
花鳥風月には、まだ春が来ない♯2
第2話 水無月
あらすじ
梅雨の湿気に疲弊する風花は、リハーサルの重圧から逃れるように再び「花鳥風月」を訪れる。静かな雨音とミントの花、真司の穏やかな声に癒されながら、彼の録音した森の音に心を澄ませる。水出しアールグレイとガトーバスクが、彼女の疲れを優しく洗い流す。再訪した店で、真司は白い紫陽花「アナベル」と梅ソーダ、水無月を添え、風花の問いに静かに答える──「彩り豊かに生きることが、人を惹きつける力になる」。その言葉が風花の胸に深く刻まれた。
六月に入ると、空はすっかりぐずつく日が増えた。
じめじめとした湿気と、どんよりとした曇り空。ただでさえ体力を奪われる梅雨の時期なのに、迫る夏の大型フェスに向けたリハーサルは過酷さを増していく。
「風花、そこフォーメーション半歩遅れてる!」
スタジオに響く激しいダンスの足音と、スピーカーから爆音で流れる重低音。
頭が痛くなるほどの音の洪水の中に何時間も身を置いていると、心が耳から磨耗していくような錯覚に陥る。
──あの場所に、行きたい。
リハが早く終わった夕方、私は雨具で厳重に変装をして、逃げるようにあの路地裏へと滑り込んだ。
カラン、と涼やかな鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ。……あ、風花さん。外は結構降っていますか?」
「あ、はい。傘を差していても肩が濡れちゃうくらいには……」
真司さんは私の濡れた上着を慣れた手つきで預かり、いつもの特等席へと案内してくれた。
ふう、と深く息を吐き出して、耳をすます。
爆音のスタジオとは対照的な、静寂。
でも、無音じゃない。今日の店内に流れているのは、静かな雨の音と、サラサラと葉を揺らす風の音、そして時折、優しく響く小鳥のさえずりだった。
目の前のテーブルには、小さなガラス瓶。
そこに挿されていたのは、小さな、本当に小さな、淡い紫色の可憐な花だった。
少しだけ、勇気が出た。
いつも受け取るばかりのこの心地よさについて、もっと知りたいと思った。真司さんがキッチンから戻ってきたタイミングを見計らって、私はおそるおそる声をかける。
「あの、真司さん」
「はい、何でしょう」
「いつも流れてるこの音って……CDとかですか? なんだか、聴いていると胸の奥がすごく静かになるというか」
真司さんは少しだけ意外そうに目を見張った後、嬉しそうに目元を和らげた。
「これですか。これは僕が休日に、山へ行って自分で録音してきたものなんです。今回は初夏のブナの森の音ですね。都会の音に疲れた方に、少しでも休んでいただければと思って」
「自分で……すごい」
「いえ。それから、そちらの花も。ミントの花なんですよ」
「えっ、ミントって、あのお茶とかに入ってる?」
覗き込むと、確かにあの爽やかな香りがかすかに漂っている。こんなに可愛い花が咲くなんて知らなかった。
「ハーブとしての葉の印象が強いですが、六月になるとこんなに健気な花を咲かせるんです。梅雨の重い空気を、少しでも爽やかにしてくれたらいいな、と」
都会のコンクリートとスタジオの往復しかしていなかった私に、真司さんは、私の知らない世界の豊かな色や音を、押し付けがましくなく教えてくれる。その丁寧な生き方が、ひどく眩しくて、素敵だと思った。
「お待たせいたしました。本日は、水出しのアールグレイです。それと、ガトーバスクをどうぞ」
目の前に置かれたのは、ガラスの大きなグラスに注がれた、透き通るような琥珀色のアイスティー。
そして、こんがりときつね色に焼かれた、どこか素朴で温かみのある焼き菓子。
「いただきます」
まずは、アイスティーに口をつける。
──冷たくて、すごく華やか。
じっくり時間をかけて水で抽出されたアールグレイは、渋みが一切なく、ベルガモットの爽やかな香りが、私の喉から胸の奥までを一気に洗い流していくようだった。
次に、ガトーバスクをフォークで崩して口に運ぶ。
表面のクッキー生地はサクッとしていて、中はしっとり。バターの濃厚なコクとアーモンドの香ばしさが広がったかと思うと、中に閉じ込められていたダークチェリーの甘酸っぱさがジュワッと弾けた。
その甘酸っぱさを、冷たいアールグレイがすっきりと包み込んでいく。
「美味しい……。なんだか、今日あった嫌なことが全部雨で流されちゃったみたいです」
ポロッと本音が溢れてしまい、慌てて口を塞ぐ。
けれど、真司さんは優しい眼差しでカウンターの奥からこちらを見ていた。
「それは良かったです。雨の日は、悪いものを洗い流す日でもありますから」
足元では、『風』が、私の靴に大きな前足をちょこんと乗せて、まるで「そうだぞ」と言うように、喉をゴロゴロと鳴らしている。
ほんの少しだけ、真司さんの心に触れられた気がした。
水出しアイスティーの氷が、グラスの中でカラン、と心地よい音を立てた。
(第2話前編 了)
雨は降り続いていたけれど、私の心の中の雨雲は、少しだけ軽くなっていた。
だけど、仕事のプレッシャーが消えたわけじゃない。『moonchild』の次作で、いよいよ本格的にセンターを決めるという話が上層部から出始めていたのだ。
「センターになるためには、もっと圧倒的な何かが足りない」
ダンス講師から突きつけられた言葉が、冷たく胸に突き刺さる。頑張っているつもりなのに、これ以上どうすればいいのか分からない。
気づけば私は、また『花鳥風月』の扉を叩いていた。
カラン、と響く鈴の音。
いつもの特等席に腰を下ろすと、真っ先に目に飛び込んできたのは、テーブルの上のガラス瓶に挿された、驚くほど大きな球体の花だった。小さな白い花がひしめき合って、まるで一つの大きな雪の結晶のように咲いている。
「……すごく、存在感のある紫陽花ですね」
お冷やを持ってきた真司さんにそう呟くと、彼は「アナベルという種類です」と静かに教えてくれた。
「咲き始めは淡い緑色ですが、今が一番、真っ白に輝く時期なんです」
真っ白。今の、何の色も掴めない私とは大違いだ。
グラスに付いた水滴を見つめながら、私は溜め息と一緒に、喉の奥に張り付いていた言葉をこぼしてしまった。正体は明かせないから、必死に言葉をぼかしながら。
「あの、真司さん。……もし、あるチームで『センター』……その、リーダーみたいな役割を目指している人がいるとしたら、何が一番必要だと思いますか?」
唐突で、抽象的すぎる質問。変に思われるかもしれない。
けれど真司さんは、困った顔ひとつせず、私の言葉をじっと受け止めてくれた。そして「少しお待ちくださいね」と、奥へ下がっていった。
数分後、運ばれてきたのは、見るだけで胸がすっとするような、透明なソーダだった。底の方には、琥珀色のシロップと、ぽつんと沈む大きな青梅。
そしてお皿の上には、三角形に切られた透明感のある白いういろうに、ぎっしりと小豆が敷き詰められた和菓子が乗っていた。
「自家製の梅シロップのソーダ割りと、お菓子は『水無月(みなづき)』です。六月の最後の日に、半年の厄を払い、残りの半年の無病息災を願って食べる伝統的な和菓子なんですよ」
「水無月……」
まずは、梅ソーダのストローをそっと吸い込む。
炭酸のパチパチとした刺激のあと、自家製ならではの、優しくて深みのある梅の甘酸っぱさが弾けた。驚くほどすっきりとしていて、頭のモヤモヤが晴れていくようだ。
続いて、水無月を黒文字で切り、口に運ぶ。
もっちりとしたういろうの優しい甘みと、上に乗った小豆の豊かな風味が、梅ソーダの酸味と最高のコントラストを描いている。
「美味しい……」
そう呟いた私を、真司さんはカウンター越しに、いつもより少しだけ真剣な眼差しで見つめていた。
「風花さん。先ほどの質問ですが……」
真司さんは、ゆっくりと、言葉を紡ぎ出す。
「初めてこの店に来られたとき、失礼ですが……風花さんは、まるで色味のない、今にも消えてしまいそうなほど余裕のない人のように見えていました。何かに追われて、自分の心を擦り切らせているような、そんな佇まいでした」
心臓が、ドクンと跳ねた。見抜かれていた。変装なんて、何の意味もなかったみたいに、私のボロボロな本質を見透かされていたのだ。
「でも」
真司さんは、優しく微笑んだ。その瞳には、確かな温もりが宿っている。
「最近は、どんどん彩り豊かに、綺麗に見えるようになってきています。それは風花さんが毎日、自分の心と必死に戦って、一歩ずつ前に進んでいる証拠です。周囲を引っ張る人に必要なのは、きっと技術だけではないはずです。その必死に生きる『彩り』こそが、周りを惹きつけるのではないでしょうか。だから、ご自身を信じてください」
──彩り豊かに、綺麗に見える。
頭のてっぺんから爪先まで、心地よい熱がじんわりと広がっていくようだった。
ステージの上の華やかな『moonchildの風花』じゃない。地味な帽子を被り、ボロボロになってここへ逃げ込んできた、泥臭くて必死な、素顔の私を、この人は「綺麗だ」と言ってくれたのだ。
なんでもないはずの梅ソーダの炭酸が、胸の奥でパチパチと、いつもより激しく弾ける。
熱くなる顔を隠すように、私は慌ててグラスに口をつけた。
「……ありがとうございます。なんだか、すごく、救われました」
俯きながらそう言うのが精一杯だった。
足元では、『風』が、私の足に大きな体を預けてゴロゴロと喉を鳴らしている。
これまで、ファンからの歓声や、事務所からの評価に一喜一憂してきた。けれど、この目の前にいるマスターに掛けられた言葉は、それらのどれとも違う、私の心のずっと深い場所にすとんと落ちて、消えなくなった。
お店を出て、梅雨の生温かい夜風に吹かれながら、私は自分の胸に手を当てた。
早く次の季節が巡って、またあの扉を開ける日が来ればいいのにと、それだけを強く願っていた。
(第2話後編 了)
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