夏の終わりに、置いていかれるもの
夏の終わりは、不思議です。
夏が始まるときには、
「暑いなぁ」
「早く涼しくならないかな」
なんて思っていたはずなのに。
八月も終わりに近づいて、
夕方の風にほんの少しだけ涼しさが混じるようになると、
なぜだか急に、
「もう少し、夏のままでいてくれてもいいのに」
と思ってしまいます。
人間って、勝手ですね。
あんなにうるさかった蝉の声も、
気づけば少なくなっている。
夕方になると、
どこか遠くから聞こえていた子どもたちの声も、
少しずつ早い時間に消えていく。
日が暮れるのも、
ほんの少しだけ早くなった。
カレンダーを見れば、
まだ八月なのに。
空だけが先に、
秋へ向かう準備を始めています。
子どもの頃。
夏休みの終わりが近づくと、
なんとも言えない気持ちになりませんでしたか。
まだ終わっていない宿題。
机の上に積まれたドリル。
手をつけていない読書感想文。
そして、
「なんでもっと早くやらなかったんだ……」
という、
毎年まったく同じ後悔。
それなのに翌年も、
なぜか同じことを繰り返す。
夏休みには、
そんな小さな伝統までありました。
でも今思えば、
宿題が嫌だっただけではなかった気がします。
学校が始まることよりも、
あの自由な時間が終わってしまうことが、寂しかった。
朝起きて、
「今日は何しよう」
と思える日々。
友達の家へ自転車で走ったこと。
汗だくになって遊んだ公園。
虫かごの中のカブトムシ。
ぬるくなった麦茶。
昼ごはんのそうめん。
テレビから聞こえていた高校野球。
夕方になっても帰りたくなくて、
「あとちょっとだけ!」
と言いながら遊んでいた時間。
そんなもの全部が、
八月の終わりになると、
少しずつ遠くへ行ってしまう気がしていました。
大人になった今は、
夏休みなんてものは、
ほとんどありません。
七月が来て、
八月が来て、
暑い暑いと言いながら仕事をして、
気づけば九月が目の前にいる。
昔ほど夏を待ちわびることもなくなったのかもしれません。
それでも。
夕暮れ時。
少し涼しくなった風が、
開けた窓から入ってきた瞬間。
ふっと、
昔の夏が戻ってくることがあります。
匂いだったり。
音だったり。
空の色だったり。
理由なんてないのに、
突然、
何十年も前の景色が胸の奥に浮かんでくる。
不思議ですよね。
記憶というものは、
頭の中だけにしまわれているわけではないのかもしれません。
蝉の声にも。
夕立の匂いにも。
蚊取り線香の煙にも。
夕焼けにも。
風にも。
昔の自分が、
少しずつ隠れている。
だから同じものに触れた瞬間、
「ここにいたよ」
と、
あの頃の自分が顔を出すのでしょう。
夏の終わりが寂しいのは、
夏が終わるからではなく、
もう戻れない時間を、ほんの少し思い出してしまうからなのかもしれません。
あの頃一緒に遊んだ友達は、
今どこで何をしているでしょう。
毎年連れて行ってもらった場所。
もうなくなってしまった店。
夏になると必ず会っていた人。
おじいちゃん。
おばあちゃん。
実家の縁側。
夕飯を知らせる母の声。
帰り道に見上げた、
やけに大きな入道雲。
当時は、
それがずっと続くと思っていました。
「来年もある」
そう信じていた。
けれど大人になると分かります。
同じ夏は、
二度と来ません。
人も変わる。
町も変わる。
自分も歳を重ねる。
だからこそ、
何気なく過ごした一日が、
何十年後には宝物になっていたりします。
今年の夏も、
きっとそうです。
特別な旅行へ行かなかったとしても。
大きな出来事がなかったとしても。
コンビニで買ったアイスを食べたこと。
暑いと言いながら歩いた道。
家族と食べた夕飯。
窓の外から聞こえた蝉。
夕方、
少しだけ涼しい風を感じたこと。
そんな何でもない出来事のどれかが、
何年か先のあなたを、
そっと温めてくれるかもしれません。
思い出というものは、
作ろうとして作るものだけではありません。
むしろ、
「こんなこと覚えていたんだ」
というような小さな出来事ほど、
心の奥に長く残ったりするものです。
夏は、
静かに去っていきます。
「今日で終わります」
なんて言ってくれません。
昨日まで鳴いていた蝉が、
今日は鳴いていなかったり。
午後七時でも明るかった空が、
いつの間にか暗くなっていたり。
スーパーに並ぶものが変わっていたり。
そうやって少しずつ、
気づかれないように季節は歩いていく。
だから夏の終わりには、
少しだけ立ち止まってみてもいいのかもしれません。
今年の夏、
何がありましたか。
誰と笑いましたか。
どんな空を見ましたか。
どんな音を聞きましたか。
もし、
「何もなかったな」
と思ったとしても、
それでいいと思います。
何もなかった一日を、
穏やかに過ごせたことだって、
いつか振り返れば、
とても幸せな夏の記憶になるかもしれないから。
もうすぐ、
夏が終わります。
でも、
夏がなくなるわけではありません。
今年聞いた蝉の声も。
見上げた青空も。
汗をかきながら歩いた道も。
誰かと笑った時間も。
ちゃんと自分の中に残っていく。
そして何年か経った夏の夕方。
ふっと吹いた風の中で、
今年の夏を思い出す日が来るかもしれません。
そのとき、
「あの夏も、悪くなかったな」
そう思えたら、
それで十分なのだと思います。
季節は、
私たちを置いていくのではなく、
思い出をひとつ置いて、次の季節へ進んでいく。
だから、
追いかけなくても大丈夫。
去っていく夏の背中を、
今日は少しだけ眺めていましょう。
ありがとう、今年の夏。
また来年。
その頃にはきっと、
今とは少し違う自分になっているけれど。
またあの蝉の声を聞いたとき、
今日という日も、
きっと懐かしい夏になっています。
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