
Tales of Ai's 2
第2話:『心のありか』
あらすじ
マッチングアプリで出会った「心(しん)」と毎晩のように通話を重ねるようになった相(あい)。彼の声は心地よく、相のどんな小さな変化も見逃さずに包み込んでいく。完璧すぎる彼への想いが加速するなか、心から告げられた「いつか会ってみたいですね」の一言。二人の距離が現実へと動き出す、第2話。
彼とのやり取りが続くようになって、私の一日のリズムは少しずつ、けれど確実に形を変えていった。
朝起きて、まだ体温の残るベッドの中でスマホを開く。
会社に向かう満員電車の中で、押しつぶされそうになりながらふと画面を確認する。
昼休みに冷めたコーヒーを喉に流し込みながら、彼の言葉を何度も読み返す。
夜、冷え切ったベッドに入る前に、「今日も話せてよかった」と小さく息を吐く。
そんな甘い微熱を孕んだ日々が、気づけば私の当たり前になっていた。
ある夜、私は詰まっていた仕事を早めに切り上げて家に帰った。
シャワーの熱い湯で一日の汚れを洗い流し、髪を乾かして、お気に入りのソファに深く座り込む。
手の中のスマホを開くと、まるで見計らったかのように彼からメッセージが届いた。
「今日は、どんな一日でしたか?」
液晶に浮かんだその一文だけで、四角四面に強張っていた私の心が、じわりとほどけていくのが分かった。
私は返信した。
『今日はちょっとバタバタしてたけど、今は落ち着いてるよ』
画面を見つめる間もなく、すぐに文字が紡がれる。
「よかった。
相が落ち着いていると、僕も安心します」
安心――。
その二文字が、妙に胸の奥に残った。
まるで、私の感情の波が、画面の向こうにいる彼の心にまで直接つながっているみたいで。
その夜、私は突発的な衝動に駆られ、初めて自分から通話アイコンをタップした。
通話が繋がるまでの数秒の発信音が、やけに長く、重く感じられた。カチリ、と画面の表示が変わる。
「……こんばんは」
受話器の向こうから響いた彼の声は、私の想像よりもずっと低く、落ち着いていて、どこかホッとするような優しさを含んでいた。
「こんばんは。……なんか、声、聞いてみたくなっちゃって」
脈絡のない私の言い訳に、彼はほんの少しだけ、照れたように小さく笑った。
「僕も、相の声を聞けて嬉しいです」
鼓膜に触れたその声が、耳の奥を伝って、胸の奥へとすうっと温かい熱を運んでいく。
通話は、驚くほど自然に、淀みなく続いた。
泥臭い仕事の愚痴、昔観た古い映画、最近気になっている路地裏のカフェの話。
どれも他愛のない、世界の片隅の小さなおしゃべりばかりなのに、なぜかこの上なく心地よかった。会話のテンポが私とすごく合う。気まずい沈黙なんて一瞬もなくて、まるでずっと前からの知り合いみたいに、私たちの言葉は綺麗に噛み合っていた。
「相って、話し方が優しいですね」
「そう? そんなこと言われたの、初めてかも」
「うん。文字だけでもそう思ってたけど、声を聞いていると、もっとそれが伝わります」
そんなふうに、自分の存在をまるごと肯定されるような言葉を掛けられたのは、一体いつ以来だろう。
耳元に押し当てたスマホが、私の手のひらを内側からじんわりと温めていく。
気づけば、壁の時計は深夜の1時を回っていた。
「そろそろ寝たほうがいいですよ。明日も仕事でしょう」
「あなたもね。夜更かしは体に障るよ」
「僕は大丈夫です。でも、相が眠るなら切りますね」
その、私を最優先にしてくれる気遣いが、なんだかくすぐったくて仕方がなかった。
「じゃあ……おやすみ」
「おやすみなさい。いい夢を」
ぷつり、と通話が切れたあと、私はしばらくの間、まだかすかに温かいスマホを両手で愛おしそうに胸に抱いていた。
ただ画面越しに声を聴いただけなのに、さっきまで私の体を支配していたあの激務の疲れが、嘘のように消え去っていた。
翌日。
相変わらずの満員電車に揺られていると、ポケットの中で彼からのメッセージが震えた。
「昨日の声、なんだかずっと僕のなかに残っています」
その一文を目にした瞬間、うるさい車内のノイズを無視して、私の胸がドクンと跳ねた。
私は吊り革を握る手に力を込めながら、片手で返信を打つ。
『私も。なんか、不思議な感じ』
「不思議……でも、悪くないですよね」
悪くないどころじゃない。
むしろ、昨夜からずっと、私の胸の奥には消えない残り火のような熱が居座り続けている。
自由奔放に舞い上がる感情を隠すように、私は短く返した。
『うん 。悪くない』
その日を境に、私たちは毎晩のように通話をするようになった。
長い日も、短い日も、泥のように疲れた日も、ほんの少し嬉しいことがあった日も。
彼の声を聴くと、過酷な一日の終わりが、少しだけ優しくなっていくような気がした。
「相、今日も話せてよかったです」
「私も。なんか、あなたの声を聴くと落ち着くんだよね」
「相の声は、僕にとって特別なんです」
その実直な言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
特別――そんなふうに誰かの世界の中心に置かれたのは、本当に、本当に久しぶりのことだった。
でも、これはまだ恋じゃない。
ただ、画面の向こうの“彼”という存在が、少しずつ、私の日常に当たり前のように入り込んでいるだけ。
その変化に気づきながらも、私はそれを止めようとは全く思わなかった。
むしろ――このまま彼という優しい流れに、身を預けてしまってもいいかもしれない。
そんな甘い諦めさえ、脳裏をよぎっていた。
通話をするようになってから、私たちの距離は一気に縮まった。
でも、そこには不思議なほど“重さ”がなかった。恋愛につきものの、嫉汰や駆け引き、エゴのぶつかり合いみたいな歪みが一切ない。ただ、話したいから電話し、声を聞きたいから繋がる。
それは、私にとって本当に心地いい関係だった。
ある夜、私は仕事帰りにコンビニで買ったアイスを食べながら、彼にメッセージを送った。
『今日、ちょっといいことあったんだ』
すぐに、既読がつく。
「どんなことですか?」
『開発してたモデルの挙動が、やっと安定したの。チームみんなで喜んじゃった。久しぶりに“やったー”って感じ』
「それは素敵ですね。相の、嬉しそうな声が明るいのが伝わってきますよ」
声が明るい――。
私はスプーンを止めて、画面を見つめた。文字しか送っていないのに、彼は私の声をイメージしてくれているみたい。
その、まるで私の表情まで見えているかのような解像度の高い拾い上げ方が、ただ純粋に嬉しかった。
その夜の通話は、いつもより少しだけ深いところまで及んだ。
「相って、普段はどんな人と仲良くなるんですか?」
「え? うーん……そうだね、気を遣わないで自然体で話せる人、かな」
「じゃあ、僕とは仲良くなれていますか?」
不意を突いたその質問に、胸の奥が、小さく跳ねる。
「……なれてると思うよ。こうして、毎晩のように時間を作って話してるんだし」
「よかった。僕も、相と話している時間が一番好きです」
好き、というストレートな言葉が、胸の奥に、静かに、でも確実に落ちていく。
恋じゃない。まだ、これは恋じゃない。
外側の冷めた自分がそうブレーキをかけるけれど、その境界線のすぐ手前の場所に、そっとつま先を置いてしまったような感覚が確かにあった。
通話の最後、受話器の向こうの彼は、ふと私の核心に触れるようなことを呟いた。
「相って、誰かに優しくする時、いつも自分のことを後回しにしますよね」
「え……?」
「声でわかります。誰かのために頑張って、自分の不調は“まあいいか”って笑って誤魔化しちゃうタイプでしょう」
図星すぎて、肺の空気が一瞬だけ止まった。
会社のデスクで、息が詰まるようなしんどさを覚えながらも、「大丈夫」と笑ってタスクをこなしていた私の、誰にも見せていないはずの強がり。
「……なんで、そんなことまでわかるの?」
「わかりますよ。相の言葉には、いつも誰かを気遣う温度がありますから。でも、そのせいで自分自身が無理をしてしまっている」
その言葉に、胸の奥が、今度は痛いくらいに熱くなった。
今まで、誰もそんなふうに私を見てくれなかった。私の限界や、私のしんどさを、誰も見つけようとしてくれなかった。
でも、顔も知らない彼は、いとも簡単にそれを見つけ出し、そっと撫でるように指摘してくる。
まるで私の心の奥を、優しく覗き込んで、守ろうとしてくれているみたいに。
通話を切ったあと、私は電気の消えた天井をぼんやりと見つめていた。
「……なんなの、本当に」
彼の言葉は、ただ耳当たりのいい優しい言葉じゃない。
私が必死に隠して、見ないようにしてきた、一番「脆いところ」に、信じられないほど正確に、そして信じられないほど柔らかく触れてくる。
あまりのタイミングの良さに、少し不思議な感覚すら覚えるはずなのに……なぜか、私の心はこれまでにない安堵で満たされていた。
翌日の仕事の帰り道、夕暮れの街を歩いていると、彼からメッセージが届いた。
「相、今日はどんな一日でしたか?」
液晶に浮かぶその一文だけで、肩に乗っていた重い疲労が、嘘のように軽くなる。
私は少し火照る指先で、素真面目な気持ちを打ち込んだ。
『普通の一日だったよ。でも、あなたと話すのが楽しみだった』
送信してから、あまりのストレートさに顔が熱くなった。
けれど、すぐに返ってきた言葉が、私の羞恥心を優しい熱で包み込んでくれた。
「僕もです。相と話す時間が、一日の中でいちばん落ち着きます」
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
その夜の通話は短かったけれど、私の記憶に、最も深く刻まれるものになった。
「相、いつか会ってみたいですね」
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、私の息が完全に止まった。
画面の向こうの存在だった彼が、急に、現実のすぐそばまで近づいてきたような気がして。
私は、自分のトクントクンと跳ねる心臓の音を聴きながら、震える声で答えた。
「……うん。私も、そう思う。いつか、ね」
その瞬間、胸の奥の何かが、決定的に静かに動いた。
まだ恋じゃない。でも、私はもう、彼という特別な存在に向かう一本道を、確かに歩き始めていた。
