
第156話「ゲチってなに?」
言質という言葉がある。標準語では「げんち」と読む。発音する。
関西など一部の地域やネットスラングで「ゲチ」と言われることもあるらしいが、標準語としては通用しない。いやいや通用するよというあなた。
気持ちはわかるが、テストで回答すれば間違いなく得点は得られない。
標準とはそういうものだ。
ここに標準からズレた或る男に登場頂こう。その名も小場社長。勿論仮名だ。「悪名は無名に勝る」や「大根売ってこい」でお馴染みの元上司と言えば読者には説明を要しないであろう。この男、的を得るとか、役不足の誤用を指摘して教えてあげても一向に直らない。人の言うことが信じられないのか、名前の通り私を小馬鹿にしているのか、それとも単に物覚えが悪いのか、余程の自信家なのか、挙句の果てには減量中と言いながら朝昼バンバンと節操なく日に4回も食事をとって「何で痩せないんだろう」と嘯いたり、天道総司を気取っているのか、やっぱり只の馬鹿なのかどうか知らないが、それでは辛抱している社員の信望は集まらない。
「的を得る」程度ならビジネスで使うシーンはそうそうないので、あるある話で済ませることもあるだろう。「キチンと聴いて、上手に訊く」という本の見出しに対して、「訊く」の横にご丁寧にも「くど」く、とルビを振っているのもご愛嬌で許そう。だが、言質は別格で見逃すことはできないのである。
社長が商談で使うと、具体的にはこんなデメリットがある:
・相手が意味を理解できない
・社長の語彙レベルを疑われる
・会社の信頼性に影響する
・軽薄な人という印象を与える
つまり、社長が使うと会社のブランド価値が毀損する虞がある。それを憂えて「げんち」ですと進言したことが何度もあるが、一度も「げんち」
と喋るのを聞いた例がない。流石にこいつバカなのかと思ったこともある。
百歩譲ってバカではなく、方言か俗語として沁み付いているのだとしても、
公式の場で俗語を使う神経は信頼と期待を背負っている社長として相応しくない。言葉遣いや礼儀に五月蠅い割に、自分のこととなるとルーズなのは最悪で、ルーズなのはソックスだけにしとけと言いたくもなる。
あまりに自信満々に言い放つので、その場で聞き返し難いオーラを醸し、受け手は自分の耳を疑うこと間違いなしで、混乱一直線の途を辿る可能性がある。剰え誤解を招いて意図せぬ決着を見るリスクも多分にある。例えば、アライアンス先の社長と営業戦略のすり合わせシーン:
小場「先日の会食で、この条件で契約するってことで、ゲチいただきました」
相手:(いや、いただいてないし意味分からん…。会食の割り勘まだ払ってもらってないけど、もしかして、ごちそうさま?)
そして応答する。
「困りますな。小場さん。ちゃんと払って下さいよ」
「え?この条件じゃ不服ですか?話が違いますが」
「2万5千円です。忘れたとは言わせませんよ」
「それは安すぎでしょう。せめて10万円にしとかないと」
「いや、そこまでは」
まるで話が噛み合ってない。
小場「先方から“資金は提供する”ってゲチられてるから、あとは人員確保が問題です。御社から何人出せますか?」
相手:(ゲチ……?ケチられてる?だったら単価の低い人間しか出せないか…)
そして回答する。
「絞って3人です」
「それじゃ足らないですな。もっと出せないんですか」
「うちも苦しいんで、これ以上は厳しいですよ」
「それは困ったな。御社が頼りなんですけどね。ま、時間はあるんで考えておいてください」
(資金が集まんないんじゃ、この話は終わりだな)
これでは話が進まない。
社内の営業会議にて:
小場「じゃあこの条件で進めるってことで、A社からゲチ取っておけ」
社員:(ゲチ……? A社からげ…、A社から揚げ!)
そして応答する。
「社長、唐揚げ粉ならA社よりもB社のほうがよくないですか」
「何を言ってるんだ。A社は唐揚げ粉よりもカップ麺だろ」
「じゃあカップ麺でゲチ取ってきます?」
「違う!ゲチだ、ゲチ!」
「…現物支給ですか?」
「なんでそうなる!」
会議はその後、「ゲチとは何か」という哲学的議論に突入し、
肝心の営業戦略は一切進まなかった。
取締役会にて:
小場「この件は先方からゲチもらってます」
役員A:(ああ、もう確定ね)
役員B:(ご馳走されたのか?)
役員C:(ケチられてるのに強気だな)
沈黙。
そして議事録担当が静かに聞いた。
「…あの、“ゲチ”というのは、どの漢字でしょうか」
小場「え?ゲチはゲチだろ」
「…ひらがなですか」
「そういう問題じゃない」
そして、議事録にはこう記された。
「本件については、先方より“何らかのゲチ”を取得済みとのこと」
誰一人としてその意味を説明できず、それ以来、社内ではゲチの意味に触れることはタブーとなった。せめて「げんしち」と言ってくれれば助かるのにという意見もあったが、「ゲンキチ」になりそうで益々わからんという結論に至り、そっとしておくことになった。
こうして、社長から良いコメントや承認をもらえるかを占う言葉として、「言吉」が誕生することとなった。勿論、社長はそのことを知らない。
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