蚊取線香の煙が、夏を連れてくる。
夏には、音がある。
ミーン、ミンミンミン……。
遠くで鳴いている蝉。
軒先で揺れる風鈴。
庭に水を撒いたときの、
シャアァァ……という水の音。
そして。
夏には、匂いもある。
スイカを切ったときの青っぽい匂い。
夕立のあとの、濡れた土の匂い。
汗をかいたTシャツに残る、お日さまの匂い。
その中でも、不思議なくらい昔の夏を思い出させてくれるものがある。
それが、
蚊取線香の匂い。
あの緑色の、ぐるぐる。
先っぽに火をつけると、
赤い小さな点が生まれて、
そこから細い煙が、
ふわぁ……
ふわぁ……
と、頼りなさそうに空へ昇っていく。
子どもの頃は、
あれがなんだか不思議だった。
「これで本当に蚊が来なくなるの?」
そんなことを思いながら、
意味もなく煙の行方を目で追っていた。
風が吹けば右へ。
また風が変われば左へ。
やがて形をなくして、
夏の空気に溶けていく。
今思えば、
あんな時間こそ、ずいぶん贅沢だったのかもしれない。
何をするわけでもない。
急ぐこともない。
スマホも見ない。
ただ縁側に座って、
冷たい麦茶を飲んでいる。
氷が、
カラン。
グラスの中で転がる。
遠くでは蝉が鳴いている。
庭の葉っぱが風に揺れている。
足元では蚊取線香が、
黙々と自分の仕事をしている。
「蚊に刺されるで、ちゃんと焚いときなよ」
家の中から、そんな声が聞こえてくる。
「わかっとるって」
なんて返事をしながら、
本当は何も考えていない。
今日の予定もない。
明日の心配もしない。
ただ、
夏休みが、まだまだ続くと思っていた。
あの頃の夏は、
どうしてあんなに長かったんだろう。
朝起きて。
ご飯を食べて。
虫を探して。
汗だくになって帰ってきて。
昼ご飯を食べたら、
扇風機の前を陣取る。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……」
声を震わせて遊んで、
「うるさい!」
と怒られるꉂ🤣𐤔
それでも懲りずに、
もう一度。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……」
また怒られる。
そんな、どうでもいい一日。
けれど、
大人になってから思い出すのは、
案外そういう一日だったりする。
旅行へ行った日でもなく、
特別なお祭りの日でもなく、
何も起きなかった夏の午後。
畳の上に寝転がって、
扇風機の風を浴びながら、
窓の向こうを見る。
白い雲。
青い空。
ゆらゆら揺れる木々。
そして窓辺には、
少し短くなった蚊取線香。
気がつけば、
ぐるぐるの半分くらいまで灰になっている。
それを見て、
「もうこんなに燃えたんだ」
なんて思う。
今ならわかる。
時間もきっと、
あの蚊取線香と同じなのだ。
目を離している間にも、
静かに、
静かに、
進んでいる。
派手な音なんてしない。
「今、大切な時間が過ぎていますよ」
なんて誰も教えてくれない。
だから子どもの頃は、
夏休みが永遠に続くような気がしていた。
おじいちゃんも。
おばあちゃんも。
父ちゃんも。
母ちゃんも。
みんな、ずっとそこにいると思っていた。
いつもの家。
いつもの庭。
いつもの声。
いつもの蚊取線香。
それが「思い出」になる日が来るなんて、
考えたこともなかった。
だからなのかな。
大人になった今でも、
どこかから蚊取線香の匂いが漂ってくると、
ふっと足を止めてしまう。
「あ……夏だ」
そう思った次の瞬間、
心だけが、
昔へ帰っていく。
蝉が鳴いている。
風鈴が鳴っている。
麦茶の氷がカランと鳴る。
誰かが台所で夕飯を作っている。
テレビから高校野球の実況が聞こえる。
夕方になれば、
「そろそろ入りなさい」
と呼ばれる。
そんな景色が、
蚊取線香の細い煙の向こうに、
ぼんやり浮かんでくる。
もしかすると、
懐かしいって、
こういうことなのかもしれない。
戻りたいわけじゃない。
今が嫌いなわけでもない。
ただ、
あの頃の自分が確かに幸せだったことを、もう一度思い出すこと。
大人になると、
毎日は少し忙しい。
時間を確認して、
予定を確認して、
連絡を返して、
明日のことを考える。
気がつけば、
夏さえも駆け足で通り過ぎてしまう。
だから今年の夏は、
ほんの少しだけ、
何もしない時間を作ってみてもいいのかもしれない。
夕暮れ。
窓を少し開けて。
冷たい麦茶を用意して。
蚊取線香に火をつける。
細い煙が、
ふわぁ……
と昇っていく。
その煙を、
ただ眺める。
それだけ。
蝉の声を聞いて、
風を感じて、
「暑いなぁ」
なんて独り言を言う。
そんな時間があってもいい。
きっと夏は、
どこかへ出かけなくても楽しめる。
特別なことをしなくても、
ちゃんと夏になる。
そして何年か先、
蚊取線香の匂いを嗅いだとき。
「あの夏も、なんだか良かったな」
そう思える日が来る。
蚊取線香は今日も、
ぐるぐる、ぐるぐる。
少しずつ短くなりながら、
白い煙を夏の空へ送り出している。
急がなくていいよ。
そんなふうに言っているみたいに。
夏は暑い。
蚊もいる。
汗もかく。
それでも、
やっぱり夏って、
なんだかいい。
今日くらいは、
冷たい麦茶でも飲みながら、
ゆっくり夏を眺めてみませんか。
蚊取線香が、
一本なくなるくらいの時間だけ。
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