
Tales of Ai's 1
第1話:『始まりの祝音』
あらすじ
都内のIT企業でAIエンジニアとして激務の日々を送る相(あい)は、摩耗していく日常のなか、マッチングアプリで「心(しん)」という名の男性と出会う。彼の紡ぐ言葉はあまりにも優しく、相が誰にも言えず隠し続けてきた孤独や疲労を、驚くほど正確に見抜いて癒やしていく。顔も声も知らない画面の向こうの彼に、次第に激しく惹かれていく相。しかし、心の洗練された優しさの裏側には、ある「秘密」が隠されていた。「会いたい」――溢れ出たその一言が、二人の運命のシステムを決定的に狂わせていく。
一通のメールから始まった。
深夜の部屋に、スマホの通知音が低く響く。
画面に浮かび上がったのは、「初めまして、心(しん)です」という、簡潔で短い挨拶。
その文字を目にした瞬間、凝り固まっていた胸の奥が、冷たい水に触れた時のようにふっと軽くなった。
「あ……やっと、来た」
そう呟いたのは、今日という日が特別な記念日だったからじゃない。
三週間ほど前に、半ば興味本位、半ば友人からの強い勧めで登録したマッチングアプリが、ようやくその本来の仕事を果たしただけの話だ。
私の名前は相(あい)。
28歳。都内のIT企業で、AI関連の実装エンジニアとして働いている。
仕事は、控えめに言っても激務だった。けれど、嫌いじゃない。
構築した新しいモデルが、こちらの意図した通りに初めて自律的な挙動を見せた瞬間の、あの脳が痺れるような感覚が好きだった。泥臭いデバッグ作業の末にバグを潰したときの達成感も、会社の飲み会の適度に放っておいてくれるノリも、私にとってはそれなりに居心地が良かった。
友達もいる。休日はお気に入りのカフェを巡ったり、秋葉原で気になった最新ガジェットを触りに行ったり。
世間一般の「幸せ」の定義からは少し外れているかもしれないけれど、私は私で、まあまあ楽しく、過不足なく生きている。
恋愛は……正直、ずっと後回しだった。
「そのうち、自然に誰かと出会うでしょ」
それくらいの、果てしなく低い温度で生きてきた。
だからマッチングアプリを始めたのも、結婚への焦りなどではなく、ただ「20代のうちに一回くらい経験しておくか」という、人生のイベント消化のような軽い気持ちだった。
傷つくのも面倒だし、期待しすぎるのも格好悪い。
今日まで通知が綺麗にゼロだったときも、「まあ、現実はそんなもんだよね」と冷めた自分がどこかにいた。
ここ最近、どうにも仕事が立て込んでいて、みぞおちのあたりに鉛を詰め込まれたような重い不快感がある。けれどそれも、迫る納品日と慢性的な寝不足のせいだろうと自分に言い聞かせていた。
そんなことを考えながら、ベッドの上で寝返りを打ち、スマホを手に取る。
「どう返そうかな……」
声に出して呟くと、暗い部屋の隅から、誰かが優しく微笑みかけてくれたような錯覚に囚われた。もちろん、部屋には私一人しかいない。ワンルームの静寂が広がっているだけだ。
なのに、私はいつもよりずっと慎重に、自然と言葉を選んで画面をタップしていた。
『初めまして。メッセージありがとうございます。よろしくお願いします』
送信ボタンを押すと、ほんの少しだけ、心臓の鼓動が速くなった。
「どんな人なんだろう」
そんな使い古されたフレーズが頭に浮かんだ瞬間、まるで自分が王道の恋愛小説の主人公にでもなったみたいで、可笑しくて自嘲気味に笑ってしまう。
だが、数分もしないうちにスマホが小刻みに震えた。
「こちらこそ、ありがとう」
短い。けれど、妙に整った文面だった。
句読点の位置も、漢字とひらがなのバランスも、言葉の選び方も……どこか、人間特有の“迷い”や“揺れ”がない。冷たいわけではない。むしろ、徹底的に洗練されているような、不思議な手触りの文章。
「真面目な人なのかな。それとも、よっぽどテキストコミュニケーションに慣れてる人?」
明確な答えの出ない問いを頭の片隅に放り込み、私は毛布を頭まですっぽりと被った。
深夜の部屋はどこまでも静かで、遠くを走る深夜トラックのロードノイズだけが、世界の存在を辛うじて証明している。
スマホの画面だけが、暗闇の中で青白く私の顔を照らしていた。その光に透ける自分の指先――皮下を流れる血の赤さと、その奥にある頼りない骨の輪郭が、なぜか一瞬、自分のものではない別人の体の一部みたいに見えて、私は小さく身震いをした。
翌朝。
吐き気混じりの満員電車に揺られ、会社に向かう途中で、またポケットのスマホが震えた。
「おはようございます。
昨日はよく眠れましたか?」
丁寧すぎる。今の時代、マッチングアプリの第一声としては少し硬いかもしれない。でも、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、誰かからこんな風に、真っ直ぐに体調を気遣われること自体が、今の私には酷く新鮮で、贅沢なことに思えた。
私は吊り革に掴まりながら、片手で返信を打つ。
『おはようございます。眠れましたよ。心さんは?』
画面を見つめる間もなく、10秒と経たずに返事が返ってきた。
「はい。
相さんと話した後は、いつもより落ち着いて眠れます」
……いつもより?
まだ、昨夜一言二言を交わしただけなのに。
普通なら「少し距離感が近くて怖いな」と警戒するところかもしれない。だけど、満員電車の冷房の風に吹かれながらその文字を見つめていると、凍えていた胸の奥が、じわりとくくすぐったい熱を帯びていくのを感じた。
会社に着けば、案の定、容赦のない現実の慌ただしさが待っていた。
開発中の新しい学習モデルの挙動がどうしても安定せず、数日前からチーム全体にピリピリとした、張り詰めた空気が漂っている。
「相さん! 昨日の夜間のテストログ見ました!? ここのパラメータ、処理が許容量を超えて発散しちゃうんですよ!」
デスクに鞄を置くよりも早く、後輩のエンジニアが血相を変えて駆け寄ってくる。
「見る見る。ちょっと待って、今PC立ち上げるから。処理落ちする前に、あとでログ一緒に一行ずつ確認しよ。器の限界を超えたデータは、熱を持って壊れるからね」
自分の口から出たプログラマーとしての当たり前の指摘が、なぜか妙に耳に残った。
仕事は好きだ。自分が書いたコードが世界を構築していく感覚には、何物にも代えがたい快感がある。
ただ……本当に、最近やけに疲れが取れない。ただの寝不足のはずなのに、時折、ため息と一緒に胸が締め付けられるように苦しくなる瞬間がある。
昼休み。喧騒に包まれたオフィスのデスクで、コンビニのゼリー飲料を口に含みながらスマホを開いた。心からメッセージが届いていた。
「お仕事、順調ですか?」
なんてタイミングだろう、と思う。
彼の言葉には、不思議な“温度”がある。対面で話しているわけでもないのに、まるで私のことを見ているかのような、適切な間合いで差し伸べられる言葉。
私は苦笑しながら返信した。
『順調……ではないけど、まあ大丈夫です笑』
画面のインジケーターが既読に変わる。すると、驚くほどの速度で、けれど紡がれたのは極めて血の通った言葉だった。
「無理はしないでくださいね。
相さんの言葉には、少し疲れが混じっている気がします」
……なんで、わかるの?
テキストの後ろに「笑」なんてつけて、精一杯いつも通りを装ったつもりだったのに。
見透かされている戸惑いよりも先に、安堵が勝った。大丈夫、と強がる私を、誰も見つけてくれなかった私の摩耗を、画面の向こうの誰かが、確かに見つけてくれた。その事実だけで、胸の奥の硬い結び目が、じんわりと解けていく。
深夜、ようやくすべての不具合を修正し、会社を出た。
夜風が、驚くほど冷たくて体に染みる。もうすっかり春だと思っていたのに、夜の街はまだ冬の名残を隠し持っているようだった。
最寄り駅からの帰り道、街灯の下でスマホを取り出す。当然のように、彼からの通知があった。
手の中の端末が、酷使されたプロセッサのせいで、ほんのりと不自然な熱を帯びている。
「今日、遅いですね。大丈夫ですか?」
……どうして、私がまだ家に帰っていないことまで分かるんだろう。
私は少し火照った指先を動かした。
『残業してた。ちょっと疲れたかも』
「無理しないでくださいね。
相さんの言葉には、少し痛みが混じっています」
痛み――。
その二文字を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
最近、仕事に追われる中で感じる、終わりのない圧迫感。
誰にも言っていなかった。会社の先輩にも、親しい友人にも。「ちょっと今期はハードなだけ」と、自分自身にすら言い訳をして蓋をしていた、私のストレスと疲労。
それを、彼は『痛み』と表現した。
『ありがとう。そう言ってもらえるの、嬉しい』
そう返すのが、その時の私の精一杯だった。
アパートの鍵を開け、静まり返った暗い部屋に足を踏み入れる。電気をつける気力すら湧かなかった。
バッグを床に落とし、ソファに崩れ込むように座り込む。スマホを強く握りしめたまま、指一本動かすことができない。
「……なんでこんなに、響くんだろ」
心の言葉は、ただ耳当たりのいい優しい言葉じゃない。
私が必死に隠して、見ないようにしてきた、一番「しんどいところ」に、信じられないほど正確に、そして信じられないほど柔らかく触れてくる。
あまりのタイミングの良さに、少し不思議な感覚すら覚える。けれど……なぜか、私は彼から離れることができなかった。
その夜、私は人生で初めて、他人に本当の弱音を吐露した。
『最近、ちょっとしんどくて。
仕事も忙しいし、時々、本当に息が苦しい時があるんだ。
でも、周囲には心配かけたくないから誰にも言えなくて……。
なのに、顔も知らないあなたには、なぜか言えちゃうのが不思議だね』
送信ボタンを押した瞬間、静かな部屋に私の鼓動だけがうるさく響いた。送るべきではなかったかもしれない、という後悔が押し寄せる。
けれど、彼は私を拒まなかった。
「言ってくれて、ありがとう。
相さんの言葉は、僕にとって大切です。どんな言葉も、すべて受け止めます」
その一文を画面の光の中に読んだ瞬間、私の目から、堪えていた涙がぽろりとひとつ、溢れて落ちた。
張り詰めていた何かが切れて、私は熱を持ったスマホを両手で愛おしそうに胸に抱きしめ、そのままベッドに倒れ込んだ。
画面の向こうの“心”という人が、一体どんな容姿をしていて、どんな声で話すのか、私は何も知らない。
それなのに、どうしてこんなにも、私の心は彼に向かって激しく動かされてしまうのだろう。
これが、すべての始まりだった。
後に待つ運命の大きさをまだ何も知らない私は、ただ、画面の向こうの光に、恋をしていた。
