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花鳥風月には、まだ春が来ない♯1

    第1話 皐月

    あらすじ
    人気アイドル・風花は、過密な日々に心をすり減らしていた。収録後、同じグループの彩乃に誘われて訪れた路地裏の小さなカフェ「花鳥風月」。店主・真司が淹れるカモミールティーと柏餅に、風花は忘れていた季節の温もりを思い出す。静かな空間、優しい香り、そして猫の「風」。束の間の安らぎが、彼女の中に眠っていた“五月”を呼び覚ます。後日、再び訪れた風花は、芍薬の花と新茶の冷茶に迎えられ、真司の穏やかな言葉に心を揺らす。彼女は少しずつ、止まっていた季節を取り戻していく。



    「風花、ちょっと押し気味だから急いで! 3分後にはスタンバイね!」
     インカムから飛び込んでくるマネージャーの鋭い声に、風花は「はい!」と短く応えた。
    鏡を見る。そこには、完璧なメイクを施され、スパンコールが眩しい衣装を纏った「アイドルの風花」がいた。しかし、その瞳の奥は、連日の過密スケジュールと押し寄せる数字のプレッシャーで、完全に擦り切れていた。
     今が何時で、自分が何を歌っているのかさえ時々分からなくなる。

    「ねえ、ちょっとだけ付き合って」

     彩乃がそう言ったのは、収録が全部終わって、やっと息をついた夕方のことだった。

     彩乃は私と同じグループmoonchildのダブルエース。同じ重さを背負って、同じ速さで走ってきた。だから彼女が「ちょっと」と言う時は、本当にちょっとじゃないことを私は知っている。

    「どこ行くの」

    「いいから」

     変装を整えて、二人で路地に出た。大きな帽子と丸いメガネ。私たちの休日の制服みたいなものだ。

     細い路地を曲がったところに、それはあった。

     木製の小さな扉。すりガラスの向こうに、柔らかいオレンジの光。手書きの小さな看板に、控えめな文字で『花鳥風月』と書いてある。
    カラン、と静かな鈴の音が響いた。
    「いらっしゃいませ」
     出迎えたのは、驚くほど穏やかな低音の声だった。カウンターの奥に立つ青年──真司は、深夜の突然の来客にも顔色ひとつ変えず、ただ静かに一礼した。
    店内には、都会の喧騒が嘘のように消え去っていた。BGMとして流れているのは、かすかな雨の音と、どこか遠い新緑の森で録音されたような、不思議な鳥の鳴き声。そして何より、入った瞬間に鼻腔をくすぐったのは、リンゴに似た優しく甘い、どこか懐かしい花の香りだった。
    四つしかないテーブル。それぞれが少しずつ離れていて、自分だけの空気が流れているみたいだった。

    「こちらへどうぞ」

    テーブルの中央には、小さなガラスの瓶。そこに、可憐な白い花が、一輪だけ挿されている。
    「カモミールです」
    風花が花を見ていると、真司は悟ったように答え微、静かに厨房へと下がっていった。
    数分後、目の前に運ばれてきたのは、ガラスのポットに淹れられた黄金色のカモミールティー。そして、青々とした大きな葉に包まれた、小ぶりな『柏餅』だった。
    「あの……これは?」
    思わず風花が尋ねる。お洒落なカフェで、カモミールティーの相棒として和菓子の柏餅が出てくるとは思わなかった。
    真司は、トレイを胸に抱えたまま、穏やかに言いました。
    「世間は今、ゴールデンウィークですから。お忙しい日々の中で、少しでも五月を感じていただければ、と」
    五月。
    その言葉に、風花はハッとした。秒単位のスケジュールに追われ、自分が今、何月を生きているのかさえ忘れていた。
    勧められるまま、温かいカップを両手で包み込む。カモミールの放つ湯気が、強張っていた顔の筋肉をゆっくりと解いていく。一口、お茶を口に含んだ。
    体の中に、じんわりとした温かさが染み渡っていく。
    続いて、柏餅の葉を剥き、一口齧る。
    もちもちとした餅の食感と、上品で優しい小豆の甘み。そして、清涼感のある柏の葉の香りが、鼻に抜けた。
    「……あ」
    その瞬間、風花の目から、張り詰めていた何かが、ふっと消えた。
    美味しい、と思った。それと同時に、自分がどれだけ張り詰めた世界で呼吸を止めていたかを、痛いほど自覚した。
    ステージの上で求められる「完璧な自分」ではない。
    帽子を深く被り、地味な服を着て、ただお茶を飲んで美味しいと感動している「ただの女の子」の自分が、今、ここにいる。
    なんでもないことのはずなのに、目の奥が急に熱くなり慌てて帽子のつばを下げた。泣いたら彩乃に何か言われる。でも彩乃はそっぽを向いて窓の外を見ていた。気を遣ってくれているのかもしれなかった。
    カウンターの奥では、店主の真司が、静かに珈琲器具を磨いている。
    ふと足元を見ると、長毛の大きな猫──メインクーンの『風(ふう)』が、風花の足首にふさふさの尻尾をそっと絡ませ、丸くなっていた。
    「私……五月を、生きてたんだ……」
    風花は小さく声を漏らし、静かに目を閉じた。
    ウグイスの初音の録音テープが、静かに店内に響いている。
    季節が、戻ってきたみたいだった。
    ここが、私の見つけた、誰にも秘密の止まり木。
    (第1話・前編 了)


     一度その味を知ってしまうと、元の張り詰めた世界に戻るのが、少しだけ怖くなった。
    『moonchild』の新曲のフォーメーションが発表され、私と彩乃の「ダブルエース」を中央に据えた激しいダンスレッスンが本格的に始まった。スタジオの鏡に映る自分は、相変わらず必死で、どこか余裕がない。
     でも、あの雨の夜から、私の頭の片隅にはずっと、あの静かな空間がこびりついて離れなかった。
     ──もう一度、行ってみたい。そう思ったのは、よく晴れた5月の午後のことだった。
     運よく2時間だけ出来た空き時間。私は彩乃に「ちょっと買い物」と言い残し、気づけばあの細い路地裏へと足を向けていた。
     大きな帽子と丸いメガネ。変装は完璧なはずなのに、あの木製の小さな扉の前に立つと、ステージの袖にいる時とは全く違う、心臓がトクトクと跳ねるような緊張感が込み上げてくる。
     1人で入って、変に思われないだろうか。あのマスターは、私のことを覚えているだろうか。
     ごくりと息を呑み、思い切って扉を押した。
     カラン、と静かな鈴の音が、私の背中を優しく押す。
    「いらっしゃいませ」
     カウンターの奥から、あの驚くほど穏やかな低音の声が響く。
     店主の真司さんは、私を見ると、ほんの少しだけ目元を和らげた気がした。何も言わず、でも確かに「覚えておいでですよ」と伝えるような、静かな一礼。それだけで、私のガチガチだった緊張が、すうっと解けていく。
     店内には、前回とは違う鳥の声が流れていた。どこか涼しげで、五月の青空を吹き抜ける風のような音。
     案内されたのは、あの日と同じ、一番奥のテーブル席。
     席に着いてすぐ、私の目はテーブルの中央に吸い寄せられた。
     ガラスの瓶に挿されていたのは、前回の可憐なカモミールとは打って変わって、大輪で圧倒的な存在感を放つ、淡いピンクの花だった。何枚もの薄い花弁が重なり合い、誇り高く咲いている。
    「……綺麗」
     思わず声が漏れる。
    「芍薬(しゃくやく)です」
     いつの間にか、お冷やのグラスを置いた真司さんが、静かに教えてくれた。
    「『立てば芍薬、座れば牡丹』の、芍薬。5月の、今が一番美しい花です。凛としていて、どこか風花さんのような雰囲気がありますね」
    「え……」
     まさかそんな言葉を掛けられると思わなくて、私は顔がカッと熱くなるのを感じた。私の正体なんて知らないはずなのに。ステージの上の私じゃなくて、この地味な私を見て、そんな風に言ってくれるなんて。
     真司さんはまた小さく微笑むと、「少しお待ちくださいね」と厨房へ戻っていった。
     数分後、目の前に運ばれてきたのは、目にも鮮やかな、目を見張るような緑色の液体。ガラスのグラスの中で、氷が涼しげな音を立てている。
    「今年の新茶を、冷茶に仕立てました。お供には、ナスタチウムの塩漬けを練り込んだパウンドケーキです」
     新茶の冷茶。そして、ナスタチウム──聞いたこともない横文字のお菓子に、私は目を丸くした。パウンドケーキの断面には、かすかにオレンジ色や黄色の花弁のようなものが焼き込まれている。
    「いただきます」
     まずは冷茶を一口。
     ──お茶って、こんなに甘かったんだ。
     キュッと冷えた液体が喉を通り過ぎた瞬間、濃厚な旨味と、突き抜けるような爽やかな香りが口いっぱいに広がった。コンビニのペットボトルのお茶とは、全くの別物だ。
     続いて、パウンドケーキをフォークで切り、口に運ぶ。
     しっとりとした生地の甘みの奥から、かすかにピリッとした辛みと、絶妙な塩気が追いかけてくる。それがパウンドケーキのバターのコクを極限まで引き立てていて、新茶の冷茶の爽やかさと、驚くほど完璧に調和していた。
    「美味しい……」
     今度は、帽子のつばを下げずに、まっすぐ真司さんを見て言えた。
     カウンターの奥で、真司さんは嬉しそうに頷いている。
     その足元から、またもや大きな影がのっそりと現れた。『風』だ。『風』は私の足元まで歩いてくると、大きな体を私のふくらはぎに預けるようにして、そのまま気持ちよさそうに目を閉じた。
     足元から伝わる、温かくて大きな体温。
     目の前の一輪の芍薬。
     そして、新茶の清々しい香り。
     あんなにドキドキして入ってきたのに、気がつけば私は、この場所の空気にすっかり溶け込んでいた。
     誰かの視線に怯えることも、次の数字を気にすることもない。1人で来られたという小さな達成感が、私の胸を少しだけ満たしていく。
    (第1話後編 了)

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