
第177話 「信じてもらえない」
人は主観の生き物である。何を今さらと思うかも知れないが、主観と主観のぶつかり合う場面では、お互いを理解し合えないとコミュニケーションは成立しない。そこで、コミュニケーション破綻の三段階(①前段症状、②典型症状、③重症化)を順に追ってみたい。
①脱力しかと系
まずは軽いすれ違いから。「他人を信じるな」という一家言でもあるのか、全く覚えてくれないパターン。専門的に言えば、選択的注意とか軽視バイアスだが、具体例なら、お馴染みゲチ社長の口癖三兄弟である:
言質 → ゲチ (第156話「ゲチってなに?」)
ボラティリティ → ボラディティ (第173話「ケリー君・株式編」)
ボリンジャー(バンド) → ボンジャリ― (同上)
この男、表向きは丁寧な言葉遣いで中々憎めないのだが、内心では私を見下して体の良い子分だと思っているふしがあり、私の助言は聞く価値もないということなのであろう。その最たるエピソードは、ラインマーカの使い方である。
そんなもん塗るだけじゃないのかと思っているそこの貴方。甘い。鼻の穴に突っ込んで鼻栓とか、耳栓とかいう特殊な使い方を思い浮かべた貴方。変人です。「鼻栓が離せん」という駄洒落が頭に浮かんだ人。重症です。
余談はさておき、使い方とは色の使い分けのことである。闇雲に塗りペンするのではなく、色で注意の向け方を定義するという高等テクニックなのである。赤は原則、黄色は注意、緑は説明(定義や例、理由付け)という具合だ。こうしておけば、目的に適った拾い読みを効率的に行うことができる。定義だけ確認したければ緑のマーカだけを拾い読みすればよい。探すときに見つけ易くて重宝する。
他にも青(否定的)と橙(例外)もあるが、初めてのゲチ社長には分かり易いように赤、黄、緑の3色だけ教えてやるも、「あ、そう」という感じで無関心。いや、感心しろよ。便利なんだから。
後日、これを読んでおけと渡された本をパラパラ捲ってみると、好き勝手な色で塗りたくっている。思わず本に向かって
「あ、そこは、橙じゃなくて緑だろ」
と、誰にもわからない謎のツッコミをする姿は、傍から見れば十分に奇人といえる。
②確証バイアス
だが、こちらの精神世界に介入してくると途端に負荷が上がる。先程の無視されている状態よりも、疑念をもたれている状態は耐え難いものである。再度、自信過剰なゲチ社長に登場いただこう。
商談フェーズなら相反する主張をしても話し合い次第で妥結点を見出すことは可能だが、合意後にそれをやるのは無謀である。だのに社長は、顧客の望む集計は意味がないからデータをもっと要求して違う集計をやれと言う。顧客と社長の板挟みにあい、どちらも満足させようとすると綻びが生じて説明の歯切れが悪くなる。不本意だが、真実が段々と嘘に変質していく。
ゲチ社長は懐疑的になり他のメンバーから意見を聞く。彼らは私と逆のことを言い始め、社長は確証バイアスの城塞を築き上げ、遂には些細な一言が決定打となる。当にゴールポストに突き刺さるオウンゴール。私は精神的に追い込まれ、出社不能になり休職することになった。まったく介入というのは恐ろしいものである。
介入は為替介入だけにして欲しいものだ。
③心理的リアクタンス
最後の三つ目は、自分が介入側に立つ場合だが、言えば言う程に抵抗されてしまって介入させて貰えないパターンである。脳の防御本能なのだろうが、傍から見ると苛めに映ってしまうから恐ろしい。
たとえば、等価交換の概念を教えるのに抽象論では理解できない新人君に、具体的に体験させてみればわかるだろうと、
「お茶買ってきて」
「…」
「なんで行かないの?」
「どうしたらいいかわかりません」
「階段下りて道路出て右の信号まで歩いて行って、角のコンビニで500mlのペットのお茶どれでもいいから選んで1000円出しておつりを貰って戻ってきて。そしたら商品とお釣りを1000円と交換してあげる」
とまで言わないとわからないレベルは厳しい。否、それで分かる方はまだマシで、「自分はお茶酌みじゃない」と無意識な抵抗があると「なぜそんなことをしないといけないのか」とか「それになんの意味があるのだろう」とか余計な考えに嵌ってしまい、意識が「お茶酌み」にフォーカスされているから、等価交換の話にスイッチが切替わらない。
そこで緊張を解すため脳科学の処方箋を試してみるも、「なんの意味があるんだ」と防御本能が働いて、尽く苛めと認定されるのがオチである。こうなるともう絶望的である。因みに処方箋はこうだ。
STEP1: 最小行動の起動スイッチ:その場で立ち上がる
(狙い)交感神経が刺激され、覚醒水準が上がる。
STEP2: 感情の起動スイッチ:上を向いて声を出して笑う
(狙い)表情筋の活動は情動にフィードバック。強い呼気で副交感神経が調整される。
STEP3: 覚醒レベルを上げる:その場で20秒ジャンプ
(狙い)交感神経をONにする。踵を軽く弾ませるだけでいい。呼吸は止めない。最後に一度大きく息を吐く。
STEP4: 身体動作で自己高揚:ガッツポーズをとる
(狙い)姿勢は主観的自己効力感に影響し、動作は行動意図を強化する。
STEP5: パブロフ式条件付け強制起動:「よし、やるぞ」と声に出す
(狙い)言語化された意図は行動意図を先行して活性化する。反射的な「やらない」に先手を打ち、行動回路を上書きする。
周囲に見られると恥ずかしいだろうから、立ち上がった後は屋上に行ってやって来いと配慮を示すも、「よし、やるぞ」と言った後にスマホに戻ってしまう馬鹿者もいたりするので要注意である。
中には「体育会系じゃないんで」といって初手の立ち上がりすら拒否する兵もいるが、まあよい。
「なんか筋トレみたいで厭です」
「違う。脳トレだ」
脳科学的アプローチは、フィットネス系の偏執者というパワハラ誤認と化して葬られることになった。
信じてもらえないとは、詰まるところ、伝える側の問題なのかもしれない。
いや、それは違う。絶対に違う。
……たぶん。