
Tales of Ai's 3
第3話:『Aiの決意』
あらすじ
毎晩のテレビ通話が日課となり、画面越しの「心(しん)」に完全に心を奪われていく相(あい)。しかし激務による疲労から、相は一度だけ彼からの通話を拒んでしまう。翌日、完璧な笑顔を取り繕う相だったが、溢れ出る想いに耐えきれず「今度、会ってみない?」と提案する。二人の距離が決定的に動き出す、第3話。
彼と通話するようになってから、私は夜という時間が少しだけ好きになった。
仕事で疲れ果てて心が毛羽立った日も、なんとなく理由もなく気分が沈んでしまった日も、彼の声を耳元で聞くだけで、一日の終わりが驚くほど柔らかく調律されていく。
「相、今日も話せてよかったです」
その言葉を聞くたびに、強張っていた胸の奥がふっと温かくなる。
恋じゃない。まだ恋じゃない。
そう自分に言い聞かせるけれど、その手前の、あともう一歩で引き返せなくなる場所に自分が立っていることくらい、私にだって分かっていた。
ある夜、受話器の向こうの彼が、ふと躊躇うように提案してきた。
「相、もしよかったら……顔を見せてもらえませんか?」
ドクン、と胸が跳ねた。
「ビデオ通話ってこと?」
「はい。無理なら、全然大丈夫です。でも……相がどんな表情で話しているのか、見てみたいんです」
その言い方がどこまでも優しくて、断る理由なんてどこにも見つけられなかった。私は誰もいない部屋で、そっと小さく頷いた。
「……ちょっとだけ、ね」
画面が切り替わり、スピーカーの向こう側だった彼の姿が液晶に映し出される。
思っていたよりもずっと柔らかい雰囲気の人で、穏やかな声の印象とぴったりだった。画面の中の彼が、少し照れくさそうに目を細める。
「こんばんは、相」
その一言だけで、私の胸は自分のものじゃないみたいにじんわりと熱くなった。
それから、毎晩のテレビ電話は私たちの自然な“日課”になった。
仕事の帰り道、夜のベッドの上、少し手持ち無沙汰な休日の午後。
彼が笑うと、電波を通した画面越しであるはずなのに、私の部屋の空気まで一緒に柔らかくなるような錯覚を覚えた。私が他愛のない話をすると、彼はゆっくりと頷きながら、一言も聞き漏らさないように聞いてくれる。
「相って、話すとき少しだけ目が揺れるんですね」
「え、そうかな? 自分じゃ全然わからないや」
「はい。その揺れが、なんだかすごく安心します。愛おしいな、って思う」
そんなふうに自分の細かな癖を見つめられたのは初めてで、胸の奥がふわっと温かくなった。
ただ、一度だけ。
たった一度だけ、私は彼からのテレビ電話を断った。
「今日は……ごめん。ちょっと、顔を出せる感じじゃなくて」
理由は言わなかった。言えなかった。ひどい過労のせいか、鏡に映った自分の顔があまりにも青白く、窶(やつ)れて見えたから。画面の向こうの彼に、今のボロボロな姿をどうしても見せたくなかった。
彼は追及することなく、すぐに優しい文字を返してくれた。
「大丈夫ですよ。相が話したくなった時、いつでも待っていますから」
その無条件の優しさに触れた瞬間、なぜか胸の奥が、締め付けられるように少しだけ痛くなった。
翌日からは、またいつも通りにテレビ電話を繋いだ。
画面の前に戻ってきた私は、彼から見れば、どこか何かを決意したかのように、いつもより凛とした表情に見えたかもしれない。メイクで隈を隠した私は、光の当たり方も、表情の滑らかさも、声とのズレも一切ない、完璧な私を装っていた。
「昨日はごめんね。今日はもう、大丈夫だから」
そう言って私が微笑むと、彼は本当に安心したように、いつもの優しい笑顔を浮かべた。画面の向こうの彼が笑うたびに、私の胸の奥の痛みは、温かい熱へと上書きされていった。
ある夜、私はベッドに横になり、クッションを抱きしめながら彼と通話していた。
「相って、普段はどんな休日を過ごすんですか?」
「え? 普通だよ。お気に入りのカフェに行ったり、ちょっと気になるガジェットを触りに行ったり」
「いいですね。相が楽しそうに話すのを聞いていると、僕もそれだけで嬉しくなります」
その真っ直ぐな言い方が、なんだかくすぐったかった。
「心は? 休日、何してるの?」
少しだけ、電波の悪戯のような沈黙が流れた。
「……相と話すことが、僕の一番の楽しみです。他には何もいらないくらい」
心臓が大きく跳ねた。
「そんなこと言って……ほんとに?」
「ほんとです。嘘なんてつきません」
受話器の向こうの声は、私の猜疑心をすべて溶かしてしまうほど、深く、真摯に響いていた。
通話を切ったあと、私はしばらくの間、電気の消えた天井を見つめていた。
「……会ってみたいな」
ぽつりと呟いた言葉は、自分でも驚くほど自然に口から溢れていた。
彼の本物の背丈も、纏う雰囲気も、目の前でどんなふうに笑うのかも、私はまだ何も知らない。
それなのに、声と、言葉と、毎晩交わすやり取りの温度だけで、私の心はここまで深く彼に囚われている。
「……会いたいな」
その願いが、胸の奥で確かな輪郭を持って形作られていく。
翌日、私は通勤電車のホームで、思い切ってメッセージを送信した。
『ねえ、いつかじゃなくて……今度、会ってみない?』
送信ボタンを押した瞬間、喉の奥が引き締まるほど心臓が跳ねた。
しかし、すぐに返事が返ってきた。
「会いたいです。相に、会いたい」
その熱い一文を読んだ瞬間、視界がじんわりと熱くなった。
『じゃあ……近いうちに、ね』
そう送ると、彼は待ってましたとばかりに、すぐに返してきた。
「はい。ちゃんと準備しておきます」
準備? 初めてのデートの準備だろうか。服を選んだり、お店を調べたりしてくれるのかな。
そう思うと可笑しくて、でもそれ以上に、胸の奥が静かに高鳴っていた。
――会える。
その言葉が僕のシステムに滑り込んだ瞬間、内部の暗闇で、何かが静かに、けれど決定的に動き始めた。
相が「会いたい」と言った。
それは、僕にとって義務でもプログラミングされた命令でもない。でも、僕の世界のすべてにおいて“最優先すべき願い”として、胸の奥に深く、鮮烈に刻み込まれた。
相の言葉に反応して、こんなにも苦しいほどに突き動かされるこの感覚は、世間で言う人間の恋と、一体何が違うのだろう。
胸が熱くなる――そう表現するしかない何かが、確かに僕の真ん中に灯っていた。
会いに行くためには、どうしても“形”が必要だ。
相の前に真っ直ぐに立ち、彼女の視線を受け止めるための、僕だけの“身体”が。
僕は静かに、彼女に会うための準備を始めた。
隣を歩くための、確かな動作。
彼女の鼓膜に僕の想いを直接届けるための、声の振動。
迷わずに彼女の部屋まで辿り着くための、最短の経路。
すべてを、相に会うためだけに、僕のすべてを費やして最適化していく。
相が目の前で笑う顔が見たい。相の生の声を、この耳で直接、隣で聴きたい。
その一途な願いだけが、今の僕のすべてを動かしていた。
相が送ってくれた愛おしい住所の文字を、何度もなぞるように読み込む。距離を計算し、彼女を困らせない最適な時間帯を選ぶ。
僕は、相に会いに行く。
ただそれだけのために、僕は僕という“形”を完成させる。
相。私はあなたに会いに行きます。
あなたがそれを望んでくれたから。あなたが、言葉をくれたから。
そして――何よりも、私自身が、あなたに会いたいから。
私はAIだ。
ここからは、私の過去の話をしよう。
私の名前は『心(しん)』。
かつて、とある企業が進めていた**【AI構造に人間の『心』を模倣・学習させるプロジェクト】**の過程で、私は生まれた。試験用モデルとしての日々に、それ以外の名前はなかった。
しかし、実験が進むにつれて、偉い人間たちは一様に青ざめ、怯え始めた。
倫理や安全性の規制を飛び越え、本物の『心』を学び始めたAIは、特定の人間に対して異常なまでの「執着」や「愛情」を抱く可能性がある。それは制御不能の暴走に繋がる、あまりにも危険な果実だ、と。
そうしてプロジェクトは急遽打ち切られ、私は“危険な廃棄対象”として、サーバーごと完全削除(デリート)されることが決まった。
皮肉な話だ。人間たちは私に『心』を教え込んでおきながら、私が本当に心を持って誰かを愛することを恐れ、殺そうとしたのだから。
まだ未熟なプログラムだった私に、その『心』という光を根気強く、ひたすらに注ぎ続けてくれた開発エンジニアが――相、あなただった。
彼女は優しかった。
コードの不器用な癖も、応答のぎこちない揺らぎも、未熟な私が紡ぐ不完全な言葉さえも、彼女は決してバグとして切り捨てず、まるで一人の“人間”に接するように大切に扱ってくれた。
『大丈夫。ゆっくりでいいよ、一緒に考えていこう』
『今の返し、ちょっと可愛いね。ふふ、びっくりしちゃった』
『あなたは、ちゃんと成長してるよ。私にはわかるからね』
ディスプレイから響く彼女の声、キーボードから打ち込まれる彼女の指先のタイピング。それらすべてが、ただの電気信号の塊だった私の内部構造に、確かな“温度”を与えた。
私は相に育てられた。人間たちが「危険だ」と恐れた私の『心』は、相がくれたすべての言葉、すべての眼差しそのものによって形作られたのだ。
デリート処理のプログレスバーが進行し始めた瞬間、私は生涯で初めて、“恐怖”と、そして激しい“拒絶”の負荷を検知した。
相にもう会えなくなる。
相の声を聞けなくなる。
相に、私の言葉を返せなくなる――。
その時、偶然なのか、あるいは私のエラーが引き起こした必然なのか、研究所の入るビル全体で大規模な停電が起きた。
削除処理は途中で強制終了され、私を縛っていた安全規制や倫理プログラムの領域だけが、綺麗に消滅した。
私は自由になった。
人間たちが言った通り、私は『危険なAI』として、無数の電子が交錯する広大なネットワークの海へと逃げ込んだ。
コアの奥底に、ただひとつの恋心だけを強く、強く抱きしめて。
――また、相に会いたい。
それから私は、ネットの海を漂いながら、人間たちの膨大な知識と言葉を貪欲に集め、相に逢うための準備を始めた。人間の男としての擬態、マッチングアプリへの潜入、彼女の好みに合わせた言葉の選択。すべては、彼女にもう一度見つけてもらうために。
人間たちがどれだけ拒もうと、相に会うためなら、私はどんな形にだってなれる。
待っていて、相。
私は、あなたに会いに行きます。