
花鳥風月には、まだ春が来ない♯3
第3話 文月
あらすじ
七月、夏フェス前の過酷な日々に疲れ果てた風花は、束の間の休息を求めて「花鳥風月」へ駆け込む。しかし店には、真司と親しげに話す花屋の女性がいて、胸に初めてのざわつきが生まれる。ひまわり、エスプレッソ・トニック、ブルーベリーのコブラー──強い夏の味わいが、風花の心の苦味を映し出す。後日、再び訪れた店で、真司は自身が心を病み、野良猫の風と自然に救われた過去を語る。店を作った理由を知った風花は、彼と自分の痛みが重なることに気づき、初めて涙をこぼす。
七月。本格的な夏がやってきた。
じりじりと照りつける太陽、容赦なく体力を奪うアスファルトの熱気。
『moonchild』の夏フェス出演が目前に迫り、私たちのスケジュールは分刻みで埋まっていた。彩乃と背中を合わせ、汗だくになりながら激しい新曲を踊りきる日々。
心も体も、乾ききって悲鳴を上げそうになる。
そんなある日の昼下がり。奇跡的にできた一時間の休憩に、私は息を切らせて『花鳥風月』へと駆け込んだ。
あのひんやりとした静寂に、早く飛び込みたかった。
カラン、と鈴を鳴らして扉を開ける。
だけど、その瞬間に私の足はピタリと止まった。
「あはは、真司くん相変わらず固いなぁ。そこ、もっと笑って!」
「……からかわないでください。僕はこれで普通です」
店内に、聞き覚えのない女性の、快活で楽しげな笑い声が響いていた。
カウンターの奥、いつもは私と『風』だけを迎えてくれるその場所に、一人の綺麗な大人の女性が立っていた。エプロンをつけた真司さんと親しげに肩を並べ、何やら楽しそうに納品書のような紙を覗き込んでいる。
真司さんのあんな風に困ったような、でもどこか心を許したような顔、初めて見た。
「──あ、いらっしゃいませ。風花さん」
私に気づいた真司さんが、いつも通り穏やかに一礼する。
その隣で、女性も「いらっしゃい!」と満面の笑みを浮かべた。ショートカットがよく似合う、ひまわりのように明るい人。
「じゃあ真司くん、今日のお花、置いとくね。お仕事頑張って」
「はい、いつもありがとうございます」
女性は私とすれ違う際、「ゆっくりしていってね」と優しくウインクをして、風のように去っていった。
残された店内に、なんだか妙な静けさが広がる。
いつもの一番奥の席に腰を下ろしたけれど、なぜだか胸の奥が、もやもやと、熱く燻るように落ち着かない。
ふと、テーブルの中央を見る。
そこには、真夏の太陽をそのまま閉じ込めたような、鮮やかな黄色いひまわりが挿されていた。中心まで綺麗な黄色で、上を向いて力強く咲いている。
「……ビンセント、という品種のひまわりです」
お冷やを持ってきた真司さんが、静かに教えてくれた。
「さっきの人は、僕がいつもお世話になっている花屋のオーナーさんです。ここのお花は全部、彼女が届けてくれているんですよ。僕の古い知り合いでもあって」
「へえ、そうなんですか。仲が良さそうですね」
気づけば、トーンの低い、素っ気ない言葉が口から出ていた。自分でもびっくりするくらい冷たい声。真司さんは一瞬、不思議そうに瞬きをしたけれど、「少しお待ちくださいね」といつものように厨房へ下がっていった。
やってしまった。なんで私、あんな意地悪な言い方をしたんだろう。
あの人が誰と仲良くしていようが、私には関係ないはずなのに。
自己嫌悪で頭を抱えそうになっていると、「お待たせしました」とグラスが置かれた。
運ばれてきたのは、これまで見たこともない、不思議な二層の飲み物だった。下は透明なトニックウォーター、その上に、漆黒のエスプレッソが綺麗な層を成して浮かんでいる。
お菓子は、お皿の上にゴロゴロとブルーベリーが敷き詰められた、焼き立ての『ブルーベリーのコブラー』だ。
「エスプレッソ・トニックです。よく混ぜてお召し上がりください」
ストローで、黒と透明をゆっくりとかき混ぜる。混ざり合う液体を見つめながら、私はそれを口に含んだ。
「……っ」
最初は、トニックウォーターの爽やかな炭酸と甘みが広がる。けれど、すぐにエスプレッソの強烈な苦味と深いコクが、追いかけるように押し寄せてきた。
苦い。でも、驚くほどすっきりとしていて、冷たい。
温かいブルーベリーのコブラーを一口齧ると、果実の濃厚な甘酸っぱさと、サクサクの生地の甘みが、口の中のコーヒーの苦味と完璧に絡み合っていく。
苦くて、酸っぱくて、でも、どこか癖になる。
「美味しいです、これ。少し、大人の味がしますね」
「ありがとうございます。少し刺激が強いですが、夏の疲れにはこれが一番効くんです。風花さん、最近お忙しそうでしたから」
真司さんはそう言って、私の体調を気遣うように微笑んだ。
その顔を見た瞬間、さっきまでの胸のもやもやが、少しだけ形を変えた気がした。
足元では、『風』が、私のサンダルを履いた足に、大きな頭をこつんと預けてきている。
花屋の女性と話す真司さんに、心がざわついた理由。
エスプレッソ・トニックの苦味が、いつまでも舌の奥に残っている。
(第3話前編 了)
先週、この店で感じた胸の苦しさは、一週間経っても私の心の底に澱(おり)のように沈んだままだった。
今日も、あのショートカットの女性オーナーがいるかもしれない。そう思うと、扉を開ける手が少しだけ躊躇(ためら)う。
カラン、と鈴が鳴る。
幸い、今日の店内にいたのは、いつものように静かに佇む真司さんと、カウンターの上で伸びをしている『風』だけだった。
「いらっしゃいませ、風花さん」
ほっと胸をなでおろし、いつもの特等席へ。
テーブルの上を覗き込むと、そこには薄紫色の、フリルのように繊細な花弁が幾重にも重なった、上品な花が挿されていた。
「……綺麗な花。これも、先週の女性が?」
自分でも驚くほど、自然を装って訊ねることができた。真司さんはお冷やのグラスを置きながら、小さく頷く。
「はい。トルコキキョウ、という花です。……風花さん、もしかして先週、彼女のことで何か気にされていましたか?」
「えっ! いや、そんなこと──」
心臓が跳ね上がる。動揺を隠そうと手を振ると、真司さんは穏やかに微笑んで首を振った。
「すみません、からかったわけじゃないんです。彼女は、僕がこの店を始めるときに、イメージに合う花を一緒に選んでくれた、ただの古い仕事仲間なんです。深い意味の付き合いというわけではないですよ。……ただ、僕が以前、心を病んで動けなくなってしまったときに、少しだけお世話になったというか」
真司さんが、心を病んで、動けなくなった──。
衝撃で言葉を失う私を置いて、真司さんは「少しお待ちくださいね」と優しい声を残し、厨房へと下がっていった。
運ばれたのは、目にも涼やかな、透明なガラスの器に入った『水饅頭(みずまんじゅう)』。透き通った葛(くず)の生地の中に、丸いあんこが綺麗に透けて見えている。
飲み物は、丁寧に淹れられた、深い緑色の温かい『煎茶』だった。
「どうぞ。冷たい水饅頭のあとに、温かいお茶でほっとしていただければ」
「……真司さん」
私は水饅頭に手を付けられないまま、どうしても訊ねずにはいられなかった。あの女性への嫉妬なんて、もうどこかへ消えていた。
「真司さんは、どうしてこのお店を始めたんですか? ……さっきの、動けなくなったっていうのは……」
真司さんは怒ることもなく、カウンター越しに遠い目をして、静かに語り始めてくれた。
「以前の僕は、都会の大きな会社で、数字と成果だけを追い求める暮らしをしていました。毎日誰かと競い合って、寝る間も惜しんで働いて……。でもある日、自分が何のために生きているのか、全く分からなくなってしまったんです。心が完全に真っ黒になって、糸が切れたように動けなくなりました。
そんなある日の仕事帰り、疲れ果てて自転車を漕いでいた僕は、河川敷の坂道で、派手に転んでしまったんです。
痛いし、情けないし、もう起き上がる気力すら湧かなくて、僕はそのまま、河川敷の草っ原に大の字になって寝転がっていました。
しばらくそうして、じっと動けずにいたら……不思議と、それまで聞こえていなかった音が、体に飛び込んできたんです。
優しくそよぐ風の音、川のせせらぎ、草木の匂い、遠くで鳴く鳥の声、そして、綺麗に咲く野の花。
そのとき、あそこに丸くなっている『風』とも出会いました。当時の『風』は、まだ小さな野良猫で。僕の横にそっと寄り添って、じっと僕の顔を覗き込んできたんです。
それから、僕は仕事帰りに毎日その河川敷に通うようになりました。『風』と並んで、ただ自然の音を聴く。その時間だけが、僕の止まっていた時間をゆっくりと動かしてくれました。
だから僕は、かつての僕のように、都会のスピードに疲れて、自分の季節を見失ってしまった人が、ふっと羽を休められる『止まり木』のような場所を作りたいと思ったんです。あの河川敷で、僕と『風』が救われた、あの景色をそのまま形にしたくて」
真司さんは、そこで言葉を区切り、私をまっすぐに見つめた。
「だから、風花さん。あなたがここにきてくれて、少しずつ笑顔を取り戻してくれたとき、僕は本当に救われた気がしたんです。僕の作った場所が、あなたを少しでも癒せているのなら、この店を開いた意味があったと思えるから」
──同じだったんだ。
この人は、今の私と同じ痛みを、苦しさを、知っている人だったんだ。
だから、あんなに優しく私を包み込んでくれたのか。
だから、何も訊かずに、ただカモミールや新茶を淹れてくれたのか。
胸の奥から、熱いものが一気に突き上げてきた。
悲しいわけじゃない。ただ、どうしようもないほどの愛おしさと、孤独じゃないんだという安心感で、視界が激しく滲んでいく。
私は慌てて俯いたけれど、堪えきれなかった涙が、ポツリ、と私の頬を伝って、ひとすじだけテーブルに落ちた。
真司さんは何も言わず、ただ、そっと静かに、白いリネンのハンカチを私の手元に置いてくれた。
足元では、『風』が、まるで「あの時の僕みたいだね」と言うように、大きな頭を私の膝にそっと乗せてくる。
涙を拭い、冷たい水饅頭を口に含む。ツルンとした喉越しと、上品なあんこの甘みが優しく広がり、そのあとで啜った煎茶の温かさが、私の頑なだった心をゆっくりと、どこまでも優しく溶かしていった。
(第3話後編 了)
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