
地上50階建ての高級シニア向けタワーマンション『グランドエイジ湾岸』の広大な敷地には、今日もどこか緊張感のない、穏やかな時間が流れている。
ガラス張りのフロントロビーの奥。
蓮は、ノートPCの画面に映る「敷地周辺のネットワークログ」を凝視していた。
「葵。ネズミが外堀を齧(かじ)り始めた」
カウンターの奥で、コンシェルジュの制服を着た葵(あおい)が、背筋を伸ばしたまま視線だけで蓮を促す。
「昨日から、特区の境界線周辺で不用品回収を名乗る不審な軽トラックが3台、巡回ルートを執拗に重複させてる。……下見(スカウト)だ」
「タワマンの中までは入ってこないの?」
「いや、入ってこない。彼らの目的は、外からWi-Fiの電波を傍受して、このエリアの高齢者たちが使っている見守りアプリやスマート家電のIDを特定することだ。どの部屋の、どの老人が、何時に寝て、いつ部屋が留守になるか。それを遠隔で炙り出そうとしてる」
蓮はキーボードに指を置いたまま、冷たい声をこぼした。
「人間は、明確なルールがない曖昧な状況に置かれると、周囲の行動をそのまま真似る。行動経済学で言う『社会的証明(同調圧力)』のバグだ。SNSのチャットで繋がっているだけの闇バイトは、特にこの同調に弱い」
葵が静かに口を開いた。
「あなた、昔はその側にいたんでしょう」
蓮の指が、一瞬だけ止まった。
「……だから分かる。あいつらが怖いのは、組織じゃない。チャットの向こうの『指示役』が怖いんじゃなくて、何もしなかった時に自分だけ取り残される恐怖が怖いんだ」
蓮はそれ以上何も言わず、エンターキーを静かに叩いた。
「少し、彼らのスマホの画面(チャット)をノイズで汚してやる」
特区の敷地外。路側帯に停まった不用品回収の軽トラックの車内。
金髪の若い男が、運転席でスマートフォンの画面をタップしていた。だが、画面に表示されている『テレグラム』の指示役からのメッセージが、突如として不自然にバグり始める。
【ターゲットエリアを変更。現在地は警察の監視網に引っかかっている。即座に撤退しろ】
【繰り返す。別班がすでに確保された。今すぐその場を離れろ】
「え……? マジかよ。おい、お前んとこにも来たか?」
男が助手席の仲間にスマホを見せる。「プロメテウス」のアカウントから、連続して送られてくる警告文。
直後、彼らのスマホに、偽装された「警視庁防犯アラーム」の通知が同時に大音量で鳴り響いた。
『周辺エリアで不審車両の取り締まりを実施中――』
「ヤバい、バレてる! ズラかるぞ!」
男たちは一瞬でパニックに陥り、ギアをバックに入れた。
3台の軽トラックは、互いがなぜ逃げ出したのかも分からぬまま、同調心理の恐怖に突き動かされ、互いを巻き込むようにして湾岸エリアから一斉に敗走していった。
同じ時刻。『グランドエイジ湾岸』の正面エントランス。
自動ドアが静かに開き、1人の男が入ってきた。
先ほどの軽トラックの連中とは違う。仕立ての悪いスーツを着ているが、目が完全に座っている。トクリュウの現場管理を任されている、本物の半グレだった。
男はスマホをポケットに隠したまま、ロビーの防犯カメラの位置を確認するように、ギョロギョロと視線を巡らせる。
フロントカウンターの奥から、葵がゆっくりと歩み出た。
その足取りには、一切の無駄がない。
すれ違う瞬間、葵は一言も発せず、ただ男の正面を横切るようにして、男の『死角』へと音もなく回り込んだ。
男の背筋に、冷たいものが走る。
振り返ると、完璧な姿勢で佇む葵が、一切の感情を排した冷徹な瞳で、じっと自分を見つめていた。その右手は、制服の奥の特殊警棒の柄へと、いつでも抜ける角度で添えられている。
(……なんだ、この女)
言葉による警告は何もない。だが、男の防衛本能が、脳裏で最大級の警報を鳴らしていた。
一歩でも前に進めば、骨を折られる。本能がそう告げていた。
「……チッ」
男は額に冷や汗をにじませながら、それ以上ロビーの奥へ進むことなく、回れ右をして逃げるように自動ドアの向こうへと去っていった。
フロントに戻った葵を見て、蓮が小さく笑う。
「戦闘はなし、か」
「野生の獣は、勝てない相手とは戦わないわ」
葵はそう言いながら、カウンターの定位置に戻り、背筋を伸ばした。
その横顔は、いつもの無表情だった。だがほんの一瞬、老婦人が往来を歩いているのを窓越しに目で追い、そしてすぐ前を向いた。
蓮はその視線の動きを、黙って見ていた。何も言わなかった。
「……それより蓮、外を見て」
ガラス窓の向こう。敷地内の公園では、白いポロシャツを着た老人たちが、和気藹々とゲートボールに興じている。
大曽根老人がマレット(木槌)をトントン、トントンと、独特の3拍子のリズムで地面に打ち付けていた。
その目は、去っていく半グレの男の背中を、まるで猟師が獲物を値踏みするかのような鋭さで見つめていた。
「ネズミども、完全にここをロックオンしたね」
葵が静かに言った。
「ああ。泳がせて、次の大きな塊(かね)が入ってきたところを……毟り取る」
その日の夕方。
特区の検問ゲートから数百メートル離れた、人気の無い臨海道路。
1台の黒い覆面パトカーが停まっていた。
運転席でハンドルを握る、男臭い顔立ちのベテラン刑事――鬼塚(おにづか)は、手元のタブレットに表示された「世田谷区の強盗事件の捜査資料」と、先ほどこの湾岸エリアで起きた「不用品回収車の奇妙な一斉撤退」の記録を並べて見つめていた。
「世田谷のヤマでは、トクリュウの逃走経路の信号がピンポイントで書き換えられ、1億円が消えた……」
鬼塚はタバコを咥え、ライターの火を点ける。紫煙が車内に広がった。
「そして今日、この特区に仕掛けられた下見の網が、何者かのハッキングによって身内同士のパニックで自滅させられている……」
鬼塚の目が、バックミラー越しに遠くそびえ立つ『グランドエイジ湾岸』のタワーマンションへと向けられる。
「トクリュウの動きを完璧に先読みして、裏からハッキングしてる”別のナニカ”がいるな……。一体、誰だ」
ギアをドライブに入れ、覆面パトカーがゆっくりと動き出す。
まだ見ぬハッカーの影を追って、警察の猟犬が、静かにその鼻を利かせ始めていた。
(第2話・完)
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